木緒なち『ぼくたちのリメイク』、石川博品『冬にそむく』

 前にアニメを観て気になっていたシリーズが完結したことに気づいて一気に読んでみた。アニメではOPソングがよかった他には(今回CDを買ってしまった)、地味で暗めけど熱のある作風が印象に残っていた。らくえんとか思い出した。
 原作小説は、そんなアニメのいいところが詰まった、地味で暗めだけど熱のある作品であり、物語はアニメよりずいぶんと遠くまで進んでいて楽しませてもらった。人生に選択肢はあったとか、あそこがやり直せたらとか、そういうのは少なくとも僕にとってはある程度歳をとってから出てくる考えであり、若い頃は選択肢などない瞬間瞬間の現在をひたすらに生きていた気がする。歳をとると生活がパターン化するし、この先の見通しについても選択肢が無限からある程度絞られたものになるので可視化されてくるんじゃなかろうか。そういう意味では、自分がたどってきた道を何度も振り返り、現在の生き方に意味を与えようと考え込んでばかりいる主人公の物語が、中年の自分にとって面白かったのは了解できる。田中ロミオ作品にせよシュタゲにせよ、ループ物に名作が多いのは、そういう熱量を込められるジャンルだからなのだろうか。
 木緒なちという人の名前はよく何かのロゴのデザインとかでクレジットされている人というイメージで、エロゲーやアニメで触れたことはあったようだけど、ご本人が前面に出た作品を読んだのは今回が初めてだった。この作品のテーマに合わせた意図的なものなのかわからないが、色気のない平易な文章で、平易すぎて引っかかりのないプロットを読まされているような感覚になるところも少なくなかったが*1、真骨頂はそのプロットをテーマに沿ってうまく配置して物語を転がしていくことなのだろう。デザイナー的な発想のように思える。半沢直樹的な地味な見せ場が多かった(半沢では派手なのは顔芸と怒声だった)。扱うテーマがタイムリープと創作論と人生論という重くて複雑なものなので、文章自体はシンプルでベタであっても、主人公や他のキャラクターたちの悩みに等身大で付き合っているようでむしろよかったのかもしれない。人生においては派手な出来事しか起きないなんてことはないし、僕らはなんだかんだいって平凡な出来事を懸命に経験しているし、ラノベでここまでベタに人生を語ってもいいのだ。三人のヒロインから結局一人を選ぶのだが、ラブコメっぽくハーレムエンドにしたり先送りエンドにしたりせず、みんな選べないくらい魅力的だけどそれでも一人を選ぶという実直さも作風にあっていた。作中で何度も言われている「無駄なことなんて何一つない」という地味だけど温かい言葉をかみしめたくなる作品だった。
 ケーコさんは勝手にライアーソフトのケーコさんに由来するのかと思っていたが、この作品の主題が込められた名前だった。彼女がどのようにして出現したのか、その仕組みが完全には説明されたなかったことで、恭也の物語はギミックに回収されず、神秘的な明るさに包まれた聖者伝の趣きを得ることになる。もともと超人というか聖人じみたキャラクターだとは思うけど、そう考えればお色気シーンとかが素朴すぎることも納得できるのかも。シノアキやナナコからクロダやタケナカまで、この作品のクリエイターたちが感じさせる不思議な強さと魅力はそういう聖者的なものによるような気がするし、絵師さんもそれを伝える明るさを表現していたような気がする。自分もこんな仲間たちをつくれるような青春を送っていたら、必死に生きていたらと思うけれど、そうでない人のためにこそある作品だ。そして、地味で暗めと書いたけど、人は皆、自分の人生という神秘的な物語を生きるのだから、最後に小説を逸脱するようなこういう明るさはけっこう好き。

 

 

 ラノベらしからぬ話といえばらしからぬし、これこそが本来のラノベなのだといえばいえそうにも思える。日本の純文学作品のようでもあるし、外国文学のようでもある。ようは最近読んでいなかったけど昔読んだことがある印象的な小説の感覚を思い出させるような作品だった。「冬」がコロナ禍のメタファーであるのは確かにその通りなのだろうし、若者特有の閉塞感を描いているというのも確かのそうなのだろうが、歳をとってからもこういう感覚を抱くことはあると思う。小さなことを積み重ねていき、その都度心を揺らしたり安定させたりしながら守っていく生活。経済的にも心理的にもこの先楽になっていく可能性は低く、雪かきのような徒労じみた労働の重力に縛られ、みなとみらいのような日常から遊離した場所になんとなく居心地の悪さを感じる。そんな生活であっても、恋人がいれば違って見える。近所に引っ越してきたという偶然から始まった特別な関係。二人にはそれぞれの生活があるのだろうけど二人だけの時間はゼロから始まる。
 二人の会話は二人だけの会話であって(学校などでは話さないし)、僕はそれをのぞき見しているような言葉で成り立っているのだが(ちょっとネットスラングが多い気もすれば今の若い人の会話を知らないのでどれくらいリアルなのか分からない)、こういうはたから見ると少し恥ずかしいプライベートな言葉を積み重ねることで少しずつ関係を強固にしていく。美波は目の覚めるような美人ということだが、こういう関係を築くにあたって美男美女であるかどうかはあまり意味がなくて、幸久もこの作品世界が性欲を減退させる冬の鬱病的な不安に満ちているからか、美波に対して性欲の視線を向けることが極端に少ない。大事なのは二人が言葉や時間を共有することなのだ。
 5月の連休、旅行や行楽地に出かけて思い出作りをすることもできたのだろうけど(一応多摩動物園に行ったのはそれらしいイベントだった)、結局は子供と一緒に近所を散歩したりブランコに乗ったり車のおもちゃに乗せたりして、子供を保育園に預けて時間を取れた仕事のない平日も、妻と二人でブックオフに子供用の絵本を買いに行ったり(最近、子供が深夜に盛大に嘔吐して何冊かだめにしてしまった)…<ここで感想は力尽きて数ヶ月経ったが、この小説ならこういう終わり方でもいいか>

*1:個人的には、引っかかりのなさを補っていたのが、現実のトポスの言及の多さだったように思う。大阪と福岡はなじみがないけど、川越はちょっとだけ、車を買いに行ったときに似たような小江戸の話を車屋の担当者から世間話でされたのを思い出したし、西武線も学生時代を思い出した。小田急線の登戸や百合丘はなじみが深く、新宿西口から南口にかけてのエリアや大崎、五反田のエリアもなじみ深くてイメージしやすかった。だからどうしたという話ではあるのだが、なんとなく身近な話のように思えてしまった。

うたわれるもの 2&3

 ロストフラグの育成がなかなか進まなくてもどかしいので、その間にと思って『偽りの仮面』と『二人の白皇』の無料公開版を読み始めたら面白くて、週末やお盆休みを使って一気に読んでしまった。
 両方ともアニメは以前にみていたのだが、特に『偽りの仮面』の方は内容をだいぶ忘れていたし、アニメ化されていないディティールも多かったようなので楽しめた。『二人の白皇』は1年前にアニメをみたばかりだし、ロストフラグを始めるきっかけにもなったのでストーリーはだいたい覚えていたし、特に終盤の展開は演出も含めてアニメは原作をかなり忠実に再現していたことを確認することになった。アニメの終わり方はクオンが夢の中で一瞬だけハクに会えたところが印象に残りすぎて、初代うたわれのような切ない物語だと思い込んでしまって、そこがよかったのだが、落ち着いて原作を読んでみると本当にハクはあの世界にいて、消滅してしまったわけではなかった。ハクオロがそうであったようにいつの日にか娑婆に出てこられるような状態であることがわかり(そしてハクオロの物語もハッピーエンドになってしまった)、ヒロインたちの明るい表情も了解できることになっていた。そのことは拍子抜けなのかもしれないが、まだよくわからない。
 ゲームを読んでみて設定面で面白かったのは、うたわれ世界が遠い未来のことだというのは初代をプレイして分かっていたが、どうやら地図も変形するくらいに遠い未来のことであり、トゥスクルは日本(首都は長野県あたりかな)、ヤマトはロシア極東であることがわかったことだった。ヤマトの帝都はマガダンあたりであり、エンナカムイはヤクーツク、クジュウリはハバロフスク、ナコクはパラナかハイリュゾヴォ、シャッホロはオクチャブリスキーかオゼルノフスキーのあたりか。マガダンを舞台にした日本の作品なんて他にないんじゃなかろうか。帝政時代以来、山師や囚人たちが金の採掘に従事し、今も地下資源は豊富といわれながらも鉄道のない陸の孤島になっているマガダンが、大国の堂々たる帝都になっているというのは面白い。ハバロフスク広島弁の田舎になっているのも素晴らしく、ルルティエの広島弁も聞いてみたかった。もちろん、既にロシアが滅びてからはるか先の未来の話であり、日本がロシア極東に拡大したという設定なので、ロシアは影も形もないのだが、うたわれ世界ではアイヌ文化がベースなので何の文句もない。
 といっても、アイヌ文化のことはろくに知らないのでエキゾチックな固有名詞を楽しんでいた程度であって、うたわれ世界の実際の楽しさの核は、僕にとってはギリシャ神話世界や時代小説世界のようなファンタジーの楽しさにあったと思う。天下泰平の静止した楽園の中の英雄たちの日常と、それを崩壊させる悲劇の叙事詩的な物語のうねり。オシュトルの隠密チームとして日常は、ハクだけでなく白楼閣に集まった面々にとっての幸せなモラトリアムの期間であり、だからこそみんな「あの頃」に戻りたいと願い続けた。そんな「あの頃」の象徴がハクだったのだろう。そして、オシュトルになったハクは帝都奪還に向けた悲劇の物語に突き進んでいく中でも、どうにか白楼閣の「あの頃」の空気を再現しようとしたからこそ、みんながついてきてくれたのだろう。エピローグで彼女たちが統治者としての責務を半ば放棄してハクを探すお忍びの旅に出るのも、そんなモラトリアムの時間を懐かしがってのことだろう。モラトリアムはそこから抜け出したら全く終わってしまうものではなく、人生の折々で立ち返ることが可能なものでもある。反対にモラトリアムの象徴であるかのようなハクも、人知れず弓や剣術、戦術について研鑽していたわけで、自分はオシュトルだ、オシュトルならこうするはずだと自分に言い聞かせて困難に立ち向かい、行きあたりばったり過ぎて余人には真似のできない軌道を描きながら大きく成長していく姿をみるのも楽しかった。あと、コミカルなシーンでもオシュトルの口調でリアクションするのが好きだった。
 主人公はハクなのだが、クオンの目からみたセカイ系的な悲劇の物語という構図にもなっているのだろう。ハクはクオンにとっての自らのモラトリアムをも象徴する存在であると同時に戦闘美少女であり、戦いに巻き込まれないよう自分が守りたかったが、結局は失ってしまった。それにしても、ロストフラグのハクの連撃参の「追加労働手当…」のセリフが、オシュトルに扮したハクにクオンが気づくきっかけになった言葉だったのは感慨深かった。
 今回2作を読んだのはロストフラグに登場するキャラクターの背景を知っておきたかったからというのが大きいが、結局、アニメ版と比べてそれほど知識が増えたわけではないので、その意味ではあまり役に立たたなかった。ユーミュ、ウンケイ、クジャク、クリュー、アースラ、ディコトマ、イヌイなど多数のキャラがよくわからないままで、モノクロームメビウスをプレイする予定もないのでこのままかな。とはいえ、この2作に出てきたキャラたちの性格はよく分かったので、ロストフラグはこれまでより楽しめるかもしれない(エルルゥをはじめとする知っているキャラクターたちにしても、まれ人として突如出現することを個人的にいまいち消化しきれていないが)。
 しかし、いまさらながらだが、2作によって一つのファンタジー世界としての物語がきれいに閉じた後で、ロストフラグは何を語るのだろうか。3部作の叙事詩的な感動を再びつくりだすのは難しく、外伝的な位置づけに終始しそうだし、キャラが多いのは賑やかでよいけれどごちゃごちゃしすぎてアクタとミナギの物語への焦点がぼやけてしまいそうな気もする。ソシャゲーなのでこのまま長く続けばまた違った感慨も生じるようになるのかもしれないが。上に挙げたギリシャ神話や時代小説と違って、うたわれ世界は科学者の箱庭世界であり、SFであり、数学や言語学が未発達の文明においてけもみみキャラが暮らすのを愛でるオタク文化作品なので、何か自分なりの付き合い方を見つけていくことになるのだろうな。

