物語シリーズの物語

あにもに「傷物達を抱きしめて──映画『傷物語』とアニメーションの政治性」
『もにラジ』第3回「『傷物語』と現代日本の傷痕」
 『傷物語』のアニメは他の物語シリーズのDVDと一緒に1年ちょっと前に買い集めていたけど、まずはテレビシリーズの方を観てからにしようと思っているうちに時間が過ぎていって、ついに面白いネタバレの批評文を読んでしまった。『傷物語』はそんなことになっちゃってたのか。テレビシリーズの方は今は『終物語』のはじめの方まで観ていて、だれてしまった印象でなかなか進まない。実際にはあのむらの多いキャラクターコメンタリーも合わせて全部2回ずつ観なくちゃいけないのと(今のところ一番好きなのは井上麻里奈さん演じる老倉育の回のコメンタリー)、大半は昔ニコニコ動画で観たものだし、さらに言えば原作を読んでいるし、原作の冗長な文体がいよいよ鼻について厳しくなってきているので、何重にも冗長な視聴体験になってしまってどうにも熱心に観ることができないのであって、アニメ作品自体の出来が悪いというわけではないような気もしているのだが……。
 ともあれ、傷物語だけではなくて原作も含めた物語シリーズ全体に及ぶような今回面白い視点を提示してもらったおかげで(コロナ禍と吸血鬼をテーマにした『死物語』も今ならもう少し違う風に読めるかもしれない)、視聴のモチベーションが少し上がったような気がする。いつになれば傷物語にたどり着けるかはまだ分からないが。
 物語シリーズのアニメの不思議な背景美術や演出については、昔は物珍しかったけど、いつしか驚くのが面倒くさくなってしまい、今ではシャフトの手癖のようなものだろうということにして、結局今日にいたるまできちんと考えてみることもしなくなっていた。でも、考えてみれば、モダニズム建築、昭和の敗戦と慰霊の歴史、東京五輪、郊外、都市伝説、東浩紀斎藤環伊藤剛らが語ったアニメの平面性といったヒントはこれまで僕も多少は触れてきていたのであって、なんで物語シリーズのアニメを観ながらそっちの方に頭が行かず、羽川翼のおっぱいとかのことしか考えなかったのか不思議なくらいだ。あの幾何学的な背景美術にはそういう歴史的な思考を阻止するような不気味なところがあるので、僕の思考は怖がって、非幾何学的な形状の羽川翼のおっぱいの方に逃げていってしまったのかもしれない。そしてそれは戦後日本の歴史と同じなのかもしれない(同じなわけはない)。
 美術史も建築史も素人の単なる思いつきだが、モダニズム建築と日本の右翼思想や建築の政治性を結びつけるならば、ソ連社会主義リアリズムを批評的に継承したソツアートやコンセプトゥアリズムのしぐさと物語シリーズに類似性を見出すこともできるような気がする。カバコフコーマル=メラミードの絵画、グロイスの『全体主義様式スターリン』、さらにさかのぼればロシア・アヴァンギャルドの浮遊する幾何学的オブジェや構成主義の鉄筋コンクリート信仰などは、近代日本が夢見た、そして今ではノスタルジーさえ感じるかもしれないような、歴史の重さからの解放と至高性を希求した歴史の残骸としてのモダニズム建築に通じるような気がする。カバコフたちの作品は社会主義リアリズムのローマ建築のような静謐さや荘厳さをシニカルでグロテスクに、でも時にはどこか優しく表現していて、うっすらとほこりをかぶった展示品の趣きがあるが、物語シリーズでは政治的で危ういモダニズムのシンボルが新品のように提示されていて、それはそれで確かに不気味だったことに気づかされた。よく言われているように、日本もロシアも後進国として歪な近代化をやろうとして痛い目に遭った歴史があるので、共通点が見つかるのは必然なのだろう。
 まったくの偶然だが、昨日はふと昔見たニコニコ動画などを見返していて、あらためて初音ミクの『Chaining Intention』の動画よかったよなあと(当時はあざとさや一部のカッコ悪さが鼻につく部分もあったが、今となってはそういう感情は風化している)、作曲者の他の曲などをいまさらながら漁っていた(初めてメルカリでCDを買ってしまった)。ニコニコで初音ミクムーブメントが盛り上がったのは2000年代後半から震災までくらいの間で、ネット文化の幸福な雰囲気の時代だったと記憶(あるいは錯覚)している。作曲者のTreow氏の他の曲で、ミクの声に歌詞をつけずにハミングとして楽器的に使っているようなものをあるのだが、ロシアのエロゲー『無限の夏』でもそういうBGMがあって、そもそもミクという攻略ヒロインまでいるのだが、そのエロゲーの背景美術が社会主義リアリズム的、あるいはソツアート的なノスタルジックなものだったことを思い出した。物語シリーズはもちろん、声優陣の好演が最大の見どころの一つではあるのだが、いつか、一話くらいは音声をすべて初音ミクでつくってみるとか、あるいは声優たちの声をミクの声みたいにサンプリングしてつくってみれば、初音ミクという思想とその時代性が、無機的に漂白された慰霊碑のような街並みを心象風景として生み出した物語シリーズの時代性と共鳴して、ちょっといい具合になるかも……。

 

 あと、都合により一時取り下げていたブログ記事を加筆して再公開:

daktil.hatenablog.com

ユメミルクスリ (65)

