Бесконечное лето (Everlasting Summer) (85)


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 たぶんロシアで最初の本格的な美少女ゲームということで、開発段階から楽しみにしていたんだけど、できた頃(2013年くらい)には忘れてしまっていて、昨年に気がついてから少しずつ進めてようやくクリア。
 Steamで配信されているゲームで英語版があるので、既にプレイした日本の方も多いらしいけど、少し紹介的なことも交えた感想にしておこう。


○あらすじ
 ネット廃人・引きこもり気味の20代の青年。ある日、冬の町に出てバスに乗って居眠りすると、目が覚めたら夏の平原を走るバスの中。到着した先はラーゲリ(子供用サマーキャンプ場)「ソヴョーノク」(“フクロウの子”)で、ソ連時代そのままのピオネールたちがキャンプしていた。主人公もソ連時代のピオネールに若返っており、集団生活を送りつつ、ヒロインたちと接近する……というタイムスリップ物のエロゲー
 なぜ自分がタイムスリップしたのか分からず、世界がどのような時空にあるのかも分からないまま(他のキャラクターたちは答えをはぐらかし、主人公も内向的なのでなかなか真っ直ぐ聞こうとしない)、ミクという初音ミクそっくりの音楽好きでおしゃべりのヒロインが出てきたり、昔の核シェルターのような場所に迷い込んで男友達が発狂しかけたり、一瞬現代に意識が戻ったり、世界がループ構造であることをほのめかす主人公の分身に出会ったり。7日で1周してキャンプが終わることになっており、迎えのバスに揺られて居眠りすると現代に戻っているというパターンのシナリオが多い。


オタク文化ミーム
 ミクというヒロインもそうだが(ボーカロイドを使ったBGMもある)、キャラクターの造詣にオタク文化ミームが見受けられて興味深い。ロシアのオタクスラングでオヤシ(ОЯШ)という言葉があって、「普通の日本の学校生徒」という言葉のイニシャルなのだが、これは「一般的なラノベまたはアニメ主人公的な平凡な高校生で、平凡とか言いつつも羨ましい状況にいる人間」を意味しており、この作品の主人公もそんな位置づけの掛け合いをヒロインたちとする。
 ロシアのようなマッチョなメンタリティの国で日本のオタク的なずるい性格設定がどこまで通用するのか気にしたくなるところだが、ロシアと日本という国と国の比較をしてもあまり意味はない。ロシアでもそういう感性に反応する人たちはいるけど、あちらではやはりあちらの文化的土壌があって、日本と同じようにはいかないことがことあるごとに感じられて、ちょっとした異化効果を始終感じられる。通常は僕らにとっては、こうした異文化要素はPretty Cationのレーチェやこころリスタのメルチェのように留学生ヒロインという設定を通して触れられるが、本作は外国人が作った外国人のためのゲームなので濃度が段違いになっている。


○グラフィックなど
 技術的な部分を見ると、立ち絵は改善の余地ありで、姿勢や表情がオーバーでテクストあっていなかったり、一枚絵は全体的に質が低くて悲しいので、いつかリメイクして欲しいのも本音だが、味がある、といってもよいくらいには慣れてしまう。Steamなのでエッチシーンはないのだが、ちょっとファイルをいじるとエッチ絵は開放されることに終わってから気づいた。といってもきれいな絵に甘やかされた目にはちょっときついし、テクストがなくてブラックアウトするシーンに一瞬差し込まれるだけなので、物好きな紳士のための心配り程度だ。活字信仰が強かったロシア文学は昔から禁欲的で、象徴主義の時代にはさすがに婉曲的な官能表現は広まったけど、基本的に豊かな放送禁止用語は口承文学の財産であり、プーシキンが書いたポルノ詩もきちんとした活字になったのは20世紀末になってからだったくらいなので、急にロシア語の喘ぎ声だらけのエッチシーンとか読まされても困る。奥ゆかしさはかえってありがたかったのかもしれない。いつかは、という期待はもちろんあるけど。
 他方で背景画のレベルは相当高いといっていいと思う。僕はあまり詳しくないけど、日本のメーカーでこの水準に達しているところはあまりないような気がする。背景画に本気を出しすぎて、キャラ絵がおろそかになった感があるくらいだ。テーマがテーマだけに、カバコフの絵のタッチとか色合いが近いように思えるが、いずれにしても背景画というよりは一幅のソツアートっぽい風景画という感じがするものもある。そういう画風で、ラーゲリの広場に立つ銅像がゲンダという革命家(?)のもので、メガネをくいっと持ち上げる碇ゲンドウだったりするので感心する。
 音楽はロックっぽいものが多くて僕の好みとはずれているが、overdriveのBGMみたいにエモーショナルものも一部あったりしてけっこうよかった。サントラは70曲くらいある。
 ついでに画像を少し。1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22


○ロシア語で記述されたエロゲー
 僕にとっては、エロゲー的な掛け合いや恋愛をロシア語で描くとどうなるのかというのが、というのが大きな関心の一つだった。語学的な意味でも、言葉に付着した文化的な引力に対人関係の距離感や思考の筋道が引きずられるという意味でも、エロゲー的な物語文法とロシア語のモノローグ文体はマッチするのかという意味でも。昔、ロシア語を勉強し始めてインターネットに触れた頃、ドストエフスキーの言語である聖なるロシア語が、別の意味で聖なるエヴァンゲリオンを熱く語るのに用いられているのをみて驚いたものだ。その後、ロシアの新聞やニュースを頻繁に読むようになってからも同じで、おっさんくさい日経新聞の記事を面白く読めるようになったのは、ロシアの経済紙でロシア語によるビジネスニュースに親しんで身体を慣らしたからだった。そういう新たな回路を開く体験をできるのが外国語の醍醐味の一つだ。
 結論としては、論理的でありながら柔軟で瞬発力もある(語順の自由度や一語の表現力など)というロシア語の長所は、エロゲーでも十分威力を発揮していて読み物として楽しめた。モノローグがややくどく感じられるところもあったけどオヤシなので仕方ないといえるし、引きこもりのダメ人間の設定とは裏腹に、モノローグも掛け合いも結構ウィットが効いていて飽きなかった。ロシアでは別にプロの物書きでなくても雄弁・能弁な人が多いが、本作のライターもそうした例に漏れず地力の高さを感じられた。なんでもないやり取りにどれだけ神経を通わせられるか。言葉の流れとBGMが心地よいうねりを作っているように感じられた場面も少なくなかった。多分、僕が外国人だから、ロシアのハーレクイン的な小説のシャブロンや日本のアニメのフレーズの露訳であっても、新鮮に思えてしまったところもあるかもしれないが、そのせいで僕が損するわけでもない。どんだけエロいかとか、エッチシーンが見たくなるかとか、そういう直接的な欲求とは別に、このヒロインとずっと他愛のないけど退屈しないおしゃべりをしていたい、疲れたら一緒にごろっと寝たい、と思えるような親密さの雰囲気があった。ロシア語の掛け合いは、芸人の漫才のようなネタをいじって演じている感がなくて、純粋に対等に頭を使って、言葉を転がしたり飲み込んだりしているようで、健康的でやさしい感じがした。
 舞台として想定される1980年代のソ連。その想像の彼方のピオネール少女たち。ロシア人にとってのアニメ的な楽園は隙が多くて、皮肉の対象にもなってしまう品質の楽園なのだとしたら、今の若い人たちにとってはアニメの世界と同じく遠い世界となったソ連レトロの中の夏の少女たちとの距離は、遠いとはいっても近いのかもしれない。異国文化としてのアニメとは嫌が応にも距離があって、その距離を埋めるのがアイロニーの手続きなのだとしたら、ピオネール少女たちは国産品であり、自分たちのものだという喜びがある。そうした明るさがラーゲリの日差しにも感じられるように思えた。本作にはファンによるmodがたくさんあったり、スピンアウトのアイテム調合RPGトラヴニッツァ」(The Herbalist)があったりして、ループ世界との別れという作品のテーマに沿った楽しみ方をされているのもよい。製作中の次回作はソ連時代の日本を舞台にしたロシア人が主人公の話だそうだが、正直なところテーマの選択に関しては本作のほうがずっと洗練されていると思う。


○ヒロインたち
 ネタバレありで。
 シナリオ展開は割と手堅く古典的な感じで、各シナリオがかぶらないようになっていて飽きない。アリサはレーナとの三角関係と現実帰還後の音楽での出会い、レーナはヤンデレ展開とラーゲリ世界に残ってその後の半生、ウリヤーナはいたずら騒ぎと現実帰還後の復学と再会、スラーヴャは優等生振りとつかみどころのない大胆さが現実帰還後も続いてそうな結末、ミクは性格反転の劇中劇的ホラーシナリオ、ユーリャはハーレムシナリオと対の最終ルート。
 恋愛ゲームとしてヒロインとのやり取りをリラックスして楽しめたのは、どちらかというと絵も安定していたスラーヴャとユーリャだったかな。他は読み物としては退屈しなかったけど、最後のシーンをのぞくと疲れる展開が多かった気がする。スラーヴャは最後まで謎めいた感じがして引き込まれた。ユーリャは主人公との立ち位置の近さと無防備さがなじみの感覚だった。最後のシナリオだから楽しみ方に慣れたということもあるかもしれないが。すべての並行世界に同時に存在する不思議なヒロインが、原作者がチェブラーシカと同じの国民的アニメ「プロストクワシノ村」(邦題「フョードルおじさんといぬとねこ」)のセリフを知らずと引用して、身近な女の子になる。そういう小さな発見を積み重ねていく喜びに僕も与らせてもらったような気がした。僕は外国人なのでロシア人のようには楽しめないだろうけど、ロシア人がエヴァンゲリオンでおかしな電波を受信してしまうように、僕もこの作品に浸りきることができる。いつにも増して孤独な作業だからこそ、静かで自由な没入を楽しむことができる。