サクラノ刻 (80)

 実況的なだらだらした感想だけになってしまったが、忘れないうちに何か残しておかないと。前作の感想はこちら

泥棒カササギ
 麗華を見つめる静流の物語ということで、報われない思いにうまく落としどころをつけるために芸術作品が嫌味なく使われていて、清々しさでいえば前作の真琴の物語にも通じるのかもしれない。こっちではちゃんと花瓶のイラストを出したのはよかったな。麗華の視点からだと全然清々しくないはずなのだが、最後に彼女も静流の作品でありながら本物だと矛盾したことを叫んでいたので、芸術という現実を超越させてくれるものに魅入られている姿が印象に残ってしまうのだった。彼女たちの物語は後でフォローされるのだろうか。
 一見すると偽物である者の方が本物よりも優れている、というかそういうものしかないくらいだ、というテーマはまだこの後も何度も出てくるのだろうか。
 それにしても藍の声は相変わらず癒されるな。

展覧会の絵
 あいかわらず賞とか天才とかうっとうしいが、生徒たちを通して自分の新しい生き方にゆっくりと思い至るというしんみりとしたいい話だった。芸術家と教師が対立項になっている。でも直哉が自分の美術に対して現在何を考えているかについては一切触れられず、あくまで他人の作品を眺めているだけだ。絵を描いたりしていることは次の章で明らかにされるのだけど。
 それにしても圭の持ち上げぶりが著しい。そんなにすごい天才だったかなと思う。この作品においては天才は周りからの評価で決まるようにみえることが多く、作品自体を作品の中で十分に示すことは難しいから、圭の真っ白なキャンバスのように、マレーヴィチ的な無の周囲にひたすら言葉やキャラクターが積み重ねられ続けているような観がある。
といっても作中作ではなく作品自体の美術は繊細な感じがして、観ていて飽きないところが多い。古典的な美術を題材とする作品をエロゲーというデジタル美術でつくることについて制作者はどう考えているのだろうか。

禿山の一夜
 海辺で心鈴と一緒に海と空を眺めるシーンがよい。ゆっくりとした心鈴の語りを聞いていると、そしてそれを眺める直哉をみていると、最果てのイマの文章の速度を思い出す。空の色をみて感嘆を漏らす心鈴は若き日のベールイのようだ。
 心鈴の目の話。確かに穴のような怖いけれど人形のようにきれいな目をしていて、こだわりを感じるデザインになっていて面白い。それにしても心鈴って何て読むんだろ。
 ルリヲと寧に少し指導。絵画技法のことはよく分からないが、前章を受けて本格的な話もあったりして面白い。賞の話とかよりはこういう話をずっとやってほしい。そのあとで普通の女の子たち3人で和む。
 心鈴の読み方って伏線だったのか…。
 ノノ未に情熱的に褒められて泣いてしまう長山香奈、いいものだ。
 真琴登場。曇りのなかったようにみえた真琴が学生時代を失われた奇跡のように思い出していてしみじみしてしまった。刻ってこういう話が主題になるのだろうか。しんみり。
 寧の話の中に出てくる心鈴の水辺のカキツバタが実際に画面に現れる。油絵の技術的なことなどは分からないけど、ビビッドな色遣いで、ごまかしのない絵を画面に出したことで緊張が高まった気がする。楽しみになってきた。
 放哉の話。芸術家の早世という神話。美のせいで死んだという神話。それにしても放哉役の声優さんの熱演がよかった。BGMも合っていた。訳語もよかった。ディカニカ近郷夜話の話にここまでのディティールってあったっけ。大昔に読んだだけだからなあ。でもゴーゴリなら書きそうなディティールだし、ムソルグスキーが膨らませたのかもしれないし。放哉の話の続き、美が人を殺す化け物だという話、大仰だけどキャラが増えたからか面白くなってきた気がする。
 寧と心鈴の勝負。寧の絵のCGがいまいちでかわいそう。それともじっくりみてみれば僕にもその特殊な色彩を楽しめるのだろうか。心鈴の絵は確かに題材的にも説得的だけど、いわれているように西欧的というか、理性的な部分が先走っていてあまり楽しい絵ではないなという感じだった。そこに寧のドラマを重ねて鑑賞すると味わい深いわけで、文脈への依存が大きくて疲れる感じがある。その絵を前に講釈を垂れるという構図が、制度としての美術のありようを取り入れてしまったこの作品のスタイルでもあるのだろうか。あと、カキツバタの絵もそうだけど、写真を加工したようなタッチなのは何か意味があるのだろうか。
 寧の倉の窓からの空は確かによかった。対比のために対決の時の絵は軽くしたのだろうか。ううむ。それを見て驚く寧のCGもよかった。
 そして真琴のラブコメ的なかけあいはいい味出している。
 でもまたしんみりする。迷う大人である真琴。あんな話の後でのエッチシーンの戯れは物悲しい。でも最後に晴れ晴れとして、直哉との距離を確認することを楽しんでいて、青春時代の後始末。bgmもあって、希美香の屋上のシーンを思い出すような、星空の下で解放された真琴。

きぼう
 真琴の2回目の美術室のシーンはコミカルでよかった。1回目は悲劇だけど云々みたいなやつか。真琴はやりたいことをやっているという感じが自然に出てていい。というか真琴ルートか。またもはじめは真琴ルートなのだろうか。ともあれ、この真琴を見ていると、詩の方をもう一度プレイしてみたくなる気持ちが出てくるな。
 打ち上げ。心鈴の言葉で花瓶を、そして静流と麗華を救済する。それが心鈴の役割。
 麗華訪問。やっぱり愛すべき人間だ。早口言葉「せっけいかささぎずかびん」を何度も連呼し、決して省略したりしない。直哉の突込みもいいので、彼女の魅力は相手によっては発揮されないこともあるのだろう。心鈴の話でまた株が上がる。夢があった人間、努力した人間、過去があって現在があるという感覚。真琴の場合と同じだ。
 昔の夢を語る麗華。麗華もである。昔夢を抱き、そしていま生きている人たちの生きざまを描く作品だなあ。
 真琴とエッチしているうちに真琴エンドになってしまった。でも真琴ルートという感じではない。実験的な構成なのかもしれない。人生は予想しなかった方向に転がっていくものだからな。いつでも周縁にいた真琴が幸せを手に入れるのをみて、真琴の嬉しさが伝わってくる。でも直哉の物語は終わった感じがしないし、その後の話があったりするのだろうか。なければ妄想するだけだが。
エンディングムービーのシルエット風の絵巻物もよかったな。

詩人は語る
 心鈴ルートに入るとなんだか心鈴が普通に直哉に好意を抱いて結ばれてエッチして、というふうに「普通」のエロゲーになってしまった感じがする。それまでの芸術談義や天才芸術家としての生き方、ハイカルチャーの人々を描く作品がエロゲーの重力にからめとられていくようで違和感がつきまとう。それでも絵がきれいで声が可愛いこともあって結局は楽しんでしまい、やはり自分はエロゲーが好きなので何の不満があろうかということになった。すかぢ氏のツイッターアカウントをフォローしていると、考えていることをうかがえる情報が入ってきてしまい、キャラクターとの恋愛に没入するにあたっては大きなノイズになるのは失敗だったが、それでも展望台やエッチシーンの心鈴の絵の一本筋が通ったような美しさにハッとしたおかげでどうにか没入することができた。絵師さんのアカウントをフォローしていなくてよかった。
 エッチシーンのはさみ方は真琴ルートと同じか。それはともかく、心鈴シナリオでファインアートとエロゲー美術、天才と凡人オタクのテーマを入れてきたのは意表を突かれた。気楽なコメディ風だったので力を抜いて楽しめたが、目新しさはあまり感じなかったかな。
 心鈴のふたなりエッチシーンは素晴らしかった。ヒロインとのコミュニケーションとしても、知的好奇心の刺激でも、絵の完成度の高さでも、ぴくぴく動く立ち絵の遊びでも、くどさはなくても全力を出してきている感じがして素晴らしかった。エロゲーの進歩を感じたし、20年後にもこのシーンを楽しんでみたいものだ(僕はもう高齢者になっているが)。ヒロインの声しか聞こえないのがエロゲーのよいところなのだが、心鈴の優しい声による優しいおしゃべりを優しいBGMに乗せてずっと聞いていたくなるシーンだった。ここがこの作品のクライマックスでもいいんじゃないの?
 このまま穏やかに終わりか。まだ他に重たい展開のルートもあるんだろうな…
 心鈴のもう一つのルートを探しているうちに、寧との勝負の場面をもう一度読んだ。今度は心鈴の作品「イワン・クパーラの夜」をもう少し素直に、寧を表現している絵としてみることができたような気がする。赤い血のようにみえる青とか、青が大半を占めているとか、文章と表示されている絵はやはりかみ合っていないようにみえて、表示されている絵は実物なのか、それとも象徴的なイメージ画なのか、相変わらず判然としないのだが、それでもあの瞬間の寧を表している作品としてはいいかもしれないと思った。砕かれたガラス片としての寧、苦しみあがいていると同時に冷たく暗く光っているような、孤独な錬金術師の工房の儀式のようにも、その祈りのようにもみえる絵であり、美しさがある。寧の作品「限界の空」もいいように思われたが、構図的にどうもあれは一部のトリミングであるような気がする。全体を表示していないのはなぜか。もう少し青い色の動きを見てみたい気がした。

モンパナシュ
 いまさら圭の子供時代の話をやるのか。しかも一人称でじっくりと(声の感じから卓司様のモノローグのようで最初は少し笑った)。まあこれまでの流れから避けては通れないのだろうけど。
 正直、『詩』では主人公の友人キャラ程度の認識だったし、圭の絵画についてもあまり技術的なことも含めた具体的な描写はなかった気がするので、この『刻』での持ち上げられ方に違和感があった。今読み返せば違うのかもしれないが。
 直哉の『火水』も何度かこれまで言及されていたのが実際に絵として登場したのは感心した。こういうところも手を抜かずに頑張っているのはうれしい。でも、文章の説明で「コクピットまで精密に描き込まれている」とあったのはCGからは判別できないから、やはりこの絵も正確なものではなくてイメージ画なのだろうか。どちらでもいいくらいにしっかり作られた絵のようにみえたが。
 麗華がやっぱり麗華で嬉しかった。
 健一郎の脳科学と芸術の話が長すぎて疲れた。特に目新しいことでもなかったし。でも『櫻日狂想』も実際の絵が表示されたのはよかったな。逆に圭の「血で描かれたような絵」という表現は具体性がないまま繰り返されすぎて擦り切れ、僕の美術の素養が貧弱なこともあり、ぼんやりしたことしかイメージできない。技法的な意味ではないのだろうけど、ロマン主義的な写実主義のイメージだ。それともムンクの叫びのようなもっと露骨なやつだろうか。向日葵の断片イメージはゴッホの絵みたいだった。
 圭と心鈴の出会いの話はひたすらさわやかだったな。エッチシーンもなく、中断されることなくさわやかな話を楽しんだ。話だけでなく、絵も爽やかだった。最後の覗き込む心鈴も爽やかできれいだった。

