渡辺玄英

 面白い書評を見つけたのメモ。引用ばかりになってしまうが。
限界小説書評 - 「世界」の召還を禁じられた世界におけるセカイ系的なもの―オタク的想像力と蓄積された現代詩のあいだで(前編)後編
 「ポエマー」はkagamiさんとESのsaphireさん以外では2ちゃんで時折見かける名無しの人たちくらいしか知らない。この書評を読んで興味を持ち、早速本を注文してみた。アマゾンのレビュアーの人が書いているように、本来なら2ちゃんでひっそりと投稿されるような類の詩なのかもしれないが、そういうのを集めるための労力は惜しまざるをえなそうだし、一人の人間が詩人(言葉の可能性と運命共同体な人種)としての看板を背負って有償の作品としての責任を持って世に問おうというのなら、ぜひとも見てみたい。なんて力んでしまう。というか自己正当化しているだけか。でもまあいつもエロゲー読んでテキストとか文体とかについて偉そうに文句を言っているのだから、こういう人やこういう流れは歓迎したいと思う。ただこの書評を読む限りでは、おそらく優れた言語センスとは別に、批評的な内容が多いみたいで、戦争や自意識やコミュニケーションの問題がメインらしいので(クロスチャンネルとか出てくるし)、萌えや恋愛やエロの話はどうなってしまうのか、批判するばかりで、自分で新しい何かを創造することはできるのだろうかというあたりは不明。読んでみなければ。
 ついでだが、上記書評で名前の挙がっていた田中エリスという人も初めて聞いた名前だけど、こちらはちょっと見た限りでは僕とは関係なさそうだ。ロシア生まれのコスプレネットアイドル詩人ということらしいが、この人の言葉は、同じロシアでいうなら威勢ばかりで作品はいまいちな未来派かイマジニズムみたいな感じかなあ。まあ読みもしないで言うのもあれだけど。
 では引用メモ。

 渡辺は、ある一定のものに対して、常に「そうではない」可能性を示唆しようとする。「ぼくはかき消されてしまう(のです(でした」「(風が ね/吹くと/景色がめくられ ます (気がくるいそ で」などと「(」を多用して発言に留保をつけたり、「ぼくらわたしら」などと主語を複数にするのも、「今ここ」以外の選択肢、今選んでいる道以外の「声」を記そうとするからだ。

 そうしたときに要請される限定的な超越性が、無害で、無力で、何もしてくれない、ただ開放的である「空」という表象だと、僕は考えている(もちろんこの発想の大本は佐藤心の「空」論にある)。これ以上の議論の煩雑さを避けるために詳細に語ることはしないでおくが、「天皇」や「革命」、「神」あるいは「世界」などといった制度や観念ではないかたちで、男性性やファルスを回避しつつ、自己表出の極みである「縦の力」「超越系」(宮台真司)的なものを求めたとき、セカイ系では「空」というものが見出されるのだ。
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 冒頭に名前を挙げたオタク的想像力を詩に持ち込んだ今ひとりの人物である田中エリスは、「かわいいホロコースト」などという方向で「人類補完計画」的な(?)、全的なハザードの想像力を呼び出してしまっているように僕には思える。それと比べるならば、渡辺は「消える」ことへは執着するものの、「世界の終わり」を欲望しているわけでもなく、ふらふらと、どこまでも飛ぶだけなのである――空を。
 ……そして、思い出してほしい。あの『AIR』では、人の「死」を「垂直」の視線から、「空」から傍観しなければならなかったことを。「空」とは、そのような形式でもあるのだ。

 ONEのもこんな空だったか。最果てのイマの空は逆に、終ノ空みたいに、僕たちとは敵対する空だったな。ロミオゲーはATフィールドが堅い。佐藤心氏の論文は読んだかなあ。『臨界点』に入ってたやつだったか。忘れてしまった。

笠井潔戦間期探偵小説論によれば、人がモノや記号のように死んでいくという、世界大戦における大量死の経験こそが、人間をどこまでもモノや記号のように扱う道具的理性の徹底である本格ミステリの隆盛――1920〜30年代の英米本格、あるいは40〜50年代の日本の本格の達成――を用意したのだが、戦後詩における高度な形式性と文学性の合致、その圧倒的な生産性もまた、大量死の経験なしには生まれえなかっただろう(押野武志が指摘しているが、田村隆一鮎川信夫、それから「荒地」派ではないけれども、モダニスト北園克衛といった詩人がミステリに深く関わった人物でもあることは、このこととおそらく無関係ではない)。詩は形式性を意識しないでは書けない文学ジャンルだが、大量死ないし大量死以後、「死」をどのような「形式」で表象すべきなのかという思考の徹底、新たな形式の模索が、戦後詩にはあった。そして、その結果放たれた垂直の言葉たちは、見事なまでに戦争や死を扱いえたのである。だからこそ、それらの圧倒的な達成は、続く詩人たち(そして当の詩を書いた本人たち)にとって――よくもわるくも――回避しがたい重圧のように立ちはだかってきた。もはやかつてのような詩を書くことは、かつてのような言葉を使うことは、許されないし、かつてのような時代精神なき時代においては、不可能である。それゆえ、渡辺の詩は、「大量生」の時代にふさわしく(?)、「ケータイ」「コンビニ」アニメやゲームといった水平の言葉・記号を徹底して用い、そこから見上げたときに存在していた、「空」という(無力で、重さをもたない)垂直性などをもって、きわめて形式的に、形式に自覚的に、今日の戦争や死を扱おうとしているように思える。