 ずっと前から少し気にはなっていた作品だけど、「面倒くさい感情に巻き込まれそうだな」と先送りにしているうちに15年以上が過ぎていた。その間に僕の生活もだいぶ変わってしまって、今では大好物のはずの逃避行のテーマで呼び起こされる感情も懐かしさが先に来るかもしれない。何より歳をとった。中年男性の逃避行にロマンはないので、今の自分の年齢と現実を考えずにゲーム世界に没入しようとするのだが、この15年の間にモニタは大きくなり、そのせいで小さくなったゲームウィンドウを拡大することもしないまま最初の会長ルートを終えてしまった。その後でディスプレイの設定をいじればよかったことに気づいて粗めの1280x720にしたら、Windows XPの頃にもどったみたいで懐かしくなった。とはいえ、学校での人づきあいに緊張しなければならない生活はもはや記憶の遠い彼方であり、会社人としても新しい人づきあいがほぼなくなって久しい(仕事や会社は順調ではないのだが)。
 それでもこの作品を始めたきっかけとなったのは、ネットで近隣の高校の評判などを調べてみたことだった。毎日家人くらいしか話し相手がなく、新しい話題も大してあるわけでもなく、相手は僕相手でも一日に一定時間何か話をしないとストレスが溜まってしまい健康回復に支障をきたすので、すぐに何か差し迫った選択しなくてもよくて気晴らしになるような明るい話題となると、子供の将来のことをネタにあれこれ無責任なおしゃべりをすることに落ち着いていく。どんな専門を勉強するかとか、どんな部活をやるかとか、そんな他愛もないことだ。今住んでいる地域は僕や家人が生まれ育ったところではないので、どんな高校があるのか知らないことに気づいて調べたところ、口コミサイトで現役高校生やその親が自分の高校についてあれこれ語っているのを見つけて、今は便利になったものだと感じると同時に、現役高校生が陰キャとか陽キャとかスクールカーストとか言ってて窮屈そうでちょっと気の毒だった。そしてちょっとだけ大昔のそういうひりつくような空気を思い出して、ユメミルクスリやってみようかなと思い立ったのだった。
 弥津紀先輩はまあよくある会長キャラ(CV一色ヒカルさん)の話かなと思っていたが、かなり追い詰められて不安定になった女の子の投げやりにがんばっている感じがよくて目が離せなかった。ハイスペックな才女がやけくそに転がっていく生き方は、1回目のプレイではそのままバッドエンドに転がっていって消えてしまい、それはそれで余韻があったのだが、やはりやり直してハッピーエンドにたどり着いてよかった。クスリをキメてホテル最上階のバルコニーから落下した彼女は、主人公の家の二階まで木を伝ってよじ登ってくる。そんなアップダウンもいつかは終わる。転がり続けた石は妊娠という現実にぶつかってようやく止まる。明日を感じられないという不安を消すための狂騒が、子供が生まれることで前向きに落ち着けたというのは、当たり前のことなのかもしれないけど弥津紀先輩の生き方を見た後だと感慨深かった。健康というのは当たり前のようで当たり前ではなく、苦労しないとそれを手に入れられない人もいる。安息する彼女をみられたのはやはりよかった。
 次のケットシー・ねこ子は、これぞこの作品で読みたかったような切なくなる話だった。結果的に終わりよければすべてよしになったとはいえ、この話で描かれた大半の部分はドラッグというわかりやすい悪の上に成り立っていて、全ての喜びも悲しみもきらめきも、偽りの幻だと言えないこともない。でも僕自身も別に義人のような生き方をしているわけではなく、どこかにゆがみを抱えながらそれを見ないふりをして喜んだり悲しんだりしているところがあるので(作中の色がない生き方云々のくだりはさすがに僕の歳になるとあまり響かなかったけど)、ねこ子の悲痛な明るさに、妖精郷というあまりにも頼りない幻をひたむきに探し続ける姿に心を奪われ、明け方の別れ際に楽しさと寂しさを覚える。そしてそんなふうに探すことで失い続けてしまう彼女を見ていられた時間があまりにも早く終わってしまったこと、早く終わらせなければいけなかったことを寂しく思う。原画担当のはいむら氏はラノベをアニメ化したものの方でおなじみで、前から全体的にキャラクターの頭が大きくて肩幅が狭いことで未熟な頼りなさを表現しているのが印象に残っており、ラノベ原作は読んでいないがイラストの淡い色使いがよさげだったのだが、ねこ子はそのよさが十分に発揮されたキャラクターデザインになっていたと思う。痩せていて小柄で軽そうだけどそれなりに均整がとれているようにもみえる身体はまさに妖精のようで、優しいクリーム色の軽やかな衣装も同じ。そして不自然なピンク色に曇った、爛々と輝く瞳。利用している電車や駅で時折、ショッキングピンク魔法少女コス及び同じ色のツインテールのかつらで女装した異様なおっさんを見かけることがあるのだが(最近はコロナ禍で僕もテレワークだしあまり見かけないのだが、妖精郷に旅立ってしまったのだろうか)、現実の妖精コスはそんな風にどうしてもギラギラした悲しいものになってしまう。ねこ子の淡い妖精スタイルはこの作品の美術の優しい色使いのおかげか、主人公の目という色眼鏡のおかげかはわからないが、かん高くてせっかちな彼女の声と対照的に柔らかくて儚げでとてもよい。髪の毛も柔らかい色のブロンドになっているのはお約束のオタク文法なのかと思っていたが、わざわざウィッグをかぶっていたことが後に判明した。宏子ちゃんはこの衣装を着て変身するとき、あるいはさらにこの衣装を自分で選んだとき、どんな気持ちだったのかなと想像したくなるような衣装だ。エンディングの観覧車の中で花火に照らされて彼女の瞳は半分、またピンク色に染まるが、そまるのは瞳だけではなくて夜空全体であり、彼女を包む空気の全てであり、これもまた幻想的な妖精郷につながっていることがわかって嬉しい。高みを目指していた彼女は観覧車で高みに到達した後で、そのまま地上まで観覧車で降りてきてしまうのだが、色づいた世界はいつまでも残っていてほしい。
 最後のあえかルートはどうにも微妙な出来だったが、素直に感動できなかったのは僕が歳を食ったおっさんになっていじめの問題が身近でなくなってしまったことも一因だと思う。それにしてもテキストが不親切で読みにくかった。陰湿ないじめとか悪役とかそれを恐れて日和る主人公とかはそういう物語なのでいいのだが、主人公があえかに対してデリカシーのない幼稚な言動を繰り返すのでストレスがたまった。主に後半になって主人公が覚悟を決めるまでの間なのだが、もう少し女の子を大事に扱うか、せめてデリカシーのなさが目立たないように描写してほしかった(とりあえず自分のことは棚に上げる)。あえかはみんなとはズレた不思議な女の子だからいじめられたと説明されていたけど、読んでいてズレていた印象はなく、むしろ一番常識的だったし(ついでに声が一番きれいだった)、主人公の方がよっぽどズレていたようにみえた。それも意図的な演出だったのかもしれないが、とにかくいじめという物語レベルだけでなく、主人公の魅力という半分メタレベルでも気の毒なあえかについてのストレスフルな物語だった。そのおかげで終盤の屋上で二人がアントワネットに復讐するシーンカタルシスがあっただけではなく、ようやく文体に対する緊張が解けて、純粋に文章を楽しんでブラックユーモアに笑うことができた。その後のハッピーエンドに至る流れもよかったのだが、個人的にはその少し前の、あえかが南国とかのきれいな写真を見ながらいつのまにか眠ってしまったシーンが印象に残った。別に海外旅行がしたいとか具体的に考えているわけではなく、旅行会社の営業ツールであるイメージ写真の中に逃避するような、そんなところに小さな安らぎを見出そうとするしかないような彼女が、ようやく主人公という一緒に戦ってくれる人をみつけて、安堵してその写真を見ながら寝落ちしてしまったというのが可愛くもあり、切なくもあった。しかし全体的にストレスがたまるシナリオだったので、エピローグの二人の穏やかな生活、特にあえかの幸せをもう少し楽しませてほしかった。

 いちおうまとめらしきことを書いておくと、この作品の魅力は、主人公たちが倫理や道徳の規範を踏み破った時に得られる解放感や刹那的なきらめきだった。踏み出した先にも幸せはあり、もし規範に復讐されることがあったとしても二人でなら受け止められるというふうに終わり、読後感が爽やかだ。プレイするのがずいぶん遅くなってしまったが楽しませてもらった。

 最後に音楽についても一言。OP曲「せかいにさよなら」と淡い色調の絵のムービーを何年も前から気になっていたので、プレイし終わってそれが既知のものになってしまったのが少し残念な気もするが、やはりいい曲だった。BGMも聴きやすくて、久々にデータ吸出し、変換・編集作業をやってしまった。しばらくは音楽を聴いて余韻を楽しもう。

劇場アニメ雑感:『リズと青い鳥』のことなど

 『負荷領域のデジャヴ』、オカリンと牧瀬氏のラブストーリーだったなあ。90分という限られた時間できれいにまとまっていて、この二人がお似合いの二人だということを改めて認識した。オカリンは本編とゼロでさんざん苦しんだ姿を見せていたので、この作品でもまたそういうのばかり見せられ続けたらこちらが疲れてしまうところだったけど、そこは軽めにして牧瀬氏が中心の進行に移ったのがよかった。ヒロイン中心の方が当然目は喜ぶし、声優さんの熱演もよかった(凶真憑依のシーンも面白かった)。劇場用に作られていたからか、花とか街並みとかの背景カットの入れ方とか間の取り方とかが贅沢なシーンが多かったのも目に優しくてよかった(キャラクターの顔とかはテレビ版とそんなに変わらなくてもうひと頑張りほしかったが、画面構成がきれいなシーンが多かったのでこれでよかった気もする)。そのせいか画面が暗めの色調になっていることが多かったが、この二人にはたまにはそういう落ち着いた感じもいいと思う。2005年で一つだけ小さな改変をするというその仕掛けのささやかさも、ゼロの「相互再帰マザーグース」みたいな優しさを感じてよかった。総じて、シリーズで最後に観たし、これが正史でもいいよというくらいには心地よい作品だった。
 画面が暗いといえば、こちらは感想を書きにくいのだが、『涼宮ハルヒの消失』も暗かった。こちらも背景が素晴らしいアニメで、間の取り方とかアニメシリーズで京アニの演出を楽しんでいたあの頃をすぐに思い出せてよかった。正直なところ、こちらは話が今の自分が楽しむには陳腐化しすぎていると感じたが、絵については滋味が高いシーンが多かったと思う。京アニがすごいだけなのかもしれないが、最終兵器彼女イリヤの空のアニメを観ていると、背景については2000年代後半にそれ以前と断絶するほどの大きな進化があったように思う。
 と書いたが、『イリヤの空、UFOの夏OVAの3巻と4巻を観たら、凝った絵が多くて感心してしまった。解像度が低いのが残念だけど。正直なところ、そこまで期待していなかったけど、結構楽しんでしまっている。ちなみに、好きなシーンの一つは、OPの最後にイリヤの長い髪の先の房のあたりが空中で気持ちよさそうに滑らかにうねるところだ。概してOPは素晴らしいがこのシーンはいつも目が吸い寄せられる。イリヤがこんなふうに風を受けて自然体になれるような話は本編ではついぞなかったので、せめて髪の毛だけでも気持ちよさそうに泳いでいてくれ。
 『リズと青い鳥』も観た。のぞみを映す視線はみぞれの視線で、機嫌がよさそうなのぞみが次の瞬間に何をするのか、何を言い出すのか、息をひそめて見守っているような緊張感がある。緊張感がありすぎてホラー映画のようになっている。のぞみはただの気のいい女の子のはずなのだが。冒頭の二人が合流して部室まで歩いて行って朝練を始めるまでのシーンが、何気ない日常のはずなのに、それを「何気ない日常」の記号として描いていなくて、次の瞬間に崩壊するかもしれない繊細なバランスの上に成り立っている一瞬の連続として描かれていて緊張する。そういう緊張はその後もたびたび出てくる。二人はなかなか言葉を交わさない。意味のある言葉を交わさず、言葉は意味をかわすために発せられる。何か決定的な言葉が発せられてるのを待っているような、でもそんな言葉は発せられてほしくないような瞬間が続く。のぞみに比べるとみぞれを映す視線は安定しているかもしれないが、みぞれ自身は安定していないので美しいものを鑑賞させていただいているような気になる(うがった見方で振り返るならば、それがみぞれを見つめるのぞみの視線だということもできるかもしれないが。それともりりかの視線だろうか)。だけど、ここまで書いてみたことはことごとく間違っているかもしれない。極論めいたことをいうと安易な決めつけになってしまうけど、この作品では意味が定着していないしぐさやカット、記号的にパッケージ化されていないしぐさやカットがたくさんあって、「解釈(言語化)」しようとするとすぐに揺らいでしまうような繊細さと緊張感に満ちている。みぞれの気持ちを言語化してみても、「のぞみ……」とか「のぞみっ!」とかみたいな超意味言語にしかならないだろう。観る者は視覚情報を「解釈」しようとする欲望からは自由になれないけど、もう少し意識をあやふやなまま泳がせておいて、繊細な絵をひたすら眺めて解釈の揺らぎを楽しみ続けるということをしてもいいような気がしてくる。タルコフスキーソクーロフの画面をぼんやり眺めているときみたいに(この2人を安易に並べてしまうのは雑すぎるか)。この場合、ぼんやりと眺めるのはロシアの重くて暗い幻想ではなく、こちらが成仏してしまいそうなほどの美少女たちの楽園なのだが。さっきはホラーと書いたのに楽園になってしまった。最後にのぞみはみぞれに何を伝えたのだろうか(解釈したがることから逃れられない)。のぞみは後頭部しか描かれていないので、常識的に解釈すると、のぞみがどんな顔をしているか想像させるカット、あるいはのぞみの顔は重要ではなく、それを見て表情を明るくするみぞれの方に注目すべきカット、つまりのぞみ視点のカットということになる。みぞれはこれまでで一番明るく、嬉しそうな表情を見せているが、セリフは聞こえてこないので何があったのかわからない。これまでの流れでは言わなかったような、あるいは想像できなかったようなことをのぞみは言ったのかもしれない。僕たち視聴者は、みぞれが喜びそうな何通りもののぞみの言葉以前の言葉や表情以前の表情を想像して楽しむことができる。そういう詩のようなシーンがたくさんあった気がする。またいつか見返したい作品だ。

