ゲーム世界の女の子たち

もう一つ月森さんのとこから。「空色の風琴」は安かったんで僕も何度か手に取ったことがあるけど、結局購入にはいたっていない。

 もちろん、主人公に出会い交流することで彼女たちは何物にも代え難い何かを得、主人公も彼女たちの純粋な思いに触れることで、近い未来をしっかりと切り拓いていく"兆し"を得ます。それはとても清々しく、微笑ましいものです。とはいえ、彼女たちに対する最終的な責任を果たすことができず(何しろ異世界を出ていってしまうわけですから)、中途半端に優しくしただけで持続可能な幸福をもたらすことのできなかったということ、彼女たちは別の新たな幸せや希望を叶えたというような慰めすら与えられない素っ気のないエンディング、その(ゲーム的)事実はプレイヤーに忸怩たる苦味を残すことになります。
 ヒロインを救うことで、プレイヤーは救われる。時系列に齟齬を生じせしめる並列世界において、全てのヒロインを各個に幸せにしていくという当然に矛盾した恋愛ゲーム手法は、全てのヒロインを等しく永続的に幸せにすることでしか幸せになることができないというプレイヤーの性質を鑑みれば、やむをえない仕様だと思われます。主人公と近しくなる全ての彼女たちの幸せを作品に強請するプレイヤーのありようは、そのままファンタジーに通じます。プレイヤーという概念がファンタジーなのです。

 「お前がガキで…世の中に、綺麗なものだけを求めたがっている間に…瞳に映るものを、無意識に選択していられる『少女』の時間に…俺は、逃げられない現実の中にいたんだ」

 「空色の風琴」という『少女』は、ディスプレイという瞳に映る綺麗で甘美な幻想(グラフィック)を無意識に選択する「時間」。異世界に迷い込むことで主人公は、逃れられないはずの現実から逃れていて、それはプレイヤーの手元にしかなかった。だからこそ、自らと深く関わった全ての女の子たちを、並列に、均等に、高次元に幸せにすることでプレイヤーにもたらされる至高の恍惚は、ギャルゲー常套の醍醐味は敢然と否定されなければならなかったのだとしたら、それはあまりに残酷です。

 自分に厳しく他人にやさしすぎるなあ。どれだけ僕に理解できてるか分からないけど。ゲームの中に置いてこられてしまうという別離の距離感が愛情を掻き立てるような気もするんだけど、それは退廃的過ぎかな。いかん、思考が後ろ向きだ。女の子たちはディスプレイの中でプレイヤーを待っている、でいいじゃないか。そういうことにしとこうとりあえず。ESの得点を振り返ってみると僕は一本道のゲームと相性がいいみたいだけど、これは偶然か。