J.Q.V 人類救済部 (75)

 初読時には複雑で頭に入りきらない叙述トリックがあったり、夏コミ追加エピソードが出る予定だったり、クリアから数日たってしまったりしたため今は満足のいく感想を書けなさそうだけど、それでもとりあえず一言。
 作中でも言及あったように、主人公の言動の表層をなす「反射神経」、対話の相手と一言一言で斬り合いをしているようなサバイバルな意識の動き、言葉遊びで場を塗りこめて相手を翻弄しようとするフットワークの軽さ、そういうのはたぶん参照したと思われるクロスチャンネル最果てのイマの文体と共通で、かけ合いの中のリアクションという形で動く立ち絵と、3行くらいしか入らないメッセージウィンドウを使って進行していく、エロゲーインターフェイスともよく合うものなのだろう。口下手で「行動で示す主人公」というのは、そもそも主人公自体が画面に映りこまないエロゲーにおいてはどうしても凡庸になりがちで、だからこそKey作品の主人公のように大げさで突飛な一発芸のようなギャグで可視化したり、あるいは音楽的演出や別人格的仕掛けによって主人公の意識の境界を拡張する必要があった。そうでなければストーリーを派手にして、主人公が(能動的な意味で)しゃべらなくても不自然ではないように、しゃべるときにはそれなりの重みと必然性があるようにされた(瀬戸口作品とか)。ヒロインとのコミュニケーションに主眼が置かれるのがエロゲーである以上、ロミオ的に舌がよく回る主人公というのは王道なのかもしれない。不思議なデフォルトハーレム設定のあやしい魅力いいけど、言葉だけ(もちろん実際は言葉だけということはない)で相手に切り込んでゼロから関係を作っていくのは、エロゲーという形式の制約を受ける主人公の振る舞いとしては説得力があると言える。
 作品の内容の感想も少し書いておくと、これは主人公の島地と芽依が言葉で作り上げた世界が、言葉ならざる何かの力によって失われるのを描いた話に見えた。言葉ならざるといっても、「変容」には心理的な要因が強いらしいので言葉が主な原因なのだろうけど、一度変容してしまったらそれを言葉で取り戻すことは出来ない、変容そのものは物理的な事象とされているという意味で、言葉の無力を見せつける設定だ。いかに最後にハッピーエンド的な幕切れが用意されていたとしても、一番の見所は、島地と芽依は結局大切にしていたものを守れなかったということ、そのバッドエンドの地点から見て、過去を全て受け入れ、自分の影を頼りに自分自身との和解に至るということだと思う。量子力学と認識のテーマが設定の根本に据えられているあたり、実は変容というのは比喩で、単に他人を認識できなくなる心の病気の話でしたなどという卑近なオチをつけられる。まあそんなことはないだろうけど、万が一そうであったとしても、島地と芽依が思い描き、言葉で編み上げた世界の鮮やかさは、認識のトリックで欺かれ色褪せることなどなく残り続ける。
 ということを踏まえたうえで、めーたんの下半身はなぜあんなにむちむちなのかということを考える必要がある・・・(続かない)