 最後に剣崎梨々香についても。彼女にとって魂の一日だったプールの日が一瞬で終わってしまったのは笑えたが、先輩後輩関係について思い出させてくれるキャラクターだった。ここで唐突に自分語り。たまたまなのか分からないけど、僕の場合も先輩たちに対する畏怖や憧れのような感情を抱く体験をしたのは高校の部活だった。1学年上の部長は華奢な美少年タイプの人で、副部長も背はそれほど高くないけどもう少しがっちりした体格で、進学校にしては珍しく、こちらは力を持て余したヤンキーみたいなところがあった(失礼な言い方になるが顔も関西のコメディアンぽかった)。部長のポジションは左サイドバックで、これは基本的に子供の頃はうまくない子にあてがわれるあまりのポジションのイメージがあり、僕の学年でも地味な子たちがやっていた。相手チームの花形である右フォワードなどに振り回されるやられ役のポジションだ。しかし、部長が目の覚めるような鮮やかなプレイを連発し、バックなのに相手のフォワードを翻弄するのを見てイメージが変わった。南米的なリズムや欧州的な体力でサッカーをするというよりは、一瞬で決着がつく真剣の立会いをみているようなところがあり、バックがやるには危なっかしい気もするのだが、勝つのはいつも部長だった。一つ一つのタッチがサッカー選手らしくない無防備さであり、でも実はそれは罠なので突っ込んでいくとかわされる。取れそうで取れない不思議な間のプレイスタイルだ(右利きなのに左サイドバックだったことも関係している)。やられ役のはずが気づくと一番美しいプレイをしていた。当時の僕の印象が強烈だっただけかもしれないが、後年、テレビなどでプロのプレイを観てもあの時の部長のプレイの美しさを上回る選手をみたことがない。一つだけ近い印象を受けたものを挙げるとすれば、今となっては記憶が曖昧だが、井上靖の『夏草冬濤』か『北の海』に出てくる先輩だった(この話は前にも書いたかも)。澄ました優等生のようでいながら結構すさんだところもあるような人だった。副部長のポジションはセンターバック。センターなのでサイドバックほどあまった人用というイメージはないが、こちらも相手チームの花形であるセンターフォワードを抑えなければならず、しかもサイドバックとは異なり基本的にオーバーラップして攻撃に参加することはほぼ許されず、ひたすら守りに徹する苦労人のポジションだ。それをいささかヤンキーじみた攻撃的な人がやっていて、ときどき手を抜いているようにみえながらも危なくなると爆発的な瞬発力をみせるのは頼もしかった。プレイスタイルはしなやかな豹をイメージさせるもので、部長と違って不思議な間を使うことはなかったけど、やはり僕とは違う次元にいることが感じられた。そして梨々香こと僕(唐突な女体化ごめんなさい)。サッカー部は公立の進学校ながら3学年合わせて50人以上いるような大所帯で、結局最後までレギュラーになれなかった僕は、左足をうまく使うようなこともできず2軍のサイドバックとかボランチを中途半端にやっていて終わった3年間だった。そんなわけだから部長たちとの接点などないはずなのだけど、僕がぼっちぎみの優等生キャラだったからか、ポジションが近かったからか、数人のグループでパス回しをする練習の時などに部長と副部長がよく僕に声をかけて混ぜてくれた。僕もなんとなく先輩たちの近くにいて、声をかけてもらうのを図々しく中途半端に待っていた。今考えるとなんで声をかけてくれていたのか謎だが、当時は僕も10回に1回くらいは美しいプレイを決めることができ、他のうまい人たちとは違うリズムを持っていたからだとうぬぼれていて、その自信は確かに僕の実力の向上に役立っていた。りりかと違って一緒に練習する以上のことがあったわけではなく(そういえば体育祭の準備チームでも部長と一緒で、一緒に授業をさぼって大工仕事をしたりした思い出とかもあるけど長くなるので割愛)、僕がこっそり憧れていただけで終わった高校時代だったけど、りりかの気持ちはわかる気がする。2つ上の学年にもすごい人たちがいたけど、体格とかが違いすぎたし半年足らずで引退してしまったので、どちらかというと神話的な霊獣のような存在だった。1つ上の部長たちは身近だった。りりかたちの吹奏楽部も大所帯で、パート練習とかあるのをみると、同じグループの先輩に憧れられるような人がいるのは幸せなことだと思う。りりかはインディアンの酋長のような奇妙な髪型と着崩しをしているのだが、そういうまだ何者にも定まっていなくて浮ついた自分が、無駄なく研ぎ澄まされた先輩たちに惹かれていく。先輩に近づくのは緊張するし怖い気もするけど、その光というかエネルギーを少し浴びてみたくて吸い寄せられる。そんなインディアンもいつかは先輩にならなくてはならない。先輩に憧れる後輩でいられる幸せな時間は一瞬だけであり、そんな一瞬の理不尽な美しさを描いている作品だった。

 たまたま劇場用アニメ(一部はOVA)を連続して観たことになったけど、どれも間の取り方とか背景美術とか視覚的な処理とかが新鮮に見えたシーンがたくさんあって、自分がいつのまにか(ニコニコとかで観る)テレビシリーズ用アニメを観すぎてそのフォーマットに毒されていることを気づかされた日々だった。いやあ、映画って本当にいいものですね…

