花色ヘプタグラム (70)

 温泉街や温泉旅行というものの意義を実感できたことは多分ないと思う。身体と精神の保養の場所ということは頭では分かっているのだが、子供の頃から温泉に何度かいったことがある体験に照らしてみると(特に夏休みに親の実家に帰省したとき)、あまり温泉で癒されたという体験がないからだと思う。癒されるためにはまずは疲弊しなければならないが、温泉に行くための疲弊はせいぜい車での長時間移動によるものであって、疲弊の質としては低級なものに属するし、子供にとってはその程度では疲弊にならない。学生の頃にサークルの合宿とかあったが、湯治場というよりは単なる民宿の風呂だったし、たかだか運動するだけなのにこれほど時間とカネを使うことに対する不満もあったので、正直あまり楽しくなかったように記憶している(一番の問題はまだオタクとして開花しておらず気のあう友人もいなかったことだろうが)。夏に家族で富士山に上り、帰りに山梨の温泉に寄っていったことがあるが、おそらくそれが一番温泉を楽しめる機会だったと思う。しかし、やっぱりちょっと寄っていく程度ではだめだし、家族なのでそれほど楽しくもなかった。そもそも温泉というもの自体が軟弱な感じがして好ましく思えないし、温泉どころか風呂も大して好きではなく、癒しというよりは汗と脂を洗い流してさっぱりする場所という認識なのでシャワーのほうが好きで、冬でも湯船に浸かるよりは長時間熱いシャワーを浴びるほうが好きでお湯を使いすぎだと家族に怒られたこともある。誰の得にもならないおっさんエロゲーマーの風呂情報を共有してしまい申し訳ない。
 温泉や風呂に何の価値も見出さないことは、ある種の男性的な価値観としては大して珍しくもないと思う。アニメやエロゲーに出てくる「温泉回」的な価値観は、温泉を尊ぶキャラクターにも、そのキャラクターを尊ぶ視聴者・読者にも本当の意味では共感できていないと思う。とはいえ、フィクションとしての温泉・風呂には自律的な価値体系もできようものだ。語り方の問題になるからだ。エヴァで風呂は命の洗濯をするところだとセリフを聞いたときにははっとしたし(当然、風呂シーンが単体として印象的に描かれていたというだけではなく、作品の文脈の中で印象的だったからだ)、霞外籠逗留記は(入浴のシーンはあまりないが)旅籠での逗留という文化抜きには語れない。とはいえ、いずれにしても温泉物は湯に浸かるという以外には積極的には何もないジャンルであり、受動的にならざるを得ない。何かを追い求めるような、ぎらぎらした精神性や渇望とは対極にあり、思考を減速してぬるま湯にほぐしていくしかない。それは怖いことのように思える。無用な比喩を用いるならば、ドストエフスキーの文章の代わりに日本の有象無象のだらしないグルメエッセイを無理やり頭に押し込まれるような恐怖。この点で、温泉や風呂は、個人的には食事と同じカテゴリーの事象といえる。以前にマルセルさんに「温泉に浸かっているうちに何でも解決してしまう話」として花色ヘプタグラムをお勧めしていただいたときも、そのような特徴にはあまり惹かれなかった。まあ、欠点が多いよりは何もないほうがまだましかな、という程度だ。マルセルさんはネタばれを避けるために敢えてセールスポイントを強調しなかっただけかもしれないし。というわけで、僕は大した期待もせず、主に絵がきれいだったからこの作品を買ってみた。音楽も温かみがあって不快でなかったのはありがたかった。
 前置きが長くなったが、本編として言いたいことはあまりない。
 この温泉という「何もなさ」、物語のなさをうまく昇華しているなと思えた瞬間がいくつかあった。ひとつは、明日香シナリオでクライマックスともいえるシーンが、一枚絵が出ずに背景画と簡単な説明だけで終わってしまったときだった。あれほど気にかけていた八華。結局、幻は幻であり、今の彼女と築いたこの現実の中では背景に過ぎない。でもそのシーンでは音も鳴り止んだようで、ある種の無を見るような静かな儀式になっていたのがよかった。明日香というヒロインの人柄にも、この作品の雰囲気にも合った処理だったと思う。いづきの暑中見舞いの葉書もそうだ。特にそれらしい一枚絵はなかく、劇的なことは何も起こらないが、とてもよいエピソードであり、それを二人が大切にしていたこともすばらしかった。それから玉美の誕生日のお祝い。主人公の手料理、子供の頃の思い出を再現した親の料理、友達からメール。ほとんどお金がかかっていない、大した手間もかからない思いつき。絵もない、劇的なことは何もない、だけどタイミングだけでこれほど人を喜ばすことができる。洗練された演出だ。玉美シナリオは最後もよかった。幸せな誕生日を過ごし、次の誕生日に二人で思いをはせる。二人で下校した夕方、なんとなく楽しい気持ちになって、子供の頃のように影踏みをする。影踏みのシーンはラストだったしが絵があったけど、こういう何もないふとした瞬間を最後に持ってくるところがよかった。ちなみに、反対に残念な一枚絵がひとつあった。一番最後の絵だ。主人公こっちみんな。
 この、一枚絵のなさというのは、予算的な事情の可能性を除くと、立ち絵の美しさでおつりがくるほどに補われている。作品名に合わせるならば、どのヒロインも特に表情が崩れていないときには花のように美しく華やいだ絵になっていて、ヒロインとお話していると同時に鑑賞しているという感覚がある。例えば、このへん:а, б, в。(逆に言うと、一枚絵のエッチシーンは立ち絵の延長という感じで、やや淡白で淫靡な吸引力が足りないように感じられる。それでも十分にエロいし、日常の延長というのも悪くはない)。玉美はやや地味だが、表情と声がすばらしいのでやはり優しい気持ちになる。誕生日祝いのときに玉美が目を潤ませ迫ってくるシーンは純粋でなんとも雰囲気がよかった。純粋といえば、いづきはシナリオ全体を通して三島由紀夫潮騒のようにストレートでシンプルで美しかった。丁寧語なのもすばらしかった。声も高めでややかすれていて、澤田なつさんのように少し吐息が入るのもよかった。ついでにいうと、声は他にも特に玉美とみゆりがよかった(しかし、明日香の人は感情を出す演技が上滑りしていていまいちだった)。みゆりに関しては、エッチをすると記憶が回復して大人の声になってしまうが、「子供」の頃のほうが可愛いし作中のすごす時間も長いという困ったことになっている。中間の時期もあり、それわそれでやがてうつろい過ぎていく可愛さがある。最後の一枚絵は不出来だが、最後から2番目の神社のみゆりの絵はすばらしく、シーンのさりげなさもよいのでここで終わってもよかった。
 まとめると(別にまとめる必要はないが)、特に温泉的な価値観に共感できるようになったわけじゃないし、御式村の住人にはなれないだろうなと思うけど、そこで咲く七華のように何もないものの上にこれだけ美しいものを作り上げられるのは不思議に思う。最後のみゆりの話で端的に言及されていたように、この御式村の不思議な美しさは維持されていたものであり、やがてヒロインたちは離散してただの温泉保養地になる。温泉はやっぱり背景であって、それ自体にファンタジーはない。それでも女の子を美しくする何かはあるようだ。年寄りくさい物言いになるが、年をとると生み出すことだけでなく生み出しながら守ること、維持することにも気を使わなければならなくなり、分かりやすく生み出す機会が減る。保養の価値観は維持の価値観であり、女の子の美しさも実は維持されている部分があるが、男はそのことに気づかない。エロゲーの女の子は化粧などしないし、基本的に美容に気を遣わない。それはありえない花の美しさであり、そんな花の世話をしているいづき自身の美しさだ。そこに温泉のファンタジーがあるのだろう。