 オタクは戦後文化の正当な流れの中にあるのか。大塚英志の『戦時下』に書いてありそう。

 革命運動と革命党システムの総括の書である笠井潔『テロルの現象学』では、「世界喪失=自己喪失」という観念/態度への批判がなされているが(ついでに言えば、そんな人物が、政治的に漂白されているとはいえセカイ系を評価する理由は、僕にはわかるようでよくわからない)、全共闘世代の次の世代である新人類世代たる大塚には、そもそもそうした全的な「世界」が実感できないものとしてあった。とはいえ80年代に世界喪失=自己喪失、世界の終わりと自分の半径5メートル的世界が直結するパターンがなかったわけではなく、村上春樹(が連合赤軍事件を背景に持っていることはたびたび指摘されている)や新井素子などにより担われたりもしている。
 そしてセカイ系は大塚よりさらに一回り(団塊ジュニア)か、そのさらに下の世代によってつくられ、支持されているものだ。
 磯崎新――廃虚を愛する建築家――は、1990年が始まったとき、70年代、80年代には起こらなかった「60年代の続き」が始まったように感じたと言っていた。60年代に感じられた変革の予感は、たしかに、90年代になし崩し的に実現した(むろん、それを用意したのが70年代、80年代におけるさまざまな出来事だったのだが)。89年に訪れた昭和の終わりから始まり、90年代には冷戦(55年体制)とバブル(土地神話)が崩壊し、阪神大震災オウム事件、米の緊急輸入といった事態が頻発し、日本の戦後社会を支えてきた共同幻想が次々と崩れていった。
 その混沌のなかでこそ60年代以来久々に「世界」が再び実感できるもの、世界喪失=自己喪失が、80年代よりたやすく成立しうる時代となったとも言えるだろう。

 遠回りをしてきたが、そうしたとき、渡辺玄英にとって「世界」という言葉はどのようなものか。僕の考えでは、彼はセカイ系作品からの影響もあるのだが、年齢が1960年代前半生まれという、大塚よりも少し下の世代にあたっており、また、現代詩における「世界」という言葉に対する蓄積も含めてみたとするなら、何度か書いてきたように、彼はおそらく「世界」という言葉を素朴に使えないのだ。だから詩の中にセカイ系的なモチーフが現れても、彼は決して「世界」という全体性を呼び出さない。複雑化した社会であるゆえに「世界」が宿命的に訪れるセカイ系とは異なり――具体的な内容は後述するが――その複雑さをそのまま引き受ける。彼の中の詩史と文学史とオタク的なものが拮抗する。だからこそ、並行世界、多数の世界と、解離的な自己、複数の自己が必然的に要請される。
 同様に、セカイ系の特徴である「きみ−ぼく−セカイ」構造の一極である「きみ」もまた、渡辺の詩の世界にはそれほど多く登場しない。「きみーぼくーセカイ」とは、吉本隆明の古めかしいタームに変換すれば「対幻想ー自己幻想ー共同幻想」だが、「きみ」という対幻想――まさに「幻想」のようなロマンの対象たる「きみ」――の可能性もまた、既に詩において大きな蓄積があり、もはや安易に追求できるものではない。
 渡辺はセカイ系的なものと接近しているが、しかし、セカイ系ほど素朴になりきれないし、セカイ系の構造のシンプルさを戦略的に導入している作家もいるにはいるが、それすら選ばない。
 セカイ系には歴史がない。というより、歴史を持たない者(主に第三世代オタク)が支持したものがセカイ系なのだろうが、そうした「歴史のなさ」を現代詩は持たないのである。冒頭にも述べたように、過剰なまでに積み重ねられた詩史、文学史の蓄積を前に、むしろ重々しい蓄積を振払うためにこそ渡辺はサブカルチャーの言葉を用いたのだが、それはむろん、歴史意識があったからこそ、既成の詩語を避けたのである。だから渡辺は、セカイ系のように素朴に「きみ」や「世界」を用いえない。なぜならそれは手垢……いや、血と歴史にまみれた言葉だからだ。