総括とそれをすり抜けるもの

ゲンロン4 現代日本の批評III

ゲンロン4 現代日本の批評III

 一応、今年は7本クリアできたのか。こころナビとこころリスタと出会えたのでよい1年だったのかもしれない。秋以降に急に生活環境が変わって、最近はほとんどゲームをプレイできていないので(Бесконечное летоが止まったままで、他にも積んだままの作品がいくつか)、今年のことではないように感じられる。本もあまり読めておらず、仕事の資料以外の情報といえば、帰宅して寝る前に見るアニメとまとめサイトくらいで、ツイッターすら最近はあまり目を通せていなかった。時間を捻出しようと思えばできたのかもしれないが、仕事みたいにきつきつにこなしていくのはあまり気が進まない。ゆるく付き合っていきたい。
 独りに戻り、肉親と死別し、また婚約した。子供の頃の自分や家族、成人してからの自分を細切れに、生活の合間に振り返る。仕事バカになって残業代で給料が1.5倍になり、いやな緊張感から解放されないまま正月も家で仕事をしたり、婚約者のご両親に挨拶に行ったりする。バック・トゥ・ザ・フューチャーのように、あるいは並行世界物のエロゲーか小説のように、いくつもの時間の中を行ったり来たりしているような気がする。自分の属性を増やし、足場を増やし、逃げ道を作っていくことは、生きることを楽にしてくれる。でもそれぞれの属性をうまくつないで回していく余裕がなくなると、頭を切り替えていくだけで精一杯で、それぞれの属性を実感を持って生き、伸ばしていくことができなくなって、責任を背負いきれなくなり、人格を統一しきれなくなり、多極性に復讐される。言葉や欲望は実体がないから無限に増幅していけるものだけど、物理的な自分はついていけない。何かを雑にしなくてはならなくなり、何かや誰かを傷つけてしまう。それを許してしまう雑な人間が自分だ。
 年末年始のつかの間の休日に、久しぶりに学生の頃の感覚を思い出させてくれる本を読んだ。本というよりは雑誌か。「ゲンロン4」。仕事の資料を買いに行った本屋で偶然手に取った。ゲンロンカフェには昔一度用事があって顔を出したことがあるけど、それきりだった。2001年から現在までの批評の特集。2000年代半ばからはてなダイアリーエロゲーの感想を書いている者、しかも動物化するポストモダンを読んで何かこじらせた挙句にエロゲーを始めた者、その後の彼のオタク批評活動に救われた者、そのような残念な青春にしがみつき続けている者、東浩紀スレやファウストゼロアカ道場の盛り上がりを「観客」として横目で見ていた者、オタクとしての自覚を深めながら必ずしも愉快ではない同時代性の感覚のぬるま湯につかっていた者、今は思うようにオタク活動に邁進できていない者にとっては、ちょっと感慨深い本だ。この15年間、いろんなものが生まれたり、生まれかけたりして、そして死んでいったのね。そんな風なら、僕はせいぜい観客でしかありえない。なにしろ世界や社会だけでなく、自分の人生に対しても観客になっちゃっている。ストリートの思想は確かに自分とは縁がなかったし、今も近寄りたいとは思わないけど、でもKeyの物語が進んでいったのはそっちのほうだったよなと思う。だからこそ、「運動」、共同体が中心に据えられる前の、OneとかKanonとか方が美しいと感じられるのだろうか。田中ロミオは単にサバイバル物が好きというよりは、時代の空気を器用に読んでいるのだなとか、「運動」や社会から身を守る砦としての聖域、ユートピアを果敢に描いた最果てのイマはやはり美しいなとか思う。東浩紀は15年前のようにはじけてはおらず、この先もはじけることはないかもしれない。共同討議の他の参加者たちは、何だか東フォロワーみたいな小粒な人ばかりで、討議の対象もあまり前向きとはいいがたく、新しいものの誕生の予感はない。何かを横断することは難しくなくなったのだろうけど、今残っているのは安全な横断ばかりだ。そんな中から新しいものは生まれてこず、文学や社会学より経済学や政治学の方が重要だと浅田彰は言う。誰もワクワクしていないけど、それでも東浩紀が楽観と責任感を捨てようとしないから、観客たちはまだ待つことができるのだと思う。特集以外のいくつかの連載は、質も文脈もバラバラで、問題意識に多少の共通性が見られる程度の雑誌のコンテンツだ。韓国やタイやロサンジェルスは少なくとも僕にとってはまったくアクチュアルには感じられない。東北もだ。知的さざなみやグローバリズムの幻想に過ぎない、というと言いすぎか。自分はロシアのことばかり知ったかぶっているだけだし。雑誌というのは個々のコンテンツはバラバラでも、一冊の中にまとめると何だか単純合計以上のものを表しているように見せてしまう器なので当然ではある。とはいえ連載や寄稿の種類はそれほど多くなく、雑誌としてはミニマムだ。発行部数が少ないだろうから仕方なく、その辺の厳しさが垣間見えるのは切ないが、東浩紀にはそんな瑣末なことは気にしないでほしい。巻末の海猫沢めろんの小説(時代性を無視したロックな衝動の小説。バタイユのような衝動を現在ぶちまける意味があるのか不明だが、ロックにとっては時間は現在でしかありえないので、そんな問い自体が意味がない。)くらいやけくそでもいい。何かと叩かれることが多いし、確かに失敗もしただろうし、大抵の批判は間違っていないのだろうけど、2000年代に彼よりも夢のある仕事をした批評家、夢のある課題に体当たりでぶつかっていった批評家は僕にとってはいない。それがすべてだ。彼がオタク批評でやらなかったことは別の誰かがやるしかないし、実際にやった人もいるだろう。そういう意味では僕にとっても過去の人なのかもしれないが、過去は現在の中にも潜んでいる以上、そのことはあまり問題にはならない。そうして2017年はやってくる。

こころナビ (80)


 とてもいいゲームだった。
 起動してOPムービーが流れてすぐに引き込まれた。溝口哲也さんという方の作る音楽が好きということもあるのだろうけど、多分、この作品で描かれているようなネットの未来が好きなのだろうと思う。それは音楽にも現れているし、作品が作られた頃のネットの雰囲気を感じられるところにもある。2003年といえばはてなダイアリーが始まった年だそうで、アニメではラストエグザイルが、前年にはあずまんが大王灰羽連盟最終兵器彼女が放映されたという。牧歌的な個人サイトの時代はもう終わりかけていたかもしれない。といってもまだSNSはなく、代わりにエロゲーをやるような人は2chに入り浸ってキャラのスレやらトーナメントやらを楽しんでいた。この作品の感想やレビューを、それこそ個人サイトも含めて漁ってみたりすると(最近はESにリンクを登録する個人サイトが減ってしまったようだけど、この時代の作品にはたくさんある)、発売当時から作品のシステムそのものや作品内で描かれている世界が古いという反応があったようだ。個人的には、ラウンダーのキャラデザやIRIS内の背景、あるいはラウンダーというシステムそのものに、伺かの時代の空気を感じさせられる(コナの太い手足や、信じきったように微笑む舞耶ちゃんの目や眉や口の形)。2003年には伺かのブームは少なくとも下火になっていただろうし、僕はリアルタイムではそのブームを知らないので思い込みなのだけど、この作品のコナやセルフラウンダーは、伺か運動の夢をさらに推し進めたようなものだと思う。5年後を舞台にしたこころリスタでは、IRISはすでに非アンダーグラウンド化した上で埋もれてしまったマイナーなサービスになっていたというのも、寂しいけど現実的な設定だったと思う。主人公の部屋の背景が大きく変わっていて、5年でこの差は主人公の家の経済力の差なのかと勘違いしたくなるような寂しさもあった。
 脱線したが、640x480サイズを全画面化した少し暗い画面に流れるOPや、ゲーム冒頭の背景画やBGMの音色から、そういう時代(あるいは少し前の時代)の空気が一気にドバァっと吹き付けてくるような気がして、何かそれだけでほろりと来る。そう、パソコンの画面ていうのは今みたいにシャープではなく、字がギザっていたりしたのだった。プレイ中に切り替えると他のブラウザの画面も一瞬640x480サイズで映ったりして、昔の視界が甦るようで懐かしくなる。作品は実際に古いのだから(たった13年前だけど)、別にノスタルジーを狙っているわけではなくて、あくまで最先端の未来のイメージとして描かれている。それなのに薄暗い画面で、ワクワクするような明るいネット世界の冒険にいざなっているんですよ。繰り返すけど、OP「こころつなげて」はよい。

会いたい 信じたい 感じたい 探していた 恋する気持ちを 歌おう オーロラ揺れる 夜空見上げながら 誰に合わせることもないよ 触れよう 自然の流れ 優しくなれるから たとえ 雨に凍えていても 近いのに遠い二人 ここでは繋がってる 夢でも現実でも 心は一つ あなたに出会えて 感じた全てを 特別だと思えるから 神様に願わなくても 迷いなんてない いつでも会いたい 知りたい あなたの 世界中にキスを ほらクリックして あすへ飛び出そう 信じていて 思いは届くよ

