ギャングスタ・アルカディア (60)

 前作の感想:http://d.hatena.ne.jp/daktil/20130811


 選択肢にもあったけど、ループがあることが善いか悪いかという問題なのではなく、ループは一度生じてしまったらそれが存在しないような世界も想像させる可能性を生まざるをえない、反省的な代物であり、その意味において言語と同じようなものだ。勝手な思いつきだけど、ループが発生した7万年前は言語が発生した時期であり、共有ループと農耕が始まった1万5000年前は文字テクストが誕生した時期なのだろう。共有ループは、他人と同一の時間の流れを獲得する手段であり、つまり線的な歴史認識の共有を可能にする手段だ。ループ自体が反復を前提とした円環状のものであっても、ループから一緒に抜けることで結局は線的な時間感覚を身につける。歴史は文字テクストの発生によって誕生した。そして文字テクストは情報を蓄積する装置であり、情報を「記号」と「上演されたもの」に分離するものであり、発信者の感覚と受信者の感覚の齟齬を意識させる契機にもなる。「論戦」が露出したターン制であり、「考える時間」と実際に「発話する時間」がずれていることは、本作の世界を構築するルールとして文字テクストには僕らの通常の世界においてよりも大きな特権を与えられていることの証である。元長氏は、「美少女ゲームの臨界点」でクリックの快楽やゲーム性に触れていた。ターン制もこの関心の延長線上にあり、さらに話を広げれば、ヒロインたちが発するせりふはどの程度彼女たちの「思考」を表すものなのか、表象するにあたってどのような「編集」が加えられているのか、というようなせりふの「背後」にいる幽霊やせりふの誤配といった(希が実際に幽霊の製作者であったというメタファーの現実化もあった)、かつて東浩紀デリダ本で説いていたテクストの振る舞いと情報の受け取り方をめぐるあれこれの話になっていって、元長氏の中では相変わらずポストモダンの呪いが健在で、それがエロゲーの形で受肉していることに嬉しさを感じるのであった。


 シャールカは前作で片鱗を見せていた通りのヒロインで、要するに、背負わされた「歴史」から「構造」へと逃避を夢見る女の子だった。東欧のことはほとんど知らないのでいい加減な推測だけど、シャールカ・グロスマノヴァというのはサラやグロスマン、つまりユダヤ系を思わせる名前である。ユダヤ人は世界の始まりや終わりのことを強迫的に意識せざるを得ない「歴史」の民族であり、実際に背負う歴史自体も重苦しい。シャールカはそこから逃げるために、「現在」に埋没するために、人間が何度もループを繰り返しながらテクストを演じてばかりいる、ゆるくて平べったくて演劇的な日本の二次かけ台にやってきて、流浪の民のカナンの地、ソファの上の理想郷を手に入れようと修行を始める。責任を引き受けてだらだらし、ゆるい現在を全力でだらだらと演じる。そういえば猫撫ディストーションエクソダス出エジプト記というユダヤ人の運命をモチーフに使用しており(藤木氏のアイデアか知らないが)、その点でもポストモダンの系譜に忠実というか、けっこうキリスト教にこだわるエロゲークリエイターなのかもしれないと思った。瀬戸口廉也とは違って個人的な感覚の話をしないので、どこまで切実なのかよく分からないけど。天使と戦うというモチーフも、旧約聖書ヤコブと天使の相撲の話を思わせる。


 シャールカは不機嫌である。あの3択では、あれ以外選びようがないように見えた。何しろプレイヤーは現実に人格を喪失することができず、文字テクストである本作の中ではどうしたって非個人化のシミュレーションにしかなりえず、反対に、常に闘争の中を生きる野人に戻ることもできないからだ。納得してあの選択肢を選び、翻弄されることに納得した。だから納得して騙された。でも、選択肢の立て方がずるかったという事もあるのかもしれないが、実際は天使の言い分が最も妥当だったように思える。全員からループを奪うわけではなく、自明性を崩すだけと言っているのだから。そこに不平等や不条理が生じたとしても、その責任を天使に押し付けられるような余白を作っておけばいいのだけど、シャールカの背負う歴史がそれを許さなかったというだけのことなのかもしれない。アマネは幸せな子供の世界をきまぐれに夢見たけど、諦めた。シャールカも大人だった。だから不機嫌だった。でもシャールカがはにかむとき、彼女は大人と子供の間にいる。叶の思いが、「彼女の中にある」からだ。空間の非連続性と人格の非連続性が共有され、もはや声は鳴らなくなる。届く必要がなくなるし、テクストがテクストとして成立しなければならない根拠も消えるからだ。そこがシャールカとたどり着いた現在だ。


 少しダメ出しも。シナリオ以外に残念な部分が多くて、ディレクターの怠慢あるいは力不足を惜しまざるをえない。これをフルプライスの完成品として発売してしまうのはだらしなさすぎる。どうやらちゃんとテストプレイしていないらしく、個別エッチシナリオはなにやら別のシチュエーションのせりふが混入していたりしてカオスで、そもそもあのようにヒロインを下品に貶めるだけのエッチシナリオの存在意義が分からない。その意味ではライターにも落ち度はあるように思える。本作の論戦は、確かに個別の論拠のネタには面白いものもあったけど、前作と違って各ヒロインが主人公を手に入れるために自分の存在意義をかけて行うものではないからか、なんかだか書割に従った出来レースっぽい感じがしてうまく機能していなかった。やっぱり恋愛の枠を離れると難しいのか、それとも3つ目の選択肢に帰結するような本作のテーマからすると不可避の形式なのか。一枚絵の悲しさについてはことさら触れるつもりはないけど、立ち絵の演出のまずさは愚痴っておきたい。以前からこのメーカーが採用している、立ち絵を無意味にひょこひょこ動かしたり、キャラの移動を立ち絵のスライドで表現するような、人形劇的な手法は好きではない。キャラの制約性を露出するメタゲーとしての手法と理解すれば分からなくもない時もあるが、そんなふうに自覚的な演出ではない。ただ動かさないと「演出」が不在のように見えて寂しいから動かしているのに過ぎないようだ。演出担当の人はあたかも何クリックかに1回は立ち絵の表情を変えないとだめだと妄信しているらしく、せりふにまったく合っていない表情がしょっちゅう出てきてうるさい。特に、予算の関係かアマネは表情のパターンが少ないので(可愛いのに残念)、全然驚いていないせりふをしゃべりながらしきりにびっくり顔を見せるのには閉口する。しゃべるキャラがいちいち一言突っ込むために横からスライドされてくるのも見ていて悲しい。立ち絵を動かしていればすなわちよい演出、という悪しき勘違いの典型例で、もそもそと画面に出てくるキャラも多すぎて見苦しい。上品で繊細な「しゅきしゅきだいしゅき」のディレクションとは正反対だ。ついでに言ってしまうと、せっかくの新作なのに新しいBGMがほぼないのも残念だった。不満点が多々あることすらもメタ的な解釈の余地につながると言ってしまってもいいのだけど、これまでの所業からもかなり無神経なメーカーだということは分かっており、さすがに今回も黙っておくのは嘘つきになるかもと思ったので。