昔のアニメ

 最近、放送20周年だとかでserial experiments lainの話題をみて、久々に見返してみた。観たのは3回目くらいか。最初に観たのはエロゲーを始める前の頃、エヴァンゲリオンで受けた衝撃というか傷を再び受けたくて安倍吉俊氏関連の作品を漁っていた頃、海賊版だか海外版だかよく分からないアニメのDVDをヤフオクで買っていた頃だ。今回は初めて話が割りとすっきりと飲み込めた。ネットワーク用語に関する知識がようやくアニメに追いついたからだと思う。そうしてみると、説明的なせりふを最小限に省き、言葉よりも目や顔のアップや風景などのイメージに語らせようという姿勢が強いのがよくわかり、ずいぶんとよく練って作っていたのだなと思った。インフラの変容が社会の変容につながる物語。唐突に思えた一つ一つのイメージもずいぶんと論理的で雄弁であるように思えた。神話としてのlainと一人の小さな女の子としての玲音はきれいに統合されることはなく、玲音自身の不可避の選択によってほとんどlainのみが残る結末だが、そういう残酷な終わり方にこそ惹かれてしまう。どうにもならないすれ違いだ。今のネットワークはたとえ飛び交う情報は不透明だとしても生態系としてはずいぶんとクリアになってしまったように思えるが、そんな環境でlainという神話が必要とされるかはよく分からず、だからこそ空気のように透明になったlainの痕跡を時折思い出したくなる。
 2週間後、時間が取れたのでついでに灰羽連盟も見返してしまった。こっちは割りと昔見たときの印象に近かった。

幻月のパンドオラ (60)

 こころリスタとこころナビは大変楽しませてもらったが、こちらはいまいちだったかな。この2作にとっての電脳世界に比べると、本作でのゲーム世界はあまり魅力的に感じなかった。個人的にそれほど豊かなゲーム体験を持っているわけではなく、アクションゲームは好きではないので仕方ないか。エロゲー以外で思い入れのあるゲームといえばドラクエ3ファイファン3くらいだが、RPGは本作にはあまり関係なかった。どんなことでも楽しめる精神をウニ先輩は説くが、そこまではちょっとついていけなかったっす。そういうことも含めて、ウニ先輩のまっすぐな若さはよかったけど、口癖とCVがいまいちだった。真切役の成瀬未亜さんはさすがで、安心して聞いていられた。魅力的な女の子として描かれていたし、絵も大変きれいでした。特にベランダに座っている一枚はいいですね。
 最後に途中まで撮っていたスクリーンショットでも貼っておくか。а, б, в.
 次は姫さま凛々しく。他のもやりつつのんびり進めていきます。

森薫『乙嫁語り』10巻

乙嫁語り 10巻 (ハルタコミックス)

乙嫁語り 10巻 (ハルタコミックス)