どこからきて…
 ここから里奈と優美にいくのか…。
 絵というか、彫刻の写真のようなものが出てきた。イメージ図なのかな。エロゲー作品中の絵としては、見た瞬間に勃起してしまうような性的な絵は、三次元に飛び出してしまうのか。まあ性的とされるクリムトの絵も立体物めいた素材感があるからなあ。
 優美に襲われて悪態をつかれ、ちんこから少し出血するというのは、ユーザーの微妙な願望をうまくとらえているようで感心した。射精はしたくないけどくわえられて悪態をつかれ、その後でしんみりしてみたいというか。前作でもそうだったけど味のあるキャラだ。
 ムーア財団のパーティのシーン、「世界的な芸術家」の美少女が次から次に「ちょっと待ったあ」という感じで感動の再会もなく名乗りを上げてきて、しかも言っていることは至極真面目で10年越しの燃える展開なのだから、シュールすぎて笑いがこみあげてきてしまった。エロゲーっていいね。とはいえ、これはバフチンのいうドストエフスキーのカーニバル的時空間の手法をわりとそのまま使ったようなシーンなのであり、考えてみれば芸術界をさまよう「亡霊」云々の言及とかからも、この作品はけっこう『悪霊』のフォーマットを使っているようにも思えてきた。なかなか動かない直哉はスタヴローギンで、死んでしまった圭はシャートゥシカで、健一郎はステパン先生(?)で、といった具合に。ヒロインは対応しないだろうから、エロゲーとしての重要な部分はドストエフスキーとは関係なさそうだけど。
 大会が開始。肝心の絵は出てこないけれど読んでいて楽しい。坂本がいちいち実況キャラになって出てくるのも楽しい。香奈の心意気も、秘め隠された気持ちもよい。気絶する放哉先生も味わい深い。久々に出てきた里奈は正直なところどんなキャラだったか覚えていないし、そういえば直哉の右手の話なんてのもあったっけ、覚えていないけど、という感じなのだが、なんとなく雰囲気で楽しんでいる。前作を再プレイしてから始めた方がよかったかな。でも、試合前の一瞬だけの里奈との会話、一瞬だけだからこそ印象的だ(CGも気合入っていて素晴らしい)。そういうのを全て後方から見ていないといけない藍も大変そうだが。
 里奈と香奈の試合はすっきりしないな。前作のブルバギのパフォーマンスのエピソードもそうだった。大衆の熱狂っていうが、そこまで熱狂するものなのか、審査の時間の間にも冷却が終わっちゃうほどのものような気もする。絵というよりは香奈の個人的な思い入れに負いすぎている作品であり、絵(赤い円)よりは彼女そのものを支持することでしか評価できないように思える。健一郎や直哉の逸話として何度か出てきたが、大きな円が描けたからってそんなにすごいのかな。単なる技術的な問題ような気がするが。なんか里奈も見せ場がなくてかわいそうだったな。彼女の絵はCGで登場したけど、正直なところ、ファイナルファンタジーのイメージ画か何かみたいな印象で、これが世界の画壇で認められる画家か、うーんという感じはあった。もう少し細部を拡大して鑑賞してみたかったかな。しかし、里奈と優美のエピローグ的なエッチシーンを見ると、やはり里奈が試合で描いた絵も優美と自分のことを題材にしたものだったのかな。優美ののんきなところに救われる。30手前であのリボンをつけているところにも。
 香奈と直哉の試合。なんか美術というより武道の試合のような体育会系の展開になってしまったのだが(画家の自伝とか読んだことがないので描くことの身体性についてはあまり関心がなかったということもある。この点については、少なくとも20年以上積読になったままのベヌアやオストロウモワ=レベジェワの回想録やヴルーベリの評伝を読んでみないと自分には何も言う資格はないかもしれない)、香奈が幸せそうでこちらも幸せになった。どんな絵を描いたのか見てみたい気もするが、それよりも幸せな香奈を見ていたい気もある。寧と同じで、一度こういう体験をしたのなら、リハビリが終わって復帰すれば、これからはパフォーマンス画家ではなく自分が本当に描きたい絵を描く画家としても花開いていくのではと楽しみになる。そしてエピローグ的な病院での香奈が楽しい。楽しいけど真剣なのもいい。直哉や心鈴といった天才キャラたちは、その天才設定ゆえに「本気」を出せばいつでも名作を生み出すことができる安心感があるが、この試合で香奈に起きた奇跡はまさに奇跡であって、積み重ねの上に起きたことではあっても、奇跡を起こせないはずの凡人が奇跡を起こすという、作者特権による物理的な掟破りが発生している。このように論理を捻じ曲げた箇所はこの作品ではここだけだった気はするが(茶番じみた印象を避けられなかった次の試合を除けば)、ここでの香奈はそれに見合う魅力的な芸術家だったと思う。
 ここがピークだったのかもしれない。稟との試合は稟の見せ場がなくて、絵もまともに表示されなくて、試合としては盛り上がらなかった(ルールもこれまでとは違ってライブペインティングではなくなった)。弓張の土を使った直哉の絵の話に終始。もう少し稟や雫と話をしてほしかった(後で特典小説を読んでみるが)。展開も大味で、みんなが直哉の絵を待っているからがんばれがんばれみたいな流れになって、読み物としての面白さはあまりなく、メッセージ性がむき出しのテクストが続いた(勢い任せの不自然な文が多く、てにをはとかもけっこうおかしかった気がする)。ここにきて直哉の音声が出てきて、しばらく聞いていたけど、途中で耐えられなくなって切った。直哉の絵が完成するとなんかムービーが流れた。正直なところ、ごちゃごちゃしていて目が滑った。こうするしかないのかもしれないけど、ここまでのやや上滑りした流れの後で出てきても、少し引いた見方になってしまう。ただし、このチャプターでは、圭の最初のヒマワリの絵が離れの建物に飾られているという話と、麗華の味わい深さはよかった。
 明石についても一言。直哉のドキュメンタリーを長期間にわたり密かに撮り続けており、AV監督で糊口をしのぎつつも一度だけハイカルチャー作品を出して興行的に失敗、その後はAVに復帰して大儲け。これは無粋ながら何だかすかぢ氏の代行者が作中に登場しているようにもみえてしまった。そう考えれば、明石の荒唐無稽な立ち居振る舞いと、シナリオが異質にデフォルメされたドタバタ展開になってしまったことも許せるかもしれない。明石(とトーマス)の登場は物語的には全然必然性はなく、削ってしまった方がむしろよさそうなくらいなのだが、だからこそまあ好きにしてくれというか。
 ストーリー上の盛り上がりにいまいちついて行ききれない形になってしまったが、これは僕が創作者側の視点に立ちにくいことが関係しているようにも思える。僕は単なる素人の鑑賞者なので、絵を見る視線は描くことの身体性をとらえきれずに、絵画の表面をあっさり滑っていってしまう。作品を生み出すに際して、構図を考えたり絵の具を混ぜ合わせたり、一筆ずつ塗り込んでいったりして、膨大に時間と労力がかかっていることに思い至らず、ぱっと見の印象だけで観た気になってしまう。絵画に限らず、創作にかかった時間と鑑賞にかかる時間は同じになることは普通はないのだけれど、創作の経験が乏しいので、その非対称性に鈍感過ぎになってしまう。これは僕の根本的な薄っぺらさの問題でもある。
 エピローグ終わり。きれいに終わったな。EDムービーも雰囲気がとてもよかった。無様な社会人としては居心地の悪い話もあったけど、借金してても健康でいることの方が大事という藍の言葉に癒される。

凍てつく7月の空
 確かに本編に含めるべき内容ではないし、稟が何を考えていたのかを想像させる話だったし、悪夢のような神隠しというオカルト要素と人生を生き直すという創造と禁忌のテーマを扱ったそれなりに面白い話ではあったのだが、僕が読みたかった稟の話がこれかといわれると困る。本編では稟の描写は皆無で、エピローグでリタイアして落ち着いていた姿しかなかったので、稟の物語は『詩』で出きっていたということになってしまう。『詩』の稟ルートを覚えていないのだが。吹とか完全に忘れているし。予告された次回作では今度こそ稟の物語(とその作品)が描かれるのだろうか。これまでの流れからするとその確率は低そうだ。
 あと、細かいことだが、文章が荒れていてかなり読みにくかった。指示代名詞がいい加減だったり、文と文のつながりがおかしかったり雑な飛躍があったりして、意味がとりにくい箇所が多かった気がする。本編にも多少その傾向はあった。これはライターの感性の問題でもあるので正解はないのかもしれないが、制作期間が長かった作品なのだから個人的にはもう少し丁寧で神経の通った文章を書いてほしかった。繰り返しになるが、「天才」とか「芸術家」という言葉を安易に多用するあたりからして文章の信頼性が少し下がってしまうところがあった。

稟と雫と口と口
 小説でも本編でも語られなかった、直哉との試合に出品した作品を制作するまでのエピソードで、その意味では本編であまりにちょい役だった稟と雫を補完する興味深い内容だったのだが、稟の天才性のテーマについては、ファンタジー的な小道具によって自分の身体を犠牲にしながらほぼ自動的に作品を生み出していたという、雑にいえば最悪の設定を開示されてしまった。しかも、「墓碑銘の…」を生み出してからろくに進化していないどころか、それに劣る作品ばかりで足踏みしていたという(進化していたとフォローされていたようだが、具体的な描写は何もなかった)。最後まで不遇な扱いだった。『詩』の個別エンドが一番救われていたのかな。

A first-class crook
 小粋なエイプリルフール作品だった。

 