 こんなにすっきりとまとめられてしまうとかえって「語られるための」コンテンツなのではと思ってしまうが、実際の作品はけっこうよさそうなので。

 さて、考えてみてほしい。今、戦争が起こったらあなたはどうするだろうか? そもそもその前提があほくさくて考えられない? まともに戦うわけない? 誰かを守るためには戦う? いずれにしろ、そこで前提とされているのは、望むにしろ望まないにしろ、戦争自体に意味はないことではないだろうか。意味は、参加者が付与する。
 渡辺が描く戦争もまた、それ自体には、何ら意味などない。
 その戦争のイメージは、ひとつには『スーパーロボット大戦』や『G-GENERATION』といったゲームにおける「戦争」のように、フラットでスクエアでヴァーチャルな(というか実際に『海の上のコンビニ』では、『スパロボ』について言及もされている)、ゲーム上なら楽しめても、詩として書いてしまえば陳腐なものだ。
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 これはジジェクが『イデオロギーの崇高な対象』で、スターリニズムに対して指摘した構造に似ている。人々はスターリンのことを本当は信望していないし、その愚かさも知っている。にもかかわらず、スターリズムに従う。同様に、渡辺の詩の人物たちは、その自らの空虚さを知っている。にもかかわらず「よくねらい/よくころす/うつ」。

 ジジェクは読んでいないが、この辺の病的でメランコリックな雰囲気はミハルコフの映画にあるような。

 この「ゲーム」的な表象の導入の意味は大きい。ゲームとプレイヤーの関係は、イデオロギーと人民の関係が「空虚であるが故に完全に機能する」というジジェク大澤真幸的なロジックよりも「強い」。なぜなら、ゲームは理念ではなくシステムだからだ。システムとは、プレイを続ける限りにおいて「そのように振舞う」ことを要請/強制するものだからだ。誰もがそこで行われていること、そこで語られている物語が虚構、空虚なものだとわかっていても、ゲームは進行できるのだし、進行させる楽しみすらある。押井守も指摘しているが、ゲームとは、物語とシステムが(完全にではないが)基本的には分離したものなのである。
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 先の大戦においても、そうした戦争の空虚さを自覚した人間ももちろんいただろう。しかし、その「信じていない」ことと実際に行っていることが容易に両立しうるという構造を表立って示した詩を――戦争と言えば日本では「転向」が問題になったわけだが、言行一致、思想と行動の一致を求めなければ「転向」論は生じない。そもそも断言を避け、事実を不確定にしていく渡辺の詩は「転向」という名の、「ありうべき不変かつ真の姿」を求める本質主義疎外論を拒絶している――、しかもそれがゲームのプレイヤーの態度に似ていることを示した作品を、僕は渡辺のほかに知らない。

 渡辺氏一人というのは少なすぎる。探せばまだいるかこれからたくさん出てくるのではないか。自分じゃ探せないが。

「繰り返される一本の道」「最後はひとりになっている」という描写は例外的に存在しているものなのだが、しかし、渡辺の詩には、基本的には最後にして真のエンド、答えがないように思われる。複数の世界、複数のルート、複数の自己が存在するが、それらを最終的には統合するものがない。複数の並行世界、解離する自己を描いても、最終的に一本道、ひとりの人格に通じているのであれば「きみーぼくーセカイ」の構造を持つセカイ系たりうるが、渡辺の場合は並行世界がバラバラに存在するだけなのである。渡辺の詩は、安定することがない。唯一その不安定な場を支えているのは「詩」であること、あろうとすることだけだ。

 それでいいのだろうか。なんて、僕の感想も安定しない。まだ本も読んでいないのに言うのもなんだけど、現代詩は言葉が硬くて黙読用の詩が多いので、渡辺氏には思わず口ずさみたくなるようなのを書いていってほしい。
 もう一つ、松本秀文という人の書評から。

詩らしいものばかりを追う者は、詩に依存しすぎている気がする。「オタク」とは、自分が属する集団内部のみに通用する言葉しか求めない者の別称なのではないだろうか。漫画やアニメのオタクもいれば、詩のオタクだっているはずだ。オタクは、それはそれで凄いと思うが、社会的に開かれた衝撃や感動を彼らが与えることは少ないように思う。

 まあ、現代詩とアニメ・ゲームという二つのオタク的に閉じた小コミュニティに片足ずつ突っ込んでいるだけのような気もする。僕も含めて。でも40歳にもなって「くろす・ちゃんねる」なんて詩を書けるなんて日本楽しいわ。楽しいかわかんないが。結局のところ、全てはどこか安全な足場に着地することではなく、何か新しい価値を創造できるかどうかにかかっているのだろう。