渡辺玄英詩集

詩集 海の上のコンビニ

詩集 海の上のコンビニ

火曜日になったら戦争に行く

火曜日になったら戦争に行く

 どうやらだんだん綾波は少なくなってきているようです。『海の上のコンビニ』(2000年)にはまだたくさんいて、というかエヴァのサントラを聴きながら読んでいたからかもしれませんが、エヴァの空気がたくさんありました。「でんぱ」という人類保管計画の発動を描いたみたいな詩もあって、みんな「ぼくらわたしら/たたくさんぬぎ捨ててここにきたかんね/リンカクあやふやになって/消えていく たま/むひょー」とか言っていました。出会い系の自己紹介みたいなのをシンジ君14歳がブータンから投稿してきていて、何だかまだ綾波を探しているみたいでした。ネットと携帯の時代の少し前の、援交と都市伝説とオカルトとコンビニの時代の雰囲気。この本の紙の質のせいか、印刷がちょっとくすんだみたいになっていて、エヴァの時代はもう過ぎつつあるだろうなと寂しさを感じながら、それでも何か漂ってくるものを追っていました。詩壇の人たちが書いた解説しおりは何だかまったく的外れのことを言っているような気がして、まともに読む気がしませんでした。多分それなりに適切なことを言っているのでしょうが。
 『火曜日になったら戦争に行く』(2005年)のほうはもはやエヴァのサントラを聴きながら読むことはできませんでした。こちらにもまだ包帯姿の綾波も夏の青空もありますが、何だか携帯電話を持った作者は描写よりも幻視へと沈潜していってしまったようです。綾波は少ないし、ゲームもエロゲーというよりは戦略シュミレーションかアクション物の感じです。これは批評的なテーマに直結するのでネタとしては扱いやすいですが、抒情性(と萌え)は減じてしまうように思います。これはエヴァオタ・エロゲーマーの表層的な読み方ですが。
 詩集、つまり紙に印刷された文字だけのメディアはこの現代の風景の中でわれわれにとってどれだけのリアリティを持つことができるのかという点に関しては、やっぱけっこう難しいねと思うのです。僕も音楽聴きながら読んじゃったし。小説はボリュームあるし物語もあるのでちょっと違うと思うのです。ですが、エロゲーやアニメみたいなものを嗜む読者にとっての抒情は、お気に入りのヘビーローテや物量作戦みたいな摂取の仕方が一番素直だとは思うのですが、それはあまりにも普通すぎてつまらないとも思うのです。こんな風に細部までこだわった言葉も必要になるはずです。詩集というパッケージがそのために最適だとはあまり思えないのですが。単に切れ味のある言葉をというだけなら2ちゃんとかブログとかあるし。やっぱボリュームはバカにできないし、一つの道としては、価格はそのままでページ数を4倍くらいに増やして、その言葉の描く世界をもっと肉付けしてみるのはどうだろうか。すいません横からえらそうなこと言って。