 最後にあらためてまとめておくと、美術をめぐる様々な人生が交錯する物語としての本作は読みごたえもあって十分に面白かった。前作からすると期待以上だったといってもいい。作中に実際の絵画作品のCGが多数出てきたのもよかった。描いたすかぢ氏は大変だっただろうが、これは作品の質を維持する上でどうしても外せないことだったと思う。
 その上で、美術というよりは美術制度に物語の比重が置かれすぎているようにも感じた。確かに画家は賞を取らないと画家として生きていけないのが現代なのかもしれないし、画家にとってはイベントといえば展覧会なのかもしれないのだが、ちょっと窮屈な感じがする。絵を描くのが楽しくて仕方ない、楽しいから描いているんだよ、というタイプの画家が登場せず(健一郎がそうなのかもしれないが最強設定のイケメンキャラなので面白みがない)、仮に登場したとしても子供の遊びとして放哉に一蹴されてしまいそうな雰囲気であり、画家は描きたいからではなく描かざるを得ないから描く、苦しいけど描く、異能バトルにおける相手や観客を圧倒するための技として描くみたいな方向性だったのは少し残念だった。実際にはみんな楽しんで描いていたのだろうけど、その楽しさはあまり伝わってこなかった気がする。ただし、その楽しさは文章では表現されていなかっただけで、作中の作品CGやヒロインたちのイベントCGなどをみればやはりエネルギーをもらえるところはあるので、その意味で美術の楽しさが伝わる作品になっている。危ういバランスだと思うが。
 エロゲーとしては、ヒロインとの物語としてはどうだろうか。すべて読み終えてから振り返ってみると、美術の物語としてほどの異色さはなかったと思う。大変失礼な言い方だが、みんな普通に魅力的なヒロインだった。でもヒロインとの物語はあくまで美術の物語の枠内でのエピソードであり、恋愛を通じて新たな地平に連れていかれるようなことはなかった。特に藍については、CVが澤田なつさんであるだけに、ヒロインとしての掘り下げがあまりなかったのはもったいなかった。ここのメーカーでは基4氏の絵が一番好きなので、寧ももっと見たかった。特典付きは寧のタペストリが付いているのにしようか最後まで迷ったが、構図が下品だったので泣く泣く諦めた(高島ざくろさんの抱き枕カバーは素晴らしかった)。あと、繰り返しになるが、中村麗華はよかった。あの性格でまじめで地味なアルヒヴィスト(資料収集家)であるというものよい。本筋のエピローグでは藍と結ばれていたが、心鈴と結ばれて麗華が自分に似た孫(!)と遊んでいるのを心鈴と一緒に見ていたい(そして心鈴にその絵を描いてもらいたい)。

手の上の永遠

 我ながら小市民過ぎて情けないのだが、最近脈絡もなく腕時計が趣味になりつつある。といってもかけられるお金はろくにないので、ヤフオクを見て気に入った腕時計が安いうちに入札しておいて、いずれひっくり返されるまでの間は自分のものになる可能性があるという夢をみるという、ささやかすぎる趣味だ。万が一落札してしまった場合に備えて、入れるのは3500円くらいまでで、相場的にひっくり返されるのが明瞭な場合は5000円くらいまで入れてみる。これが僕の金銭感覚だ。そして僕という人間の価格相場なのかもしれない。
 もう3年くらい、会社にほとんど行かない生活をしており、腕時計は必要ないため、昔2000円くらいで買った腕時計は電池が切れて止まっており、面倒なので電池交換もしていない。革バンドがボロボロで、本体も防水仕様ではない真鍮製らしく、腐食して銅像みたいに青くなっているのをそれなりに気に入っていたのだが、もうつけることはないだろう。
 そして先日思い立ってヤフオクを眺め始め、ついに買ってしまったのが1971年製のセイコー・ジョイフルだ。未使用の自動巻きのデッドストック品というのがみそで、製造から50年間使用されなかったのが今動き出したということに小さな喜びがある。もともと手が小さくて腕も細いので(15.5~16cmくらい)レディースの腕時計を探していたのだが、自動巻きというのは1970年代に後発のクオーツに駆逐された技術で現在は女性には不人気らしく(分厚くなるので)、古いデッドストックもたまに安く落札されることがあるらしい。僕は送料込み3300円くらいで落札した。それからいろいろセイコーの歴史を調べたり、他の自動巻きメーカーの時計のデザインをあれこれ見たりしているうちにだんだんはまっていった。自動巻きは電池交換が不要なので、自分の手の上に「小さな永遠」があり、自動巻きというのは概念としてすでに美しいが、さらにデザインが美しいものであればそれはもはや「完成された美」とも呼べるものであることが気に入っている。時刻の正確さでは電波ソーラーやクオーツに劣るが、今の時代、正確な時刻はパソコンやスマホで簡単にわかるのだから、腕時計にそんなものは求めなくていい。外でつける機会が少ないから人の目を気にしないくていいのもよい。でも、そんな自動巻きでも10~15年くらいでオーバーホールをしないと消耗するということを後から知ってちょっと失望した。潤滑油が劣化したりするらしい。永遠にもメンテナンスは必要なのだ。1971年製のセイコーも本当は使用する前にオーバーホールすべきらしい。とりあえず使ってみて、ダメになったら考えることにしたい(本当はダメにならないためのオーバーホールなのだが)。ちなみに、ジョイフルは毎日30秒くらい早く進んでしまうが、これはオーバーホールとは関係のない標準スペックらしい。
 しばらくして今度はあまり買う気のなかったセイコー5の1998年製海外モデルを送料込み3200円くらいで落札してしまった。今度は男性向けで、ダイアルが薄いシャンパンゴールド色なのでおっさんくさく、ちょっと成金くさくすらある。でも落札してしまったのでこれも可愛がって、自分なりの美を見出していくしかないと決めれば、それなりに愛着を持てる。何しろ今の僕はまがうことなきおっさんなのだから、おっさんくさい腕時計は理論的に似合うはずなのだ。それにおっさんにもいろいろあるはずだと思いたい。腕時計は中古だけど重曹水に浸けたら大量の汚れが落ちてピカにピカになった。何しろレディースと違ってダイアルが大きく、デザインもシンプルで非常に見やすい。セイコー5というのは技術的には既に完成されてしまった自動巻きを大衆化したモデルらしく、車でいえばカローラだとか。面白味はないかもしれないが実用的だ。僕が買ったのは対して人気もないマイナーなモデルらしく、ようやく見つけた海外のレビューではデザインがロレックスのオイスターパーペチュアルを彷彿とさせると書かれていて、成金時計のパクリか、とちょっと白けたが、無駄のないデザイン自体に罪はなく、結構気に入ってきている。
 そんなわけで、今では両手に腕時計を巻いて意味もなく眺めたり、耳に近づけてチッチッチッチという小さな駆動音を聴いてみたり、蓄光して暗闇で光るのを子供に見せて驚かせたりしている(赤ちゃんなのでいちいち喜んでくれる)。そして今日も夜な夜なヤフオクを見たり、同じものがメルカリにあるかチェックしたりしている(メルカリはオークションではないのでスリルはないが、こっちの方が安い場合もある)。もう落札してもつける腕はないのだが、今はダイバー用が気になっていて、ダイバー用腕時計は大半が電池式なのだが、時折自動巻きの、しかも小径のものが出るので油断できない。ダイバー用腕時計は僕が高校生くらいの時に買った腕時計の思い出に引きずられている部分がある(それより前に初めて買ったのは近所の店で安売りされていたオリエントのごつい腕時計で、中学生の細い腕には全く似合わず失敗だった)。Oceanusって書いてあった気がするが、たぶん3000円くらいで買った安物で、青いダイヤルがきれいで見とれていたことを覚えている。周りの枠がダイバー用らしく動くのでよくぎちぎち動かしていたら、いつの間にか動かくなった。それ以降は腕時計に対する関心を失って、無難で安ければ何でもよくなって今に至っていた。というわけで3本目のダイバー用腕時計は僕にとってのリベンジになるはずなのだが、予算が3000~4000円だとちゃんとしたメーカーの自動巻きはなかなか見つからず、探索を長く、それこそ永遠に楽しめるのかもしれない。

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うたわれないもの

◆元旦は親が実家に戻り、久々に子供と二人だけの日だった。おやつにミカンを持って、遠くの大きな公園に行って遊ぶなど。途中で神社の前を通ったら長い行列ができていた。まだ言葉を話せず、「こんにちは」すら言えず、友達など一人もおらず、運動神経も発達していないよちよち歩きなので、公園に遊びに行っても他の子供たち(特に年上)がいると委縮してしまい、あるいは何が起きているのか理解しようと無言で立ち尽くして一生懸命見ているのを横からみていると、(はるかに歳をとってからだが)ぼっちだった自分を少し思い出して、人生はつらいことばかりだなあと思ってしまう。子供にとっては僕のそんな情けない感慨などどうでもよく、人間よりもむしろ自動車や金属などの工業製品に目を引かれる時期なので遊具の金属部分をコツコツ叩いたり、空の飛行機に目を奪われたり、月がまだちゃんと出ているか何度も確かめたりとそれなりに忙しくしていて、救われる気もする。
うたわれるものアニメ完結。この第3部は全編通してBGMが第1部のものが多くて懐かしかったけど、最後の2話は第1部の中でも特に印象に残っていた曲(ハクオロが消えて仮面が落ちていくときのBGM「子守唄」)とか、最後の春が来たときの感じとか、クオンの心の動きとか、第1部を思い出させる流れが丁寧に描かれていて印象深かった。待ち続けたエルルゥが最後に幸せになれたのもよかったし、クオンたちにもその可能性が残されたのもよかった。PSは持っていないので第1部しかプレイしなかったが、いいアニメだった。というかやはりBGMだけでうたわれをやっていたあの頃を思い出せて懐かしくなってしまった。今日は子供と二人だけで家の中が寂しかったこともあって、うたわれを思い出しながら子守唄代わりに「子守唄」を何度も歌ってしまった。
◆最終話といえばアキバ冥途戦争も終盤に嵐子が本当にいなくなって、最終話はなごみに焦点を当ててテンポよく進め、最後に時間が一気に2018年までとんでと、素晴らしい出来だった。この最後に持って行くためのシリーズだったのだろう。詳しくは知らないけど、やくざ映画のフォーマットでストーリーが組み立てられていたからか、特に最終話は引き締まった作品になっている感じがした。
◆しかし、先日ブックオフに子供の絵本を買いに行ったときについでに買ってみた高垣彩陽さんの『indivisual』というアルバムを聴いてみたら、夏色キセキの紗季のイメージの歌を期待していていたのだが、全体的に大人ボイスの壮大な感じの歌が多かったため、ヒーラーガールの師匠のイメージ、というかむしろアキバ冥途戦争の店長が歌っているイメージが浮かんできてしまって仕方なかった。
◆何事も中途半端に散らかして生きていることを実感させられている中年男性であるが、オタクライフにおける2022年の中途半端の一つは、小鳥猊下さんのツイートを読んで自分にとって2つ目のソシャゲーになる原神を始めたものの、十分な時間を取れず、グライダーみたいなやつで空を飛ぶアクションミニゲームをクリアできずに早々にやめてしまったことだ。FPS視点のRPGをやるのは初めてで、チュートリアルすらまともに進められず見知らぬところを何時間も意味もなく放浪してしまい、画面酔いして気持ち悪くなった。エッチなイラストで中国製の骨太な物語を楽しめるとのことだが、ほとんどスタートラインにすら立てずに終わってしまい悔しい。FPSのゲームをやってみた感想としては(当然のごとく主人公は女性キャラ)、負担が大きいなということになった。あと、公園でよちよち歩きをする子供を追いかけていったり、おもちゃの車に乗ったのをふらふらと押していくときの視点の動きがFPSだとわかった。
◆嫁がクリスマスプレゼントの交換をしたいというので予算を1000円以内ということにして、彼女が療養から一時帰宅する正月明けに交換することになり、僕は先日仕事の合間に新宿の東急ハンズに立ち寄ってみたのだが、すべてがつまらなく感じて何も買わずに帰ってきてしまった。結局、ダイソーで刺繍糸を買ってきて、ネットでやり方を調べて簡単なミサンガを作ることにした。原材料費は30円くらいだ。ハチナイの本庄先輩を少し思い出したが、そういえば小学校か中学校の頃、ミサンガが少し流行って、編んだ人とかいたのを思い出した(僕も編んだことがあったかもしれないが、あまり覚えていない)。柄は以前から行こうと計画していたグルジアの国旗だが、十字架模様を出すのが難しくて挫折し、一番シンプルで細いものにした。それなりに集中して手を動かして無心になっていく瞬間がある感じが、休暇中に暇な時間を見つけてやっていることもあり、素朴ながら美しい模様が出来上がっていくのを見ながら、これは東方シューティングと同じだと思った。東方が手芸と同じだといってもいいのかもしれない。
◆アマカノSS+の感想メモをいったん出しておく。最初に読んだ雪静シナリオの感想は特に書かなかったか、だいぶ前だったので書いたけどどこかにやってしまったのか覚えていない。前作のときにだいぶ書いたからいいかなと…。奏シナリオだけで約半年かかってしまったので、全部終わらせるには最低でもあと1年かかるかもしれない。他にエロゲーをあまりできなかったこの1年でさえこうだったので、他にやったりしていたらあと2~3年かかってしまうかもしれないと思い、とりあえず出しておくことにした。断片的な感想で、同じことを繰り返しているようだけど気にしない。