 どのヒロインもそれぞれ魅力的だが、一番引き込まれるのはやはり3巻のタラスの話だ。神がかった構図や視線の動きのコマがいくつかあって、思わず息を止めるようにして見入ってしまう。タラスというヒロインの性格を絵によってここまで表現できるのだなと感心する。
 それと比べると、この間で登場するタラスのエピソードは絵の技術的な観点からすると3巻の強度には及ばず、彼女の幸せを描くためのファンディスク的な位置づけに見えてしまうところもあるが、作品のよしあしは絵が芸術として優れているかどうかだけで決まるわけではないので、タラスというヒロインにやられてしまった読者にとっては多少のご都合主義的な軽さでさえも彼女のためにむしろ喜んでしかるべきだ。ともあれ今回はタラスを描いたコマの数が圧倒的に足りていないので、次巻ではこうした強引な正当化をしなくても存分に作品を味わうことができると期待したい。
 それにしても、作者もどこかのあとがきで書いていたと思うが、タラスとかアミルといった名前は男性名っぽく響くのだがどうなんだろう。
 ちなみに、10巻ではカルルクと動物とのふれあいを通じて、アミルが人間の範疇を超えたヒロインであることが明瞭になってきた。そのように説明されていたわけではないが、絵として読み解けるようになっていて、そこがこの作家さんの力だ。アミルの水際立った目力やたたずまいは、人間というよりはイヌワシのような半野生動物に近いものを思わせ、その意味で嫁として迎えられたアミルは、鶴の恩返しや羽衣伝説の天女のように、半ば神話的な嫁である。この先の物語がそのまま神話的展開になるとは思えないが、絵からそのような気配が常に伝わってくるのが面白い。
 このシリーズを読み始めたのは、どうやらちょうど2年前だったようだ(http://d.hatena.ne.jp/daktil/20160404)。そう考えると大した時間がたったわけではなく、何の偶然か今度本作の舞台のあたりを旅行することになってしまったのは不思議に思える。当時はトゥルケスタンは、ブハラとホラズムの田舎豪族が小さな競り合いをしながら緩やかに衰退していく時代であり、1900年代になると中央アジアアールヌーヴォーともいうべき繊細な近代イスラム美術が花開きかけて死産されるらしいのだが、アミルの実家が属するモンゴル・トルコ系の遊牧部族のあまり痕跡も残っていないらしいので、本作の空想が面白く感じる。どうしても観光となると宗教建築めぐりとショッピングが中心になってしまう。幸い、中央アジアのこれらの地域は工芸のメッカでもあり、絨毯、刺繍、陶器、はさみなど見ていて飽きないものが豊富にあり、観光客向けに整備されてもいる。今回は有名な人間国宝級の陶磁器師の工房にも行ってみるつもりだが、貧乏な外国人旅行客であっても、事前にロシア語で見学を申し込んだら丁寧に返事をくれて恐縮してしまった。よき巡り合いがありますように。

息抜き

 久々にだらだらブログを書いて声を整える余裕ができた。といっても何か書くべき新しいことがあるわけじゃない。思いついたままを適当に。生活や人生には建設的な方向に持っていこうとする力がことあるごとにしつこく顔を出し、復讐してくるので少し気晴らししたいだけのことだ。すっかりブログを書かなくなってしまった。最近に限ってのことではなく、5年くらい前から仕事で書く文章の量がどんどん増えていって、今では2ヶ月に一冊新書が出そうなくらいのペースになっていて、書くことに追い立てられながら新しい仕事もやることになったりして、仕事以外のインプットが少なくなった。少し空いた時間があっても、なかなか気楽にエロゲーやアニメに沈潜していけない。最近はもっぱら今度の旅行先の中央アジアの歴史とか、ロシアの旅行ブログとかを読むこととか、旅のしおりを手作りする手伝いとかに費やされていた。イスラム建築やゾロアスター教やナントカ・ハン国の栄枯盛衰の歴史など僕の人生にはこれまでもこれからも何の関係もなく、そこまで準備することは求められていないけど、いざ旅行するとなればできるだけそこで意味を回収したくなる貧乏性だ。仕事の出張とは関係のない純粋な海外旅行は20年ぶりくらいだし、この先も何回もする気にはならないと思う(連れて行かれるかもしれないが)。
 エロゲーには自由と安心がある。すべてが画面の中に限られているという制約がある一方で、画面の中からは常に明るい欲望に満ちた現在がこちらにつながってくる。新作を追いかける余裕すらないが、積んでいるゲームを時折起動して読んだりすると、自分が今どんな時間の中を生きているのか忘れられるような、人生の別の時代に飛ばされるような気がする。先日、だいぶ前にやりかけて止まっていた『私は女優になりたいの』(Chloro、2012年)をクリアした。ゲームの長さやテンポも、青臭いSF設定も、親切に説明しないテキストも、殴り書きのような荒々しい勢いと楽しさが詰まっていて良かった。今は『幻月のパンドオラ』(Q-X、2009年)を少しずつ進めたりしている。古いゲームだけど、今の自分にはあまり新しさは関係ないし、古いゲームのほうが気軽に中断したり的外れな感慨を抱いたりしやすいのでよいかもしれない。エロゲーはあまりに完成されすぎているので、エロゲーの自分の生活や人生を適合させることができなかったことが惜しくなる。エロゲーを選ぶことで捨てなければならなかったものの価値はいまだに確定されていないが、逆の場合に切り捨てられるエロゲーの価値を否定できないくらいにエロゲーにはいろいろなものをもらった。両立の道は思っていた以上に難しいと実感している(特にきちんと考えてたわけではないけど)。
 渇き。カクヨムで『イリヤの空、UFOの夏』(https://kakuyomu.jp/works/1177354054885579795)の掲載が始まった。横書きの見苦しいレイアウトで読むのは冒涜的な作品であり、そんな形で読むことで自分の大切な読書体験を壊していくのは間違っている気もするが、それでも読んでしまう。画面からはやはり現在が飛び込んでくる。いずれにせよ、電子データとしてこの作品が公開されるのは喜ばしいことだ。いつか暇になったら自分の好きなレイアウトに編集しなおして、製本することすらも可能になるではないか。
 人生はやりかけの連続で、そんな無責任に復讐されることの連続だ。そこから逃げるために、何かを生み出し、残したいと思うのだろう。文字通り子供だったり、何かの文章や作品だったり。仕事でお金をもらいながら、義務として何かを生み出していくことのようなねじれのない、若くて自由で無責任な創造を夢見る。人を本当に愛したり、大切にしたりするには欠陥のある性格だと思う。自分が本当に満足できるのは、自分のクローンだけだろうというくらいに、ことあるごとに他人とぶつかったりすれ違ったりして、生活の精度が下がっていく。もはや単なる愚痴だが、2人で暮らすようになると助け合うので効率がよくなるのかと思っていたが、2人のすれ違う部分が多いので、それにいちいち足を取られて金銭的にも時間的にも効率は大幅に悪化する。お互い様だが、できることがずいぶんと少なくなった。一人暮らしのエロゲーマーや本読みの生活の完成度は高かった。それと引き換えにできるようになったのは、生きた人間との感情の交換だが、そこには一義的な価値はなく、いろんなことが未確定だ。自由に解釈できる可変的なシナリオだからまだいい。とはいえ、少しずつ未確定を消費しながら、先送りの未来を、逃げ道を作り出していくのが人生なのだとバフチンもいっているのかもしれないが、そんな風に戦略的に考えないで、ただただまぶしくて楽しいものに翻弄されていきたいという欲望もある。子供であり続けたい。現在の中にとどまり続けたい。またエロゲーにどこかに連れ出して欲しい。ことごとく受け身の願望だ。まずはゲームと読書と家族の時間をつくるところからかな。考えてみれば、嫁は身体が弱くて僕以上に生活能力が低いので、一緒にいて楽しいけど生活を楽にしてくれないという意味でエロゲーヒロインとあまり変わらないのかもしれない。エロゲーの主人公がヒロインに生活や価値観をあわせようと努力し、小さな喜びを育てていくのを眺めるのは(やがて主人公とヒロインは静かな個人生活の沼の中に小さな幸せに包まれて沈んでいくが、そのことは描かれない)、聖者伝の偉業を読むのと変わらないのだろうか。実現されたメタファーの例でいうと、エロゲーのヒロインがおいしい食べ物に感激したりテレビ好きだったりポンコツだったりするのは安全圏の記号的な振る舞いだが、現実の嫁が本を読むのが苦手で食べ物や買い物の話ばかりするのは、控えめにいって精神の鍛錬だ。そしてそれはお互い様だ。エロゲー主人公の変容は、どれだけ頭で分かってもなかなか実践にまで至らない神秘であり、秘蹟なのかもしれない。そうした聖者伝をたくさん読んだおかげで、僕も立ち向かっていけるのかもしれない…。

