宮台真司ほか『サブカルチャー神話解体』

 読み終えた。上野千鶴子による解説は論文審査のコメント的というか、内容自体が野心的で素晴らしいが、学術的完成度を期すためにあえてつっこむなら、という感じのものだった。指摘していることは適切だと思った。
 こんな「文脈を欠いた」読み方が一番よくないのかもしれないが、一つの雑感として、文脈を欠いたタダノリと継承の際の変質や機能性重視の着眼点は、文学研究ではトゥイニャーノフやギンズブルクなどのフォルマリストの十八番だった。彼らも彼らなりの社会の不透明化の時代を生き(1910-30年代)、宮台氏の注目する1970年代は、ロシアで百科全書的な知のブームに沸いた銀の時代(1900-20年代)に似たものなのかなあと。まあそれはどうでもいいけど、一ついい(痛い)箇所を引用:

こうして、当人にとっては「真剣な自己関与」なのに、周囲には「とてつもない浮遊」としてしか見えない奇妙な営みが、あたりに蔓延し始める。この種の「浮遊する自己関与」がしばしば性的コミュニケーションを主題化せざるを得ないのには、すでに述べてきた理由 [「他者の視線の獲得」を媒介にした「差異化原則」が「快不快の実感」を軸とした「体感原則」に取って代わられ、「身体的なものの上昇」が起こるので、かな] 以外にも、以下のような文脈がある。すなわち、<他者的なモデル>からの退却にもかかわらず、その無関連化が最も困難な領域として最後まで残るのが性的交渉の場面なのだ。そうした困難な領域こそ、まさに「終わりなき<私>探し」にはふさわしい。というのは、終わりなき困難こそが、終わりなき探求を正当化するからである。しかし、実際のところ、そこに見られるのは、自ら裂け目を作り出しては自ら埋め合わせるという、「終わりなき自己準拠」に過ぎない。

 未来にキスを、と居直れるか。一度高らかに宣言されただけで、その後放置されていないか。エロゲーからセンスオブワンダーをまったく期待できなくなったときに、やっと自己正当化にも疲れてとてつもない浮遊をやめることができるのだろうか。そのときに機能的に等価な何かが見つかっていなかったら自家中毒を深めるだけになりそう。なんかこんな感想で終わったら不安を煽るだけの本に見えるな(苦笑)。