起動するたびに見てしまう。単に三拍子(でいいのかな)の曲が好きということもあるが。はじめの「歌おう オーロラ揺れる」の母音の連続から流音の連続に移る鳥の歌声のようなところがよいとか、そんな細かい話だけでなく、全体の雰囲気がとてもよい。
 それでゲームをスタートしたら、すぐにこころリスタの好きなBGM「モノクローム」の原曲が流れ始めてじーんとくる。こころナビのファンの人がこころリスタをやって「モノクローム」が流れたときに何を感じたかは分からないけど、僕はこころナビを後にプレイして順番が逆だったとは思わなかった。むしろ正しい順番だった。主人公がつけたPCのモニタが液晶ではなくブラウン管みたいに丸みを帯びているのを見てその思いを強くした。僕もはじめは誰かのお下がりのブラウン管のモニタでエロゲーをやっていたし、ネットも見ていたんだった。PCの駆動音も何かあんな感じだった。主人公がホームページを作るときのワクワク感も懐かしい。説明入りのリンクページを作って、リンク先のサイトに報告の挨拶をしたり(僕もリンク先サイトの紹介文とか熱心に読んでたなぁ)、カウンターや掲示板やチャットルームを設置して常連を迎えたり(掲示板のログとかも熱心に読んでた)、イラストを描ける人が誰かに絵を贈っていたりとか。こんなふうに入り込んでいたところにBGM「Heart starter」が流れ始めると、本当にハッとしてテンションが上がってくるものがあった。
 こうした雰囲気を担保しているのが、主人公のナイーブさだろう。夢がある明るかった時代にふさわしい純朴なオタク少年で(イベントCGでけっこうガタイがよくてびびった)、臆病だけど爽やかであり、女の子たちも優しいので、ネットにワクワクしていた時代に帰れる気がする。
 もう一つ重要なのが、主人公の名前を変更できることだ。この作品ではハンドルネームも変更できるので、僕はブログで使っているものを設定する。すると、こんな感じやりとり延々と続いて幸せになれる。パートボイスの作品で、声優さんたちがかなり棒読み気味だったので(関西弁のみまりは比較的よかった気がするが)だいたいオフにしていたため、本名&本HNプレイのフィット感はかなり高かった。全画面で読み進めていたが、メモを取るなりしようとして画面を切り替えると、ブラウザ「こころナビ」から別のプログラムに切り替わるというところも作品にシンクロする。というか、最近はエロゲーのプレイ速度が落ちてきているので、プレイしながら忘れないようにメモ帳にストーリーや気に入ったセリフをメモしたりしながら進めることが多いが(昔は一気呵成に進めて勢いで感想も書けるだけの時間と集中力があった)、この作品にいたってはあまりに本名やdaktilと呼ばれる嬉しいシーンや、名前を呼ばれなくても文章に味があったり、立ち絵の表情が可愛かったり、立ち絵と文章の組み合わせがよかったりする瞬間が多くて困った。はじめはプリントスクリーンボタンを押してペイントに貼り付けて名前を付けて保存していたけど、20枚くらい保存したところでこれは無理だと思い、エロゲー暦12年目にしてようやくスクリーンショット連続保存ソフトをインストールする羽目になった。結局、全体で500枚以上の画像を保存した。当時はもっと保存した人もたくさんいただろうと思う。Pretty Cationのときは主人公がヒロインの裸を撮影したり、日常シーンでも撮影機能があったりするのが好きではなかったけど、こうして主人公ではなくプレイヤーとしてなら狂ったように撮りまくってしまうのはおかしな話だ。そうした視点の問題だけでなく、絵とテキストの組み合わせのよさも重要だったりするのだろう。音声がないので、時間性が弱くなっていることも関係があるのかもしれない。
 全体的に立ち絵が素晴らしく、どのヒロインにも可愛さで殺しにかかってくる瞬間があった。例えば、小春:???、夢:???、みまり:???、アイノ:???、ルファナ:?、凜子:????
 小春は顔を赤らめているときの表情や、無防備な正面向けの顔がよかった。
 夢はメガネがとても正しい四角で素晴らしく、斜めの絵可愛かったのはマリポ先輩の元祖だからだろうか。
 みまりは目と眉と口のバランスが素晴らしく、笑うと垂れ目気味になるのが反則であり、頬に朱がさしたときが素晴らしく美人だった。巫女服を着た佇まいもきれいで、私服時の微かに澄ました感じの目元も素晴らしい。関西弁キャラが苦手な自分としては、視覚的なところからどうにも目が離せなくなっていった。
 アイノは俯き気味のポーズがよかった。あと、横向きになって頬が膨らんだようにも見える表情で、目が切れ長に伸びて寄り目気味になるのが美しい。
 ルファナは割と普通なのだけど、制服バージョンになったときが可愛さが増した。
 凜子は照れたときもよいが、それよりもちょっと不安そうこちら窺っているときの顔が妹感(というか眼差しの子供感・肉親感)が強くてどきりとした。
 ラウンダーでは特に舞耶ちゃんが可愛かった(繰り返し)。
 あと、立ち絵が2段階、さらには3段階で表情を変えたりするのがよかった。現在のゲームのはっきりしすぎていてデフォルメ気味の表情ではなく、もっと汎用性のある表情が多いので上品で、この時代のゆっくりした表情の切り替わり(切り替わるときに一瞬メッセージウインドウが消える)も変化をきちんとみることができて好きだ(ONEの立ち絵もこの点で素晴らしい)。音声がないので、この切り替わりの動きが時間性を担うものとしてのウエイトが増している気がする。立ち絵が人形劇みたいに画面の中をヒョコヒョコ動き回らないのもよい。そして、セリフにそろえて表情をあてがっているというよりは、セリフと表情が組み合わさって一つのシーンを作っているような感じ。
 全体に関する感想は大体こんな感じなので、後はプレイ順に個別の雑感を書いておこう。感想というより鑑賞になってしまったが、この作品なら仕方ない。


【小春】
・寝相がよい。そして背景画に映っている寝姿が死体みたいに静物化していて怖い。
・みはは。ほにいちゃんに通じるものがある。
・主人公と一緒に野球をやって、応援したかった子供時代。
・主人公と一緒に帰るために遠くからダッシュしてくる。すごく幸せそうな顔。
・告白シーン。眠ってしまってうまく告白できなくて焦るのが可哀そう。そして泣いてしまう。告白というより白状になってしまう。とても美しい告白シーンだ。
・舞耶ちゃんにも恋を体験させてあげたい → なぜかお医者さんごっこ思い出図書館
・舞耶ちゃんにお医者さんごっこという鬼畜の所業に罪悪感。
・小春に対する浮気の罪悪感も。幼馴染というのはつくづく傷つけられる存在だな。急に女として見られることになった小春が戸惑い、いったん距離を置くのも仕方ないのかな。
・他ルートにいく場合は最初に振らなくてはいけないし。
・そんな幼馴染だからこその舞耶ちゃんなのだった。
・エピローグ。プロ野球選手としての2年間の輝き。それを描かなかったのもありかな。思う(あるいは想像する)ものとしての思い出の力に対する信頼がある。


【夢】
・マリポ先輩がツボだった自分としてはガード不能だった。
・本当はない部活。この飼育部がこころリスタではああなるのかという感慨。
・絵を描くのが好き。「現実ではうまくいかなくても、ここでは、みんな私の絵で何かを感じてくれるわん。いつまでも頼ってちゃいけないけど……今はもう少し、ここで練習するの」。本番ばかりの社会人になってしまうと、この練習という言葉に甘い響きを感じる。絵、見てみたいなあ。
・ウサギの交尾 → 命の大切さを理解するために飼育部に入ってもらうよ。
・野菜のくずをもらいに行ったり、親を母ちゃんと呼んだり、弁当を作ってきてくれたり。話しているとエセ不良ではなくなってくる。
あの変な可愛い中国服。下のスカート(?)がどんな形なのか最後までわからなかった。
・「告白すると決めたけど、どうしてもギャグっぽくなっちゃうんだよな」。
・そのくせ自分も告白前にコンドームを買ったりしている。
・あたいは不良なので愛し合っていても付き合えないが、不良なのでエッチは教えられる。
・キスをすると四角いメガネがぶつかる。不良なのでめげない。
・「不良は…これくらいじゃ…なんとも……んくぅ!」
・ウサギに見られる差分という謎のサービス。
・嬉しくてラミューに全部報告、ラミューが話してしまってラウンダーがばれる。二人とも可愛い。
・ペットショップの前で。こんなふうに将来を夢見てみたい。


【みまり】
・気さくでくだけた人かと思いきや、巫女に対する思いが真剣。
・掃除や稽古などの地味な暮らし。後で歳を知ると、どんな気持ちで日々を過ごしていたのか、あんなふうに気持ちのよい人柄なのか、かえって気になってくる。(若い頃は)成績優秀で恋にも一生懸命だったという。その頃のみまりもちょっと見てみたい。
・「エッチとかなしでも相手してくれるの?」 これを本気で言っている美しさ。
・そしてハンバーガーをほおばる絵の可愛さ。つかず離れずの距離感に関西を感じる。
・自分の名前は好き?から自然に下の名前で呼ぶ流れに持っていくお姉さん。
・付き合うことは結婚までの準備期間と明言する、変わったヒロイン。
・「しばくよ」。
婚姻届のやり取りは緊迫感があった。目が潤んでますよちゃんと歩ける?。本当に変わった子だ。これで24か。
・廃病院でのシーン。これで目覚めるのだろうか。
・エピローグ。歳を気にしちゃうヒロインの可愛さよ。


