レム『ソラリスの陽のもとに』

 最近、完訳版も出たそうだが、ブックオフで100円で見つけた文庫で読んだ。新版ではソラリスの造物活動についての詩的で神秘的な描写とかが補われているそうだけど、今回はあまりそういうところには惹かれなかったので、別に読めなくてもかまわない。どうせなら文字よりは映像で見てみたいところだけど、最近の映画化でもあまりその辺は取り上げられてなかったのかな(未視聴)。
 2、3回見たタルコフスキーの映画の印象が強すぎて、イメージは重なりっぱなしだった。分かりにくい映画だから、小説のほうではテーマが分かりやすく提示されていて読みやすかった。映画だけではハリーの行動の意味がよく分からなかったし、今なら、また見直せばいろいろ発見があるかもしれない。
 テーマはさっくり二つに分かれているように思える。宇宙での未知の存在との遭遇のテーマと、それに際して人間に生じる問題のテーマ。前者は純粋なSF的なテーマで、ロシア語版への序文でレムはこちらを上位に位置づけている。後年の『虚数』とかに比べるとこの面はそれほど掘り下げられていない印象で、分かりやすく読みやすい(数年前に読んだ『虚数』は意味がよく分からなかったので、再読が必要)。後者は各論的・具象的なテーマで、イーガン的・エロゲー的な展開を見せており(ソラリスが送り込んでくるのは、少なくとも主人公の場合には、脳内恋人だから)、今の僕は主にこちらを楽しんだ。ぼくもソラリスに行って紫織さんとか送ってほしいなあ、と気楽に思ってしまうのは「現実」から遊離しがちなエロゲーマーだからだろう。主人公クリスがもしエロゲーマーで、ソラリスの送り込んできたハリーとちゃんとセックスして愛を確かめ合って、死んだ本物のハリーのためにF物質のハリーを拒絶したりせずに、始めからすべて受け入れていたならば(長年の「ソラリス学」の蓄積からこういう展開は誰でも予想できたはずだ)、バッドエンドヒロインを抱えたヘタレ主人公ルートのような話ではなく、もっと明るくてきわどい話になっただろう。こういう妄想が簡単にできてしまうあたり、エロゲー的というかラノベ的な小説といってもいい。タルコフスキー版のハリーは萌えとは違うけど美人だったしなあ。
 ソラリスを離れると、本来不安定なはずのニュートリノ系を安定化させるエネルギーが途絶えて、F物質が消滅してしまうというのは、パソコンとエロゲーを買うお金がないと、愛するヒロインと会うことができないという事実の比喩か。ソラリスの海は、われらの欲望を汲み取って顕在化させる、エロゲーの神様のようなものだろうか。作中では、不完全な神様が作り出してその神様をも追い越してしまった幼女、とか言ってたっけ。