夏色キセキ

 監督が「王道」的な物語にすると言っていて、確かに王道という言葉でイメージできるようなバランスの取れたいい話になっているのだけど、もちろんそれだけではなくて、なんというか仲良し4人組の女の子たちが共有する濃密な空気みたいなものが満ちていて、そこがこの作品が愛されている理由なんだろうなと思う。技術的なことはよく分からないので単なる印象だけど、切れのある演出とか絵面とかがなくても、これだけお互いのことを考えたり見たりしている4人組の夏を12話かけてじっくり描くというのは贅沢なアニメなのかもしれない。女の子の数がもっと多かったり、もっと引き延ばされた終わりのない日常を描いている作品は他にもたくさんありそうだけど、1人が最後に別れることを前提にした4人だけの夏は、わりと淡白な絵柄だけどとても濃い。実際はそうでもないかもしれないが、あまりサブキャラがなくて、ずっと4人の声ばかり聴いているような没入感がある。声だけのせいではなくて、アニメ的なガジェットとか、派手なアクションとか変身シーンとか魔法シーンとかなくて、視覚的なファンタジー要素は地味な石が光るだけのシーンしかないので、視聴者としては4人の女の子との顔の表情とか手足の動きとかを見るしかなくて(例えば、夏海と紗季、優香と凛子がくっついてしまうエピソードでは、地味な追いかけっこが長々と丁寧に描かれていて4人の身体の動きが記憶に残る)、そうしたストイックな女の子鑑賞作品であることが没入感を高めている。そして4人の女の子の絵がやはり地味に可愛くて、少し力を抜いてずっと見ていられる心地よさがある。例えば分かりやすいところでいえば、OPにおける紗季のこの表情が印象に残る。紗季は髪の毛のボリュームがあって少し重たい印象がある女の子なのだが、それが風で持ち上がりかけていることや、大人になりかかって生き方を考えるようになる中でふとぼんやりどこかを眺めているような一瞬の表情に目を奪われる。EDでは終盤に一瞬挿入される凛子のこの表情がよい。単に不思議系の女の子の真顔というわけではなく、この年齢の等身大の女の子が今現在も何かを見ているという強さというか余裕のなさというか、むき出しな一瞬を感じる(むき出しといえば、この凛子の姿勢とか顔の丸さも印象的だ。うまく言葉にできず自分でも何を言っているのかよく分からないが)。どれも一瞬のカットであり、抜き出した絵単体というよりは、前後との文脈の中での差異としても印象に残る。例えば、上の凛子のアップの顔はなんかゴロっと生で置かれるような挿入のされ方をしていて、むき出し感が高まっている。ちなみに、EDは改めてみると4人の部屋の順番に移していくカットとか、アスファルトに映る走る4人の影が変わっていく様子とか、4人を間接的に描く細かい演出がエモーショナルで面白い。もちろん本編にも改めてみればそういう一瞬がたくさん見つかると思う。一つ一つ挙げていく気力はないが、不思議なストーリーが、終わりに向かっていく焦燥感を微かに感じさせながらも、概ね毎回優しく終わるのもよかった。例えば、お化け屋敷を探検するエピソードは、シュタインズ・ゲートというよりは(最終話はさすがにシュタゲ風味を感じたが)、温かいオカルト話「きよみちゃん」を思い出した。
 個人的にはやはり紗季の表情と声が一番印象に残る。大人になったらきつめの美人になりそうな女の子で、既に落ち着いた表情とか物憂げな表情とかお母さんじみた物言いとかもするけど、まだ中学生なので丸さや幼さも残っていて不安定で絶妙なバランスになっている。第1話でかなり尖ったところを見せていたので、その後の友情にも常に陰影がついていたようでよかった。あと、八丈島に行くエピソードで透明になって全裸でうろついていたのも素晴らしかったし、小学生の自分にヌンチャクで殴打されて痛がっているのも可愛かった。4人のリーダー的ポジションにいない子が一番複雑に描かれていて、彼女がきっかけのエピソードが多かった。そのせいか不思議なバランスのとれた4人組になっていて、この感じこそがキセキだった。「終わらないものは思い出になってくれない」と言ってループする夏を終わらせようとする紗季は、個人的には作品のかなめになっていると思う。たぶん、他の女の子たちについても同様の感情移入で見ることはできるけど(例えば、凛子が手作りのコンサートチケットを見せたところで泣きそうになってしまったし、失恋や失敗を味わった優香を通して夏休みをみるのもいい)、僕の場合はたまたまこうなってしまったということだと思う。
 この作品が下田の町おこし的な意味を持っていたり、スフィアという声優ユニットに合わせて作られていたりすることは、個人的にわりとどうでもよいのだが(もともとアニメによる町おこしにも、物語やキャラクターから離れた声優という存在にも特に関心を持っていないし、キャラ声ではない声優ソングもあまり好きではない)、せっかくDVDなので特典のメイキング映像も並行して観た。メイキング映像はあまり集中してみると、声優やスタッフの顔とか言葉が作品を鑑賞する際のノイズになってしまうので軽めのながら見をするのが望ましく、とはいえどうしたって記憶に残ってしまうので本当に視聴してよかったのか分からないが、とりあえず関係者たちの顔と善意が見えたのはよかった。ついでに、いつか下田に行ってみる機会があるかは分からないが、行ったら面白いだろうなとお手軽な脳内聖地巡礼を想像する際の手助けにもなる。
 僕がこの作品の感想を書くとどうしてもおじさんが眩しい少女たちをじっくりと鑑賞する構図になってしまうのだが、作品自体はそんなおじさんとは関係なく美しく存在していて素晴らしい。