【アイノ】
いきなりお嫁さんで参った。
自分の国を紹介するために、一人でひっそりホームページを作ったり、クリスマス仕様を準備にしたり。
・ザリガニを肴に正体不明になるまで一緒にウォッカを飲みたい。一緒にスケートもしたい。
・ちなみに、スオミはペテルブルクと国境を接していて、ペテルブルクにはスオミデベロッパー会社が何社か進出してマンションを建てたりしている。そのうちの1社にレミンキャイネン(アイノと同じくカレワラの登場人物に由来)という会社があって、「アイノ」という名前のマンションをワシリエフスキー島に建てている。というわけでアイノと一緒にアイノに住んで、白夜のペテルブルクで散歩したり、スオミに遊びに行ったりできたらいいだろうなと夢想。
・「あの………性交……してください…っ」
・次の日にいきなり日本に。この間の描写がないのがよい。
謹聴
・「ワタ、ワタクシと………せ、性交……ひい…
見惚れるいいのですカレワラかな
アイノ小さいなあ


【ルファナ】
・データくずの花火で一人で遊んでいる。
・デートとしてのサイトめぐりっていいな。
セックスをするのです
・外の世界に出て、雪を見て。部室で待っていてもらって。こころリスタがオーバーラップしてくる。
異なる重力が働いている。
・転校生としてやってきて学園エヴァもどき。でもひたすら明るい。別れのキスの場面の対照的な構図、ベクトルのダイブ
・リーヒラーティってインド人か何かかと思ったら、フィンランドの苗字だった。ルファナならインド人でもいいけど。開発者としてのイリス、リナックスを生み出した国としてのフィンランドのイメージだったか。


【凜子】
・部屋でDVDを焼いている。中身はなんだろうか。
・子供の頃、ペットのインコがタンスの隙間に落ちてわんわん泣いたことがある。そういう記憶があるからあの真顔の表情がいいんだよな。プールで子供相手にネットは男とも対等に戦える舞台だと語ったり、ネットの万能性を割りと信頼してしてそうなところに、凜子の危うさとか傷つきやすさがあるように思える。ストレスフル・エンジェルの管理人としては鼻で笑うのかもしれないけど。
・しかしお弁当を作ってくれたり頭がよかったりテキパキしていたりとハイスペックで、兄ちゃんは兄貴面することしかできない。凜子からするとそれがめんどくさいけどいいところなのだろうか。
・結局、凜子の方から好きだと強く言い出すことはなくて、こちらを受け入れてくれた形になった。そこをつついて凜子をからかうのは野暮で、口に出さないで何となく了解しておくのがいいんだろうなあ。
ランファンを通して見える凜子。「ワタシと……心の恋愛……しませんか?」といった時の凜子は、兄ちゃんのことを何とも思っていなかった可能性もある。エロゲーの文法的には、この時点で兄のことが好きで、ラウンダーを通じた「研究」は一種の絶望感からの逃避だったと見るのが正しいのかもしれないが、正体を明かしあったときの「驚いたね ……本気?」という反応を素直にとれば、兄と結ばれる可能性なんて想像したこともなかったように受け止められるけど、その後で速やかかつ冷静に「男嫌いだけど……家族には適用されないわけで。ま、別にいいんじゃないの?」とまとめてしまったところを見ると、感情は抑えているけどやっぱり嬉しいのかなと思う。切り替えが早すぎるところに、兄ちゃんを掴まえておきたいという焦りすら見たくなる。この辺のどちらに転ぶか分からないような緊張感が凜子との会話の面白さでもある。実際に選択肢を外してお風呂シーンを逃したときはがっかりした。
・お風呂でもこの緊張感。凜子自身どうしたらいいのか分からず戸惑っているのかもしれないけど、何もしなければそっけなくなってしまうキャラなので損をしているのかもしれないがそこがいい。会話しながら石鹸を全身に手で塗っていく。甘え方が分からない、というかこの兄ちゃんに甘えるなんてできないと自分を追い詰めてしまい、結局、兄ちゃんに「好きだよ」と言われて見事に一瞬で昇天。損な子だ。
・だからこそ、サーバーの中に自分の部屋を再現した独立スペースを持っていて、そこに入れてくれるということに淫靡さ、あるいはそんな凜子の可愛さにくらっとする。ここから先の畳み掛け(蘭煌との意識の混淆、ブラウン管越しのやり取り、通販、涙、輸血の話)は素晴らしかった。こころリスタで変奏されたのも頷ける。
空が晴れすぎていて気が遠くなる。
・「一人称をあたしに変えようかな」


うむお願いします

世界と世界の真ん中で (55)

 立ち絵がとてもきれいで大きい。近さは普通なのかもしれないが、布地をたくさん使った服やリボン、ボリュームのある髪などで大きく見える。みんな髪が長く、ポーズもきれいだったり可愛かったりして目に優しい。咲き誇っている花を見るような感覚がある。立ち絵鑑賞モードがあるのも正しいことだ。
 萌木原さんが描くヒロインたちの目は、以前にいつ空をやったときにはあまり感じなかったけど、瞳孔と虹彩があまりはっきり色分けされていなくて、ぼんやりと膜がかかったように見える。瞳の色合いが赤紫だったり青だったりして宝石みたいで、それも何だか夕闇や夜の空を感じさせ、ふたを開けてみたら静かで幻想的なお話だった作品の世界に似つかわしいように思える。
 他方で、一枚絵の方は立ち絵の完成度の高さに比べるとばらつきがあって、崩れたものや印象の弱いものも多かった。エロい絵よりも可愛い絵を描くのが好きな絵師さんなのだろうなと思う。
 作品の第一印象はかなり悪かった:

 クソゲーの文学性。
 「クソゲー」というのは必ずしも悪い意味ではなく、ある種の美点を持つアニメを「クソアニメ」と呼ぶ程度にはいい意味のつもりだが、うまい言葉が見つからなかったのでひとまず。
 「世界と世界の真ん中で」を始めたのだが、何というか、社会主義リアリズム文学を連想させるところがある。学生寮エルデシュはどこかの田舎のコルホーズかライコム(地区委員会)で、寮生である優等生ヒロインに「連理君はエルデシュの精神的支柱」と評された主人公は、そこで頼りにされている議長だ。村民は誰もが幸せで、美しい……。連理という主人公の名前も、連理の枝とかの連理じゃなくて、本当は「レーニンのことわり」とか「連邦のことわり」いうような由来で、意識の高い市民であることを示しているんじゃないのか。
 料理や家事が得意でヒロインたちに褒められる系の主人公が、ヒロインたちや親友役男キャラやヒロインたちの仲良しグループで「連理君らしいわね」とか「どうしたの?あのとき、連理君らしくなかったから」とかちやほやされながら(社会主義リアリズム文学における「ディシプリン」や「イニシアチブ」があると評される肯定的主人公)、あるいはヒロインが喜ぶのを見て「よかったな」(イリイチもきっと同意しただろうよ)とか声をかけてやったりしながら、あるいは元気のないヒロインを見て「俺にできることといったら、美味しい料理を作ってやることくらいだ」(労働は裏切らない)とかつぶやきながら料理や家事をする描写や誰が何を作るかとか食べることの話題ばかりが延々と続く序盤の日常パート、イケメン家政夫による介護施設での労働的なパートの文章のつまらなさが苦行レベルなのだが(無意味に爽やかな高原の別荘風――共産主義ユートピア…――の学生寮だったりして倫理的な意味での居心地も悪い)、この作品を手にした主な動機のひとつである絵の美麗さに助けられた。
 音声が流れているときはメッセージを消すという設定があって、それを使うとヒロインたちの表情や姿勢の変化をぼんやり眺めることに集中できる。特にヒロイン同士が会話しているときは地の文が少ないので、たとえそれがまったくどうでもいい言葉の応酬であっても、あるいはむしろ非効率極まりない冗長性の塊りであるからこそ、そしてエロゲー文法の魔法によりなぜかヒロインの立ち絵はいつもこちらを見ているので、それを浸す善意の空気にぼんやりと包まれながら、思考停止の境地に遊ぶことができる。正確には、ヒロインたちの他愛のない間の抜けたやりとりはセクハラ的なつっこみを入れる余地だらけの無防備なものなので(ニコニコ動画で大量にコメントがつく萌えアニメのタイプで、例えば、BGMが変わると曲名がその都度右上に出てくるのだが、穏やかないい雰囲気のシーンになって「黄金の円光」と出るといちいち馬鹿馬鹿しく釣られて、あぁ、となる)、思考停止というわけではないのだが、日本語の読み物としての面白さや倫理性の問題から遠く離れた境地に至れることは確かだ。主人公の提灯持ちみたいなうざい親友キャラはすぐさま音声を切ったが、立ち絵も非表示にできたらもっと快適性が増しただろう。こういう楽しみ方をするなら主人公はノイズでしかないので、なるべく主張せずしゃべらない、人格というよりは一つの機能に退化(進化か)させるのが望ましい気がする。それを推し進めて主人公を消したのが萌え4コマであり、エロゲーではシステム上そこまで至るのは難しいのだろうけど、この作品のようにヒロインの絵が美麗で声も可愛ければ、高度に空虚な癒し作品として十分に比肩できる。

