魔女こいにっき (75)

 「物語」というのは便利で安易な言葉で、僕もエロゲーの感想でしょっちゅう使っている。あえて一歩踏み込んでみると、これは「語られたもの」であり、語るというアクションを意識させるものであり、実際に起こった出来事やその論理よりもむしろそれが語られたときのトーンや仕草に込められたニュアンスの方が後に残るといってもいいくらいの転倒の余地を含む。この作品は端から負け戦であり、決して正解してよくできましたねと終えることのできないような形で問が立てられていて、それをまとめてしまうことができるのはこの語りのニュアンスだ。たくみとありすは物語を終えて、病院で静かに眠るけど、他方で長い旅を終えてオアシスに辿りついている。どちらが本当かという話なのではなく、その明るさや開放感を受け入れ、その感傷に感染できるところまで導くのが語りの役目だ。
 感傷はただ直線的に駄々漏れにしても機能しない。語られる出来事の順序や構成を複雑にして、語り手に伏線を張り巡らせ、自らの言葉に躊躇し、そうした仕掛けの網に目がくらまされたときに、ちょっとしたディティールひとつでさっと感染してしまうのではないか。頭の悪い読者が快楽の原則か何かによって自分を守るための思い込みのようなものかもしれないが、実際は感傷を冷静になって解説することの方が愚かなのだろう。感傷は善意のシステムであり、同じ善意をもって受け取れなければ意味がない。加藤恋が編集した映画はそういうやさしさの膜をまとっていたのだろうし、梢先生が店を出た別れ際に「まっすぐ帰るのよ」と言ってくれるのもそうだろう。ついでだが、キャバクラには仕事で何回か連れて行かれたことがあるだけで、まったくいい思い出はないが(お化けみたいなのが出てきたこともある)、あそこが感傷の空間であることは肌で感じられる。何の得にもならないが、梢先生はキャバクラのいいところだけを美しく昇華した存在で、キャバ嬢というよりは聖母的な何かに近くて、キャバクラに変な幻想を持ってしまいかねないほどだ。実際、母の店という必要かどうかもよく分からないディティールがスイッチになっているのだろう。それにしても感傷的(あるいは物語的)な先生である。あるいは美衣の言葉ににじむゆらぎ――「春はめまぐるしくて、何かを忘れてしまったようで不安になる」「桜井君て、時々適当に返事するよね。ううん、悪い気はしないけど」「ずっとイライラしてた」「なんか、安心しちゃった」。
 重苦しくなりそうなのでいったん山田氏の言葉も引いておこう……「我も…処女です」「うう。我も、なんだかたまらなくなってきた。」 梢先生の他にも、山田氏や栗原は声優さんが好演していたこともあり大変癒された。
 そんなわけでいちいち感傷に心地よく流されていたので、エッチシーンでけっこうお世話になってしまい、なかなか進められず参った。主人公は確かに節操ない。正しくないが、それを押し流すやさしい語りを受け入れてしまった。ヒロインと一緒に自分も流されるときの共犯感覚。恋ちゃんのお尻の大きさには抗えない。おっぱいちゃんたちのおっぱいにも、非おっぱいちゃんたちの非おっぱいやお尻にも抗えない。
 ハッピーエンドがない。人間は感傷(あるいは物語、あるいは理想)だけでは生きていけない弱い生き物で、目を背けられたものに復讐されてしまう。その言い訳としての、あるいは目くらましとしての、入れ子構造やメタ構造。千夜一夜物語やアリスとジャバウォックの対立。通常は歳をとらず、置いてけぼりにされるのはゲームのヒロインであって、プレイヤーは残酷に老いていき、何歳になっても学園生活の幻を追いかける。ひとつ甘美な物語が終わると、現実に帰らなければならない読み手が残されるが、その読み手を別の物語に閉じ込めることで、終わりを先送りにできる。エロゲーをやっては感想を書くというのはそういうことなのではないか。最後の最後、「物語の先頭」までたどり着いて物語を本当に終えることになったとき、残されたできることはあまりない。これまでのすべてを肯定して感謝するか、さもなくばすべては悪夢だったと否定するだけ。これを袋小路と見るのなら確かに負け戦だ。だから先回りして自爆しておく。崑崙が「風だったけど、ひととき本物の少女になれた」と感謝するとき、ふきふきやバンソーコーや巨乳のふりや、王宮の頃の味付けや時計塔や砂漠での静かな踊りを思い出して、彼女と一緒に流される。「これもやっぱり物語で、儚いものかもしれません。でも、消えてしまうまでは、私だけの秘密にしておきたいんです。一人でこっそりと、読んでいたいんです」と言う歌音は敗北するけど、別にそれでもいい。「もう少し待ってみる。わたしって我慢強いから」と美衣は言う。
 一人称のありす。エロゲーマーの願いのひとつは、自分が美少女になることだとよく言われている。僕自身はきちんと突き詰めて考えて実感できたことはないけど、多分そうなのだろう。ふたなりのようなグロテスクな形ではなく、可愛いヒロインたちでいっぱいの幻想の学園生活の中で可憐な少女となるという夢を適えるとどうなるのか、プレイヤーとキャラクターと断絶までも含めて、その可能性を示したのがありすなのかもしれない。ありすの物語が終わってしまうことは、分かっていてもどうしようもなく惜しい。