夏色キセキ

アニメと記憶の考古学

 17年ぶりくらいに最終兵器彼女を読み返した。たぶん前に読んだのはエロゲーを始めたか始めないかの頃くらいで、キスやエッチの描写がまだ物珍しくてドキドキしたことを覚えているが、話はだいぶ忘れてしまっており、細かい部分などをあれこれ楽しみながら再読した。後書きを読むと作者は奥さんとの恋愛を自伝的な要素して取り入れたように見受けられ、それがちせとシュウジの繊細で瑞々しいやりとりの描写につながっているのかなと思った。後半の「星」がどうたらといって大きすぎる話になってしまうのはさすがに実感をもって読むことができないが、ちせがいうと星という言葉も可愛らしく響いてしまい、仕方ないかなと説得されてしまう。二人の逃避行は、イリヤの空で中学校2年生の浅羽とイリヤがやろうとしたことを高校3年生のシュウジとちせがもう少し先まで頑張ってみたものであり、海辺の町の漁港とラーメン屋で働くつかのまでぎりぎりの生活さえも懐かしくなってしまうくらいに、築こうとする日常はあっけなく崩れていく。僕が逃避行の物語を刷り込まれたのは、エヴァの大量のSSだったか、イリヤの空だったか、最終兵器彼女だったか、それ以外のの何かだったかは分からないが、とにかく2000年代のこの時期にはこういう話を続けざまに読む機会があって、僕は誰かと一緒にどこかへ逃避することを夢見ていたのかもしれない。あるいは、90年代末から続く時代の空気がこのような逃避行を帯電していたのかもしれない。ちせとシュウジについては、人がいなくなった地球を離れて何だかよく分からない生命体(?)になってようやく安らぎを得る、あるいはそのよう安らぎを夢見て終わるという結末は、物語冒頭の坂道を一緒に登校するシーンから始まって時おり得ることができたつかの間の二人の時間という「日常」の延長であり、人の死とかセカイの破滅とかよりもこの日常の大切さを最後まで描いた作品だったなあと思う。ちせたちの物語とは比較にならないけど、僕の嫁さんも体がボロボロで大量の薬を手放せず、何かと戦っているかのようにいつも余裕がなく、引け目を感じながら生き、日常の小さな喜びを探しているような人間なので、この作品は共鳴できるところが少なくない(でも彼女はオタクではないので本作を進めても断固拒否された。いつか読んでほしいものだが)。
 最終兵器彼女はマンガを読んだのが先だったかアニメを観たのが先だったが今となってははっきりしないが、アニメではちせの北海道弁の可愛さが印象的だった。ごく個人的な印象だが、このアニメの北海道弁が十分正確なものだとすると、北海道弁大阪弁、京都弁、広島弁などとは違って、ゴリゴリこない控えめな方言であり、大部分は標準語と変わらないけど(ちなみに、東京西部で育った僕も子供の頃は男の子は~だべというのが結構浸透していたので、ちせたちの~だべは懐かしさを感じる)、ときどき語尾などのイントネーションが恥ずかしそうに少し変わるのが慎ましい感じがする。昔北海道に出張に行ったときに、なまら、はんかくさい、わや、なげる(捨てる)といった方言をお客さんから教えてもらったことがある。本作に出てくるものでは、「したっけ」とかよい。マンガでは分かりにくいところもある方言を楽しめるのがアニメであり、ヤフオクで未視聴の外伝OVAも含めて買ってしまった。本編は2002年、外伝は2005年の作品だが、どうやら画質は少し暗くなるけどどうにか鑑賞に堪えられそうだ。
 最終兵器彼女に先立ち、イリヤの空、UFOの夏の波も来てしまっており、まだ6月24日にも8月31日にも遠いがMAD動画などをあれこれ漁っていた。濃いファンの人が今でも毎年6月24日にボイスロイドによる聖地巡礼などの動画をアップしているのをみて嬉しくなった。アニメ版は尺が足りていない不幸な作品であり、個人的に浅羽のキャラデザと声も好きになれないのだが(秋山先生も原作を書いているときにはあのような女顔の浅羽は想定していなかったとか)、夏の滲んだ空気とか、戦闘機の泣けてくるような動きや質感とか、イリヤの声とか、部分的にみるべきところがあって、やっぱりヤフオクで買ってしまった。ついでにドラマCDと駒都えーじ氏のイラスト集もヤフオクで買った。1年くらい前に化物語シリーズのアニメをヤフオクでそろえて以来、少し古い作品はレンタル落ちの中古DVDが格安で手に入ることに味をしめてときどき何か買っている。サブスクはせかされている気がして嫌なので、こういうシステムがあるのは大変ありがたい。ついでに前から少し気になっていた、涼宮ハルヒの消失(2010年)、夏色キセキ(2012年)、リズと青い鳥(2018年)なども買ってしまった(他にまだ入札中のものもある)。気が向けば感想を書くかもしれない。
 ハチナイでハルヒコラボが始まった。涼宮ハルヒの憂鬱は昔1巻だけ読んでつまらなくて追いかけなかったが(当時読んでいた秋山瑞人中村九郎滝本竜彦といった面々に比べると文章が凡庸でクリシェだらけに思えた)、2006年と2009年のテレビアニメは毎週何が起こるのだろうと楽しみにしながら観ていた。みくる以外はキャラデザも声も好みではなかったが、それでも作品としては楽しめたし、今回のコラボでED主題歌などが流れてきたら懐かしさを感じた。ハチナイでは今風にきれいにのっぺりしているが、それでもいまだにSOS団だのエンドレスエイトだのを元気にやっているのをみると感慨深いものがある。僕の魂のようなものは2000年代に置いてきたままなのだろうか。
 今回の2000年代アニメ熱に先立って、連休の初めに池袋の古代オリエント博物館に行くことになって軽い古代熱があり、FGOバビロニア編の動画を漁ったり(ギルガメシュのキャラクターや古代のロマン、英雄たちの散り際の様式美がよかった)、メソポタミア関連のウィキペディアをあれこれ読んだり、オデュッセイア・ロシア語訳を読んだして(カリプソの島から脱出するくだりとか、王女ナウシカと出会って助けられるくだりとか)、博物館ではヒエログリフ楔形文字のアルファベット表だけでなく関智一さん朗読の『ギルガメシュ叙事詩』のCDまで買ってしまった。連休が世間より1週間早いので4月26日に博物館に行ったが見事にガラガラで僕たちの他には全館で1人しか客がおらず、ぜいたくなひと時だった。
 仕事と生活のリズムがある程度定まった10年くらい前からアニメの新旧の認識があまりなくなっており、各シーズンと共に見終わった作品が後ろへと流れ去り、このブログに痕跡を残すこともなく僕の歴史から消えていく。例えば前シーズンはスローループ、CUE!、明日ちゃん、着せ替え人形、前々シーズンは途中で断念したものも含めるとセレプロ、やくも、見える子ちゃん、境界戦機、無職転生、世界最高の暗殺者、プラオレ、サクガン、大正オトメ御伽噺、先輩がうざい後輩、逆転世界ノ電池少女、ジーズフレーム、鬼滅の刃遊郭編をみていたが、明日ちゃん以外は特に感想は残さなかった(ついでに書いておくとセレプロは今でもED主題歌を聴きまくっていて、あとスローループの恋ちゃんは可愛かった)。こうして作品名を列挙すると古くないのでまだけっこうはっきり作品を思い出せて、気楽に楽しんだりそれほどでもなかったりした記憶と共に微かな懐かしさも感じられるが、特に大きな感慨がわくでもない。今シーズンは処刑少女、ラブライブ虹ヶ咲学園、ヒーラー・ガール、パリピ孔明、であいもん、ヒロインたるもの、本好きの下克上をみていきそうな流れだが、何も感想は書かないで終わるかもしれない。この中ではヒーラー・ガールがかなり大胆な作品で驚きが多いが、他のものもどれも気楽に楽しめる。感想を書かれなかった作品は、僕の記憶の中のどこかのアッシリアの砂の中に埋もれて消えるわけだが、書いたとしてもやっぱり埋もれてしまうので大した違いはないのかもしれない。イリヤの空最終兵器彼女のように、いつか砂の中から発掘されて記憶の博物館に収蔵されるかどうかは分からない。

小鳥猊下『高天原勃津矢』

小説「高天原勃津矢(2006年)」|小鳥猊下|note

 この小説でぼろくそに批判されている「おたく」に少なからず当てはまるところがあると思っているところがある自分が何を感想として書いたらよいのか分からないし、批判されている当人が絶賛しても「お前本当にちゃんと理解してるのか」という突っ込みにちゃんと答えられそうにないし、この前に書いた『明日ちゃんのセーラー服』の感想を真っ向から否定してしまうかもしれなくて気が進まない部分があるのだが、それでもやはり面白かったので一言書いておこう。
 小鳥猊下氏のことをよく知らないので、何のために書かれた小説なのかはかりかねるところがある。元長作品や『動物化するポストモダン』を批判しているのだろうか(例えば、甲虫は動物を、エピローグの異様な母親は『猫撫ディストーション』を連想させた)。単なる消費者としてゆがんだ性的消費行動をするしかない僕たちを批判しているのだろうか。それとも、そういう批判の視点を僕たちに内面化させて成長を促すことで、実はエロゲー文化(あるいはエロゲー産業)にエールを送っているのだろうか。「何のために書かれた」という小賢しい身振りはぬきで、とにかくエロゲーをめぐる激情を叩きつけたものなのだろうか。そうはいっても、よく考え抜かれた思考が背後になければ無理な論理的な文章であり、雄弁で骨太な文体であり、最初から最後まで力に溢れた文章のリズムなので(この小説の最大の魅力はこの力強い文体でエロゲーやおたくを語っていることだ)、意図をはかりかねるというのは単に僕の理解力が乏しいだけなのだろう。
 2006年の小説。エロゲーとは、オタクとはいったテーマがこれほどの熱を込めて語られることは今ではもうないかもしれないし、あったとしてもそれはノスタルジーの混ざった去勢済みの語りになりがちだろう。そうはいってもエロゲーは永遠の現在を表現しているものだから、エロゲーを語ることも古くならないと言ったとしても、それは思考停止であり、本当に動物的反応を今でも繰り返しているだけの動物になってしまったと言われるかもしれない。世界には頑張って苦しみ抜かないとたどり着けない真実なんてなくて、世界のサイズはだいたいは分かってしまったので、それならもう安心しちゃって、なるべく痛みを感じないように生きていこう、そのためにはおたく的な楽園を見つけてそれを見つめながら生きていくのが一番現実的だという考え方。それを痛烈に批判している。なにか素晴らしいものがあったとして、それを見つけたら、手に入れたら、その後はエピローグではいけないのか。回想シーンでそれを振り返る余生ではいけないのか。さらに素晴らしいものを探し始めなければいけないのか。素晴らしいもののインフレに乗っていかなければならないのか。人生はどこまでも気を抜かずに積み上げていくしかないのか。クラナドにおける幸せは、自分一人では手に入れられなくて、自分の中で完結させることもできなくて、結局は親から子供へと引き継がれていくものとして描かれていた。もうある程度満足しちゃったから、あとは自分の子供たちにその先を進んでいってほしいという態度。我ながらつまらない大人(成熟した大人ではなく、単に老いて摩耗した子供だ)になってしまったが、いつのまにか、エロゲーにうつつを抜かしているうちにだろうか、自分の中のエネルギーがなくなってしまっていたのかもしれない。
 ともあれ、こういう視力を持った人がネットに健在というのはありがたいことで、この人の文章をもう少し読んでみた方がいいのかもしれない。エロゲー愛を語ったものはないかもしれないけど。

