石川博品『耳刈ネルリと十一人の一年十一組』

耳刈ネルリと十一人の一年十一組 (ファミ通文庫)

耳刈ネルリと十一人の一年十一組 (ファミ通文庫)

 もし自分が小説を書くことができるなら、こういうものを一度は書いてみたいと思ったシリーズだった。もちろん僕にはそんな才能はないから、代わりにこのシリーズの成功(売上的にはどうか知らないけど、創作物としては紛れもない成功)をとてもめでたいことだと喜ぶ。
 ネルリというキャラクターの新鮮味に魅せられた1巻、演劇と文学の記憶を心地よく掻き立てられた2巻に続いて、最終巻ではロシアで過ごしていた頃の生活と精神状態の感触そのものが思い出されてきて、懐かしくてなかなか読み進められないほどだった。もちろん小説で描かれている世界は僕の記憶とは何の関係もない虚構のもので、僕が勝手に共鳴しているだけだ。それにしてもこの作者は年齢も僕とほぼ同じらしいし、参照している事物(ニーコンとアヴァクームとかマニアックすぎ)や叙情表現の仕方からしても、強い親近感を感じてしまう。学生時代に同じ講義を聞いていたとかそういうニアミスがあったかもと思う。だからって何という感じだけど、そんなキモいほどの親近感を覚えたのは滝本竜彦の小説以来かもしれなくて貴重なことに思える。
 冬になると寮の出窓からの隙間風が寒くて、目張りして塞いだり、冷蔵庫代わりにしてチーズやヨーグルトや飲み物を置いたりしていたこと、ひきこもって寝てたり本を読んだりしていたら陽気なロシア人やトルコ人がよく遊びにきたこと、面白い研究書やら画集やらを見つけては留学仲間の女の子の部屋に押しかけたりしてたこと(思えば迷惑な奴だったな)、郊外の村に居候させてもらっていたときの雪の風景、ワーレンキと呼ばれるごついフェルトの長靴、それを履いてクリスマスツリーを採りに入った森の静かさ、耳まで覆わないと厳しい寒さ、靴や懐に入った雪の冷たさ。ロシア文化を学びに来た日本人ということでどこでも歓迎されたけど、ネルリのように急に相手の背負っているものを感じさせられて戸惑うようなこともよくあった。当時お世話になった人でもう死んでしまった人もいる。あの頃は「本当の」世界のすぐ隣まで近づけているような気がしていた。交友関係に恵まれていたし、知的興奮を掻き立てる本はいくらでも出てきて、それを分かち合う相手もいた。寒い国で寄り集まった学生たちには男女の差を越えた親近感が生まれえたし、その背景となったロシアの風景は峻烈で、張り詰めたようでどこか突き抜けたような強い夕映え空と頑なな廃墟のような街並みのコントラストのもつ絵画性は、今の自分の環境からは失われた感覚として懐かしく思える。この、「あの頃は何かを探していた」という現在から振り返っての感覚は、この物語を語るレイチの感覚と通じるような気がして、それを閉じ込めて別な形で結晶化させたこの小説が、僕にとっては何か特別なものに思えてしまう。だからこそ、枯れ果てた「神の視点」に移ってしまった最終章と、描かれなかった「明日」は、そういうものとして受け止めるしかないのだ。この小説で描かれたのは1年生の間のことだけで、終章で飛んだ9年後の現在までの間の、せめて学生寮にいた残りの2年はどんな風に流れたのか、あそこで止まり、またここで止まる物語の、その個人的な重みのようなものを感じる。あのあとがきはうざい(笑)けど照れ隠し仕方ない。人生が一度きりのものであるように、小説の生もある意味一度きりのもので、その一回性にしてやられた。ありがとうネルリ。