中村九郎『神様の悪魔か少年』

神様の悪魔か少年 (Style‐F)

神様の悪魔か少年 (Style‐F)

 この文体でこんな内容の長編というのがすごい。いわゆる埋め草的な地の分と、ナイーブな比喩や笑いとは、テンポが違うから普通なら後者をどこかの見せ場にまとめたりして、「分かりやすいような配慮」がされるはずで、そうでない場合は、始めから飛ばしていたりして露骨な規範の侵犯が目に付いて、「あ、この作者力んでいるな」というのが分かってしまうものだけど、中村氏の場合はマイペースにゆるゆるとこのおかしなテンポの文体で続けていってしまう。これだけ息の短いはずの比喩や呟きを重ねていっているのだから、本当はゆるゆるではなくてかなりの集中力が必要なんだろうけど。文学におけるインファンティリズム。タイトルからして問答無用の脱力的な言葉遊び。フラストレーションをためてこそのカタルシスであって、性欲というのは一点にまで高められ凝縮されてから弾けるはずのものなのに(西尾維新瀬戸口廉也もどちらかというとこっちだ)、多形倒錯型の幼児的な性欲はだだもれで気まま、手に触れるもの目に付くものが全てその場でエロくなりうる。これは「大人」が意識的にやろうとしても目も当てられないただのエゴイストになってしまうので難しい。子供のような呼吸の清らかさが必要なわけで、それを思い出して筆に乗せられるほど深く沈潜できるかということ。『ロクメンダイス、』にあったような、意地悪な一吹きで消える灯火のような純真さは(われながら恥ずかしい比喩だ)、本作ではかなり「ハード」なストーリーでも失われていない。まあどんなストーリーであっても、この人の書くものが普通の村上龍か何かみたいな意味での「社会派」な小説になるわけはないけど(何しろ「摂政」といってもヒロインとだべっているだけで、「政治」らしい実務的なことはまったくやらないが、そこがいい)。もちろんただ思いつきを筆の赴くままに重ねていっただけの小説ではなく、かなり込み入った複線がいくつも張ってあり(正直ちょっと重すぎな感も。だから「母子」の断章は不謹慎ながら思わず笑ってしまった)、乱暴に言えば『罪と罰』的な大枠を持っているけど、『きみとぼくの壊れた世界』や『CARNIVAL』みたいに、結局は良質なキャラクター小説だといえる。キャラクター小説というには言葉のリズムや質感がやけに濃いけど。この純度が、次もよい小説を生み出してくれますように。