 

アマカノss+ 奏シナリオ
(2022.06)
 奏シナリオを始めてみた。社会人になって長い時間が経ち、高校を舞台にした標準的な設定のエロゲーにはついて行けないと思う時がある一方で、社会人物の作品だとやっていて仕事を思い出してしまって嫌だなということもある。主人公が就職して、これから社会人として人間関係を築いて行ったり、仕事で社会が成り立っていることに気づいていったりするのを見ると、それがきれいごとであったりしても、自分にとっては高校時代と同じく大昔のことであったとしても、ちょっと気が重くなる。
 奏は可愛らしくて理解がある善き女の子として描かれている。新婚旅行が隣県の温泉宿に自家用車で行くことで、途中で車中泊をしたり、公園でキャンプをしてインスタントラーメンを食べて喜ぶお嫁さん……。おっさんの美しいファンタジーなのかもしれないが、なんだかそういうのに一向に関心がない現実のお嫁さんと照らすと、よい意味で切なくなるものがあるな。

 

(2022.07‐08)
 背景がすごく色鮮やかで、祝祭感があるのだが、人はいない。世界に祝福されている、世界は明るい、という感覚が新婚旅行や新婚生活のよさであり、二人の幸せが世界の明るさと共鳴し合っているみたいで染み入るものがある。話自体はまったくつまらないのだが、高揚感と多幸感に感染させられる。Pretty Cationと何が違うのかよくわからないのだが、全く違うポジティブな波動を浴びせられる。やっぱり絵の違いが大きいのかな。奏をいろんな背景に場所に連れまわして、その立ち絵を眺めるだけで、いいなあと思ってしまう。日本に本当にこんな場所があるのだろうか。日本海側なのかよく分からないが、森の木々の色も、海の色も鮮やかすぎて、何か非現実的な世界に踏み込んでしまったように感じる(実際に現実ではないのだが…)。ホラー展開とか不条理展開とかになってもおかしくないくらい、世界が明るすぎて(でも世界は静か)、奏が幸せすぎる。これは小説で文章として示されても頭でしか理解できないだろうけど、この作品だと色と奏のおしゃべりで感覚的に表現され、感染させられるのがすごい。いやこれは抜きゲーなんだけど、思わず新婚とか結婚の幸せとかについて考えさせられてしまう。深さとかそういうのは全くないのだけど、ガツンとくる。新婚旅行は日常の社会性から解放されて、旅行と実存(自分探し)みたいな内面的問題からも解放されて、好きなように動き回っても、何もしないくてもよく、そういう無の時間を二人で軽やかに楽しむという稀有な経験だ。別に新婚旅行じゃなくてもそういう経験をできる人もいるだろうけど、僕は旅行というと何か貧乏くさく有意義さを求めてしまって、価値あるものを見て勉強しなきゃとか考えてしまうので、この新婚旅行のポジティブな虚無がすごいものに思えてしまう。二人で初めてのように世界を見て回るけど、その世界は車で行ける隣の県だったりして、世界とかいってもただの行楽地で、虚無を楽しむとかいってもただの消費行動なのだが、そうしたものの描かれ方、僕の目に飛び込んでくる光の具合によって、何やら世界の秘密を垣間見たような気にさせられてしまう。この新婚旅行のエピソード、終わらせたくないなあ。


(2022.09)
 奏シナリオの新婚旅行編が終わり。幸福感のある長大なエッチシーンに浸っていると、時間の感覚が消えて、自分が無限に引き伸ばされた無時間的な幸福の中にいると感じることがある。イーガンの『順列都市』か何かでそういう描写があったような気がするが、エロゲーのエッチシーンは没入感が高いので段違いだ。実際に時間は引き伸ばされていて、現実のエッチではあれほど長大な喘ぎ声や長時間の絶頂はおそらく危ないクスリでも使わないと不可能であり、そういう意味ではエロゲーのエッチシーンはドラッグと似たような効果があるのだろう。プレイし終わると没入していた場合は結構時間が経っていることも多い。その意味ではエロゲーは決してストーリーパートや日常シーンが特殊なのではなく、エッチシーンこそがエロゲーエロゲーたらしめている。
 エッチシーンとはまた別の形で、物語としての新婚旅行の特殊性を改めて感じる。以前に書いたことの繰り返しになるかもしれないが、奏との新婚旅行のシナリオを読んでいると、エロゲーの最終地点、物語の袋小路に到達した感覚がわいてくる。これ以上何も考えなくていい、苦しまなくていい、先に進まなくていい、ここにずっといればいいじゃないか、という地点にいるという感覚。新婚旅行には何の課題も設定されず、問題も起きず、ただ心地よい小さなサプライズ(日常ではなく旅行なので)が順番に起き続けるだけだ。急いでもいいし、急がなくてもいい。何か起きてもいいし、起きなくても後ろめたいことはない。新婚旅行で見聞するものに高度な希少性や特殊性は必要なく、見聞から何かを学び取る必要もなく、自分磨きや自分探しをする必要もなく、二人で気ままで快適な時間を共有できたねという認識が残ればよい。新妻は自分を愛しており、自分もその気持ちに応えられる。他には何もしなくていいので、応えることをゆっくりやるだけの時間があり、若さもある。そういう時間は社会性に縛られた人生の中ではかなり特殊であり、そこだけが人生から切り離されて幸せな思い出になることも不思議ではない。新婚旅行ではなく単なる旅行でも似たようなものを得られるとは思うが、人生で一度きりの祝福された旅行としての新婚旅行はやはり特殊だと思う。大げさに言えば、それ以降の旅行は新婚旅行の影を追い求める旅行になるのかもしれない。実際には新婚旅行は相応のお金や時間というコストを支払って手に入れるものであり、生産活動の一切ない、純粋な消費活動に後ろめたさやストレスを感じないことは難しいのだが、それを踏み越えたときに不思議な快感がある。そういう意味で旅行とはエロゲーと同じくらい危険な代物であり、新婚旅行を描くエロゲーはその危険な魅力を凝縮しているのかもしれない(ちなみに、田中ロミオの『終のステラ』の参考文献として最近読んだSFノードノベルであるマッカーシーザ・ロード』は、ここでいう「旅行」とは何もかも正反対の「旅」で、これはこれで優れた読書体験になった)。この作品以後も幸せな抜きゲーはつくられ続けるだろうし、成熟しすぎて腐乱する手前まで来たように感じられるこの作品のクオリティも、いずれ技術的に乗り越えられていくか、あるいはもう乗り越えられたのだろうが、今ここでたどり着いた永遠は失われない。

 

(2022.12)
 約20年ぶりに親と同居の状態に戻ってしまい、隣の部屋で寝てたりするので、リラックスしてエロゲーを楽しめない生活が続いている。仕事も生活も簡単ではない状況が深まり、心のおもりが重くなってエロゲーなんてやっている場合でなくなればなくなるほど、砂漠の旅人がありついたひと口の水のように沁みわたることもある。この作品で描かれているような甘くてエッチで幸せで、ついでに仕事もうまく行っちゃっているような新婚生活。僕の現実でもありえたのかもしれないけど、どこかで選択肢を間違えてしまったのか、気づくとそういうのはないまま中年になっていた。結局自分は人生をなめていて(最近もテレワークで仕事しながらハチナイやったりしてる。エロゲーをプレイできないのでその代償行為なのかもしれないが)、死に物狂いで努力したり、本気で自分の人生の計画を立てて実現に向けて一歩ずつ進んで行くということをしなかったから、その時々の運に任せて何事も中途半端なまま流されて生きてきて、いつの間にか責任たちに追い詰められていって、場合によってはその責任たちと心中するかもしれないようなところまで来ていた。これで人の親とかおかしいのだが。中年の危機かも(と書くとあほくさい感じがしていいな)。しかしながら、そういうときに、まったくありえないんだけど、ありえたかもしれない幸せとしてこの奏との新婚生活を体験することで、自分の人生感覚を補完し、幻肢でバランスを取って倒れないようにする。本当に大した内容も物語もないんだけど、そういう実用性はある作品なんだよなあ(賢者モード)。自分の人生、5年前のあの時、7年前のあの時、12年前のあの時、いや、20年前のあの時にああしていれば、違っていたんじゃないのか。もちろん違っていた。でもその代わりに今手にしているこのささやかなものは手に入らないだろう。今より悪くなっていたかもしれない。中年になっても月4万9000円の狭いアパートで20代みたいな独身暮らしをしながら、つぶれそうな零細企業の社長をやらされていたり、あるいは愛も喜びもない無言の結婚生活を送っていたり、あるいはやけくそになってロシアに渡っていたりしただろうか(社長については可能性が少し高くなってきていて気が重い)。それとも大企業の中で人に揉まれながらすり減っていっていただろうか。そのどの選択肢にもアマカノの奏シナリオを楽しんでいる自分がいて、別の選択肢に想像を巡らしたりしているのだろうか。どれがいいのか、なんて問題はいまさら存在しないのだけど、布団に入ってとりとめもなく考えているうちに寝てしまう。そしてまた次の日が始まる。

傷物語

 『傷物語』をやっと観終えた。いろいろと過剰な作品だった。既にきちんとした考察を読んでしまったので自分にいえることは断片的な感想以上のものではないのだが、一応感想として残しておこう。