 ちなみに、「人格というよりは一つの機能」としての主人公は、個別ルートに入ったらそのままの設定であることが判明してちょっと驚いたが、そう考えると主人公は人間になることで不快感が増して退化したと言えるかな……。
 この後、最初に愛良ルートに進んだ。ストーリーの展開はどれも似たようだったけど愛良ルートが一番面白く感じたのは、最初にやったからかもしれない。面白かったといっても文章に引き込まれたとかそういうことではなく、ルート後半以降で歌声が超常的な効果を示したり、聖女とあがめられたりと話がめまぐるしく展開するのも淡々と静かに進められ、町の広場でいきなり歌いだすと周りの人々が静かに聴き入って明るい光がさして秘蹟が行われる、その全てを悟ったかのような流れにスピリチュアル文学や聖者伝のような奇妙な静謐さを感じられたからだった。共通ルートのいびつな箱庭感がいつの間にか、見方によってはサイコホラーと言えなくもない静かな喜びへと変わっていた。説明に言葉を尽くしたりしない謙虚さが好ましく思えた。
 あと、エッチシーンはこの作品はヒロインが吼えたりせず声を押し殺して喘ぐので全体的によかったけど、なかでも元々口下手な愛良は特によかった。何というか、でかい一物を突っ込んで乱暴に動かしてぶちまけて終わりというのではなく、壊れやすい女の子をその女の子の視点まで降りてきて気持ちよくさせているという感じがあった。
 ただし、エッチシーン以外では、悪い意味で女の子視点になりすぎていると感じることも多々あった。愛良ルートで言えば、愛良に結婚式のドレスのような衣装をいきなりプレゼントして、寮でおしゃれな高級レストランを訪れたカップル風の食事デートをやって(あまつさえそのドレスでエッチにまで及び)ヒロインを喜ばせるというのは、できるイケメンを誇示するシーンなのかもしれないが、プレイヤーとしては個人的に実にくだらないサプライズだと感じてしまった。トレンディドラマ風というか、まあ今でもこういうカップル席で夜景を見ながらディナーみたいなデートは割と標準的なのだろうが、ともかく(三次元)女性視点の幸せを描いているように思えてしまった。つまり愛良も三次元女性っぽく感じてしまう。同様の「女の子が夢見るイケメンを演じさせられている感」は、美紀ルートのデートイベントでも感じられた。女性が喜ぶなら男性はそれで幸せになれるのかもしれないが、やっぱりフィクションの中でくらいは男も我慢せずに同じもので喜びたいよなあというのはある。ライターが女性なのかどうかは知らないが、変なところで現実を思い出させないでほしい。上記の第一印象のところでも書いたけど、主人公はヒロインのことを除くと料理、買い物、掃除、洗濯のことくらいにしか生きる意味を見出していないようなところがあって、生活においてこの辺のルーチンの優先順位が一番低くなっている非モテ人間としてはつらい。しかし、デートをするといって湖に散歩に行って、そのまま木陰でことに及んでしまう(しかも他にはほとんど何もしない)愛良の二次元的な無防備さは賞賛したい。
 ついでにもう一つのノイズについて。中(あたる)という主人公の友人ポジションの男キャラがいて、これが設定的には結構意味のあるサブキャラであることが後ほど判明するのだけど、日常シーンでは何かある度にハーレムの主である主人公に気配りを見せる非常にうざいキャラで参った。男キャラに恋の相談をして、そういうのもいいと思うよ、せっかくだから、この恋を機に生まれ変わってみるべきだよといわれる気持ち悪さ。ショッピングは女子だけでやるといって主人公と男キャラはいったん外されるけど、その後主人公はなぜかオーケーされて、「やったね、連理♪」と嬉しそうな男キャラ。あるいは僕の感覚が平均的なエロゲーマーとはずれているのかもしれないが、こんな気味の悪い男キャラを気に入るようなプレイヤーはいるのだろうか。なぜわざわざ気持ち悪い言動を取らせるのか分からない(設定的には主人公の守護霊みたいな存在ということだが、それならもっと別の性格、というか女キャラにしてもよかったと思う)。そもそもエロゲーで男の友人キャラをきちんと描いて成功するケースなんて多分ほとんどないので(物語の本質にあまり関係ないキャラか、あるいはエキセントリックなキャラや人生の先輩のようなキャラばかりで、僕の知る例外は『最果てのイマ』の男共くらいだ)、あまりむきになっても仕方ないことだが。
 愛良の他のシナリオについては特に書くべきこともないので手短に。
 美紀ルートは、会長との三角関係で会長の魅力が一切描かれていなかったので感情移入できず、二人の美紀の話もどこか他人事になってしまった。また、このルートは耳に優しくない稚拙な日本語で書かれていて、例えば「みのり」と「美紀」の連呼に悪酔いしそうになった。しかしラストシーンのクラスメイトたちとのハイタッチは不気味な調和に満ちていて、意図せずして(?)よい電波を出していたと思う。
 小々路ルートは、最後の不条理な終わり方に不満が残った。そこはご都合主義的に病気が治るか、あるいは治らなくて終わってほしかった。もっと前のシーン、特に病院を抜け出して牧場へ行き、でもお金を持ってなくてアイスクリーム屋を眺めるだけというのはとてもよかったのに。結局苦しんだ母親は放置して、恋人たちは天球儀の世界で末永く幸せに暮らしましたというのは不気味すぎる。小々路ちゃんはあんなに可愛いのに、可愛い顔をしてなかなか思い切りがよい。そういえば、天体観測をしに牧場に行ったのに観測そっちのけでエッチしかしなかったし、「お兄ちゃんの赤ちゃんがほしい」と直球で言える娘なのだった。もちろん、彼女だって苦しんだし、だからこそそもそも天球儀の世界にやってきたのだろうけど、終盤の展開の中でそこを描かないところにこの作品の奇妙な空白、もしくは迫力があるのかもしれない。
 遥ルートは、マリポ先輩を好演し、らぶおぶやノラととで元気なロリキャラを気持ちよく演じていた卯衣さんに期待していたけど、この作品のおっとりキャラはこの人の声にはあまり合わないようだとの結論に至った。菜緒もそうだけど、元気で早口なロリ声なのに無理やりゆっくりしゃべっているように感じられて不自然だった。残念ながら、エッチシーンも遥っぽいというよりは、ところどころ淫乱お姉さんキャラみたいな発声になってしまい不自然だった。お話自体は猫撫ディストーションのギズモを思い出させるもので、それだけでも何だか嬉しかった。しかし理系要素は完全に上っ面だけで残念だった。遥はエルデシュというハーレムの中で唯一、主人公にはじめからべったりではなかったのもよかった。この共産主義ユートピアでは、成員が互いを監視しあっており、ミクロな観察ややり取りが絶えず行われていて、どんなことが連理らしくてどんなことが連理らしくないかが最も重要な関心事になっている。そんな気遣いと察しの文化に息が詰まりそうになったとき、主人公など気にせずにボリボリとスナック菓子を食べながら、星や数式に夢中になっている遥が癒しになる。ただし遥ルートには他のルートのようないびつさはほとんど感じられず、「距離」や「好きという解」をめぐる不器用で臭い言葉のやり取りくらいしかなかったので、どちらかというと平凡なお話の印象だった。
 冒頭に書いたとおり、グラフィックに惹かれて事前情報なしに手に取った作品だったので、あまり評価が高くないことを後から知ってちょっと残念に思ったが、それでも何かしら楽しめた。まあ、女の子が可愛いということを思い出せば大抵の作品は何とかなっちゃうんだけども。

この大空に、翼を広げて (65)

 空とか星を作品名に入れた爽やかそうなゲームが増えたなあと好ましく思いつつも、いまいちな感じのものばかりで見送っていたけど、先日安かったのでつい買ってしまったのがこれ。結論から言うと、パッケージから受ける爽やかな印象以上のすごさはなく、子供向けの小説みたいに健全すぎ、風呂敷をたたみすぎ、きれいに収めすぎで軽かった。ソアリングというものを知らなかったので、エンジンを使わずにただ風に乗って空に浮かぶということの魅力には十分引き込まれた。ソアリングは、空を飛ぶことが気持ちいいだけでなく、それを見ている者(キャラクターもプレイヤーも)も何らかの思いを抱きながら爽やかな気持ちになることができ、おいしいモチーフといえるだろう。それに音楽と背景画でいくらでもきれいに見せることができ、実際にこの点では(やや淡白ではあったけど)がんばっていたと思う。モーニンググローリーの上の金色の夜明けの空は、分かっていても壮大で美しい。ただし、文章が読みやすすぎ・主張しなさすぎで、退屈といえば退屈だった。青と白を基調にした大空、風、飛行機、風車、車椅子の美少女というイメージは爽やかなんだけどあざとすぎるので、何かまったく予想外のお話であればよかったのだけど、割とありがちな物語だった(浮かれては落ち込む亜紗のくだりはけっこうよかったが)。立ち絵が全体的に薄味だったのと同様だ。
 そんな中で個人的に救いになっていたのが、小鳥のキャラクターだ。こんなところにいたのか、アン・シャーリー!といわざるを得ない女の子だ。個別ルートに入るまで意識してみていなかったので気づかなかったが、まさにモンゴメリの小説から抜き出してきたまんまのような文章があってcomrade感が高まった:

