帝都飛天大作戦 (65)

 最近、サンシャイン60の展望台やら新宿西口の50階くらいのレストランやらに行く機会があったが、いい景色だなあという意外に特に何かを感じることもなかった。ネットに写真やら絵やらがたくさんあるので目が慣れてしまって、都市のダイナミズムに対する感覚が鈍ってしまったのかもしれない。現在とは離れた時代に舞台を置く場合、現在では失われてしまったものだけではなく、当時はまだなかったものもこちらの空間感覚に作用する。大正末期の東京都心部は今よりも狭かったけど、明治以来成長する都市として若返り、主役は時代のスピードについて行ける者たち、青年たちのイメージだ。生産活動が見えにくくなった今の都市とはだいぶ異なる。正月に実家に帰って、父の実家から出てきたという昔の写真を見せてもらった。家族のアルバムというジャンルなので当たり前ではあるけれど、写っているのは若い祖父母夫婦や子供の頃の親たちばかりで、今となってはすっかり過疎化したその町が、見違えるように若々しく、明るかった往時(さすがに大正末期ではないが)を想像することができる。僕などが老け込んだ口調で言うのは滑稽だと承知しているが、それでも、昔はいろんな意味が単純で、変なところで引っかかったりせず、ただ体を張って一生懸命生きていればよかった、後腐れのない物語のような時代だったのだなあと思う。物事の規模や意味や責任よりも、その運動性の方が前面にせり出している。物語作品を読んでの感想なのだから当然ではあるが、動き回る伽藍やキトラから受けたのはそういう印象というか感慨だった。福島後の作品としては自然なのだろうが、動力の問題も出てきていて、電力の代わりに帝都を動かす霊力は、原発が事故を起こすように怨霊の暴走を引き起こす。だけど、それを馬鹿げた巨大からくりで収めてしまえるのが、この作品が描く時代というか世界の温かさだ。
 しかし大味な作品である。希氏の他に何人もサブライターが書いているのでそのせいなのかもしれないが、何かと稚拙な語りや演出が目立ち、レイルソフトブランドの作品とは悪い意味で差があった。若い時代というテーマ上仕方ないのかもしれないが、バトルアクション(活劇)を中心に据えたのがまずかったと思う。56億7000万年とか三千世界とか一霊四魂とか、仏教や神道はもともと口当たりのよい音韻に引っ張られた設定まみれの体系なので、いちいちそれを解説して見得を切りながら必殺技みたいなのを出して戦っていたら、中二病丸出しで格好悪いことこの上ない。歌舞伎やオペラのような制約性の強いジャンルならば違った鑑賞の仕方もあるのだろうが、エロゲーや小説でこれはきついものがある。インターフェイス的に見ても、レイル作品では縦書きテクストがびっしり画面を覆いつくして、キャラ描写とは時に乖離した自由自在なテクストを小説のように楽しむことが出来たが、本作は普通のメッセージウインド形式で、残念な設定解説が多い代わりに語りの脱線は控えめだった気がする。あと、スチームパンクシリーズの女性ファンをフォローするためか、恋愛話よりは男性キャラのかっこよさの描写に比重が置かれていたのもいまいちだった。希版シャルノスと見ることも出来る作品であり、メアリ的な意味でキトラは可愛かったのは確かだし、ロンドンよりは身近な東京が舞台なので歴史の陰影も楽しむことが出来るけど。コミケで買った公式アンソロジー本には本編よりも質の高いSSがあったりして楽しめたのだが、本編ももう少しバトルや男キャラ以外のところでがんばってほしかった。
 声優さんはみな好演だった(男性キャラが格ゲーの必殺技シーンみたいに一言だけしゃべる演出は微妙だったが)。瑞城様を演じた鈴谷まやさんというのはどんな人かと思ったら、Pretty x Cationの小町先生だった。純朴なエロ教師も霊的なロリっ娘も魅力的に演じられるというのは素晴らしい。エロに関しては、松屋の黄金仏のシーンは見事だったけど、全体的にイチャラブや男が目立ちすぎのが多かったのが残念。キトラの着物姿は安定して可愛かった。その日暮らしの猫肉屋ねえ。キトラの来歴は特に描かれなかったし、彼女が天狗と結ばれて首都を俯瞰する高みに上がる必然性もなかった。周りが癖の強いキャラクターばかりだったからか、歴史物という枠組みの中にあっても最後まで日常の人の視点を捨てなかったのが印象的だった。