小鳥猊下『高天原勃津矢』

小説「高天原勃津矢(2006年)」|小鳥猊下|note

 この小説でぼろくそに批判されている「おたく」に少なからず当てはまるところがあると思っているところがある自分が何を感想として書いたらよいのか分からないし、批判されている当人が絶賛しても「お前本当にちゃんと理解してるのか」という突っ込みにちゃんと答えられそうにないし、この前に書いた『明日ちゃんのセーラー服』の感想を真っ向から否定してしまうかもしれなくて気が進まない部分があるのだが、それでもやはり面白かったので一言書いておこう。
 小鳥猊下氏のことをよく知らないので、何のために書かれた小説なのかはかりかねるところがある。元長作品や『動物化するポストモダン』を批判しているのだろうか(例えば、甲虫は動物を、エピローグの異様な母親は『猫撫ディストーション』を連想させた)。単なる消費者としてゆがんだ性的消費行動をするしかない僕たちを批判しているのだろうか。それとも、そういう批判の視点を僕たちに内面化させて成長を促すことで、実はエロゲー文化(あるいはエロゲー産業)にエールを送っているのだろうか。「何のために書かれた」という小賢しい身振りはぬきで、とにかくエロゲーをめぐる激情を叩きつけたものなのだろうか。そうはいっても、よく考え抜かれた思考が背後になければ無理な論理的な文章であり、雄弁で骨太な文体であり、最初から最後まで力に溢れた文章のリズムなので(この小説の最大の魅力はこの力強い文体でエロゲーやおたくを語っていることだ)、意図をはかりかねるというのは単に僕の理解力が乏しいだけなのだろう。
 2006年の小説。エロゲーとは、オタクとはいったテーマがこれほどの熱を込めて語られることは今ではもうないかもしれないし、あったとしてもそれはノスタルジーの混ざった去勢済みの語りになりがちだろう。そうはいってもエロゲーは永遠の現在を表現しているものだから、エロゲーを語ることも古くならないと言ったとしても、それは思考停止であり、本当に動物的反応を今でも繰り返しているだけの動物になってしまったと言われるかもしれない。世界には頑張って苦しみ抜かないとたどり着けない真実なんてなくて、世界のサイズはだいたいは分かってしまったので、それならもう安心しちゃって、なるべく痛みを感じないように生きていこう、そのためにはおたく的な楽園を見つけてそれを見つめながら生きていくのが一番現実的だという考え方。それを痛烈に批判している。なにか素晴らしいものがあったとして、それを見つけたら、手に入れたら、その後はエピローグではいけないのか。回想シーンでそれを振り返る余生ではいけないのか。さらに素晴らしいものを探し始めなければいけないのか。素晴らしいもののインフレに乗っていかなければならないのか。人生はどこまでも気を抜かずに積み上げていくしかないのか。クラナドにおける幸せは、自分一人では手に入れられなくて、自分の中で完結させることもできなくて、結局は親から子供へと引き継がれていくものとして描かれていた。もうある程度満足しちゃったから、あとは自分の子供たちにその先を進んでいってほしいという態度。我ながらつまらない大人(成熟した大人ではなく、単に老いて摩耗した子供だ)になってしまったが、いつのまにか、エロゲーにうつつを抜かしているうちにだろうか、自分の中のエネルギーがなくなってしまっていたのかもしれない。
 ともあれ、こういう視力を持った人がネットに健在というのはありがたいことで、この人の文章をもう少し読んでみた方がいいのかもしれない。エロゲー愛を語ったものはないかもしれないけど。