「……ふむ、私はきっとリア充ね。 そう言って、ぶすり、と大きなイチゴにフォークを突き立てた」 「私って美少女だし……勉強もスポーツもできるから、もし足がこんな風になってなかったら、謙虚な気持ちで生きられなかったと思うの。碧くんは知らないでしょうけど、私って結構図に乗りやすい性格なのよ」 「こないだ、この自転車に乗ってる碧くん、初めてみたけど……超カッコよかった! シビレるくらい。私の王子様って感じ。あんまりカッコイイから、こないだなんて夢に見ちゃったくらいよ。……うー、こんなカッコイイ男の子が私の彼しだなんて、まだ信じられないわ。何かの手違いじゃないかしら」

 大仰な減らず口をたたく夢見る少女だ。アンは赤毛であることがコンプレックスだったけど、小鳥は足の障害がコンプレックス(というと不正確かもしれないが)で、アンが何かと鼻の形がよいことを自慢するように、小鳥は自称美少女、あるいは「くーるびゅーちー」である。こういう子がいると退屈しないし、場が明るくなる。いつまでもさえずっていて欲しい。
 星咲イリアさんのヒロインは僕にとっては実質的に初めてで(月に寄りそう乙女の作法の瑞穂お嬢様は色物的な設定のヒロインで、星咲ボイスの魅力が十分に活かされていなかったのでノーカウント)、とても美少女感のある声なので前から気になっていたのだけど、残念ながら気になる作品には出ておらず、今回の購入動機のひとつだった。いやあ、これが小鳥にぴったりだったんだよなあ。(残念ながら引退してしまった)高槻つばささん系といえるだろうか、高めの爽やかな声で、いわゆる「鈴の鳴るような声」というときに僕が想像する声に近い。この声で上記のような愉快なおしゃべりをしてくれるのだから、それだけで恩寵ともいえる。しかもエッチシーンもあるんだもんなあ(欲をいえば、胸は仕方ないにしても、もう少しむっちりしていてほしかった)。こんな女の子と空を飛べれば、複座式のコクピットだってあざとくないし、一緒に喜べるし、着陸後も「体が揺れているように感じるの。まだ空の上にいるみたい」と言われて僕もなんだか体が揺れているように感じられてくる。というわけで、文句を言いつつもFDもやらざるを得ない。


『この大空に、翼をひろげて』たった一つの青春がここに―

ノラと皇女と野良猫ハート (75)

 ヒロインの個別感想で書きそびれたので一言。おっぱい大きかったです。これだけ揃いも揃って大きいとおっぱいの安売りのように感じても仕方ないですが、とにかく景気がよかった。豊穣感があった。おっぱいは魔法だな。


夕莉シャチ
 「ノラさん」と呼びかける声がいつもとても優しくて、この娘は本当に丁寧に言葉を発しているなというのがわかる。基本的に取り乱すところがないよくできた娘さんだけども、機嫌がいいときはそれが自然と分かるような、嬉しいときには頬が上気して目も喜んでいるような表情豊かなところがとてもよい。いつも落ち着いているかのようでいて、何気に立ち絵が傾いていたり、肩が力み気味の絵があったり、ちょこんと結んだ尻尾みたいな髪束が元気そうだったりと、実は言葉に劣らず身振りで語る娘のようである。主人公と結ばれた後も、淡々とじゃんけんで勝ったらキスをするゲームを何度もやり、しまいには勝つことが予測できたので先にキスしてしまいましたとおっしゃる。ロボットの話が出てきたけど、ある意味で抑制が効いているからこそ一番表情が豊かというか、表情がしゃべる娘だったように思う。陥没乳首もそれを象徴している。こんな娘が獲ってきた海の幸で作った食事、さぞかしうまいだろうな。ノラが塾を続けてシャチが料理本を出してと、とても牧歌的な終わり方で気が遠くなる。


明日原ユウキ
 あだ名が「ビッチ」で、すごく申し訳なさそうな目が印象的な娘である。あとつっこみが愉快な明るい娘である。ギャルを演じつつも、主人公に告白されたら笑って断り、私と付き合ったっていいことないんすよ。往生際悪く告白を続ける主人公はかっこ悪いが、一度手にした幸せは決して離しはしまいとする必死さが印象的だった。


黒木未知
 黒髪ロングの優等生キャラなのに、性格にもストーリー展開にも安定感がなくて面白かった。優等生であることは彼女の本質なのではなく、不安定な生き方の中でかろうじてバランスを取るための分かりやすい浮き袋のようなものなのだと思う。主人公と結ばれてからのわがまま、甘え、周囲との衝突は、彼女がこれまで押し殺してきたものの噴出であり、彼女はこれから第2の成長を始める。彼女は効率悪く動き回って、振り回されて、理不尽な目にあってばかり(冥界にまで飛ばされる)。なぜ彼女ばかりがこんな損な役回りになるのか分からないが、そこはもう諦めて受け入れ、むしろ彼女とのドタバタし、一喜一憂できる若さを幸せと感じたほうが有意義なのだろう。大声の告白は絶唱だった。世の中にはスマートに生きられない人ってのもいるのだ。


パトリシア・オブ・エンド
 この作品の中心を成す物語のはずなんだけど、冥界の皇女とか、地上に死をもたらしにやってきたとか、設定がいかにも茶番で安っぽいドタバタコメディにしかならない題材である。実際にドタバタコメディなんだけど、パトリシアがいい娘すぎて引き込まれる。本や辞書を読んで勉強するのが好きな謙虚な女の子で、夢見がちな優しくて力のない声をしている(小鳥居夕花さん……こころリスタのアルファの声の人だ)。一人ぼっちの幸の薄そうな声なのだけど、地上では小さな喜びや驚きをたくさん見つけて楽しそうで何よりだ。話を聞くに、冥界はきっと暗くて不便で殺伐としたところなのだろうけど(そして魔法の呪文は何だかリズム感がおかしい変な言葉の羅列である)、そこでも日々をけなげに魔道書を読んだりしながら過ごしていたのだろう。
 そこら辺のアンバランスさは他にも、例えば、パトリシアのテーマ曲ともいえるBGM「月」とそのボーカル曲の使い方にも感じられた。戦前のレコードを思わせるようなレトロな感じの優しい曲で、深刻な場面や緊迫した場面で流れる。物語に対する優しいまなざしとしては音声付のナレーターが設定されていたけどちょっとくどかったのに比べると、このBGMは見事だった。
 印象的だったのは、シナリオ後半の展開だ。主人公を家族に認めてもらおうとして、妹二人がパトリシアに説得されて順番に攻略される展開になるのだが、パトリシアの一途さ、純真さがかえって強く感じられて何だか温かい気持ちに包まれてしまう。賢者になった主人公を元に戻すときに身体を張るのだが、これも一途ないい娘だなあという感想になってしまう。母親を説得するときも、敢えて魔法には頼らず、言葉を尽くす。母親も強引にことを進めることもありながらも、結局は娘の言葉をきちんと聞こうとする我慢強さがある。娘のデートに(魔界の玉座に座ったまま)大人しくついてきたり、食事をその場では食べなくても、冥界に持って帰ったりする。「自由奔放な私の娘。自由なのは構いません。しかしこのままでは地上は滅び、冥界すら滅びを迎えることだけを伝え、私は、私の世界へ帰りましょう。」 この間の地味で着実な展開がパトリシアの性格を表しているように感じた。
 結局ノラの心臓はパトリシアの心臓と引き換えに止まり、ノラは猫になってしまうわけだけど、別れるときにパトリシアが叫ぶ滅びの魔法――「月」の歌詞で、その優しい歌自体もBGMで流れる――が意味不明で、いやきちんと考えれば意味が分かるのかもしれないが、パトリシアが必死に泣きながら叫ぶと、何だか意味を超えた気持ちが乗せられているように感じてしまう。


「夢つむぐ はなびら 見上げれば 月 / 雨音に はなびら ガラスには 雪 踏みしめて 見上げた 真夜中の声 / 風に吹かれ 水際を呼んだ おいでおいでと 遊ぼうと また明日と はじめて出会った 光 / とくん とくん 生れ落ちゆく 空を破り聞こえた音 言葉はもうなく 足あと 消えても / 白い砂 すくって 音は静か / 響いて 今 歌声のない 世界には別れを 告げ さあ踏み出すの この命胸に秘め / 白い砂 すくって 音は静か / 夢つむぐ はなびら また会えるかな」


 ……こうやって連に分けて書き出してみて冷静に読むと、パトリシアがノラと会ってから別れるまでのことを歌ったものだと分かるのだけど、これはパトリシアが恋とか愛とか知らないまま冥界で覚えた魔法で、この最後で泣きながら唱えるというのは何とも悲しい。そしてノラはこれを滅びの魔法ではなく、ただの日々の挨拶だと読み替える(はとシナリオ特有の強引な読み替え)。ノラの死も茶番にしてコメディの出来上がりである。
 残念ながら僕は体験しなかったが、エロゲーの名場面としてWindという作品の「問い詰め」がある。「ノラと皇女と野良猫ハート」では、問い詰めではないけど、パトリシアが魔道書の長い告白やこの「月」を力いっぱい叫ぶ場面があって(未知も似たような告白をする)、声優さんの熱演もあってとてもきれいである。そもそも僕は普通に生活していると大声を出したり出されたりするような場面はほとんどない。あったとしても不愉快な場合である。らぶおぶでもあったけど、重要な場面ではせりふが詩のようになってヒロインが神懸かりみたいになる現象は本当に素晴らしい。ストレスフルな問い詰めよりも、こんなふうにパトリシアの細い声で愛の言葉を大声でぶつけられたい。

