- 作者: 斎藤環
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2011/03/24
- メディア: 単行本
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- (社会問題として「キャラ化」の蔓延に関して)社会工学的な知の趨勢(自然科学的とはいうまい)に対していかに人文知のポジションを確保するかという話でもあり、そうだとすれば状況はさしあたり絶望的とすら言える。この問いに対して少なくとも理論的には、すっきりした解はみあたりそうにない。(p42):改めて言われると寂しいものがある。
- 単位空間・時間当たりの「感情表現密度」が最も高い表現形式、それがマンガである。(p92):いろいろなレベルで小道具を同じ効果に向けてユニゾンさせるという特徴に関しては、エロゲーでは音声で読ませる台詞をわざわざウィンドウで表示させること、そしてウィンドウに表示させる文字が大きいことに昔は驚いた記憶がある。通常の地の文に当たる部分は絵と音楽に振り分けている部分もあるのだろう。そうするとONEの回想シーンとかCarnivalの「夜の情景」が流れるのシーンとか、いちいち説明しようとすると切りがなくなるくらいいろんなパターンがあるのだろうけど、感情の流れに押し流されるのが基本と言うのはそうなのかもしれない。演歌や民謡にも通じる。
- そこでの僕なりの結論は、「顔」とは「固有性のコンテクスト」そのものである、というものだった。つまり「顔」それ自体は、いかなる意味も情報も伝達せず、ただ個人の固有性しか伝えることができないのである。それゆえ顔の認識を、コンピューターによるパターン認識に置き換えることは決してできない。パターン認識とはつまるところ、顔の定量的な計測に基づいてなされる。しかし顔の同一性とは、様々な表情の変化にもかかわらず維持されると同時に、パーツの位置関係がほんの少しずれただけで崩れてしまうような、きわめて矛盾した性質を持っている。そこにあるのはパターンの同一性よりも上位レベルの判断、すなわち「文脈の同一性」とでも言うほかはないものだ。(p94):人文学研究の牙城であり奥義であるところの、分析・断片化に抗う「有機的な統一体」としての作品の話。後で触れられているけど、東浩紀のデータベースと萌え要素の話に隔靴痛痒感があったのは、属性をランダムにつぎはぎしても萌えが自動的に発生するわけではないからだった。3Dカスタム少女とかは文脈までは用意してくれないのでお気軽に萌えを消費できず、ある意味苦行になりそうなのも同様。ちょっと古いテーマかもしれないが、この先も当分は古びないかもしれない。
- なぜ「眼」なのか。「鼻」や「口」であってはいけないのか。これを考えるに当たってはラカン派精神分析における「まなざし」の機能を思い浮かべておく必要がある。まなざしは「対象a」としてイメージの中心に位置づけられ、その背後に何らかの主体性の存在を予期させることで、イメージをリアルなものにする。これを僕の言葉で言い換えるなら、「眼」が「主語の器官」であるためだ。その意味では「眼」は、「述語の器官」である「鼻」や「口」とははっきり区別される。(p104):後で触れられてるように、別に視線がプレイヤーと合っていることは必須条件ではないらしい。現にざくろちゃんタペストリーではざくろちゃんの目は閉じられている。
- 単層的な表現ほど多義性をはらみやすく、多層的な表現ほど一義的となりやすい、という逆説である。繰り返し確認するが、もちろんあらゆる芸術表現は多層的であるという「言い方」は可能だ。しかしその場合の「多層性」なるものはあくまでも事後的解釈の産物である。(p112):ワーグナーや象徴主義芸術の大掛かりな仕掛けが、比較的シンプルなストーリーラインを基盤としたものでないと実現が難しかったのとも関係があるような。トルストイやドストエフスキーが描くものはそういうのとはなじみにくいのとか。じゃあ秋山瑞人はどうだとか瀬戸口廉也はどうだとか敷衍できるのかな。
- 僕を含め新人類世代は「他者」と「外部」への信仰を捨てきれず、それゆえ自らのナルシシズムを作品への自己投影として表出しようとする。このため作者と作品は例えば「文体」などを通じて、密接な関係に置かれることになる。これに対して、清涼院に見られる作品への自己投影の希薄さは、まさに作品をゲームのように構築することに起因するだろう。(p127):そうはいっても多分前者に属する自分には、作品をゲームのようにキャラを動かして作れた最たるものが「クビシメロマンチスト」らしいと言う西尾維新の言葉が飲み込み難かったりする。実作してみないと分からないのかも。というか単に才能があるということなのか。
- しかしここから、あらゆる二次創作を「キャラ化」の手続きと考えるのは早計である。やおい研究家の金田淳子によれば、やおい系作品の二次創作はその逆の手続き、すなわち「キャラのキャラクター化」がなされることが多いのだという。<・・・>彼女たちはこれらの作品をパロディ化する際に、自分が作り出した固有の物語内にキャラを閉じ込めることで、よりリアルに「キャラクター化」する。つまりこれが、腐女子たちによる所有の形なのだろう。(p171):二次創作とは違うけど、僕が自分の文脈にひきつけながらエロゲーの感想を書くとき、あるいはそもそも単にエロゲーをプレイしているとき、似たようなことをしているのかもしれない。というかそういう風にできてやっと所有できるというか。その意味では僕にとってはエロゲーはコミュニケーションツールにはやはりなりにくいのか。なるとすれば腐女子的なモデルのコミュニケーションが参考になるのか…
