Garden (80)

 キャラクターとしてはあざみんが、物語としての構成のよさでは小夜シナリオが一番のお気に入りだけど、ここはやはり絵里香を中心に感想を書いておこう。一番強烈で、作品の異常さを最も良く表しているように思えるから。
 絵里香シナリオ(声なし修正版のみプレイ)をやったのは一番最後で、声がなかったのはさびしかったけど、本名プレイに違和感がなくなったのは嬉しいことだった。それまでの他のルートでは、本名を入れても音声はデフォルト名で読まれるので、可能な箇所では主人公の名前が読み上げられるよりも先にクリックして、音声をカットしようと涙ぐましい神経を使ったりしていた。それでも読み上げられた場合には、表示される名前と音声が乖離するので軽く興が冷める一方で、「テクストは音声に逆らって僕に本当の名前を告げてくる」というキモくて倒錯的な楽しみ方も出来た。絵里香シナリオでは音声がないのでようやく落ち着いて読み進められたが、そればかりか、とんでもないイチャイチャシナリオなので本名でプレイするとかなりのゼロ距離感を味わうことが出来た。特に後半以降の狂気じみたテクストの中に自分の名前を見るのは貴重な体験だった。属性的には決して好みのタイプといえるような女の子ではないのだけど入り込んで読めたのは、この絵里香シナリオのテクストの異常さだけではなかった。それから、このシナリオは台詞量が膨大だったので音声なしで読み進めたのはマイナスではなかった。エッチシーンの会話とか全部聞いていたら苦行になっていたと思う。
 では本題に。トノイケダイスケ氏の文章については「ワンコとリリー」の感想とかマルセルさんとのやりとりとかで触れたけれど、今回は別の角度から。トノイケ氏のテクストにはキレとかケレンミとか言われるものが乏しく、演劇的な言い回しにあるようなリズム感がない。その意味では、エロゲーライターで言えば(あまりプレイしていないけど)丸戸史明氏と対極的なタイプだ。ユーモアもない。地の文は一人称のモノローグなので当たり前といえなくもないけど、言葉は化粧を施されることなく、切れの悪いおしっこのようにだらだらと垂れ流されていく。そのことには言葉の担い手たち自身も自覚的で、しばしば思い切りの悪い留保や解説を入れて言葉の「引きずり落とし」を行う。例えば、最初のエッチシーンの前戯:

「つるつるのほうが・・・綺麗でいい」
「うわ、またロリコン宣言ですか」
と絵里香はわざとらしく、引き気味の半笑いを浮かべて見せた。

 「わざとらしく、引き気味の半笑いを浮かべて見せた」。丁寧語を使う絵里香のへらへら感も。

「はいまたキザー。今月のキザポイントはすごそうだねー」
「なんのポイントだ。貯まるといいことでもあるのか?」
「ん? 愛しのエリちゃんが喜ぶよ?」
「…頑張って貯めるとしよう」
「頑張ってね。でも、愛してる人の心は読める、ってなんか素敵っぽいかも?
一歩間違うとストーカーの発想だけどね」
「…言われてみれば、確かに」

 こうした読み物(作り物)として読んでも少しも面白くない、ユーモアのないやり取りが延々と続く。数少ない例外は、ヒロインの胸が小さいことを描写するモノローグで、このときだけは主人公は別人のように自分の言葉に自信を持ち、言い回しはきびきびしたものになる。どのヒロインも控えめなので誰でもいいのだけど、ここは愛先生の例を挙げておこう:

愛ちゃんの胸は――女の子一般に言えることなのかもしれないけど――実際触れてみると、見た目よりもはっきりと他の箇所のよりも膨らんでいて、弾力もあった。
といって、間違っても掴めるほどの大きさはないので、まず形に沿うように手をはわせてみることにする。

 トノイケ氏の担当ではないらしいけど、あざみんについても

足をぴくぴくさせ、体に力をこめるあざみ。ふにふにとわずかな膨らみを両手に感じながら、僕はそっとあざみの胸を撫でる。揉む、というより、撫でる――が適切な言葉だと思う、小さな胸。