博『明日ちゃんのセーラー服』

 アニメが毎週素晴らしくて、最終回を前に原作マンガを9巻まで全部買って読んでしまった。そのせいか、アニメ最終回の後夜祭のエピソードはいまいち盛り上がらなかった印象だった。ほとんど明日ちゃんが踊っているだけのエピソードなので、アニメで盛り上げることはできるように思えるけど、前週の木崎さんの幻想の中の明日ちゃんの踊りのアニメーションには届かず、わりと写実的な描写にとどまったようだった。
 マンガは明日ちゃんが体を動かしているコマやふとした表情を切り取ったコマが多いが、「切り取った」というのがポイントだ。アニメだと連続性と動きがあるつくりにならざるを得ないけど(個々のコマは止まった絵なのだろうけど)、マンガは非連続のポーズとポーズ、表情と表情の間の飛躍があって、それが読者の頭の中で埋められて動きや緩急、さらには木崎さん的に明日ちゃんの匂いとか気配みたいなものまで感じられる。髪の毛は翻りすぎだし、スカートははためきすぎだけど、ここはそういう重力が働き、そういう風が吹く世界なのだ。ただし声がつくという意味ではアニメには大きなアドバンテージがあって、アニメを見てからマンガを読むとそれぞれの女の子たちの声が聞こえてくるようでよかった。
 マンガは今は球詠と乙嫁語くらいしか追いかけていないのだが、明日ちゃんは大きな収穫だった。最近はウクライナ戦争のせいで週末も仕事が忙しく、会社の経営は確実に悪くなりそうだし、そのせいでさらに無理して働かされそうだし、家計の状態も心もとなくなっていきそうだし(結局、トラブルもあったので出産関連で300万円くらいかかってしまい、もし2人目ということになれば今以上に相当な倹約生活を強いられる)、ロシアに対するもどかしさも感じる日々が続いているのだが、明日ちゃんのおかげで心が安らぐ。安らぐというか、明日ちゃんたちの表情や体の動きはあまりに心がむき出しになっていて、それを作者があまりに愛情を込めて描いているので、見ているこちらが恥ずかしくなって、あるいは嬉しくなって、読みながら何度も笑ったり奇声をあげたりしてしまう。昨日と今日はワクチンの3回目接種で副反応が出て寝込んでいて、熱や頭痛に苦しむ合間にずっと明日ちゃんを読んでいたのだが、再読してもやはり笑ってしまうのだった。仕事のストレスと明日ちゃんの楽園的世界の落差に見当識が失われてしまったようだった。
 既刊9巻のうち最初に読んだのは9巻だったのだが、そのはじめの蛍ちゃんのエピソードが素晴らしかった。エピソードといってもストーリーはほぼなく、あるのは明日ちゃんと蛍ちゃんの不思議な感情の流れだけだった。蛍ちゃんは髪の毛の量が多くて走り回るとバサバサと翻るのだが、そのせいで風を感じられるようで、とても爽やかな読後感である。この作品全体にもいえることだけど、思春期の女の子の不安定な心の動きを詩的に表現する技法は少女マンガ的で、大島弓子作品を思わせるところがあった。大島作品でも女の子たちが元気いっぱいに走り回ったり、唐突にパンクな衝動に駆られていたずらしたりすることがあったと思うが、明日ちゃんも何かあるとすぐに踊り出してしまうし、そうでなくても表情がころころと変わるので見ているだけで面白い。というかその可愛い様子を見せることに作者が全力を注いでいるので他にやることもないのだが。説明的なセリフでコマを使ってしまうのはもったいない、説明は省いて全てのコマを決め顔で埋め尽くすべきというような意気込みを感じる。絵柄はアニメの方では雫や痕を思わせるような溶けた垂れ目が多かったり、手塚治虫作品の女性キャラや女性動物のような鼻が突き出た横顔(鹿とかのイメージは明日ちゃんにぴったりなのでおかしくはないのだが)がちょっとやりすぎに思えた場面もあったが、マンガの方は肖像画かというような気合の入った絵が多くて見ていて飽きず(特にカラーページは素晴らしい。光沢紙ではない艶消しの紙なので、インクの乗り具合とか質感を感じられる)、もう少し大きな判型で印刷した方がよかったと思う。9巻では鷲尾さんと苗代さんという大人びた二人の問題を抱えて悩む明日ちゃんがなぜか激しく筋トレをし始めるシーンがあって、その様子が何ページも力強く描かれていて圧倒的なのだが(あと鷲尾さんの筋肉がすごい。確かに僕も中学では1年から身長が173cmくらいあるムキムキの男の子がいて驚いたのを思い出した。けっこう気さくなやつで、不良グループにも僕みたいな臆病者にも分け隔てなかった)、肥満気味中年男性の僕も明日ちゃんになった気で筋トレをしたいと思ったものである。しかし苗代さんの悲恋はどうなってしまうのだろうか。ジョギングで鷲尾さんについて行こうと一生懸命走るシーンは、切なくて美しいものを見せられているように感じる。
 そのあと1~8巻も読んだが、やはり面白かったのはアニメ化されていないエピソードだった。アニメ化されたものはアニメで堪能してしまったので、驚きは少ない。基本的に突飛なストーリー展開などで見せるマンガではなく、女子中学生たちの美しい姿を絵画のように鑑賞するマンガなので、全く楽しめないことはないのだけど、マンガかアニメのどちらか先に触れた方が主になってしまい、同時に最大限に楽しむことができないというのはもったいない気もする。先にマンガを読んでいた人よりはアニメを楽しめたとは思うが。というわけで、特によかったのは明日ちゃんの東京旅行のエピソードだった。兎原さんの話(と絵)がかなりよく、彼女が木崎さんを押しのけるほどヒロインになるのもいいなと思えた。この先もそのおでこを曇らせることなく楽しく中学校生活を送ってほしいものだ。兎原さんの実家の描写は、浮世離れした学校生活とは違って庶民的でほっとさせるものがあったが、その対象となる木崎さんの家のエピソードも面白かった。木崎さんは髪を結んで変な触角を2本作っていてあまり似合っていないのだが、彼女の中の子供らしい部分が現れているようで微笑ましい。実際にこのエピソードで描かれたのはささやかなことなのだろうけど、彼女たちの表情と感情の動きを追いかけているととても濃密に思える。僕の子供の頃は、美少女を入念に描いた作品と言えばせいぜい電影少女とかだったけど、マンガにおける美少女の表現や作劇はここまで進化し、純化されていたのかと感心する。
 夏休みの家族旅行のエピソードは、あまりにも美しく描かれすぎていてシュールな感じがして面白い。明日ちゃんのお父さんがイケメン過ぎて面白いし、お父さんの着替えシーンも明日ちゃんの踊りのシーンのように入念に描かれていて笑ってしまう。このような神話的存在としての完璧な父親を演じるのは僕には無理だと複雑な思いも抱く。お母さんもなぜか水着への着替えシーンが入念に描かれていて、その後のスキューバダイビングでもヒロインみたいな扱いになっていて、別に求めていないのになんなんだこれはと困惑する。明日ちゃんから見たらお父さんとお母さんはこういう風に見えているということだろうか。
 『明日ちゃんのセーラー服』はただのマンガだし、田舎の高偏差値女子中学校なんてほぼ空想上の存在のようなものだが、残念なことにこれより軽やかで美しいものはこの世にはあまりなさそうである。明日ちゃんは別に世の中や世界のいろんなことを知っているわけではないのだが、それでも一番美しいものは知っているという生き方をしているし、そういう日々を過ごしている。これは高校生や大人になると失われてしまうものなのだろうか。こんなマンガに負けないように僕も人生をがんばっていかなければならないのだが、それはそれとしてこの先もこの祈りのような作品を読んでいきたい。

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瞬旭のティルヒア (55)

 dawnをロシア語にするとザリャーで、夜明けの意味の他に黄昏の意味もあって、金色に輝く空では終わりの予感と始まりの予感は混ざり合っている。スチパンシリーズの黄昏を感じると同時に、幕末の時代の夜明けの雰囲気も感じた作品だった。

 黄雷のガクトゥーンはなんか暗さがなさそうなので見送り、それ以来、スチームパンクシリーズから遠ざかっていた。大機関ボックスを買ってサントラは繰り返し聞いたけど、フルボイスになったゲームたちの方はまだやり直さないまま現在に至っている。そうこうするうちにシリーズもいろんな事情で止まってしまったようだった。ティルヒアについては、同人誌第1話だけコミケで買って読んで、ヒロインのキャラデザがいいなと思ったけど、断片なので評価もできないまま忘れてしまっていた。そうしたらいつの間にか続きも出て、ゲーム化されていたのを見つけて、先日、気まぐれに買ってみたのだった。久々に聴いたかわしまりのさんの声がじんわりと体に沁みわたった。
 インガノックからソナーニルに至る2007~10年のスチームパンクシリーズは何だったのだろうか。特にシャルノスとヴァルーシアの雰囲気は最高で、エロゲーでかような世紀末文学の香りに満ちた作品に出会えた奇跡に驚くことしきりだった。シリーズとして維持できなかったとしても、そのことには今でも感謝するしかない。
 本作『瞬旭のティルヒア』の出来が悪いのは別の話。シナリオなどはある程度以前のスタッフが関わっているらしいけど、それだけじゃだめなんだろうな。エロゲーでやってもさっぱり見栄えのしない話になっていて、設定こそはシリーズのものを使っているけど、何もかもが行き届いていなかった。テンプレ的なキャラクターのテンプレ的なやり取りを延々と見せられても。チャンバラアクションをやって読めるのはFateの人くらいだと改めて思った。絵とテキストと音声の美的な組み合わせが絶望的にかみ合っていなかったので、なんか頑張っているらしいシーンも安っぽく見えてしまった(フルスクリーンにすると縦横比が崩れるのでウインドウモードでやらざるを得なかったことも影響した)。不満はいくらでもあるが、今更そんなこと書いても仕方ないので、少しはいいところも書いておこう。
 個人的な印象だが、幕末明治の頃のロマンというのは若さにある。人が若いし国も若い。人が少なくて空気が爽やかできれいで涼しい。もちろん、当時の日本は長い歴史を持つそれなりに古い国であり、今の日本より古さが感じられるといってもいいくらいなのだろうけど、『吾輩は猫である』とか読んでも(ゴールデンカムイでもいいが)、どうしようもない涼しさを感じてしまうのだ。ヒロインの名前はりんだが、そこにも涼しさと凛とした美しさがある。いろいろと不満は書いたが、この時代のひんやりした感じは時おり感じることができた。りんがこの時代のきれいな光や空気(基本的に煤で汚れているらしいが)を楽しんでいる場面の絵に、この作品のいいところが結晶化されている。これとかこれとか、特に時代の何かが描かれているわけではなくても空気が伝わるのは、りんと一緒に描かれており、りんの目を通してみているように思えるからだろう。八郎も彼女によく似合っている。あと、全ての悪夢(まさしく悪夢)が終わった後、二人が大げさな演出もなく(何かの不具合でOPムービーとEDムービーは流れないので演出があったかどうかも分からないが)、ひっそりと慎ましく北海道だかサハリンだかで暮らしているという静かな終わり方も好ましかった。りんのおっぱいは大きくなったのだろうか。二人はいつかほとぼりが冷めたら東京に戻り、その喧騒の中で元気に生きていくのかもしれないけど、しばらくは北国で静かな生活を楽しんでほしいなと思う。