「凪のあすから」の話

 最近、偶然なのかもしれないけど「ブルー・フィールド」(蒼き鋼のアルペジオED)とか「a-gain」(蒼の彼方のフォーリズムED)とか、青い色とか空を連想させる歌を買って聴いている(「愛の詩」(学戦都市アスタリスクED)もよい。ついでにナディアのDVDも見返した)。やっぱ歌に関してはエロゲーよりアニメの方がよいものが多い気がする。映像とセットで印象付けられるからかもしれない。このままではplanetarianのEDとこの美術部には問題があるのEDも油断すると買ってしまう気がする。
 この辺の歌とかエロゲーで糖分を摂り過ぎたせいか、久々に「凪のあすから」を見たくなって、美海まとめ動画とかを見たり、主題歌(特に「アクアテラリウム」と「ebb and flow」がよい)を買って聴いたりしていたら一日が終わってた。以前に書いた感想と同じような話になるけど、主題歌の歌詞に「温かい水に泳ぐデトリタス/長い時間をかけて糸を紡ぎながら繭になる」とあるように、デトリタス(海中を浮遊する微小な有機物の死骸)が海中だけでなく地上の漁村をも漂うようなひんやりと寂れた背景と、美海たちの抱え込み堆積した気持ちの組み合わせに打ちのめされる。
 脚本家のスタイルということもあるのかもしれないが、アニメではこういう満たされない思いを抱えた若者の群像劇というジャンルがあって、男キャラの顔や語りを見せられてもこちらの目や耳は喜ばないのだけど、そいつらがいなくてはヒロインたちが輝かないという意味では、僕たちもその満たされない思いの連鎖(チェーホフ劇的な連鎖)にいびつな形で巻き込まれてしまっていて、視聴者→ヒロインたち→男キャラたち→他のヒロインたち→他の男キャラたち……作品枠の有限性という外的要因による終わり、という経済の一端を担ってしまう。
 こういう欲望の(年齢制限を含む)閉鎖的循環を解放するために要請されたメカニズムが、ヒロインとの矢印を可能な限り双方向にしてひたすら物量で攻めるエロゲーであって、エロゲーはアニメの次世代のはずなのだが、解放するばかりがいいってわけじゃないんだよなあと思わせる作品もある。こちらの気分に左右される部分も少なからずあるのだろうが、作品自体が研ぎ澄まされていれば、はまると一気に引き込まれる。せめて輸入版DVDくらいは買うべきなんじゃないかと考え込んでしまったが、とりあえず主題歌を何度も聴きつつまた時間が過ぎてゆく。いや、さゆと要の話とか、光をめぐる三角関係の話とかまだあってもいい気はするんだけど(一番好みのちさきは申し訳ないがエロい想像しかできず、何だか嬉しくない)、多分出てもそれはそれでまた満たされない気持ちが残るのだろうから、もうどうしたらいいか分からない。いい加減こんなことをブログに書くような歳じゃないんだけど、ここはそのためのスペースだと開き直りつつ敢えて書いておく。これからも書いていく。それにしても今でも後半のOPを見ると引き込まれる。そのことを確認して終わっとこう。

石川博品『メロディ・リリック・アイドル・マジック』

 アイドルについてのガチな小説なので、そのシステムにアレルギーを持つ自分にとっては一筋縄ではいかない代物だ。確かに文章は素晴らしいんだけど、アイドルっていうのがなあという。例えば、『Key the metall idol』という渋いアニメがあって、そこではロボットや民俗学の概念を借りてアイドルという概念が補強されているので安定感があるのだけど、このメロリリはもっと剥き出しのアイドル観を押し出してくる。アイドルたるもの、アーティストぶるな、それじゃ見るほうが気を遣うわ、という。つまり歌や踊りにプロフェッショナリズムは要らない。もちろん、一生懸命練習して努力はするけど、一番大事なのはそこじゃないという。また、アイドルは何かの手続きを経て選ばれてなるものでも、ファンの数とか曲の数とか所属組織とかはっきりした指標があるものでもなく、本人がアイドルになると決めた瞬間に出現するものだという。つまり、とても儚い仮設建設のようなものであり、持ち運びできる機材を組み立てて会場を作り、ファンが一時的に集まってきてよく聞こえなかったりよく見えなかったりしながらもなんか盛り上がって、ひと時出現する疑わしい魔法のようなものなのだ。作中ではLEDというAKBをもじったグループが変な衣装を着て媚を売る大手として目の敵にされているけど、傍から見れば沖津区の若者たちも同族に見える。素人感がさらに増しているので、あざとさも増し増しと言えないこともない。
 確かにライブのシーンの臨場感は素晴らしい。剥き出しのアイドル観、技術のない素人が作り素人が歌うステージ、(嫌な言葉だけど)人間力で魅せるステージというものは、芸術や歴史や超常的なものがなければ物事に価値を見出しにくい、人間不信気味の自分にとっては胡散臭いものだけど、ここではアコにある種の天才性が付与された描写がなされている。それは単に主人公が彼女に恋をしているからというだけのことかもしれず、また、実際のコンサート会場の客には知ることのできないステージの裏や歌手の心理といった細部を描ける小説という形式の狡さであり、また優しさなのだろう。
 同じステージ音楽の魅力を描いた作品としてキラ☆キラがある。こちらは初心者グループの成長物語という点ではメロリリよりも本格的で、悪く言えばメロリリのキャラ配置やストーリーの流れはキラ☆キラの縮小版のようにも見える。そしてきらりの天才性の表現は割りと中途半端で(エロゲーだと実際に音楽が鳴るので、ライターにはコントロールできない部分があるので仕方ない)、作品の主題もそれとは別のところにあった。メロリリでは、アイドルというシステムに乗せて青春を描くという主軸とは別に、ヒロインの「内面」(悩み)に迫る描写が多かったのは石川博品作品にしてはベタだなと思った(その悩みにしても、割とよくありそうな感じでのものでやや拍子抜けだった。というか、後半はストーリーの展開を詰め込みすぎた気もする)。同系の作品としてヴァンパイア・サマータイムトラフィック・キングダム、ノースサウスのような作品はあるけど、これらはどちらかというと実験作だと思っていて、石川作品の魅力が発揮されている本流は、ネルリや後宮楽園球場や平家さんのような、女の子を不思議な魅力に溢れた存在として描く作品だと思っている。女の子しか出ない四人制姉妹百合者帳でさえも(それとも女の子しか出ないからむしろ当然なのか)こちら側なのだから、石川センセの童貞力は筋金入りだと思うのです。
 その意味でアーシャの方はまだ「見られる」キャラクターとして描かれて部分が大きいので、もし続刊があるのならそのまま素敵な奇人路線を突き進んで欲しい。最後にチラ見せしたアコとの妖しげな友情路線もよい。この巻だけで判断すると、アコの陰に隠れてあまり分からなかったのが残念だ。インド(?)舞踊のような不思議な踊りも文章ではよく分からないし。
 僕にとっては石川作品で一番ハードルが高い作品だったけど、アーシャやアコの掛け合いや心の中の突っ込みが愉快な方向に転がっていって飽きさせず、下手に深刻ぶらない、というか深刻さを乗り越える軽やかさがあってよかった。この軽さは若さの特権であり、無からきらめく何かを作り出すアイドルという幻影のシステムに、明るさを与えてくれていて素晴らしかった。本物のアイドルやアイドル育成ゲームは相変わらず痛ましくて好きになれないけど、石川作品ならアイドルのきれいな部分を存分に見ることができるのだから。

