竹西寛子『式子内親王・永福門院』

式子内親王・永福門院 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

式子内親王・永福門院 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

 中世の女流詩人について熱く語っているみたいだったので、なんかのついでに古本屋で買っといた本。
 古典の素養が貧弱なため、さっきまでずっと「しきし」ではなく「しきこ」と読んで、かってに『未来にキスを』の式子と重ね合わせていた。飛鳥井霞の「飛鳥井」という苗字もなんか古くて由緒があるらしいので、元長氏が何かマニアックな意味を込めてこの内親王から取った名前なのではないかと。その真偽は別にいいけど、この平安末期の式子さんが未ス的にも結構面白い感じで、5−16歳のときに斎院、つまり一種の巫女のようなことをさせられていて(巫女幼女・・・)、そうした世間一般的な自由のない思春期を過ごしたためか、ちょっとひねくれた和歌が多いらしい。ツヴェターエワのごとく情熱的だった和泉式部とは(勝手に対照させつつ)好対照。思弁の自縄自縛を自覚してシニカルになりながらも救いをあきらめるほどには腐っていなかった柚木式子も、この時代に生まれていたとしたら、この式子様みたいになっていたかもしれない。「しづかなる暁ごとに見渡せばまだ深き夜の夢ぞ悲しき」や「浮雲を風にまかする大空の行方も知らぬ果てぞ悲しき」みたいな、行動する前に考え込んでしまう人の歌を歌い、「山深み春とも知らぬ松の戸に絶え絶えかかる雪の玉水」のような無駄に可憐な一瞬を咲いたりしたのかもしれない。
 というような空想を出来たことはよかったけど、この竹西さんの文章自体は受け付けなかった。72年に書かれた本だからか、存在だの直感だの内的衝動だの、大仰な言葉で飾り立てながらねちねちとうるさくて、昔書いた自分の卒論の恥ずかしい文体を思い出してしまった。もう少し文章を削ることを考えるか、意味が明確な学術用語に素直に頼ればればいいのに。文章がしつこいんで、突込みを入れたり別のことを考えたりしながら気軽に読めたのは果たしていいことか。
 二つ目の永福門院は新古今よりも後の人。叙景詩を得意としたらしく、詠嘆だの強意だのといった古典の不得意な人間には鬼門の情念系の助詞がないおかげで、名詞と動詞からなるシャープな風景が分かりやすい。自分の言葉の描き出す新鮮な絵に自分で驚いているみたいな感じがした。かといってそんなにさばさばしているわけでもなく、夕暮れ時の光と影のニュアンスに敏感に反応する「真萩散る庭の秋風身にしみて夕日の影ぞ壁に消えゆく」とかはチュッチェフの有名な詩をなんとなく思い出した:Есть в осени первоначальной, Короткая, но дивная пора - Весь день стоит как бы хрустальный, И лучезарны вечера... (秋の始めのわずかな間、昼は水晶のように透き通り、夕べは明るく輝く日々がある・・・)。永福門院を収めた玉葉集が、行き詰まった幽玄の泥沼から開放されるために万葉回帰を標榜したように、チュッチェフも滑らかになりすぎたロシア・ロマン主義の文体に抗して、18世紀風の復古とドイツの疾風怒濤に由来する妙にダイナミックな世界観を組み合わせた。トゥイニャーノフが好んだ復古による刷新というやり方は、しかし言葉のすわりを落ち着かせなくするというか、叙景詩は詰め込みすぎでゆったりしていないというか、そんな感じがした。
 まあ古典の素養がないので的外れな感想だと思う。