Quartett! (70)

 ドイツだかオーストリアだかの音楽院を舞台に、水彩のラフ画風のやわらかい絵とクラシックなBGM、マンガ風のコマ割りや吹き出しによる画面構成で、エロゲーとしてはとても珍しい作品だ。いまさらながら大槍葦人作品は初プレイで、もちろん以前から絵を目にしたことは何度もあったけど、何しろエロさを感じないのでスルーしていた。ジブリ世界名作劇場あだち充…的外れかもしれないが、僕の中ではそういう連想の画風で、耽美的な方向に素晴らしく進化していることは分かるのだが、どうしてもエロさと結びつかない。
 女の子たちが妖精のようで、外人の少女のようで、ガリガリなのもダメだった(エロさの点では)。本作のメインヒロインのシャルなんて、ふわふわの金髪碧眼、身長136cm、体重30kg、胸囲60cmだからなあ。この子とエロいことをしたいというよりは、この子が可愛い服を着て笑ったり可愛いポーズをとったりしているのを見ていたいという方向になってしまう。
 この作品のFFDというマンガ風インターフェイスのシステムは、実際にそういう風に女の子を眺めるには便利なのかもしれない。通常のエロゲーのようにプレイヤーはヒロインの立ち絵を変質的な視線で舐めまわし、細部を味わい、ヒロインと視線を合わせて恍惚とするのではなく、自分から能動的に絵を見るというよりは、FFDの視線誘導システムにコントロールされ、次々とリズミカルに現れるコマや吹き出しに目を滑らせていくことを余儀なくされる。女の子の表情やフェティッシュな細部をゆっくりと視姦できず、戸惑う変質者。ラフスケッチ風の絵も、マンガ風のコマも、その中のヒロインたちのポーズや表情も、そこに動きがあること、線的に流れていく一瞬を拾ったものであることを示している。動いている、つまり主体的なものであり、プレイヤーが物語や女の子に好き勝手に介入しにくい感じがある。エロゲーは介入しやすいからこそ没入感が高まる気がするし(絵は止まっているが、同時にプレイヤーを見つめている)、本作のように吹き出しでストーリーが進行してしまう、つまり主人公のモノローグがエッチシーンくらいしかないようだと、それも没入を浅くさせるような気がする。そのエッチシーンもズームされた断片のコマが絶えず上下左右に流れ続けるので、雰囲気は非常に心地よいけれど、実用のために「集中」することができない。
 いわゆるエロゲーのクリックの快楽のついても、マンガ1ページ分のコマと吹き出しは毎回演出上の決められた速度で自動表示されてしまうので、クリックする機会が少なく、プレイヤーはゲーム側から制御されていると感じてしまう。しかしそのテンポは心地よく、時間芸術としての音楽を鑑賞しているのに近い。気がつくと、脂ぎり血走った目の変態ではなく、パリッとしたスーツを着て鼻眼鏡に白手袋の変態紳士として鑑賞している。
 しかし、音楽を演奏している人を鑑賞するという行為に以前から疑問がある。声優の顔を見るべきかどうか問題にも通じるところがあるが、音楽の主役は音であって、音を出している人の視覚情報は原則的にはノイズであるはずだ。演奏者のファッションはもちろん、目を閉じて恍惚としたり苦悶したりしている表情も、それを僕たちが真面目に鑑賞させられるのは矛盾があるような気がして居心地が悪い。本作では音楽の制作にはかなり力を入れたそうなので少なくとも素人の僕には十分楽しめるものになっているが、ビジュアルノベル的な作品である以上、美男美女たちが気持ちよさそうに演奏している絵を延々と見せられる、ミュージシャンビジュアルフェチの光景にはやはりどこか居心地の悪さがある。演奏者自身は目を閉じ、悪い言い方をすると自己満足に浸っており、僕はそれを押しつけられているように感じる危険があり、本作が持つ本質的なリスクであるように思える。プレイヤーとキャラクターの距離の問題だ。例えば、キラ☆キラやMusicusでは、主人公が非常に冷めており、音については熱かったので、この問題についてはバランスがとれていたと思う。とはいえ、こんなことを言っているようではまだ鼻眼鏡の変態紳士にはなれないな。
 全体として話は短いのにCG数は180枚であり、しかも動的な表示方法で出てくるので、絵のボリュームが多く感じる。まだ感想を書いていないのだが(書く気になるのかもわからない)、最近では「マルコと銀河竜」が似たようなハイペースで絵を表示させるつくりになっていた。でも「マルコと銀河竜」は一般的なエロゲーの画風なので、どちらかというと無駄に強い色で塗った絵を使い捨てていっている印象があったが、本作は色調も線も優しくて統一感があり、完成度がはるかに高い。
 美麗な絵は特典の画集でゆっくり鑑賞することができるのだが、絵の横に小さな文字で意味ありげな英語やドイツ語の言葉が何やら書かれている。中国人ヒロイン・スーファのページには美しい漢詩が掲載されていて、作中に登場する老醜をさらす老人の心境を推察させるものになっているのだが、これが中年になった僕にもけっこう響くので前半を引用しておこう。恥ずかしながら本作で知った詩で、7世紀の詩人の作だそうだ。

 

代悲白頭翁      白頭を悲しむ翁に代って

洛陽城東桃李花    洛陽城東 桃李の花、     
飛來飛去落誰家 飛び来たり飛び去って誰が家にか落つ。     
洛陽女兒惜顏色    洛陽の女児 顔色を惜しみ、     
行逢落花長歎息 行々落花に逢うて長歎息す。     
今年花落顏色改    今年 花落ちて顔色改まり、     
明年花開復誰在 明年 花開いて復(ま)た誰か在る。     
已見松柏摧爲薪    已(すで)に見る 松柏の摧(くだ)かれて薪と為るを、     
更聞桑田變成海    更に聞く 桑田の変じて海と成るを。     
古人無復洛城東 古人 洛城の東に復(かえ)る無く、     
今人還對落花風    今人 還(ま)た落花の風に対す。     
年年歳歳花相似 年年歳歳 花相似たり、     
歳歳年年人不同 歳歳年年 人同じからず。     
寄言全盛紅顏子    言を寄す 全盛の紅顔の子(こ)、     
應憐半死白頭翁 応(まさ)に憐れむべし 半死の白頭翁。
此翁白頭眞可憐    此の翁 白頭 真に憐れむ可し、
伊昔紅顏美少年 伊(こ)れ昔は紅顔の美少年。
公子王孫芳樹下 公子王孫 芳樹の下、
清歌妙舞落花前    清歌妙舞す 落花の前。

