西尾維新『不気味で素朴な囲われた世界』。うえお久光『悪魔のミカタ666・4』。

不気味で素朴な囲われた世界 (講談社ノベルス)

不気味で素朴な囲われた世界 (講談社ノベルス)

 前に書いた『きみとぼくの壊れた世界』の感想を読み返してみて、案の定とても恥ずかしいのはいいとして、あのときの感じたような充実感みたいなのはほとんど感じられないのがこの小説で、残酷ながら正直な感想はこんなのなら別に続編として書かなくてもよかったんじゃないか、と。タイトルですでに開き直られているのでつっこんでも仕方ないが、精神年齢みたいなのを下げてハードルを低くしておいてそこに淫している感じがする(僕みたいないい年した人間が言っても空しいが)。というか、この小説における子供と大人の分け方とかアプローチの仕方があまり好きでない。ひねくれた奴であっても、何か本気にならざるを得ないことがあって、ひねくれてるなりに何かするのが、陳腐ながらそれでもいい物語の法則なのだろう。この小説の主人公は最後まで何をするわけでもなく、流され、「大人」にたしなめられてみて。あとがきに書いてあることも、斜に構えればこの本編のアンチクライマックスへの言い訳みたいにも見える。人間は何かの欲望に動かされて生きているはずだし、小説も何かの欲望を体現しているはずだけど、本作はどうもその予感だけで畳まれしまわてしまった感じ。メタ構造の方面もいまいち引きつけられなかった。読み込んでみればいろいろと別の読み方もできるのかもしれない。2ヶ月もかけて友達になってくれるように頼むなんて執念もあるし、言葉遊びも何か必死なものなのかもしれないし。でも語り口がこれじゃ。こういうのが西尾維新の真骨頂なのだとしたら、ちょっとすれ違いかもしれない。よい読書体験とはなかなか得がたいものか。


 これはこれで最近はすれ違い気味。設定の積み重ねすぎと説明に走りすぎのせいで、相変わらず筆は滑らかなんだけど、どうも密度が薄まってきてしまっている気がする。物語がどこから始まってもどこへ転んでもおかしくないような、そんな不穏な雰囲気を持った中村九郎みたいな自由さがほしい。各キャラがそれぞれ愛されているのはいいとして、いちいち彼らへの釈明みたいに几帳面に持ち場が与えられるのは、いい加減逆効果の感じがする。エロいシチュエーションが多くてファンサービスはよかったけど。