ノラと皇女と野良猫ハート2 (75)

 前作の感想は何だかやや中途半端なままになってしまい、その後、マルセルさん、残響さん、こーしんりょーさんとの討議(残念ながら中断)でも個人的に準備が不十分だったのだが、続編である本作は期待したとおりの佳品だった(特に言葉と詩的イメージが元気なアイリスルート)。2017年にクリアしたのはわずか3作(+ロシア製1作)。2018年は積みゲーを崩すだけで、1本も買うことすらなく終わる可能性もあるが、噛み締めてプレイしていきたい。とりあえずは聴き飽きなそうなOP曲とピアノアレンジ曲集にも感謝。


アイリス
 本が好き、勉強が好き、絵本を声に出して読み聞かせたときに立ち上がってくる場が好きなエクリチュールのパトリシア。彼女が目指すものと同じものに、別の入り口から近づいていくのがパロールのアイリスというとりあえずの対置。


−−ねぇってば、ねぇおぼえてる? おぼ? ねぇおぼ?


 音声としての記憶は、固定するための媒体を持たず(再生装置はエクリチュールのような多様性を持たないまがい物として、過去の亡霊として示される)、雪に吸い込まれて消える。消えるたびに新しくやり直し、「よろしくお願いしまーーーーす!」 声と印象とぬくもりが全ての生き方であり、CV花園めいさん(アニメの方で多少なじみあり)の元気な声がよく合っていた。雪とぬくもりの特別な関係については前にも「雪影」の感想とかで書いたけど、この笑顔と声と格好のアイリスではコントラストが一層強まって印象に残る。金髪娘的な露出スタイルが好みに合わず何とかしてくれと思う一方で、肌寒さと元気さの奇妙なバランスが取れている。それは単に気温的なものだけではなくて、時としてアイリスの心が感じる寒さを視覚的に表してしまっているように思える。記録ではなく記憶という不安定なものに存在を規定されていることは、生きた感覚的なものを優先する存在だという一面もあって、生き生きとした幽霊という両義性を見せてくれる。即物性と抽象性を行ったり来たりする。正確には、アイリスの性格からして生き生きの方が中心で、幽霊はその周りを漂う気配のようなものに過ぎないけれど。


−−もし涙がヒトの鳴き声なら……それは目に見える音なのだから……/あなたはそれが瞳からこぼれても、決して大地にこぼれないよう、すくってよ


 文字(形)を持たなかったために歴史を残さなかった文明というのがあって、それは存在しない歴史のロマンをかきたてる。歴史が語り継がれたものを意味する言葉であるなら、語り継ごうという欲望をかきたてるものは歴史未満のもの、弱者のものであると同時に、歴史化されたものから切り捨てられた欲望であり、何か本質的なものを含んでいるように思える。毎年訪れる雪にかき消される痕跡。消えるぬくもり。冥界のあり方としてはアンクライ家の方が本質的であり、エンド家はアンクライ家に対して派生的/反省的に存在するもののように思える。その関係はそのままパトリシアとアイリスの力関係に反映されているようでいて(「バカはきらい!」)、その点からするとむしろ恋愛物語のヒロインとしてはどうしようもなくアイリスが魅力的に見えてしまう。隙のなくきまった立ち絵のポーズはあまりに隙だらけで、弱くて、惹きつけられる。


