骨組みばかりで肉付けが省かれたシナリオという印象。その省き方にあるいは結衣らしさを見て取ることができるのかもしれない。
動物、植物、とくれば次は鉱物になるのは自然な流れで、そこにファウストのテーマがきれいに重なるのも納得でき、その上で個人的には悪魔とくればイワン・カラマーゾフの悪魔の印象が強いので、話の枠組みはすっと懐に入ってくる。停止して磨耗し、ただ互いの存在の意味の捉え方を共有することで平安を得るという形の幸せは、鬱状態を前提とするものなのかもしれない。鬱のときには動くことが厭になり、じっとして時が流れるのを待ち、あるいは時の流れる音すらもうるさく感じられ、あらゆる微小な運動がノイズとなって神経をいじめにかかってくるように感じられる。ノイズ耐性が極小になった状態である。音楽も絵も活発すぎてついていけず、仮に少し摂取可能だとしてもサティやバッハのような比較的静かで平坦な音楽や、ただの壁に近いような抽象画くらいのもの。褪色した遺物として古代彫刻は、過ぎ去った大きな時間を示すことで現在の微小な時間経過のノイズを和らげ、彫刻というジャンルそのものが孕む静止性が見る者を落ち着かせる。だから結衣が彫刻になって褪色するのはとても自然なことであり、もともとプレイヤーにとっては異物として始まる家族たる結衣との関係が最終的に落ち着くのは互いが鉱物化したときになる。ちなみに、そういう意味ではフィギュアは軽い熱で変形してしまうので、単色あるいは無着色の鉱物で作られたときに完成に近づくのかもしれない。ついでに脱線すると、彫刻はその永続性により政治的な権威喧伝のために利用された歴史があり、古くは古代ギリシャやエジプトの彫刻に始まり、最近ではソ連の社会主義リアリズム建築や銅像乱造の事例がある。詩人ブロツキーが古代ローマの世界に逃避しながらもそこにも帝国ソ連の影を見て安らぎを得られなかったのもそのため。安らぎを得るには彫刻を作るだけではなく、自分も彫刻となり完全に静止してしまわなければならなかったわけだ。
結衣がそうした静止した平穏な世界を望むようになった経緯は、簡単な回想という形でしか言及されていない。樹と築きたかった/築いた関係は恋愛というよりはもっと皮膚感覚的な安らぎの仕組みだったが、そこに至るまでにどのような葛藤や軋轢があり、到達したときにどのような喜びを感じたのか、それをあまり描かずにさっさと石化してしまったのは、ライターの手抜きというよりは結衣の照れと気遣いだと取っておきたい。完全な停止により世界を完成させたときに新たな命を生むことができるのか、そこは残念ながら描かれなかったようだ。鬱と悪夢から解放された結衣が樹とどんな楽園を築くのか、それは石の彼岸に夢想するしかない。