星空めてお『ファイヤーガール』

(アマゾンではない巻もあるようなので一応公式も)

 『謀略のズヴィズダー』がどうやら立川あたりを舞台にしているらしいことは、補足的な楽しみを提供してくれそうなので、ぜひともこの機会に昔の記憶を積極的に美化しておきたいところである。今から約20年前、インターネットも携帯電話も知らなかった頃に、生活の拠点と言うのが大げさならば、少なくとも毎日通っていたのが立川だった。そもそもそれ以前の小・中学校の頃から立川は僕の意識の中に存在していたが、当時の立川は世界の終点であり、立川より先に地図は広がっておらず、といっても立川は「B&D」というサッカーショップにスパイクを買いに行くくらいしか子供には用がなく、実在の街というよりはどちらかというと象徴的存在だった。立川まで通う「大人」になったのは高校からだ。Hello, Againも立川の頃の記憶とともにある。dvaでもdvoikaでもdvushkaでもなく、「どばあ」と珍妙なロシア語で呼んでくれる幼女はいなかったが、走り回ってボールを蹴ったり、コンビニに弁当を買いに行ったり、授業をサボったり泊り込んだりして体育祭の準備をしたり、こっそりフォーチュンクエストやドストエフスキーにはまったり(品揃えのよかったフロム中部の本屋はまだあるだろうか)、片思いが本格的な恋にもならないうちにあえなく潰えたりしたのは、すべて立川だった。今はフォレストの舞台となった街から遠くない場所で一日の大半を過ごす生活。単なる背景以上のものではないのかもしれないが、立川とロシアと幼女というピンポイントな爆撃を、この際思い切り被弾しておきたいものである。
 前置き終わり。
 腐り姫やフォレストでは、文章から作家の息遣いを感じさせず、過去の作品やジャンルから色々拝借しつつも借り物感のない作品にまとめる、底の見えない作家という印象だった。物語としての面白さを肉付けることにすべてを集中しているというか。僕の読み方ではそう見えてしまうというだけなのかもしれないけど。
 というわけで僕には星空めておという作家の個性はよく分かっていないので、とりあえず「〜ではない」という否定的な特徴づけしかできない。本作は一見すると青春部活物というようなジャンルに回収できるような小説で、未知の世界の探索をする探検部という設定でそのジャンルを可能な限り壮大なものにしようとしている作品と言えるのかもしれない。今風のライトノベルみたいにテンポのよいかけあいやつっこみで話を進めつつも、設定の開示やストーリーの展開が抑制されていて、どこまでいっても語りが先走った感がない、登場人物たちの目線で辛抱強く話を進めていく。『人類は衰退しました』のように情念がこもった語りでもない、見る主体や語る主体に負けない新鮮な世界。高校生たちにとっては、部活のしごきも未知の惑星の探索も同じようにセンスオブワンダーに満ちた世界である。エロゲー的に恋愛と世界の秘密が物語の特権的な位置を占めているわけでもない、価値体系が未分化の物語であり、まだ底の見えない不安定な世界であることこそが青春の甘美さである。江ノ島にしろ虚惑星にしろ未踏破の地域は広大で、高校生の皮膚感覚でも理解できるような体育会的なあるいは単純な方法によって少しずつ広げていくしかない。卒業するころにはその未知の世界の冒険とは別れなければならないから、その世界を見る目は永遠に若い目であり、その若さも一緒に語って聞かされる僕らにとっては麻薬的な魅力を持つことになる。というのは、まあ、青春部活物の一般論でもあるのだけれど、本作のけれんみも照れもない(「ない」ばかりだ)純化された語りは、古風なようでいてサービス精神に溢れたとても狡猾なものであるかもしれないのだ。
 現代の大人の大半は、生存能力の低い甘やかされた人間という自己認識で楽に生きていられるのならそっちを選びそうな気がする。ほむらというキャラクターは誇張されているのかもしれないけど、僕らにとってはストレスが低い。低いけど、大人ではない彼女がいるのは、「天才などいくらでもいる」と言えるほどに世界の広さを知ってしまった大人、地図を持つ大人の見方に毒されていない、僕らにとっては彼岸の世界である。そこにすれ違いがあり、軽さや未熟さの意味合いの違いがあるのだけれど、それを狡猾な仕掛けと言っていいのかは分からない。彼女が魔法使いとして何やら非凡な才能を秘めているらしいのも、彼女が普通のことに感激したりへこんだりする若々しい高校生であるということの前には、このまま運だけで物語を進める(語りの流れを止めてはならない)のにはちょっと無理があるから設定で補ってあげよう、という程度の重みしかないかのようにさえ見える。ほぼ運だけであれだけの経験をできるというのも高校生的な若さの特権と言えなくもないけど。
 僕がアウトドアライフの薀蓄を知らないからなのかもしれないが、高校生たちのサバイバル術を美しい未知の惑星で平易な語りで見せられるのは、まったくもって贅沢なことである。作者がつぎ込んでくる全方位的な知識はどこか一方に方向付けられているようには見えない。チョークの話も四次元幾何学の話も風呂の沸かし方も登山用具の性能も、高校生の目に映るように、すべては並列で提示され、一発芸の出し物のエピソードと同じように、意味づけられることなく一つの映像として流れ去り、堆積していく。意味づけられずとも誰かにとっては美しく、眩しく見えるのが若さの特権であり、そのような時間がある日突然終わってしまうことが甘美であり、また残酷なことである。
 分厚いラノベを4冊読んでこの程度の感想とは寂しいが、ひとまずここで終わり。物語がいつ終わるともなくゆるゆると積み重ねられていくように、本当は僕もいつまでもこの世界に浸っていられたらいいのだけれど。