−−アンクライの涙は、忘却のしるし。あなたの涙は呪いすらも忘却させる


 雪の白さと青さ、アイリスの金色の髪と白い肌と青い目は、エロゲーでこそ美しく表現できるように思えた。


ノエル
・エッチシーンの絵がよい(表情とか姿勢とか)。
・元々声がかわいい系らしいので崩れたときがきれい。
・見せ場に恵まれていないな。
・ノエルのエピソードも含め、ヒロインによっては箸休め程度のボリュームしかないことは残念がっても仕方ない。前作メインヒロインについては、それだけ前作の完成度が高かったのだと思いたい。


ノブチナ
 母親の不在あるいは欠損のモチーフが繰り返し登場する本シリーズにおいて、父親という本来エロゲーではタブーの存在が描かれたわけだけど(同じく父親が服役していたクラナドでも父は欠損した父親だった…)、その父親は半分母親としての父親であることが判明し、ノブチナに「親の指図に苛立つことはあるだろう。しかし、親の気持ちは察して行動すべきだ。子は親の信用というものを察して、行動すべきなんだ」とぶつけて巻き取ろうとする。黒木ルートのデフォルメされた親子関係よりも踏み込んだ親子関係の再演だ。信春がダメ人間として描かれていることはストレスを与えないための表面的な見せ方の問題であり、やっぱり本シリーズはこのテーマの変奏なのだった。ノブチナの場合は、「あ゛ーーーーーーー!! あ゛ーーーーーーー!」と暗い夜空に向かって叫び、夜空は空虚であり、だからこそ自由に呼吸できる空間があることを確認するような強い女の子であることを自らに背負わせていることが示される。
 息の詰まる(気を抜けない)空間である家の問題と対置される、夢のひと時としての文化祭の演劇。ネルリでも印象的だった構図だ。もともとノブチカたちとの日常はそういう時間だったのだろうけど。
 こちらを振り返るようにして話すノブチナの立ち絵が印象的。大事なことを話す時の絵だ。おちゃらけキャラであることをやめて素の表情を隠していないが、そのときも身体はどこか別の方向、外の世界に向き合っている。向き合っていることをプレイヤーに示している構図。色の強い赤髪であることがとても正しく思われる構図だ。ノブチナとアイリスは、立ち絵とセリフが補完しあっているように思えた瞬間が多かった。
 叱ってくれる親との邂逅というモチーフは、それだけ見ると陳腐かもしれない。まあでも、近年真面目に叱られ、心配され、助けられ、それでいてろくに孝行らしいことも面倒でしていない自分としては、ちょっと引き込まれてしまうのであった。本シリーズでノラはうっとおしいくらいに繰り返し母親への負債を語るわけだけど、それは一定の年齢に達したプレイヤーにとっては何がしかの問いかけにならざるを得ない原罪のようなものであって、もはや作品の巧拙とは関係ないとさえ言えるのかもしれない。お気楽な恋愛コメディ作品の根本にそれを据えたことの是非は、プレイヤーが個人の問題として処理するしかない。あと個人的に、他の家のことを他の文化として尊重する姿勢(漫才部の取材に対して井田とか田中ちゃんが不快感を示すとことか)に面倒だなと思った。ノブチナは面倒だと跳ね返せるけど、そんなに強くあることができない局面もあることを思い出して(自分が身につけた思考や文化がまったく通じない人々と親戚付き合いをしなければならなくなったとき、どちらをどう否定して顔を潰さず妥協させるかみたいな面倒な話)、ノブチナはいいなと思うのだった。
 まあ、それにしても。「付き合ってみるか。私たち」。えっ、これからノブチナと恋人になるの?という展開ではあった。こういう論理的必然性のない恋愛展開は、なんらおかしくはない。むしろ、感情の論理ではなく、人生のバイオリズムのような論理としてはしごく自然な展開といえるのかもしれない。「私が気持ちを伝えたのはな。お前が逃げなかったからだ。お前は一度も、私か逃げたことがない」。これで納得させられてしまうような真剣な女の子なんだな。というか、いまさらながらノブチカは女の子であるという文脈が持ち込まれてしまうんだな。持ち込まれたら仕方ない。ノブチカを見ていてもエロい気分になることはないけど、彼女の生き様は近くで見届けなくちゃいけないから……。だから、ノブチカが急にしおらしくなったりせず、肩車されて上機嫌になるような友達感覚の付き合いが続くことにほっとするのだった。「あなたはきっと、勇気の生まれ変わり。勇気は皆の足元を照らすし、あなたは前を見て進まなきゃ。そうでなくては、私はなぜあなたにノラを渡したのか分からなくなってしまう。不思議ね。私、あなたとそこまで遊んだことないのに。ずっと一緒だった気がする」。アイリスルートと並び、本作でもっとも熱量の高いシナリオで恋愛以上のことが物語られており、その意味で前作を正しく継承している。おっぱいは強調された飾りだからな。飾りがないとノブチナだからな。
 トラックのみにゲームは古いノートPCでやったこともあり、1時間くらいかかった。


