巨乳性奴会長 (70)

 締まりのない身体の線やアヘ顔、目つきが悪かったり顔が長く見えたりして萌えるどころか拒否感を呼ぶ正面向きの顔グラなど、絵的なだらしなさはテキストにも感じられる。HAINさんの独特なお下劣文は、エロさというよりは呪いのような思い入れを背後に感じさせる。執拗な男根や精液の描写やアヘったときの日本語の崩し方など、特徴といえなくもない要素はあるけど、それはハードな抜きゲーのジャンルであれば他に見つけるのはそれほど難しくないと思う。むしろ、そういう要素を引用している感と、それを自覚しながらもごり押ししてくる感があり、その不器用な不自由さはメタゲーであることを示す中でも弁明されているのだが、そこには呪いのような強い感情のわだかまりが感じられてしまうのである。
 そういう乱調が見られるのはエッチシーンだけでない。例えば、リョーコが「人間」という言葉に重みを持たせて使うとき、そこには通常大文字の「人間」という言葉を使うときに生じる大仰な気負いが生じるのだけど、それを宣言するのがヨガのようなアクロバティックな体勢で陵辱されている目つきの悪い抜きゲーのヒロインであるのにも関わらず、照れたり臆したりせず、ベタに「人間」と宣言する。他人の言葉を自分の文脈に組み込むときに生じるはずの小さなずれを無視して、自分の文脈の色に強引に染め上げてしまう。その野蛮な手つきは、一方ではプロフェッショナリズムの欠如として、他方ではなりふり構わない切実さとして読み手を侵食する。
 また絵の話に戻ると、エロゲーで正面向きの左右対称な絵は扱いに困るものがある。そんなに幾何学的にガチでこちらに向き合われると、ちょっと待ってくれとこちらのほうで引いてしまうのである。プレイヤーはいくらヒロインたちとの距離をゼロまで縮めたいと口では言っていても、モニターで隔てられて安全地帯でいることに実は安心して居座っているのかもしれない。正面向きで真っ直ぐこちらに向き合っているヒロインを見ると、それをまじめに取ることができず、彼女がまるでオイナリサンを構ってほしそうにこちらを見ている変態仮面か何かのように滑稽に見えてしまうのだ。抜きゲーで時々あるまんぐりがえしを左右対称に描いている構図などは、エロいというよりはシュールに見える。本作でもエッチシーンやバストアップ絵での正面向きの絵があり、そういうぎりぎりのベタな表現がこちらの安全地帯を切り崩してくるところがあると思う。
 最後に物語性について。東浩紀氏は『美少女ゲームの臨界点』で、keyの時代からtype moonの時代へのシフトを物語的なものの台頭として警戒していた。物語的なものというのは、全て設定とそれから導き出されるアクションの中で解決されてしまい、読者はただ受動的に映画でも見るように登場人物たちが動き回るのを見ていればよく、それは別にエロゲーでなくてもよいもので、そこに萌えが本来はらむはずのプレイヤーとヒロインの繊細な距離感をめぐるあれこれは不要、みたいなことだと理解している(曲解してるかも)。HAINゲーは反対方向に振り切れてしまっていて、基本的に登場人物には最低限と呼べるほどの設定も物語もない。18世紀のアレゴリー文学か何かのように、登場人物は個人的な背景の薄い寓意として与えられる。彼女たちにとって物語とは、作品単位でローカルに閉じた設定の世界のことではなく、ヒロインとして製作されて世に出るということなので、通常物語的な属性としてヒロインたちに付随する作品世界の雰囲気とかは、インターフェイスのデザインが代替するというところまで後退する。
 物語性が薄い以上、感情移入するためには絵のウエイトは重くなるわけで、結局この作品を楽しめたのかというと、絵が苦手だったのであまりのめりこめなかった。今回はメタゲーとしてのテーマの重心がプレイヤー寄りというよりは作者寄りだったということもある。リョーコ役の木野原さやかさんの声がかわしまりのさんの声によく似ていて好みだったことと、サクラ役の声が水仙花の矢上裕子役のひかるさん(因縁のある配役)でよかったことがあり、声に関しては文句がなかっただけに残念だった。水仙花以降、微妙なすれ違いが続いているけど次回作にまた期待するとして、今回もまた清々しく終わっていたのでよかった。愛を叫ぶ声がベタだとしても、その声は作品というブラックボックスを通って綺麗に拡散される。屠殺の園からの音楽も、さっぽろももこさんの音楽はどう形容していいのか分からないが、少しさびしげできれいな旋律がよく似合っていてよかった。

 追記:おまけモードの存在を教えてもらった(最終シーンの最後から)。往生際の悪さと遊び心ににやり。