Fate/hollow ataraxia (70)

 Fate/stay nightの話をだいぶ忘れてしまった上に、かなり漫然とプレイしてしまって、申し訳ないけど理解しきれていないと思う。個々のフレーズにしてもそうだし、それ以外でも例えば、ライダー、ランサー、キャスター、葛木の回想があったけど、なぜいまさら語られたのか、「日常」を彩るためにキャラクターを膨らませるだけの装飾的でサービス的な要素だというのなら、何だかもったいない気がする話だったような(実現しない文化祭とかセイバーの編入とかも含め、舞台裏という位置づけだったのね…追記)。とはいえ、せっかくなので簡単な感想くらいは残しておく。


 最近プレイしたギャングスタアルカディアでは、ループ構造を生きることを演劇の持つ再現性になぞらえて、個々の周回はその都度本気で演じられるものであって、偽物ではない、だからループの中で味わう喜びは肯定すべきものだ、そしてループは解明すべき謎ではないという話が出てきた。FHAも同じテーマを扱っているけれど、こちらは少し古い作品だからか、生真面目にループの謎を解こうとするし、ループの肯定的な面と否定的な面を切り離して整理しようとする。でもそんなずるは通らないのである。FSNの面々にとっては、ループ構造は天災のようなものであり、どこかで望んだことはあったかも知れないが、基本的には被害者だ。加害者であるバゼットとアヴェンジャーは、せっかく手に入れたアルカディアなのに、連戦連敗の殺し合いを無限に続けるばかりで、どちらかというと罰せられているのだが、その暗さ、被虐的なまでの禁欲性が心地よい。特に、アヴェンジャーは昼間はアンリマユとしてセイバーやライダーから一成に至るまでFSNのみんなといちゃいちゃしていることを考えれば、唯一の「日常」シーンが数クリックで終わる殺伐牛丼の早食いしかないバゼットは素晴らしく、ランサーに出会って絶望するシーンとか哀れかわいくて大変である。ランサーが手を貸すのを嫌がるのも仕方ない。


 そしてやられるバゼットや士郎を見て興奮するカレン。カレンは被害者でも加害者でもなく、窃視する観客である。観客は感情移入し、感応し、自らの存在によって憑依された演者を我に帰らせるエクソシストである。すべてを受け入れる節操なしの彼女が真面目で高潔でさえあるのは、聖なる娼婦とかそういうシンボルの話は措くとして、彼女にはそれしかないから、そのことに一途だからなのだろう。スカートなどはいている場合ではないのだ。Еще есть у меня претензия, / что я не ковер, не гортензия... 彼女の不機嫌さ(プレテンジア)は、雨の中でぼんやりと暗く輝く紫陽花(ゴルテンジア)になれないことの不機嫌さなのかもしれない(こじつけ)。正しくは、自分が彼女のカーペットでも紫陽花でもなくて不満、だけど。


 というわけで、もっとバゼットやカレンの話を、彼女たちの「日常」を見たかった、という本作の趣旨を台無しにするような一言で締めておこう。どうしたって弱い僕はこの先も物語とつきあっていくのだから。