ルーシア
 物語としては割と薄くて、悪役も薄くて茶番だったりするけど、彼女の抱える問題や母親との問題が、何度も不器用に繰り返されることでそれなりの実感を持たせていた。「光などとは名ばかりで、立てる舞台もなく、堕ちた伝説しか与えられず、そうやって誰も彼もが!!あの子ばかりを選ぶんだ!!」「知らねぇよ!!そんなものよりも、俺と地上で!」 この「知らねぇよ」をはったりではなく、正面から言えるノラがうらやましい。「きっとあなたが来なくなったら、話しかけることをやめたら、わかっちゃうと思うんです。来てくれてたときのほうがよかったって。そういうものだと思うんです。そしてそれは、わからせちゃいけないと思うんです。あなたが生きている間は」。この手の刺してくるセリフは本作では家族関連のやりとりで多くて、イチャイチャするための恋愛物語にとっては必須ではないのかもしれないけど、ヒロインへの感情移入にとっては重要な役割を担っている。
 しかし、やはり姉さんのあのサクラメントの衣装にすべて持っていかれた。ウエディングドレスのスカート部分を履き忘れた花嫁みたいな露出度の高い衣装だけど、決して痴女ではなく、姉さんの本質はあの乙女チックな花をあしらったヴェールの方であることは明白。そもそものヘアバンドからして女の子らしい。下がパンツ丸出しになっているのは、少し喜びが大きすぎて開放的な気持ちになってしまったからにすぎない。多分姉さんはパンツ丸出しであることに気づいてもいない。そういう素敵な女の子なのだ。




−−ねぇ、これからたくさんお話しましょう!未来のこととか、今までのこととか、語り継ぐくらいたくさん、だってあなたは私を忘れないもの!


 印象的なシーンの一つに、共通ルートの最後のほうで、アイリスとパトリシアがお互いに一つだけ質問したはずが、なぜか海と空の色彩と、波の音の採譜と絵本の読み聞かせをめぐる問答になる流れがある。それはいずれも、「いのち」への驚きと「いのち」を見てみたいという願いのことなのだけど、そういう眩しさがつまった作品だ。

石川博品『先生とそのお布団』

 どこまでが事実でどこからが創作なのか厳密に考えてもしかたないので自分にとって自然で都合のよい読み方をするしかないのだが、飄々としているように石川先生がこれほど苦労しているのをみるのは正直なところ素直に喜べない。僕が好きなラノベ作家は寡筆であるか廃業気味である人が多く(秋山瑞人中村九郎唐辺葉介田中ロミオ)、石川先生も順調そうではないけど、それでも書くことに対しては純粋な気持ちを持ち続けていて、スランプなどとは無縁であるように思っていたいからだ。同人誌も含めれば佳作というわけではないし、売れっ子作家のように3ヶ月に1冊くらいのペースで刊行されて枯渇されても困るので、今のようなペースであっても創作に集中できるような環境があってほしい。そのためには何が必要なのかはわからない(ちなみに、石川先生のラノベなら商業なら1冊1000円、同人なら1冊2500円くらいにしてもらってもかまわないけど、代わりに複数冊買うのは何だか気が進まない)。
 「先生」が四人制姉妹百合物帳を高く評価しているくだりがあって、これは異論ないと思った。平家さんもいい作品なので、読者にとっては同人と商業の差はない。どちらでもいいので後宮楽園球場の続きを待ちたい。
 あと、石川先生は「趣味(テイスト)の作家」、好きなものを外から集めてきて文章にする作家であって、内側に抱える大きくて重いテーマを何度も掘り下げていくような「宿命の作家」ではないと意識するくだりがあったけど、この二分法にはこだわらないでほしいなと思った。最近人から勧められて村山由佳『星々の船』、三浦しをん『光』といった直木賞作家の小説を読んだけど、勧めてくれた人との関係を除いて小説そのものとしてみれば、こうした広く大衆に向けて書かれた(?)現代人の心(?)を扱った作品は、何だか人間の暗くて嫌らしくて疲れた部分を集めてあらかじめハードルを下げた上で感動を描いているようで(おそらく昔ソログープの『小悪魔』もそういう批判を受けた)、僕の好きなライトノベルエロゲーに比べて時代遅れで低級な文学であるように思われた。こんなふうな見方は社会主義リアリズム批評だと言われるのかもしれないけど。あと、唐辺作品のような暗い作風も好きだし、それは直木賞作家に近いのかもしれないな。いずれにせよ、ラノベは「男子中学生」向けに書かれているなんていう認識は無能なラノベ出版社のたわごとだと思いたいし、ラノベが描ける「若さ」の質は一般文芸よりも先鋭で特権的なものだと思いたい。石川先生の文章の美しさや抒情性は趣味的なものなのか、悲劇に根ざさない美というのは存在しないのか、ということに関しては、先の四人制姉妹百合物帳が答えの一つだと思うし、そもそもそんな問いを無意味にするような小説をこれからも書いていってほしいと思う。

大迷宮&大迷惑 (65)

