[少女]キラ☆キラ ちょっと再プレイ

 運動不足で太り始めて汗っかきになったおっさんが、何だか無性にキラ☆キラのBGMが聞きたくなって、ゲームを起動してしてそのままずるずると久々に再プレイした(ついでに、この際BGMを抽出してサントラを作り直した。やっぱり何度も聞きたくなってしまい、通勤中に繰り返している)。どんな夏だからなのだろうか。
 とりあえず千絵と紗理奈のお話が終わって一息。昔書いた感想を見返してみたが、恥ずかしいし拙いしで直視できない。かといって今なら十分に語れるというわけでもない。電気サーカスを読んだ今となっては、キラ☆キラのやさしさには戸惑うところもあるけど、感心するところもある。やさしいかやさしくないかは話の終わらせ方に過ぎないものであって、人は外側からやってくるものに押しつぶされながらがんばっていくしかないという命題そのものは変わることはないのだけど、やはり優しい結末と苦い結末をひとつの作品の中に並べることができるゲームというのは、なかなかいいものなんじゃないだろうか。
 ロックバンドの修行パートで、無茶をして色々なものを失って身軽になっていくときのスピード感、悲惨なことをなんでもないような口調で表すのは作中で繰り返されるモチーフで、光の当て方はその都度違っていて、開放的であることもあれば、出口のないやりきれなさを伝えることもある。身軽になるための音楽であって、音楽の中にいるときは人間のことを考えなくていい。人間は音楽を抜きにして考えると面倒くさいものだけど、人間がいないと音楽も鳴らない。翠いわく、ロックは間違った理屈で勝手に人間を擁護して、でも一生懸命だから励まされてしまう。正しいことを言って正しいことをしたら正しい結果が得られるのはパズルや経済のような分野の話であって、そこに快楽がないとは言わないけど、寒々としている。正しくあろうとしてもできないことについて瀬戸口廉也がなんでもないような口調で書くとき、彼は何かリアルにあることを模写してその受け入れ方まで示しているのだろうけど、そんなふうに納得して終わりにしていいと言い切れないのは、「語り」と「内容」のずれを帳尻合わせせず、いつも開いた形で終わらせているからなのだろうな。しっかり者の千絵が裁判で疲弊する母親を見て、自分もいつか鹿之助に依存しきってしまい、捨てられでもしたらああなってしまうのろうなと想像したり、人あたりの穏やかな紗理奈がもっと自分を信頼して話してほしいと鹿之助に不満を言ったりするのは、たぶん「キャラ設定」や「物語の進行」的なものからは離れた脱線であって、それによって彼女たちの「設定」はぶれてどのキャラも似たようなところがあるということになって、話の糸ももつれるのだろうけど、そういうずれの中からキャラ同士の内面、あるいは作品と読者の垣根が次第に侵食されていくのがこの作品の魅力であって、その意味では人間嫌いの人の話とは言いがたいところがある。
 バンドが地方へのツアーをやったことはなんだったのか。何で大阪だったり神戸だったり、熊本だったり沖縄だったりしたのか。その選択肢には何の意味も必然性もなくて、選択したという事実とそれに意味を与えたことと、記憶だけが残る。ストーリー上は、千絵と紗理奈ではツアーの位置づけは違っていて、千絵の方は帰京後の家庭問題を予告するようなだめな中年男や尖った母親がでてきて、千絵姉は放っておいても勝手にこういう問題に巻き込まれていくのではないかと気の毒になりもうロックンロール。紗理奈の方は、熊本から西は日差しの強さのせいか非現実的な明るさがあって、帰京後の対話・会話・電話の言葉と責任パートと対照的で鮮やか。夢の彼方の出来事のようだ。彼女の枕元に星の砂の小瓶があるのもやさしい。とはいえ、ツアーを意味の中に回収してしまうのではなくて、ただツアーをやったという事実があって、その先に今の千絵や紗理奈がいるという、物事の連続をそのまま受け入れて安らぎを得ることができるのなら、それが一番いいことなのだろうなと思う。きらりの話ばかりがインパクトがあるように見えるけど、ヒロインとしてとても素敵な二人なのだったと思い出せてよかった。