- おそらくキャラ化と擬人化は、方向性がかなり異なる。擬人化のもとにあるのは対象への感情移入だが、キャラ化は対象から感情を受け取らされる、という違いがある。(p178):人間は無慈悲な自然を飼い慣らすために擬人化し(神話)、めんどくさい人間社会(関係)を飼い慣らすためにキャラ化した(儀礼・習俗)、みたいな。話は変わるが、あずまんが大王で眼をただの丸や三角にデフォルメする表現に出会ったときいらだったのは、そういう風にして感情を受け取らさせるのが手抜きみたいでいやだったというのがある。
- 「おたく−萌え」、「マニア−フェティシズム」。<・・・>改めてはっきり見えてくるのは、おたくにおける強い「虚構志向」と、これとは対照的なマニアの強い「実体志向」である。(p189):これはわかりやすかった。おたく向けデジタルコンテンツがビジネスになりにくいのもこの辺の工夫が足りないからか。エロゲーの初回特典で匂いつきのパンツとかつけられると、それをうまく虚構化するためのこちらのスキルにも高いものが求められる。まあ、だからといって初回特典はあれば嬉しいものなのには変わりないけど。
- 精神分析的に考えるなら、「キャラの生成」が起きるのは主として「象徴界」だ。これはつまり様々な精神的「症状」と同じ審級で起きる、ということを意味している。もしそうだとすれば、データベースは象徴界に位置づけられることになり、論の整合性も保たれるはずだ。データベースには自律性はないが、象徴界には自律性がある。こうした自律性こそが、キャラクターを生み出す創造性の源と考えられる。補足しておけば「現実界」は完全な不可能性の領域なので、それが直截的にキャラクターという有意味な存在を生み出すことはできない。(p214):これで創造の秘密が解明されたということはないけど、とりあえずそういうことなのだろう。最近自分の「象徴界」が枯れてきている気がするので、もっと新しいことをやって身の肥やしにしなきゃいけないんだろうな。
- 顔の反復から新しい顔が生まれる。僕はキャラの顔は、そのようにしてもたらされたと考えている。現存するほとんどのキャラは、何らかのコンテクスト性のもとでの反復によって生まれた。(p217):詩に限らず、反復はコンテクスト形成の基本。立ち絵の重要性もこの辺に。
- それが無意識になされたものなのか、意図的なものなのかは分からない。ただ僕の印象として、村上の「比喩の衰弱」は、どうやら例の「コミットメント」以降に顕著であるような気がしてならない。もしそうであるなら、世界設定の複雑化と描写の衰弱とは、コミットメントがもたらした間接的(副?)作用という類推も成り立つのかもしれない。(p226):だとしたらもう昔みたいな小説を書くことはないのかな。身体性=描写というのは一面的な見方で、西尾維新は「描写」をしないというけれど、描写がなくても言葉のリズムに乗ったおしゃべりを編み続けることで文脈をつくり、そのリズムが身体性の幻想を与えるような気もする(しゃべることが身体的な行為だとして)。
- ペルソナとキャラはどう違うのか。最大の違いはキャラがその背後に「欠如」を持たないことだ。それはなぜか。キャラは繰り返し述べてきたように「換喩」的な記号であり、それゆえ主体の完全な記号ではない。それは常に主体を欠損した形で代表する記号なのだ。この結果、キャラは常に「主体の全体性」もしくは「主体の複数性」を背景にした記号として表象される。<・・・>したがって主体とキャラの関係は、しばしば「多対多」の関係でありえる。欧米型の主体が、常に単一の存在、さらに暗黙には「欠如の痕跡」としてイメージされているなら、その単一の主体が傷つけられたという経験がもたらすダメージは、きわめて甚大なものとなる。(p231):だそうで。楽園のようであり、荒野のようでもあり。80年代の言説の香り。
- キャラは複製によって、いっそうリアルになる。(p244):いい言葉。
- 欲求に従い、確率に晒されつつ生きる「キャラ」たちの動物的な生を肯定するか、成熟の可能性を「キャラ」の統合に賭け、固有の生を生きる「人間」の回復を待望するか。僕の答えはもうお分かりだろう。「人間」の優位は変わらない。<・・・>僕がここでいう「優位」とは「人間」が「キャラ」に論理必然的に先行する、というほどの意味である。<・・・>この立場に立って考えるなら、「人間かキャラか」という問いは「偽の問題」ということになる。「キャラ」が常に「人間」に含まれる以上、いずれを選んでも僕たちは「人間」を選んでいることになるのだから。(p249):基本的な順序の確認。
- 僕の次なる関心は、「強い同一性」という視点から「キャラ(=幽霊)」のための新たな倫理観を模索することだ。(p251):エロゲーもやってみてください。というか斎藤先生が論じるに足るよいエロゲーが出続けますように。
もともと換喩の詩学的機能に関する考察を読みたくて買った本書だけど、その面での新たな発見はあまりなかった気がする。西尾維新の作品は換喩のメカニズムで捉えやすいというのは面白かったけど。散文の語りの作法に関してなら西尾維新、詩的なイメージの作り方に関しては中村九郎(曲矢サンノの眉毛とか思い出した)になるのかな。あとは換喩の詩人とされているパステルナークとか読んだほうがいいのだろう。