 そこにはいつも本があった。
 自分が物心ついてから本の世界に引かれていったのには、ファンタジーの導き手があった。最初は母親に読んでもらったナルニア国物語とかエルマーの冒険とかだったかな。それから自分でもはてしない物語とか読んでみた。小学校2年生くらいの頃にドラクエ2が出て、ファミコンを持っている友人の家に見に行っていた。小学校3年生くらいの頃にドラクエ3が出て、まもなく自分もファミコンを買ってもらって、クリスマスプレゼントでサンタさんに3をもらった。ドラクエ3のプレイは、僕たち兄弟にとっては神聖な儀式となり、赤色の公式ガイドブックは枕頭の書だった。ドラクエ4の頃にはそれほどの熱はなくなっていて、主に弟がプレイしていたが、僕は2や3のゲームブックや小説を読んで、ゲームの外や隙間に広がる冒険の世界に驚いていた気がする。ファイファンも3ははまったけど、アダルトな感じにどこか距離を感じていた。
 中学生になって、何かの偶然で、町の本屋さんの片隅に置かれていたロードス島戦記を手に取った。自分がファミコンの中に求めていた世界が、こんなにもどんぴしゃで濃密に広がっていてびっくりした。深淵が広がっていた。初めてエロゲーに手を出したときと同じで、こんなにも欲望の解放されたものがあってよいのかと罪悪感すら感じた。ロードス島は後に文体に問題があることに気づいたけど、クリスタニアソードワールドシリーズも含めてけっこう読んだ。同時にフォーチュンクエストにもはまった。TRPGD&Dをはじめとする海外ファンタジーという更なる深淵があることも知ったが、中学・高校当時は富士見ファンタジア文庫のコーナーにこそこそといくのがやっとで、さすがにそこまで踏み込む勇気はなかった。雑誌を買ったり、罪深いファンタジー小説について人が話しているのを聞く機会などなかった。世の中にこうした小説を買う人が存在していることが信じられないまま、自分はエロ本を買うようにこっそり買い続けていた。こわもてのトールキンの小説ですらいかがわしかったし、ハリーポッター(未読)がブームになったのには戸惑いを覚えた。


 とまあそんなわけで、辿り着くべくして辿り着いた大迷宮、ジ・アビスだった。やり始める前は特に意識していなかったけど、さすがは希氏の作品ということで、作品名からしD&Dだし、最近のいわゆる異世界転生物などとは一線を画した、古典的なハイファンタジーTRPG(僕はレベルの低い冒険者なので想像でしか知らないけど)の楽しさを詰め込んだゲームになっていた。魔的詩人なんて聞いたことなかったけど、昔本屋に大量の翻訳ファンタジー小説があって、その広がりに溜息をついたことを思い出した。星継駅シリーズもそうだけど、こういう懐かしいファンタジーやSFって、多分歴史的にはそんなに古くないのだろうけど(せいぜい戦後か)、僕にとってはその源泉が分からなくて、とても不思議な存在に思える。
 しかし、そういう個人的な感慨を除くと、今の僕から見るとこの作品はいろいろと問題が多くて、手放しで喜べるようなものではなかった。何よりもまず、どうにも若々しさがなくて、くたびれた感じが拭いきれていないように感じた。以前にレイルソフトのデビュー作である霞外籠逗留記をやったときの感想にも書いたけど、あれをもっとひどくしたような感じだった。ファンタジーなのに何だか落語でも聞いているような台詞回しが多くて参った。
 その厳しさは音声で増幅されていたように思う。ハクメイ丸と黒塚の声はそれ自体としてはよいのだけど、やはりセリフが厳しくて、落語的なボケとツッコミやオチの流れが多くて参った。声そのものも厳しいニコライトは、正直なところ苦痛だった。あのだみ声で姉さん女房ヒロインをやられると破壊力がありすぎる。エッチシーンでは残念ながら音声をオフにした(キャラの顔のデザインはすっきりしているので、音声を切るとだいぶ違った印象になる)。救いはアーテだけだった。
 また、この作品で攻略対象になっているのはダンジョンであり、ヒロインではないのも参った。ヒロインは既に攻略済みであり、エッチシーンはちょっとくたびれた夫婦の営みを見せつけられているようで盛り上がりに欠けた。
 ビジュアル演出も厳しかった。冒険者の話なのでアクションシーンが多いのだが、戦闘にしてもドタバタにしても、数少ない絵を手で動かしているような貧弱な演出で盛り上がらず、文章に負けすぎていた。Fateシリーズというかなりがんばっている例もあるけど、基本的にエロゲーのビジュアルシステムはアクション向きではなく、恋愛物語向きなのだということを再確認。それをいったらTRGPなどはもっと絵がないのだが、あれは能動的にプレイするものだから違うんだろうなあ。
 あと、希氏以外の人が書いたと思われるパート、特に最後のシナリオのダイジェスト感がひどかった。せっかくの締めなのに残念な二次創作のようになってしまっていた。
 基本的に文句ばかりの感想になってしまったが、どのシナリオも終わり方は爽やかで、冒険者という実在しない(らしい)人々の生き方が眩しくみえる物語だった。僕がファンタジーを見つけてしまった頃とは世の中の成り立ちも僕自身の世界観も大きく変わってしまったようだけど、こういうファンタジーの世界はまだどこかに息づいているのだと思いたい。

甘夏アドゥレセンス (40)