  • シネフィルの人たちの基礎教養であるヌーベルバーグとか1960年代の日本の実験的な映画とかほぼ何も知らないので、何か引用されていても漠然とした違和感しか感じ取れなくて申し訳ないが、フランス映画とかには興味がないので仕方ない。
  • 劇場版アニメの特権というか、グロテスク表現とか残酷表現に手加減がなくて、一歩踏み込んだ表現の爽快感がある。アクションシーンでは阿良々木君の人間離れが著しく、映像表現もストーリーテリングから離れて純粋に表現の限界を試しているようなところがあって爽快。この点においては、枯れて寝ぼけたCGに堕してしまったかのようなシン・エヴァよりも先に進んでいるように思った。シン・エヴァにもこれくらい頑張ってほしかった。
  • エヴァといえば、ヒロインの表現においても『傷物語』は過剰で素晴らしかった。これほど羽川さんの本気の表情をたくさん堪能できるとは思っておらず(おっぱいについても、丸出しにするような安っぽいことはおおむねしなかったし、それ以外は表現として全く出し惜しみがなかった)、とても贅沢だった。原作のシリーズではことあるごとに阿良々木君が「羽川は恩人だ」とか「地獄のような春休み」とか繰り返すのがいい加減に鬱陶しいのだが(傷物語を読んだのは遠い昔なのでもうあまり覚えていない)、このアニメの映像表現をみていると、そして声優さんの熱演も聴くと、確かに羽川さんは恩人だし、阿良々木君は地獄を味わっているので、それを証明するためだけに映像化したような気さえする。
  • 全体として、夕方のオレンジ色に染め上げられているか、曇り空や雨、夜ばかりが多くて、空間は広々しすぎていて、建物は巨大で空虚なものばかりで寂しくて不気味なのだが、その中で羽川さんの表情だけはいつも輝いているようだったので、たとえ阿良々木君がこの物語でもっと大きな失敗をして物語シリーズが始まらなかったとしても、羽川さんのことだけ思い出しながらその後の人生を生きていけそうなほどきれいなシーンがあった(第2部)。ここから戦場ヶ原さんルートに進んだのがまったく納得できないような素晴らしい出来だった。
  • 日の丸とか人のいない巨大建築とか、日本の戦後民主主義の問題とからめて論じておられることに異論はないのだが、単純に夜の住人としての吸血鬼、公的権力や公的空間の隙間や裏側でしか生きられない存在という文学的モチーフを強調する装置としてみるほうが個人的には実感しやすい。ヴァンパイア・サマータイムみたいな。そういうふうに文学的モチーフとして丸められてしまった吸血鬼というテーマから本来のポテンシャルを引き出すために、わざわざ日の丸や巨大建築みたいな異様なシンボルを使ったのだろうけど。人間が生活するための合理性を無視したような巨大建築がろくに使われもせずに静かに立ち続けているところに迷い込むと不安になる。それはデパートの人気の少ない空間だったり、ニューオータニみたいな巨大ホテルだったり、高層ビル街だったり、工業地帯だったり、普段の自分の生活とは違う尺度で構成された空間に自分を置かなければならなくなる不安だ。そういう場所では人は自分を見失わないように、多かれ少なかれ吸血鬼のような存在にならざるを得ない。逆にいうと、空間というものは人が絶えず気を配り、人間的になるように世話を焼いていないと、すぐに廃墟のようながらんとした空間に変貌してしまう。若さを失っていく日本では、これからはそういう死んだ空間が増えていくだろうから、死んだはずの近代モダニズム建築を新築のように描く表現には切れ味がある。そして死んだはずの近代オリンピックを新品みたいな競技場で無観客で開催しつつ、実はそこでは2人の吸血鬼が壮絶な殺し合いをしていたというのは、熱い展開だけど同時に孤独でむなしい。死んだけど生きている、生きているけど死んでいる気もする、というような漠然とした不安の中で紡がれる物語シリーズには合っている映像表現なのかもしれない。
  • 原作シリーズはずっと前から文章の水増しがひどくて、果汁3%のジュースを水で薄めたものを飲まされているようなところがあるのだが、この劇場版アニメは文章では描けない迫力を表現することに挑戦して、成功したように思う。これも繰り返せばきっと水増しに思えてしまうのだろうから、一度限りの禁じ手なのかもしれない。そんな作品で羽川さんの姿をたくさん見ることができたことに感謝したい。最後に頭痛が来ていたのが悲しいけど。

終のステラ (85)

 体験版が出たときに誰かが、田中ロミオがシミルボンで紹介したマッカーシーザ・ロード』に雰囲気が似ていると書いていて、確かにシミルボンでべた褒めされていたので読んでみて面白かったのだが、体験版より先の部分まで読んでみると、父親が無垢な子供を守る旅という『ザ・ロード』の中心的なモチーフまで同じで驚いた。自分にとって最高に大切なものを未来に向かって「運ぶ」こと。タルコフスキーの『サクリファイス』ではイタリアの浴場遺跡をろうそくの灯を消さないまま端から端まで歩こうとする男が印象的だったが、『ザ・ロード』ではそれが自分の息子というもっと明るくて具象的なものになって、この作品ではさらに可愛いアンドロイドの女の子になった。そしてアンドロイドを娘と認めて自分の持つすべての最良のものを伝え、渡すことをクライマックスにする物語に感動させられ、「時代はもう俺の嫁ではなく、俺の娘になったか」と浄化されてしまった中年エロゲーマー。しかし嫁と結ばれるのではなく、娘が(半ば勝手に)生まれるのでもなく、娘を人として育てることは、エロゲーマーにあまりにもきれいで美しいものを求めるので、途中で耐え切れなくなって幸せな顔をしながら死んでしまうかのようだ。実際にはジュードのようにストイックに仕事に生きることも難しいので、その意味できれいすぎて耐え切れなくなる部分もあるかもしれない。しかし、クラナドを読んで結婚や家族を持つことに夢を見たり、智代アフターを読んで就職して恋人と同棲することに夢を見たりするエロゲーマーがいたように(本当にいたのは知らないが少なくとも僕は就職する気になった)、この作品を読んで自分一人だけの人生設計をやめて子供を育てたくなっちゃうエロゲーマーもいるかもしれないから、少子化対策推奨作品なのかもしれない。Key作品のファンは年齢層がある程度広がっているだろうけど、田中ロミオのファンはもう中年の人が多いだろう。既に小中学生の子育ての真っ最中だったり、あるいは今から子供を持つにはもう難しくなっていたりするだろうから、この作品のきれいすぎるメッセージは届かなかったりするのだろうか。
 といってもこの作品は育児の物語ではまったくなくて、フィリアとの道中とかけあいは普通にエロゲー的なフォーマットで進められていく。だからあの抱っこひもみたいな担架で負傷したフィリアをだっこして走っている一枚絵では、フィリアのエッチなふとももと赤ちゃんみたいに抱っこされているギャップが、後から振り返って見ても味わい深い。それはともかく、フィリアが人間の残虐な一面を見てことあるごとに情緒不安定になり、ジュードと意見が相違して不機嫌になり、不器用なジュードは死んだ妻のことを思い出したりしているのを見て、僕も「女ってのは…」と思わず不適切な反応をしてしまう部分があった。フィリアは自分の軽率な同情が結局は多くの人を死なせる結果になってしまったことについて、「でも私はただ…」と繰り返して泣くことしかできず、明らかに自分に不利益になると分かっていても感情的に反応して銃を受け取ろうとしない。こちらが説明しようとすると怒る。ここでは子供であることと女であることが未分化の状態で描かれているようで、対照的に終盤の「人間」になったフィリアは危険な悪人を平気で撃ち殺し、人を助けながらも自由に生きている成熟した大人になっているが、それはすでに「俺の娘」だと認識されているフィリアであり、嬉しいけど一抹の寂しさも感じる。まだヒロインを所有したがる癖が抜けていないオタクなので、エピローグの主人公無しで成長してしまった娘に寂しさを覚える。幸せな未来を想像できるから救いだけれど、フィリアはこの先、恋をしたり家庭を持ったり子供(他のアンドロイドとか)を育てたりして、(公爵の描いた計画とは異なり)いつかはリソースを使いつくして死んでしまうのかもしれないが、それはもう父の関知できることろではない。父は運び終わって、いさぎよく退場したのだ。
 それにしても、最初は『ザ・ロード』のようにホームレスみたいなストイックなサバイバル描写が続いていくのでそういう物語なのかと思っていたが、後半は古典的で派手なSFのギミックがたくさん出てきてそれはそれで楽しませてもらった。その描写が陳腐に思われなかったのは田中ロミオの筆力と、地味で素晴らしいたくさんの背景画のおかげだと思う。このご時世、AIで描けちゃいそうな感じの絵が多かったと言ったら怒られるかもしれないが、仮にそうだったとしてもこの作品にとっては何のマイナスにもならないだろう。チャプター扉で出てくる座標のようなものから推測すると、この物語はどこか北京かソウルか、あるいは大陸とくっついてしまった日本あたりから始まって、ベトナムやタイを通ってシンガポールから洋上の軌道エレベータまでを旅する話らしい。現代では世界で最も活気や可能性がありそうなこのルートが、文明の痕跡がまばらで緑にのまれてしまったエリアとして描かれている。どこかのメコンデルタあたりの風景の明るい寂しさが印象的だった。フィリアが泳いだ海はベトナムあたりのビーチだろうか。『ザ・ロード』で親子がたどり着いた海は水も風も冷たい最果てだったけど、フィリアは楽しい思い出を作ってコンブまでかぶってよかった。ちなみに、物理メディアがほしい派で絵がきれいだったのでこの海のシーンのタペストリが特典になったソフマップ版を購入したが(小説が付いているのは高すぎて見送ったが少し未練がある)、例によってタペストリを飾る場所はない。部屋の中につくるかなあ。この海でのことをフィリアは後できっと何度も思い出しただろう。
 終わってみると、結局、公爵の偉大な計画がなくても何だか人類は救われてしまいそうな明るいエピローグだった。Keyの甘さなのかもしれないし、ご都合主義なのかもしれないが、遠い未来のおとぎ話なのだしまあいいか。森の中の旅も、都市遺跡の探索も、デリラとの交流も、島や宇宙での出来事も、悪夢のようなことばかりだったけど(すべては人生に比喩だ)、フィリアはジュードとの旅がずっと続けばいいと思っていただろう。でもそうはならず、別れなくちゃいけないのは人間でもロボットでも変わらないのだった。

 

(10月3日追記)

 あらためて雰囲気のいい作品だったなと思ってCCギャラリーを見返してみると、やっぱり絵がよかったことがわかる。プレイ中は個々の絵はわりとさっと流して見てしまうのだが、写実的にでありながらも全体的に暗めのくすんだ色調で統一されているのがいいのだと思う。田中ロミオがそうした絵に合うような抑制された文章がうまいのも『最果てのイマ』とかでわかっている。絵の構図が何となく美術館の絵を想起させるものも多い。19世紀に象徴主義印象主義が登場する直前か登場した直後くらいの、成熟し、あるいは爛熟した写実主義のような、情感を充溢させながらもあくまでフォトリアリスティックな技能の枠にとどまる絵たち。自然の風景画や廃墟の絵が多いことも美術館の絵画の雰囲気につながるように思う。廃墟といっても一般的な古代ローマの廃墟ではなくて、遥か未来における21世紀的な都市や未来都市の廃墟なのだが、抑制された色調のおかげで鑑賞向きな落ち着いた絵になっている。19世紀の写実主義古代ローマを離れて自国の現代の都市や田舎に美を見出していったので、21世紀的な都市や商業施設が廃墟として描かれるのも普通に美術的に見えてしまう。舞台になったのは温暖湿潤なはずの東アジアから東南アジアであり、作中でも暑がっている描写はあるが、絵はあくまで涼しげで、風景画にしても人物画にしてもむしろ寒そうに見えるものが多い。滅びた世界、失われた世界だからだ。この空気感が、僕の場合はロシア美術の風景画を見る目を思い出させてくれる。昔、留学していたころは美術館に行くのがストレス解消の一つで(ロシア語を聞いたり話したりするストレスから解放されながらも知的好奇心を満たせた)、モスクワの古本屋とかで安い画集を買い集めて眺めていたりした。PCゲームのデジタル画だと美術館や画集よりもさらによい画質でリラックスして鑑賞できるメリットもある。とはいえ、いちいち美術史を持ち出さなくてもオタク文化では以前から空想都市を描くジャンルがあったので、そっちから来た部分が多そうだ。でも、この作品に登場する植物や空や建物の描き方をみているとやはり美術館の方を連想してしまう。
 エロゲーにおいても優れた背景画を持つ作品はこれまでたくさん出ただろうけど、色彩が明るすぎたり、原色的すぎたり、甘ったるすぎたり、構図が乱暴だったり、単純に枚数が少なかったりして、この作品のようなじんわりした統一感を出すことはあまりなかったと思う。例えば、『マルコと銀河竜』は背景画や一枚絵の物量がすごかったが、明るいコメディに合わせたつるっとした明るい感じの色彩であり、目に優しくなかったし、まったく美術館的(アカデミック)ではなかった。Winters作品のように暴力的な原色が狂気を醸し出す場合もある。エロゲーを始めたての頃は、KanonAirのきつい色彩に驚き、うたわれるものの優しい色遣いに潤う思いがしたものだったが、やがて全体的に明るくてシャープすぎるエロゲーの色彩に目がなじんでいってしまった。この作品では、ロードムービータイプのストーリー、すなわち移動する目による物語だからということもあるだろうし、運び屋のストイックな生き方を反映した抑制された色調ということもあるかもしれない。フィリアがこの先、運び屋として生きていくとして、彼女が主人公だったらもう少し雰囲気が違う背景画になるだろうか。エピローグの彼女が立つどこかの山の開けた場所の絵は、くすんだ色調の中にも明るい開放感がたっぷりと感じられて嬉しくなる。その後に出てくる遠景の絵は、構図が完全に17~18世紀くらいの廃墟絵画のものになっていて、僕たち鑑賞者は額縁の外に追い出されてしまう。フィリアたちのこの先の人生に思いをはせながら。

