山田一こと田中ロミオ作品を、家族計画を、他の作家、他の作品と区別するのはいったいなんだろう。自分は「規則正しいシナリオ」にあると思う。家族計画において事件はその効果が最大限発揮されるよう計算され配置されている。
・モチーフは期間をあけて3度繰り返される。(例:末莉と青葉 一回目・部屋にこもる 二回目・土管にこもる 三回目・家出。春花と母親探し、準の摂食障害、青葉の思い出探し、真澄と昔の男等も同様)。彼女らの心の傷を一度にではなく徐々に明らかにすることでサスペンスを発生させる。またそこに関わるかどうかの選択肢をつくることで、個別ルートへの移行にもつながる一石二鳥。
・ギャグ的事件とシリアスな事件が交互にくる。おきる感情の大きさはその落差による。幸せの絶頂から悲しみのどん底に叩き落されるのと、どん底近くの状態から少しひどくなってどん底に行くのとでは、受ける衝撃が違う。シリアスな場面の中にもギャグを入れるという徹底ぶり。(これの意味するところは後に述べる)
ゆえにこの世界では二度あることは必ず三度目が起こり、ハートウォーミングは破局の前触れであろう。こんな世界はない。シナリオの波に感情を弄ばれながら、ふとそこに神の見えざる手を見るとき、どんな困難が降りかかってこようとも「最終回にどーんと解決」を期待する。予定調和を期待する。
感情を揺り動かされるのが美少女ゲームとりわけ泣きゲーといわれる分野の快楽だとすれば、こうしたあり方は正しい。しかしそのために、よくできた小説や映画などに見られる、物語の中で彼らは生きていて次に何をしだすか予想もつかない、というあの感覚を幾分かは犠牲にせざるを得なかった。あるいはこう言いかえてもいい。ここで描かれているのは、あまりに幸せな箱庭的世界なので、手を触れずそっと眺めていたいという気にさせてくれるほどだと。「きれいなものがすきなんだ。」
jericさんへのコメントというよりは僕の独り言なのでこっちに書いておく。
こうした構造的な「規則正しさ」を直球勝負で受肉させるのがいかに難しいことか。僕ははじめに進んだ末莉シナリオを(一度バッドエンドを見てから)終えた後、魂が抜けかけてしばらく鬱の床に伏せった。そのあとでクリアしたほかのヒロインたちのシナリオでは、「規則正しさ」に多少慣れてしまったせいか、鬱寝は繰り返されなかった。もし始めに進んだのが春花だったら、春花が家族計画のマイヒロインになっていたのかもしれない。本命ヒロインのシナリオを最初にやるか最後にやるかという問題があるけど、特にアンバランスがないような作品の場合は、やはり本命を先にやるのがいいのだろうか。
家族計画(とらくえん)が私的鬱ゲーだったのは、やはり事件に裏付けられた感情の交代の落差が激しかったからなのだろう。交代の規則をプレイヤーに気づかれないように、巧みにめくらまししたり翻弄したりする言葉と事件の網。読者を休ませないこと。そして走り終えてから振り返ってみて、僕だけでなくキャラたちも走っていたのだと気づく。キャラたちは走り終えて安息の地にたどり着いたけど、僕は自分のした運動がヴァーチャルなものだったと気づき、「ああ、いい話だったね」と人と分かち合うようなタイプの経験でもないことに気づく。脳内で分泌された幸福感や達成感が物理的な実質を伴っていなかったため、自家中毒を起こす。普通の読書ではなかなかこうはならない。没入度が高く、受け手の感情が何度も翻弄されるようなもの、つまりゲームにこういう傾向があるのだろう。昔はまったRPGやゲームブックとかもそうだった。ラノベも、語彙が等身大だから、イリヤの空やフォーチュンクエストのように、物語にさえはまればそうなりやすい。メタゲーは知的興奮を呼び起こしはしても、僕の感情身体が運動するのとは違うから、自家中毒とは直接の関係はないのかな。ちなみにいわゆる鬱ゲーは、暗くて重いばかりで感情の落差が激しいとは限らないので、必ずしも自家中毒や鬱になるわけではない。そしていわゆるまったりするゲームが鬱とは一番遠そうだ。