(口語訳)
洛陽の城東に咲き乱れる桃や李(すもも)の花は、風の吹くままに飛び散って、どこの家に落ちてゆくのか。
洛陽の乙女たちは、わが容色のうつろいやすさを思い、みちみち落花を眺めて深いため息をつく。
今年、花が散って春が逝くとともに、人の容色もしだいに衰える。来年花開く頃には誰がなお生きていることか。
常緑を謳われる松や柏も切り倒されて薪となるのを現に見たし、青々とした桑畑もいつしか海に変わってしまうことも話に聞いている。
昔、この洛陽の東で花の散るのを嘆じた人ももう二度と帰っては来ないし、今の人もまた花を吹き散らす風に向かって嘆いているのだ。
年ごとに咲く花は変わらぬが、年ごとに花見る人は変わってゆく。
今を盛りの紅顔の若者たちよ、どうかこの半ば死にかけた白髪の老人を憐れと思っておくれ。
なるほどこの老いぼれの白髪頭はまことに憐れむべきものだが、これでも昔は紅顔の美少年だったのだ。
貴公子たちとともに花かおる樹のもとにうちつどい、散る花の前で清やかに歌い、品よく舞って遊んだものだ。

 

 年年歳歳、花相似たり。歳歳年年、人同じからず。
 関係ないが、20代の頃、血色がよかったためか会社の上司に「紅顔の美少年」といわれて困惑したことがあったが、この詩からの引用だったのかな。本作のマンガのようなイケメン主人公のフィル君には遠く及ばないが。いずれにせよ、僕はスーツに鼻眼鏡の変態紳士というよりは、「応(まさ)に憐れむべし 半死の白頭翁」の方が似つかわしいような気がしてきたのだった。
 ストーリーについては細かく語る力もないが、3つのルート共に終わり方がよかったことは書いておこう。特にシャルルートの明るくて少し切ない感じがよかった。最後のフィナーレでフィルはこの音楽院での生活を感傷的に振り返る。作中の3ヶ月のあとに4人がどのような時間を過ごしたのかはわからない。演奏者たちが離散すれば、その音楽は記憶の中にしか残らない。でもまだこのフィナーレの時点のフィルたちは25歳にもなっていないくらいだし、結局もう一回集まって弾いてみるといういいシーンで終わった。白頭翁の心境になるのは20年以上先だろうから、どちらかというと製作者やプレイヤーの視点だろう。
 大槍画の少女たちはただでさえ妖精のように軽やかで儚げなのに、それが音楽を奏でていて、しかも弦楽器だ。昔、モスクワの音楽院で日本人のピアニストやバイオリニストの卵たちの授業を通訳するバイトを少しだけしたことがあるが、音楽院の生活に関するイメージはそれくらいだ。あとはどこで見聞きしたか覚えていないが、音楽教育は何かと神経を使う重苦しいものだというイメージがある。この作品のやわらかくて温かい空気で、少なくとも弦楽器については少しイメージが明るくなった。やはり音楽の一番いい部分には、この作品ののように明るく、軽やかであってほしい。

Steins;Gate Zero (75)

 攻略順があまりよくなかったようで(最後の「交差座標のスターダスト」の前がかがりエンドと真帆エンドになってしまった)、しりすぼみ感のある終わり方になってしまったのだが気を取り直していこう。
 アニメ版を見てたのでだいたいの流れや雰囲気は覚えていたけど、やはり重たい雰囲気の話だった。前作が夏の話だったのに対して今回は冬からルートによっては夏にかけてだったけど、この重たい雰囲気のせいか、クリスマスや初詣のイベントがあったせいか、ヒロインたちの立ち絵の服装のせいか、冬の印象が強い。みんなたくさん服を着ていて、服の中に隠れていたりスーツのような服がパリッとした身体の線を作っていたりして、みんなが少しすましたような、遠くにいるような感じがして寂しさがある(特にまゆり)。前作で印象的だったテクスチャーの使い方や立ち絵の不思議な感じがマイルドになっていて少し残念だが、でも萌郁とか由季さんとかカエデさんとかあか抜けた美人の立ち絵は嬉しかった。
 秋葉原も今回は少しよそよそしい感じがしたが、そもそも岡部にとってつらい場所ばかりになっていたのでしかたない。くよくよしすぎだとみえないこともないけど、精神的な疾患で気分が不安定になっている人間の危うさをよく表していたと思う(PTSDの人を近くで見たことがあるわけではないけど、あれが疾患だというのは他の病気の人を見た経験から感じられる)。ひょっとしたら2036年のさらに暗い世界や秘密組織の殺伐とした争いが出てくるから、その影がなんとなくこの作品全体にかかってしまっているように感じられるのかもしれない(いきなり「ウラジーミル・プーシン大統領」が出てきたのには笑ったが)。紅莉栖のオタバレとかなごめるシーンが少ないのも寂しい。今回の作品のビジュアル的な薄暗さは記憶を振り返る時のどこか温かい薄暗さなのか、ほこりっぽい廃墟のような薄暗さなのか、混ざり合って判然としないようなところがある。
 前作の感想でも書いた通り、物語がテンポよく広がっていくのに引き込まれていく楽しさがあったのは、タイムマシンの開発をめぐる前半部分であり、確立したその技術を使って物語をたたんでいく後半は重苦しい過程だった。今回の続編でははじめから技術的な部分は確立していたので、それを使って陰鬱なスパイアクションめいた話を進めていくというやはり重苦しい話になってしまった。
 だからかがりルート(相互再帰マザーグース)は印象的だった。箸休めのような短めの寄り道ルートだけど、優しい空気と、過不足なく温かく閉じていく物語がとても心地よい。最後の絵もちょっと表情が硬くて怖く見えなくもないけど、時間の中にずっと浸っているような表情でもあり、前作の画風にも近くてよい。かがりとまゆりの温かい絆が物語の核にある。二人の声と歌声に温かさを乗せて語らせている。エロゲーらしくない真面目なよさがある。かがりの立ち絵は、少しバランスが悪くて硬直した感じがあるのだが、彼女の子供らしい無防備さ、ナイーブさを表しているようにも思える。
 真帆のルートはちょっと期待していた恋愛展開にはならなかったのが残念といえば残念だったけど、納得のいく終わり方ではあった。でも、どのルートの終わり方にもいえることだけど、これから始まるということろで終わってしまう。エロゲーなら恋愛が成就したりすればきれいに終われるのだけど、この作品は最後まで描くと前作の最後と似たような感じになってしまうから途中で終わらせたのだろうか。「世界線」という言葉はシュタゲで知ったのだが、線であること、つまり始まりから終わりに向かって一直線に進んでいってそのまま終わってしまうということは、必ずしもプレイヤーが望んでいることではない。終わらない線、ループとかあるいはもっと複雑な終わらない構造体を幸せなものとして作り上げるのが快楽装置としての物語の最終目標なのかもしれないが、前作の鈴羽ルートで袋小路としてネガティブに描かれてしまっていた。あるいは、必ずしもネガティブとはいえない宙づりの形で示しているのがギャングスタ・リパブリカとかかもしれないが、あれが無条件に幸せで楽しいかというと保留がつく。結局、僕たちは短くて有限な線を何度も何度も、狂ったように何度も終わらせては新たに始めて、いくつもつなげていって、いつか一つの線として振り返って認識するしかないのか。そう考えた時の疲労感のようなものを、これから頑張って人生を生きていかなければならない真帆の最後のシーンに重ねてみてしまう。そんなに背負ってばかりいたら、いつまでも背が伸びないよ。そしてそういう重みを引き受ける元気を与えてくれるのが、紅莉栖という存在なのだろう。でもこの寂しい終わりの先は想像するべきではないのだっけ。最終ルートの展開では、アマデウスは消去されていなかったような気がするし、そもそも紅莉栖も助かる世界線にたどりついて、真帆は彼女と一緒に幸せにアマデウスの研究していることになっているのか。
 しかし、世界線を移動すると、元の世界線は「なかったことになる」というのは改めていうまでもないけど暴力的だな。その分通ってきた道を背負わなければならないという倫理の問題が出てきて、物語としては重くなっていく(マルチエンドのエロゲーはその点は無責任で慎ましいのかもしれない)。この作品では、誰かが、あるいは何かが欠けているエンディングしか描かれていない。作品自体にもハッピーエンドが欠けており、あるいはまだ描かれていない。みんな、まだどこかに向かって線の上を歩いている途中だ。そして僕の思考もその欠けている何かに方向づけられてしまい、余韻を持続させたくなる。物語を終わらせたくなければこの欠損の感覚を意識し続けるのがいいのだろうけど、どうだろう。とりあえずサントラでも聴くか。あと、とりあえずスクショした画像でも置いておこう:

P.S. サントラはリミックス曲集だったのでいまいちだった(リミックスが気に入ったことはこれまでにない)。テクノっぽい音にアマデウスのSF感をなんとなく想像できないこともないが。

P.P.S 最後に今回シュタインズ・ゲート2作を手に取ったそもそものきっかけも書き残しておこう。くだらなすぎてどうしようもないが、急にレスキネン教授の「リンターロ!」を聞いておきたくなってしまったことだった。2022年のリンターロ!世界線はまだ無限に広がっている!