クソゲーの文学性

 「クソゲー」というのは必ずしも悪い意味ではなく、ある種の美点を持つアニメを「クソアニメ」と呼ぶ程度にはいい意味のつもりだが、うまい言葉が見つからなかったのでひとまず。
 「世界と世界の真ん中で」を始めたのだが、何というか、社会主義リアリズム文学を連想させるところがある。学生寮エルデシュはどこかの田舎のコルホーズかライコム(地区委員会)で、寮生である優等生ヒロインに「連理君はエルデシュの精神的支柱」と評された主人公は、そこで頼りにされている議長だ。村民は誰もが幸せで、美しい……。連理という主人公の名前も、連理の枝とかの連理じゃなくて、本当は「レーニンのことわり」とか「連邦のことわり」いうような由来で、意識の高い市民であることを示しているんじゃないのか。
 料理や家事が得意でヒロインたちに褒められる系の主人公が、ヒロインたちや親友役男キャラやヒロインたちの仲良しグループで「連理君らしいわね」とか「どうしたの?あのとき、連理君らしくなかったから」とかちやほやされながら(社会主義リアリズム文学における「ディシプリン」や「イニシアチブ」があると評される肯定的主人公)、あるいはヒロインが喜ぶのを見て「よかったな」(イリイチもきっと同意しただろうよ)とか声をかけてやったりしながら、あるいは元気のないヒロインを見て「俺にできることといったら、美味しい料理を作ってやることくらいだ」(労働は裏切らない)とかつぶやきながら料理や家事をする描写や誰が何を作るかとか食べることの話題ばかりが延々と続く序盤の日常パート、イケメン家政夫による介護施設での労働的なパートの文章のつまらなさが苦行レベルなのだが(無意味に爽やかな高原の別荘風――共産主義ユートピア…――の学生寮だったりして倫理的な意味での居心地も悪い)、この作品を手にした主な動機のひとつである絵の美麗さに助けられた。
 音声が流れているときはメッセージを消すという設定があって、それを使うとヒロインたちの表情や姿勢の変化をぼんやり眺めることに集中できる。特にヒロイン同士が会話しているときは地の文が少ないので、たとえそれがまったくどうでもいい言葉の応酬であっても、あるいはむしろ非効率極まりない冗長性の塊りであるからこそ、そしてエロゲー文法の魔法によりなぜかヒロインの立ち絵はいつもこちらを見ているので、それを浸す善意の空気にぼんやりと包まれながら、思考停止の境地に遊ぶことができる。正確には、ヒロインたちの他愛のない間の抜けたやりとりはセクハラ的なつっこみを入れる余地だらけの無防備なものなので(ニコニコ動画で大量にコメントがつく萌えアニメのタイプで、例えば、BGMが変わると曲名がその都度右上に出てくるのだが、穏やかないい雰囲気のシーンになって「黄金の円光」と出るといちいち馬鹿馬鹿しく釣られて、あぁ、となる)、思考停止というわけではないのだが、日本語の読み物としての面白さや倫理性の問題から遠く離れた境地に至れることは確かだ。主人公の提灯持ちみたいなうざい親友キャラはすぐさま音声を切ったが、立ち絵も非表示にできたらもっと快適性が増しただろう。こういう楽しみ方をするなら主人公はノイズでしかないので、なるべく主張せずしゃべらない、人格というよりは一つの機能に退化(進化か)させるのが望ましい気がする。それを推し進めて主人公を消したのが萌え4コマであり、エロゲーではシステム上そこまで至るのは難しいのだろうけど、この作品のようにヒロインの絵が美麗で声も可愛ければ、高度に空虚な癒し作品として十分に比肩できる。

らぶおぶ恋愛皇帝 of Love! (80)

 それぞれの言葉には神経の足か何かのようにコノテーションのフックがいくつも生えていて、言葉に自由を与えすぎると、言葉は分子みたいにバラバラな方向に飛んで、勝手にいろんな言葉を引っ掛けて結びついていく。極端な場合にはそれは単なるナンセンスになる。文学作品としての文脈の中に放り込まれた言葉は、芸術としての価値やジャンルの記憶を保持した馴致されたものだけど、他方でそういうグロテスクで無軌道な自由、文脈を壊して人間的な一体性の彼方へと飛び去っていってしまいそうな危うさも隠している。言葉遊びはきれいに決まるときもあれば、空振りして自己パロディに滑るときもある。後者は怖いから、言葉遊びは無難にコミカルな文脈で用いられる場合のほうが多い。そうでなければ、連歌のように強固に儀礼的な制約性の鎧で防御力を高めておくか、枕詞や序詞のようにパケット化してそれが滑ったかどうかはひとまず脇に置けるようなジャンルの文法が必要になる。
 だが、自由を与えられすぎた凶暴な言葉にとってはそういう配慮はあまり意味がない。燃料が尽きるまで、その推進力で心のままに突き進んでいくだけである。本作の掛け合いはコミカルな文脈でもシリアスな文脈でも言葉遊びが満載だが、シリアスな文脈で惜しげもなく遊ぶのは珍しいので目立つ。そもそもコミカルとシリアスを明確に区分する必要はなく、未分化な野生の言葉を受け入れるのもありのはずだ。気づいたら必死にタンスを背負って修行して、人間離れしているのもありだ。Keyの主人公がやっていたようなことだ。連歌のような掛け合い。相手の言った言葉の何かのフックに引っかかって、その言葉を別の文脈において返答する。会話をしながら言葉はずれ、さらにずれて元に戻ったり、桂馬のように跳んだりする。聞いている間は相手の言葉に耳を澄まし、うまくさらってやろうと身構えている。滑稽ではない。真剣であり、入神の状態である。相手どころか、自分が話した言葉に話しながら自分で引っかかり、自分で自分の言葉を読み替えてしまう。自分という人格の統一性は崩れ、自他の境界は曖昧になる。……見返してみたら4年近く前のわーすと☆コンタクトの感想でも同じようなことを書いていて我ながら進歩がない。
 こういう文体の詩学をきれいにストーリーに接続して消化していたのがギ族ルートだった。「嘘」がテーマのお話だ。回想と現在を交互に、リズミカルに行き来する構成自体がすでに韻文的だった。自由な言葉は、方向を喪失してうろうろと這い回るようなものであってはならない。放流となって善悪や喜怒哀楽を押し流す暴力的な力を持っていなければならない。だからこそ、ひかりが会心の笑顔を見せるシーン、空を飛翔しているようなシーンの開放感は素晴らしかった。言葉で現実を捻じ曲げる権力を手に入れ、言葉が思考にぴったりと即した瞬間の喜びを噛み締めているようだった。あとはあれっすね、「バカ。キスだぞ。唇と唇がぶつかっちゃうんだぞ。エッチである。あーエッチである」とか「ま……間違えた。女の子ではない。吸血鬼である」とか、ギ族はおかしな生き物ですね。
 僕の思い込みなのかもしれないけど、どのヒロインであっても、何か問題を解決して主人公とヒロインが「成長」したりはしていないように見える。リアルでもばれない嘘がつけるようになれば無敵になれる、雲のような存在になれる(そういや不定形の荒ぶる自然の象徴であり豊穣の雨を呼ぶ存在である雲は、人類学的には吸血鬼と同系列のメタファーであり、マヤコフスキーの「ズボンをはいた雲」はそういう制御不能な状態の自分を描いた作品だった気がする)、そう願っていたひかりは、結局反省してその願いを完全に捨てたというわけではなさそうだし、ルキナルートで批判された恋愛による人への依存は、「毒は抜けた」とか何とか言われていたけど、ハッピーエンドの幕切れ時にはさらにひどくなっていたようにも見える。偉そうな物言いになってしまうが、成長っていうのはそんなふうにきれいにストーリーをまとめて達成できる、低いところから高いところへ上がるようなものなのではなく、はじめに低いとされていたところも別に本当に低いわけではなく、単にそのときは経験がなかったからうまくいかなかっただけで、これから先もそういう低いところの問題っていうのは何度も出てくるけど、そのときに側にいてくれる人がいるという安心感、幸福感があるから違うということなのかなと思う。
 それからやはり挙げておかねばならないのはイサミさんだろう。いや、イサミさんは変態だからそれでいいのかもしれないけどね、主人公もっとイサミさんを幸せにしてあげなきゃだめだろう。もっと彼女に溺れなきゃだめだろう。違うのかな。そうなるとイサミさんはかえって不満になるか、それとも一歩引いてしまったりするのだろうか。こんなこと言っているうちは僕はモブキャラレベルなのだろうか。彼女、声が静かなんですね。いつも囁かれているみたいで、オタクなのでなんか秘密を打ち明けられているような気が勝手にしてしまう。あとあの立ち絵の視線だ。なんかサブヒロインなのにやけに可愛い顔でこっちを見てくるなあと思っていたら、最後にやったシナリオでまさかのルートヒロインになっててまいった。しかもなんかむっちりしてるし、完璧に尽くしてくれるし。イサミさんの単独エンドで終わってくれてもまったく少しもかまわなかったが、あの終わりだから見えるイサミさんの魅力というのもあって困る。
 ルキナは、言葉の奔流というこの作品の特性を体現するようなヒロインで、彼女にとっての恋愛は、幸せを実感するとかそういう自己の感覚的なものよりは、相手を奪い、傷つけ、守り、救うような、外に対する行動として現れる部分が大きい。放火者であり、雨を待つ炎であり、その雨さえも自分の中から作り上げる。立ち絵も可愛いというよりは、ごつかったり鋭かったりして獣的である。あのピースをしている立ち絵とか、横向きおっぱいの立ち絵とか、何というか媚びているのに媚び切れなくて、ちょっと痛ましさというか疚しさを感じてしまう。彼女は普通の女の子になろうとしたのに、周りがそれを許してくれなかった。落ち込んでも、強くなるという苦しい選択肢しか選ぶことができず、そしてそれを実行できる。うまく立ち回ったりしないので、これから先もいろんなところで周りとぶつかっていかざるを得ない損な性格で、だからこそいっしょにいると温かそうだなと思う。
 エリカについても何か書きたいけど、一人目に進んだヒロインだし、共通ルートはもう忘れてしまったしで、なんだか文脈の分からないメモの断片(「つんつんチェック」「秋人とキスするの気持ちいいから、キスしながらだったら、おっぱい触っても……いい可能性が出てきてる」)が残っているばかりで、彼女の頭の中も何だか異次元みたいだし、まあいっか。本当はもう1周していろいろ思い出してから書いたほうがいい感想だったけど(いろいろあってクリアに3ヶ月かかった)、作品にも倣いつついつもの通り勢いで書いてしまった。
 エロゲーに説得は求めていない。そりゃあ、あれば嬉しいけど、感染なくして説得はない(少なくとも恋愛という領域では)。その意味ではきわめて王道をいくエロゲーだと思う。