 テキストが壊滅的なので楽しめる人はかなり限定されるけど、自分はかろうじて対象になったかな……。ナツというヒロインが、ロックが嫌いだといわれて「もうっ、ロックが嫌いってなんなのぉ!! それって同じ人間なのっ?!」と癇癪を起こしたり、ロシアで道行く人にボルシチピロシキとかいいながらハイテンションで話しかけようとするんだけど、そういう残念さに満ちた作品だった。ロシアのロックバンドの話は一切出てこなかったけど、そんな贅沢は言うまい。エロゲー作品にキリル文字が出てきただけで、我々はその恩寵に頭を垂れて感謝しなければならない。
 そのロシア語だが、ひょっとしたらロシア人の協力も仰いだのかもしれないけど、きちんとチェックしていないからиとнが混同されていたり、スパイが通信の最後に「高き志の為に。Пока」(Покаはフレンドリーな別れの挨拶)といってみたり、ロシアネタっぽい歪なコミュニケーションにうならされる。ソ連やその中での生活の現実に失望して自殺したマヤコフスキーと同じ名前の人が大統領で、プーチン政権に人間国宝扱いされて天寿を全うしたカラシニコフと同じ名前の首相にクーデターを企図されるというなにやら思わせぶりな設定は筋書き以上のものではなく、その筋書きもなにやらロシアというよりはウズベキスタントルクメニスタンのような独裁者の小国家を思わせる。そのウズベキスタンでは昨年亡くなったカリモフ大統領がボクシングを嗜む荒くれ者だったので、首相が顔に青あざをつけて執務していたという逸話があるが、そういうおとぎ話のようなステレオタイプだけで構成された解像度の低い現実は、へぇと思いはしても流し読み程度の距離感である。マトリョーシカのようなお土産物というか。没入していって恋愛物語を楽しむのはなかなか難しい。小倉結衣さんのロシア語を聴ける貴重な作品ではあるのだが。小倉さんに限らず、声優はみなさんしっかりしていて、絵もまあまあよいので、シナリオの機能が後退するエッチシーンだけは普通の作品並みに達していた。あと、掛け合いがなくストーリーが動かず、小倉さんの声だけを堪能できる特典ドラマCD「サーシャママのロシアよりバブみをこめて」もよかった(作品に45点をつけたが、そのうち15点分くらいはこのCDだ。サーシャが甘やかしてくれるという内容も悪くないが、特にサーシャが30秒くらいロシア語で歌うレールモントフ作詞の「コサックの子守唄」の1番である。多少思い入れのある詩なので驚いた)。同じロックでもキラ☆キラはライターの個性がロックのテーマとよく合っていて引き込まれたが、こちらはロックの反骨精神とは無縁(?)のすべてを許す「バブみ」。そのありえなさに見出せるのはロックというよりはエロゲーの業なのだろうか。ちなみに、ロック(рок)はロシア語で「運命」を意味する言葉だったりする。

泉鏡花『由縁の女』

 読み始めたのは何年前だったか。トノイケダイスケの書くのろけシーンのような文章が、トノイケダイスケの文章のような鷹揚なテンポで続いていくのについていけなくなり、いつの間にか挫折していた。今回は2か月くらい前に読み返し始めて、モスクワに向かう機内でようやく読み終わった。分厚い小説だからあのまま冒頭のトノイケ的文章が続いていたらと思うと良い意味でも恐ろしいが(泉鏡花なので当然、地味豊かな字面をどうにか追っていくだけでもある程度楽しめる)、まもなく物語が動き出して、のろけた掛け合いが延々と続くのではなく、終盤に向かって空間的にも時間的にもどんどん日常から逸脱して、折口信夫死者の書のような凄みのある話になっていって引き込まれた。
 この小説は誰に勧められたんだったか。泉鏡花の本を何か読みたいと思ってたまたま古本屋にあったのがこれだったのかもしれない。いずれにせよ、一度挫折した僕が言うのもなんだか、エロゲーマー必読の作品ではないでしょうか。解説の種村季弘も書いているが、物語は4人のヒロインが順番に登場する一本道ルートのエロゲーのような構造をしており、ヒロインの属性は日常・現実から次第に非日常・幻想へと移っていく。
 読むべきと言っておきながら、ネタバレ的な感想を書く。最初は妻のお橘で、これはいわばトノイケダイスケの幼馴染ヒロインのシナリオのような章だ。トノイケ作品では過去と未来が後退して現在ばかりが延々と続くように、妻との掛け合いが顕微鏡的な細かさで描かれる。2番目は人妻となった幼馴染のお光で、お店を切り盛りする勝気なヒロインだ。子供時代のほのかな感情のやり取りが回想される。どのライターとははっきり言えないが、青山ゆかりの声が似合いそうな感じもする。3番目はエタサーの姫という感じのマージナルな娘・露野。子供時代から苦労を重ね、ぎりぎりの日常を過ごしながら、主人公と再会したことで日常の外側に出てしまう。この辺から舞台は墓掘りたちの部落民コミュニティや避難所としての寺、山家の集落への道行きへと移っていく。強いて挙げるなら、ねこねこソフトの描くようなヒロインだ。当然ながらエッチシーンはないが、色気のあるシーンが多く、エロゲー化したら映えそうな感じがする。最後は子供のころに憧れていた娘で、今は人妻となって奇病に罹っているお楊で、ここでは現実は思い出と神秘に侵食されていて、舞台も山の中や夜ばかりの印象だ。そして、まるでヒロインたちを描くことで目的を達成したかのように、物語は急に終わってしまう。エピローグで描かれるのもヒロインたちだ。
 これをいまさらゲーム化しなくても、すでにこの作品にかなりインスパイアされたらしい希氏の「花散峪山人考」があり、山岳民俗学の可能性の豊かさを感じさせる。
 とはいえ、設定とストーリーだけ追っていても仕方なく、この作品の魅力は何といっても泉鏡花の文体でエロゲー的な物語が展開されているところにある。僕にとってははっきりとわからない語彙が多く、語りのリズムも半分江戸時代みたいだったりして独特に思えるけど、もちろん同時代の人にとっては違った風に見えたはずで、反対に視点のトリックや英詩や民謡の引用、方言や様々な社会階層の言語に敏感というモダニズム文学の仕掛けも同時代の人には違った風に見えたと思う。僕としては、同じくモダニズム作家で女性的なものを愛した象徴主義者だったアンドレイ・ベールイの、(特に後期の)いかれた小説を文体ごと日本語に訳したら泉鏡花みたいになるのかなとふと思った。
 鏡花の小説はまた暇を見て読んでみたい。