 

いまさらのNHKにようこそと牧野由依ボイス

 先日、ふと思い出して買ってしまったアニメ『NHKにようこそ!』(2006年)を観始めた。もう15年も前のアニメ、そして原作小説は20年前の作品であり、時代の向こうに流れ去ってしまったのかもしれないが、僕の中に残っていた当時の感情はすぐに戻ってきた。いまだに現役の作品であることを嬉しく確認すると同時に、その後の僕の人生の生活圏や行動範囲がこの作品の舞台に近いところばかりで、8話の「中華街にようこそ」で最近行ったばかりのみなとみらいや中華街が出てきたときには(2006年当時にはまったく縁のない場所だった)、親からは最近白髪がずいぶん増えたと心配されるほどおっさんなのに、自分はいまだにNHKにようこその聖地巡礼をしていたのか、ほとんど呪われているんじゃないか、とちょっとショックを受けた。そして現役でありながらも、時代の空気を色濃くまとっている。それはときどき崩れる作画や滲むような色彩に表れているように思えるし、アキバ・オタク文化が世間で認知されて盛り上がっているようにみえた、明るくて勢いのあった時代の描写にも表れているようにみえる(対照的に佐藤と山崎の生活はひたすら暗く、それこそがこの時代のリアルな雰囲気であったことも含めて)。こんだけエロゲーで盛り上がり、エロゲーで驚き、こいつら楽しそうだなあ、楽しかったなあと思い出される。この前のシュタゲと同じで、今の自分にとってもいい位置に収まる作品になっている。とはいえエロゲーの時代は過去のものとかいう言説はわりとどうでもよくて、いまでも僕の部屋には未プレイの作品がいくつもあるし、古い作品を再プレイすることも不可能ではないのだが、これからは生活スタイルを変えなければならなくなるのでこのまま埋もれていってしまうものもあるのかもしれない。でもサクラノ刻の予約はそろそろするかな…。
 あらためてアニメを観返すと、オープニングアニメと歌の素晴らしさを感じる。顔がよく見えない若い女性たちが開放的な足取りで何度も画面を横切るのだが、これはオタク的というよりはファッション雑誌のモデルのようなデザインで、今の言い方に直すなら陽キャの女性たち、オタクがモニタの向こうにみる外の世界の女性たちであり、特にオタク的な性欲の対象にはならないけど屈託がなくて眩しい存在だ。全体的にオープニングアニメはとんでもなくさわやかでカラフルな色調で満たされていて、陰のある佐藤や岬ちゃんもポップアートのように軽やかで明るく描かれている。その後に続く屈託しまくっている本編と対照的過ぎて、オタクが幻視する夢、切ない祈りのように思えてくる。歌も爽やかで、低音男性ボイスとのハモりが優しい。
 とはいえ、この作品は何といっても岬ちゃんだ。改めて観るといい声をしている。柏先輩とか山崎とか、他の声優さんの演技も素晴らしいのだが、やはり岬ちゃんは魂のヒロインであり、天使の声をしていることを再確認する。いまさらながら牧野由依さんのCDを2枚買ってしまった(もう一枚買ったのだが手違いで別のCDが届いて返金された)。『天体の音楽』と『マキノユイ』という初期のアルバムだが、これ半分岬ちゃんが歌ってるだろと思える瞬間が多い。当時はなぜかCDを漁るという方に頭が行かなかったが、声優の音楽CDとしては割と品質が良い方のようなので、しばらく聴いてみたい。これまで坂本さん、堀江さん、悠木さん、小倉さん、花澤さん、上坂さん、東山さん、麻倉さんなどいろいろな声優の音楽CDを聴いてみたが、声はともかく、伴奏や編曲などの楽曲の質がアルバム全体を通して高い水準にまとまっていると思えたのは花澤さんのCDくらいで、他は明らかにこの声に合ってないだろというような曲や手抜きの曲が多くて、歌詞も薄っぺらくて、がっかりさせられがちだった(僕の好み的に声をじっくり聴きたいのに、アップテンポに声を張り上げて個性が消えている曲とか多い)。牧野さんが声優として、歌手としてどう評価されているのかよくわからないが、あまりメジャーではないようで、強烈すぎた花澤さんに持っていかれてしまった知る人ぞ知る可愛い声の声優という感じだろうか。僕の中では岬ちゃんの人という認識になっていて他の役のことは知らないので(あとアクエリオンのザーウミの歌が印象的)、この人が歌う全ての曲に岬ちゃんの存在を感じ取ることができてありがたい。先日、所用で地方に片道300kmのドライブをして帰りは一人だった時には、眠らないように高速で牧野さんのCDを大音量でかけながらぶっ飛ばして、NHKのエンディング曲を感慨深く聴いたりした。直近のアルバム(といっても2015年)では傾向が変わって非オタク向けっぽくなってしまったようだが、できれば岬ちゃん路線を大切にして歌い続けてほしい。

アニメ『瀬戸の花嫁』

 夏の終わりに。
 キャラクターが絶えず大声を張り上げている騒々しいラブコメで、子供向けのギャグやリアクションが多くて乗り切れないところもあったが、終わってみると楽しかった。暑苦しい男キャラたちにもいつしか慣れてきた。北斗の拳とかターミネーターとかギャグマンガっぽい猿とか御曹司とかメガネ委員長とか、ネタがたぶん当時としても古かったりするけど、そもそもヤクザものというジャンル自体が昭和なのであまり新しさをどうこう言っても仕方ないところがある。悲しいかな、既にエロゲー老人になりつつあるので、エロゲーパロディ回でKanonとかAirとかのパロディがでてきたら普通に楽しんでしまった(政さんの「お兄ちゃん…」で笑った)。原作マンガが連載されていたのが2002年から2010年、アニメは2007年ということで、今から思えばアキバカルチャーが一番注目されていた時代だった。その明るさというか楽天的な雰囲気がよく似合う作品だった。騒々しいギャグも、声優さんたちの熱演として心地よく聞けてしまうところがあった。永澄や燦ちゃん、政さん、お父さんズは当然として、るなちゃんも巻ちゃんもみんなよくがんばった。桃井はるこさんと野川さくらさんのOP主題歌もアニメともども好きで、毎回あの夏らしいイントロで引き込まれ、ダンスのシーンを思わず見てしまう。
 ギャグセンスはかなり違うけど、勢いと雰囲気は僕にとってのギャグマンガの原点であるザ・モモタロウに似ていたのも懐かしさの一因だ(今回思わず古本を買い直してしまった)。筋肉がたくさん出てきて暑苦しいところも。ラブコメというところでは、これまた今となっては懐かしいラブひなを思い出したりした。
 あとは何といっても方言だった。これがあったから見続けたといってもよい。香川県あたりの方言らしいのだが、僕にとってはこの辺の瀬戸内海の方言は香川も愛媛も広島も区別がつかず、小中学生の頃の夏休みの帰省の記憶に結びついている。自分は永澄くんのような中学生ではなかったし、人魚にも極道の組に遭遇したこともなかったけど、毎年夏休みに東京から帰省する父の故郷の小さな島に、強烈な広島弁を話す少し年上の従弟三姉妹がいて、燦ちゃんのお父さんにちょっと似た感じの彼女たちのお父さんが酒で焼けたようなガラガラ声の広島弁で、東京や大阪から遊びに来た甥の男の子たちを歓迎してくれた。砂浜のような黄色い砂が散る坂だらけの細い道、そのわきの溝を這うカニ、黄色い砂だらけの神社前広場のお祭り、墓参り、潮風、夏の海と強い日差し、砂浜に打ち上げられたクラゲ、泳ぐと足に触れる黒々とした海藻の海、ミンミンゼミ、アブラゼミツクツクボウシクマゼミ、未舗装の細い山道を上がる不思議な農業作業車、蜜柑山、ラムネ、海釣り、船酔い、車酔い、甲子園中継。今思えば贅沢な夏の記憶だ。アニメでは瀬戸内海が舞台なのははじめの2話くらいで、後はだいたい埼玉県の中学校の話なのだが、OPアニメのおかげで瀬戸内海の夏の気分が思い出されて優しい気持ちになった。他の視聴者は少し違っていたのかもしれないが、やはり燦ちゃんや瀬戸内組の面々のおかげでだいたい同じようなものを見ていたと思う。そういえば、従姉妹たちのうちで一番元気だった末娘は東京で結婚して割と近くに住んでいるので、いつかDVDを貸して彼女の息子たちと一緒に観てもらうというのもいいかもしれない。
 後日出たOVAは映像が丁寧で話もいつも通りのクオリティなのだが、一度完結した物語の後で中途半端な日常回が数回入ったみたいになっていてすわりが悪かった。あと、原作者さんのプロフィールをみたらこの作品で燃え尽きてしまったみたいになっていて、ツイッターをのぞいたら元気そうだったけど意味がよく分からなくて少し悲しくなった。Wikipediaの制作の経緯とかによると、関わった人たちが単なる仕事以上の熱意と愛情を注いだ作品だったようで、いいものを見せてもらった。

