他の人の感想を見てみたら、幼馴染とは何かについて百家争鳴のようになっていて笑ってしまうが、そこに自分も加わるようなことは面倒なことはしまいと思いつつも、何か一言いわずにはいられなくなるような魅力的な言葉なのだな。最近読んだ斎藤環センセーの『おたく神経サナトリウム』で、夏は海とか入道雲とかスイカとかヒグラシの鳴き声とか、そういう言葉を並べるだけで夏になり、一番記号っぽい仮想的な季節なのでアニメ映えするとあって、記号とそこから連想される感覚とか情緒とかの結合が自律性を獲得するほどに強固だということなのだろうけど、幼馴染という言葉もエロゲーマーにとってはそういう記号的なパフォーマンスが高いのだろう。本物の幼馴染ということなら、プレイヤーが子供の頃に一緒に遊んで、一緒に大きくなったようなキャラクターでないとだめなはずだが、幼馴染という言葉が喚起する幻想の産物であっても十分に魅力的な存在になりうる。一言いっておくとすれば、概念としての幼馴染を考えるのなら、やはりもっと小さな頃、3〜7歳くらいまでの、まだ身体能力的にも生活スタイル的にも男女が分化していないような頃から、第1章で描かれたような男女の違いを意識し始める前後くらいまでのあたりことをもっとじっくり味わいたかった。実体験も美化しつつ動員して楽しめるし。
とはいえ、第1章は素晴らしかった。絵や声も良かった。あの、ぼおっとしていた女の子はどこへ行ってしまったのか。彼女があのまま大きくなることができず、周りの目も気にする普通の子にならざるを得なかったのは残念である。でも、第1章の枝梨は、外から見る分には決して幸せではなかったのだよな。内面に沈潜してバランスを保っていたからぼんやりした変な子に見えていたわけで、2章以降、彼女が対外的にもうまくいって幸せになっていくに連れて、彼女の内面のユニークな魅力は見えづらくなっていく。特に第3章の明るい枝梨には第1章の面影は薄くて、そんな彼女に新たな魅力を見出さなきゃいけないのだが描写があっさり気味なので(人のベッドで寝てるだけじゃないっすか、インドア派万歳だけど)、結局昔の記憶の影を重ね合わせながら読んでどうにかという感じだった。幼馴染というのは子供の頃の時間に関わるものであり、大人になるにしたがってその時間までの距離は遠ざかり、数量としても全体の中で薄まっていく。でも、昔の記憶の「影」なんてものは消費期限とか減るような数量とかあるものではなく、これからさきもずっと一緒の時間を積み重ねていくのならば、ずっとついてきてくれるから何も心配することはないのだろう。短編作品でそんな厚みを示すのは不可能なような気がするけど、きれいにまとめられていてそうでもなかった。