とよどみがなく、少なくともこの点ではライター間の統一が取れている。あとは茜ちゃんにたこ焼きを食べさせるシーンもためらいがなかったな。
 キレがない、ユーモアがないということは、読み物としての面白さを犠牲にしてある種の生々しさを手に入れることであり、絵里香と主人公はいまいち垢抜けない言い回しで言葉を紡ぎ、その決まり悪さを埋めるように相手の言葉の後に言葉を入れて隙間を埋めていく。まるで物語ではなくて現実のカップルのようである。相手を愛しく思う気持ちばかりがはやり、言葉が追いつかない。ちょっとうまいことが言えたような気になると二人で嬉しがって台無しにして、照れ隠しにまた言葉を紡ぐ。言葉が空疎だということは決してないのだが、言葉のすわりの悪さが露出している。言葉はへらへらしたものであっても、気持ちは先行していて、会話の途中で突然絵里香が感極まって泣き出したりする。バカップルというのはこうした貧しさと愛しさが当事者だけの結界を作り出している状態で、それ自体は当事者ならぬプレイヤーにとってはなんの価値も持たないのだけれど、エロゲーのシステムはこれをプレイヤーを巻き込む「作品」へと昇華させる。クリックや一人称視点、本名プレイといった通常のエロゲーシステムに加えて、本作では絵の力を挙げておきたいところ。絵がなくてトノイケ氏の文章だけをひたすら読まされたとしたら、おそらく相当うっとうしいことになると思う。ヒロインは皆とても優しい表情をしていて、完全に信用しきった、開かれた顔をしてこちらを向いている。だらしなくて生々しい掛け合いは、この慈愛に満ちた絵に救われなければならない。テクストを読んでいると、特に絵里香との初エッチ後のケーキ作りや文化祭のエピソードなど、多幸感により2人の頭のネジが外れて人間離れしたいちゃつきぶりに没頭していくシーンでは、それを読まされるプレイヤーの視点は後退せざるを得ない(引く)時がある。いきなり嬉しそうに卑猥な言葉を連発し始めて、公共の場所で卑猥な部分を触ってこられても、ついていくのは難しい。そのときに作品世界につなぎとめてくれるのは、絵が見せるヒロインの表情だ。この子が全ての注意を自分に向けているのに引くとはどういうことか、ほら、本名を呼んでくれているじゃないか、卑猥なことを言うのも、何も全ては必死さからきているのだから…という具合で、絵に意識を向ければ感染できる。そうして浮ついた日々から一転して転落する、そんな彼女を突き放して見ることができるはずがない。エッチシーンの時間的に引き延ばされた執拗な描写も、絵という空間的で無時間的な現象を最大限に活用するための執念といえる。この「引くベクトル」(テクスト)と「引っ張るベクトル」(絵)のあからさまな衝突は、絵里香シナリオに奇妙な緊張感を生みだし、感情移入のためのフックにもなる。また、主人公の方は、絵里香とくっついた後はひたすらかっこ悪くなっていく。絵里香を探して走り回る様とか、かっこよさというのはかっこ悪くなることによってしか手に入れられないことを愚直なまでに示す。二人とも常軌を逸していて、読み手の自分はその暴力的な力にさらされ、感染しつつついていくのが精一杯。エロゲーで描くべきは無制限の欲望の暴走であり、永遠に持続するほどの最高の幸せなのだとしたら、絵里香シナリオはそれを実践しようとして量が質に変わったかのような感がある。作為的な狂気よりも剥き出しなので怖い。そんな風に迫力のある物語進行だったから、終盤でこれだけ必死に頑張ってきた絵里香が指輪をみんなに見せるシーンの開放感は感動的だった。
 本作は未完成作品とされるけど、僕個人としては特に欺かれて傷ついたわけでもなし、高く評価したい。いまだ書かれていない瑠璃の物語は、当分は想像するだけで十分。Gardenというのがどんな意味を込めてつけられたタイトルなのか知らないけど、地上における天国の似姿としての園生という古典的な意味もそんなに間違いではないだろう。瑠璃が登場するシーンで、庭に言及するくだりがある:

夢。夢を見ている。美しい楽園の夢。そこには花が咲いていた。一面に、色とりどりの花が。何事もなかったかのように。初めからそうであったとでも言うように。地面もなく、小石もなく、雑草もなく、ただ美しい花だけがそこにある。都合良く図々しく、そして美しく存在している。だってこれは夢だから、楽園だから。

 庭はそれ自体で美しく完成しており、同時に今も開かれているという意味では決して完成することはない。そんな知った様なことを言いたくなるくらいには濃いプレイ体験をさせられた変態的な作品だった。残念なのはあざみんの可愛さを説明する言葉が見つからないことくらいか。