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日々のかけら

 前回書いてから2ヶ月ほど空いてしまったので、何か最近のことでも取りとめなく書いておきたい。
◆できればこれが最後のフィギュアになるかなと思いつつ、綾波レイ・ロングヘアバージョンのフィギュアを買った。髪だけでなくて手足も長くなってしまって、それでも綾波レイの雰囲気は残っている。シン・エヴァのDVDが出たらたぶん買うのだろうけど、たぶん上映版から大した変更はないだろうから、冷めた気持ちで記念品として手元に置いておくくらいになりそうだ。
◆フィギュア用というわけではないのだが、部屋の中に場所がなくなってきたのでダイソーで買ってきて本棚から水平に突き出すように差し込む木の板がだいぶ増えてきて、本棚が樹木のように広がってきてしまった。その小枝たちにフィギュアやアニメ、マンガなどが乗って賑やかな感じになっている。アニメは最近は居間のテレビで観ることが増えており、そのために買った中国製の安いDVDプレイヤーが活躍している。以前は録画したものを観ていたのだが、そんなに録画もあるわけではないので買った。テレビは主に夜、妻氏の足裏マッサージをしながら二人で観ていて、基本的にアニメに関心のない彼女は途中で寝てしまうことも多いのだが、僕と一緒にいると落ち着くので大人しく観ている。最初に観たのは録画した『明日ちゃんのセーラー服』で、これでアニメも二人でそこそこ楽しめると信用してくれたようで、次に『夏色キセキ』を観てこれもどうにか成功した。その次にヤフオクで買った『瀬戸の花嫁』を観始めたが、これはノリが子供向けのドタバタラブコメのようなので完走できない可能性がある(評判はいいらしいので僕だけでも観るつもりだが)。エヴァのテレビシリーズも観始めたが、縦横比が崩れて横長になってしまうので休止。京アニKanonも観始めた。あと、録画した異世界薬局も観ているが、若干興味を持ってもらえているようだ。邪神ちゃんも少し気に入っていた。
◆同じく僕と一緒にいられるという理由で、ドライブに出かけることも好きで、運転中にアニソンやエロゲーのBGMをかけている。ときどき興味を持って、何の曲かと聞くので、砂漠のエロゲーだとか(朱)、弥生時代エロゲーだとか(天紡ぐ祝詞)、人生のエロゲーだとか(Clannad智代アフター)、一番泣いたエロゲーだとか(ONE)、僕がいちいち鬱陶しく説明して鬱陶しがられたり引かれたり、たまに感心されたりして、ともかくおしゃべりできるのが嬉しいようだ。彼女も気に入っているBeautiful world(エヴァの歌だがラーメンの歌と認識されている)や倉木麻衣の古い歌が流れると機嫌がよくなり、唐突に田中理恵百人一首朗読や、ペルシャ旅行で買ったペルシャ民謡が流れ始めると脱力し、相対性理論ボンジュール鈴木やSOUL'd OUTの歌を小さな声で一緒に歌って笑ったりしている。
◆妻氏は体も心も弱くてすぐに参ってしまうので、リラックスしたままお手軽に外出できるドライブが好きなようだ。決して乗り心地のよくないMTの軽自動車なのだが、車に乗る機会が減るからと自転車を買おうともしない。よく出かけるのは江の島方面で、先日は三浦半島に海水浴に行ってきた。僕は泳いだのは7年ぶりくらいで、8時には駐車場が満員になる可能性があると聞いたので6時過ぎに家を出たのだがガラガラで拍子抜けした。水の透明度が低く、足元にある岩がみえずに踏んでしまって足が痛くなったが、エメラルドグリーンがかった海に揺られて気分転換になった1日だった。
◆また、先日はみなとみらいの高層ホテルに一泊したいという希望に付き合って、簡単に日帰りで行けるところに車で行ってわざわざ宿泊してきた。県の補助制度で1人7000円分の割引・クーポンを使えたおかげだ。みなとみらいは完全の僕の関心の対象外なのだが、たまにはこちらも付き合う必要がある。台風前の風に揺れる夜の観覧車や、夜も温まったままの波打ち際の広場や、中華街の雑貨屋や花文字。散財に僕がいい顔をしないので(途中で付き合いきれなくなって感情が死んでしまう)終始楽しいというわけではないのだが、終わると全部ひっくるめて楽しかったということになる。出かけた後には僕が絵日記のようなへたくそな絵を描くのが楽しみだそうで、それを大切にして元気のない時などに眺めているという。最近はラーメン屋巡りやブックオフといった男くさいことも楽しんでくれるようになって、金がかからなくなってきて助かる。我が家の家計にあまり余裕がないと何度もぼやくのは面白くなく、妻氏もお金のことを考えると頭がさえて眠れなくなって睡眠薬を追加したりしなければならなくなるのだが、何度も繰り返したせいか彼女にも貧乏性思考が少し身についてきたようで助かる。二人で一番よく行く店はおそらくダイソーなのだが、適度な無駄も許容できる生き方をするのなら、ダイソーレベルで満足できる感覚を手放したくない。この水準にとどまった方が小さな幸せに気づきやすいからだ。昨日は車で奥多摩の鍾乳洞に行こうとしたが、あと5kmまで来た山の中で今日はもう混んでるから入れないと言われ、五日市の奥にある滝に切り替えた。ひと気のない夕方の山の中で力強い滝を眺めてリフレッシュ。ほとんど車の中で過ごした1日だった。
◆この夏は本格的に植物栽培を始めた。始める余裕ができてよかった。実益を兼ねたいところだが遊び半分であり、ミニトマト、トマト、ブルーベリー、パセリ、ゴーヤ、シシトウ、ナスなど、収穫できるようになったものもあるが収量はわずかだ。植物に水をかけるという簡単なことで何かを育てているという感覚を得られ、会話のタネになるのが一番のメリットであり、本当に育つのは運が良ければ程度でいい。今日は彼女が竜胆の鉢を500円で買ってきたので、僕は『神樹の館』の話をしてしまった。
エロゲーは最近は月に数回しか起動していないのだが、アマカノSS+ですぐにエッチシーンで止まってしまいなかなか進まない。感想は少し書いたが、まとまりがないので当面はメモのままだ。サクラノ刻、ブラックシープタウン、田中ロミオ新作は買いたいと思っているが、このペースではいつになったらプレイできることか。ロシアのエロゲーの第2作も発売されたが、舞台が80年代の日本ということもありプレイしないかもしれない。来年発売の『ONE.』も気になるが、テキストがそのままだったら買ってもプレイするだろうか。リライトされたとしても、ストーリーがそのままだったらどうだろうか。
ツイッターのキャンペーンに当選してクレヨン先生の素敵な絵葉書(1~5周年記念イラスト各1枚)を贈っていただいたので感謝のエントリでも書こうと思ったのだが、ハチナイについて何か書くのは意外に難しかった。物語を楽しむよりも、野球のミニゲームを遊んでいる時間の方が長くなってしまったので(始めた頃は過去のエピソードをどんどん読むが、それが終わると更新ペースでしか読まなくなるので進行が遅く感じるようになるということもある)、ファミコンのような単なるパズルゲームと大して変わらない印象になっていく。ファミコンも子供の頃にドラクエ3ファイファン3を楽しんだ思い出があるが、いまさら何かまとまったことを書くのは難しい。そうしたゲームのインターフェイスのデザインや効果音のようなディティール、そして難しいクエストをクリアした時の達成感を懐かしく感じるように、ハチナイでも毎日のように見ているSDキャラの動きやインターフェイスのデザイン、適時打を打つ時の水着野崎さんや着物太結ちゃんや花嫁柚や温泉本庄先輩のカットインをそのうち懐かしく思うようになるのかもしれない。毎日依存症のように立ち上げて様々なアイテムを集めているが、すでにある程度URでスタメンを組めるくらいには強くなって(チーム評価49450)、メンバーが固定化されて新鮮味がなくなってきてしまったので、投じる時間に対して得られる楽しさが減り、遊ぶモチベーションは弱くなってきてしまっている。これがソシャゲーのライフサイクルなのだろうか。
夏色キセキを妻氏と観る前、春ごろに再視聴した時に書いたメモも古くなってしまったけど貼っておこう:夏色キセキの5巻、紗季の島に行く話を見返した(ゆううつフォートリップ、旅の空のさきのさき)。好きな話だ。島に着く前に夜明けの海をみながら紗季と夏海が言い争いをして涙が出てきてしまうシーンで、またぐっと来てしまった。どういう仕組みなんだろうな。紗季はずっと抱えていて、夏海がずっと紗季のことを考えていた描写があって、うちに来ればいいよ、と言ってしまって、ついに溢れてきてしまったのがよかったのかな。あと、考えてみれば、夏海と小晴はけっこう似た性格の女の子らしいから、紗季は引っ越し先で小晴と仲良くなって、夏海を思い出したりしそう。千晴の方が可愛いのだが。紗季が消える夢を見て、その後で実際に消えてしまうのだが、そのことで紗季にはいろんなことから目をそらして消えてしまいたいという思いもあったことがほのめかされる。実際には目をそらさずにむしろまわりがよく見えてきてしまい、気持ちの上でも引っ越しを受け入れられるようになるのだが。オーディオコメンタリーも聴いてみたが、監督にとってもこだわりと苦労があったエピソードだったらしい。大枠のストーリーはシンプルだけどそこにいろんなものを込めるのが大変なんだな。何度も書き直したという脚本家さんの話もなかなか面白かった(なぜフェリーのパートが長くなったかとか)。監督からロジカルに組み立てるように何度も指導されたとのことだが、夏海との言い合いから消失、消失の解除まで、確かにきれいに組み立てられていることにあらためて気づいた。言い争いのシーンで紗季役の高垣さんも収録時に泣いてしまったそうで、その思い入れを聞けたのもよかった。
◆アニメ『シャインポスト』が楽しみになっている。第4話の杏夏の回から3回連続で素晴らしい回が続いて、第5話と6話の理王様の回は2回とも思わず涙ぐんでしまった。僕はアイドルものが基本的に好きではないのだが、気がついたら最近はアイドルものばかり摂取している。そういう作品ばかりということもあるのだが(今ならラブライブやルミナス・ウィッチーズやExtream hearts、あと寝る前はいまだにOnly one yellのいろんなバージョンを聴いていて、睡眠導入剤になっている。なお、Selection Projectはキャラデザや表情のニュアンスが多分今までみたアイドルアニメで一番よかったが(動画工房の絵が好き)、ストーリーはアイドルものとしては最悪に近かった。終わり方もひどかったけど、そういうひどさがかえって想像を掻き立てていつまでも気になる作品にしているのかもしれない…とか書いているうちにまた気になりだして、思わずネットでクリアファイル(EDの最後の決め顔たちを印刷したもの。特に鈴音と野土香の表情が素晴らしい)をポチってしまった)、そういうふうに何度も同じような話をみていると、歌と踊り、特にライブコンサートという、形あるものとして残らずに消えていくものに夢をみるアイドルという存在と、形がないからこそそこに無限の価値を見出そうとするアイドルファンという存在の不思議な関係に、自分もいつのまにか巻き込まれそうになっていくのを感じる。エネルギーのあった若い頃にはまらなくてよかったというべきか。その関係の物語はだいたい、アイドルがビジネスとして売れ始めると終わってしまうのは、アイドル文化がまだ成熟していないからなのか、それとも成熟しすぎたせいなのか知らないが、シャインポストをみていると、売れないこと(そして売れなくても「ふむ姉さん」や気絶する姉さんや理王様を褒めて光る客のような温かいファンがいること)こそがアイドルとして輝くための重要な条件のように思えてしまう。そう考えると、アニメは折り返しの6話まで進んで主要メンバーの問題はだいたい解決され、あとはグループが成功していくだけのようなのでクライマックスは終わってしまったのかもしれないが、それでも毎週楽しみにしていきたい。肝心の歌はまだ気に入ったものがないのだが、こちらも期待したい。