神隠しというのは割りと日本(アジア?)特有の現象らしくて、小説とかでもあまり読んだことがない。もちろん、子供が異世界に行って帰ってくるという話ならいくらでもあるけど、それを「神」に「隠された」ためとするという見方があまりないということ。キリスト教圏の西洋なら取り替え子(チェンジリング)ということで、赤子を(悪い)妖精がさらって変わりに奇形の妖精の子供を置いていくという、悪い力からいかに自分たちを守るかみたいな話になる。ロシア版の取り替え子であるポドメーヌィシの場合も大体同じで、置いていかれる子供は頭が大きくてぐらぐらと傾き、手足が枯れ木のように細く、おなかはぷっくり膨れていて、なかなか言葉を覚えないという奇形だ。知恵遅れの子供を間引いていた時代のフォークロアだ。逆にこの作品の場合にように美しい天才肌の人間に育ってしまうような例外もあるらしいけど。他の国と違いがあるのか分からないが、ロシアの場合はさらわれる原因は母親の愛情が足りない場合が多い。母親が産後間もない赤子を罵るとさらわれる。さらうほうも女性の水の妖精であるルサールカの場合が多い(まれに男性の森の精レーシイ)。さらわれる場所は通常お産が行なわれる風呂場。女性性のイメージが強いのは性別的なイメージの弱い日本の神隠しとは違っている感じがする。
あすかが「知らない世界があるならそれを見に行かなければならない。この世界は少し狭すぎる気がする」というとき、彼女が主人公に先んじて自分でどんどんかたをつけて終わりにしてしまおうとするとき、彼女の思い切りのよさ、切り替えの速さの裏に、行き急ぐような切実さが見え隠れする。何かに駆り立てられるように1人で新しいものを探し続けた子供時代、周りから浮き立つようになってしまったその加速ぶりが自分でも少し怖かっただろうと思う。それでも怖いもの知らずな子供は止まらないし、自分を止めることもできない。つないでいてくれる主人公の手を命綱にして未知の宇宙を探索するようなものだ。彼女がさらに進みたいと言い、主人公が止めてくれなかったとき、物分りのよい彼女は明るい顔をしていたけど、その透明で綺麗な表情は悲壮な決意や心細さを覆い隠すものだったように見える。ここから先は1人で行かなければならない。子供は驚きの中に生きており、人と馴れ合うことの安らぎには気づかない。駆り立てられるように「向こう」へと進んでいってしまったあすかが独りよがりだったからといって罰を与えるのは残酷なことだ。戻ってきた子供を責めてはいけない。また先に進むというのなら、えらそうにたしなめるのではなく、今度は自分から追いつかないといけない。どちらかというと人間不信で自虐的な人間にとっては、あすかの振る舞いや彼女に対する振る舞いはなんとなく理解できるものだったりする。卑近な言い方をすると、全能のボクっ娘は去勢され、記憶にも体にも穴の開いた明日香が帰ってきたけど、天才で何が悪いと主張するのは天才だった明日香の存在感だ。エロゲーには何かに囚われていたりポンコツだったりするヒロインが多く、明日香のように切り替えが早くて先へ先へと進んでいこうとするヒロインは珍しいと思う。去勢と恋愛がセットなのだとしたら、その仕組みに抗うかのような明日香の存在感は新しい形を探しているようにも見えて、どこまでもついて行ってみたくなる。