西尾維新『クビツリハイスクール』『サイコロジカル』

クビツリハイスクール 戯言遣いの弟子 (講談社ノベルス)

クビツリハイスクール 戯言遣いの弟子 (講談社ノベルス)

サイコロジカル(上) 兎吊木垓輔の戯言殺し (講談社ノベルス)

サイコロジカル(上) 兎吊木垓輔の戯言殺し (講談社ノベルス)

サイコロジカル(下) 曳かれ者の小唄 (講談社ノベルス)

サイコロジカル(下) 曳かれ者の小唄 (講談社ノベルス)

 ずっと前に誰かが戯言シリーズで一番面白いのは第2巻の『クビシメロマンチスト』で、あとは途中からつまんなくなっていく、みたいなことを行っていたので、実際に面白かった第2巻のあとでは積極的に読もうともしていなかったけど、この前安く見つけてからだらだら読み始めたら、やっぱり面白かったじゃないかコノヤロウ。いつつまらなくなるかとはらはらしながら読んでいたけど、今のところはまだおもしろいまま。というか、いくら『クビシメ』が面白かったとしても、読んだのがずいぶん前なので残念ながら余韻も忘れてしまっている。ただし、文章については、ボリュームが保証されてしまっている『サイコロジカル』のほうは密度が下がっていた気がする。切れ味の鈍い雄弁術みたいな、アファリズム崩れみたいなのが多くてやや疲れた。一向に書き込まれない玖渚友も含めて、はったりが多かったように感じたのは暗い女の子ヒロインがいなかったからかな。ミステリ云々は正直どうでもいい。作者さんにとってもミステリというジャンルは小説一作品を走り切るための自転車に過ぎず、それは詩人が一編の詩を書くために一つの韻律を選ぶのと同じようなことで、その自転車を選んだ以上は自転車に詳しくなって自転車語りをしたり自転車をいじり始めたりするわけで、書きたいのはトリックではなくて暗くて後ろ向きないい話なのではないかな。まあ仮にこれが暇つぶしの娯楽なのだとしても、こういう暗い話は何かしら残るものがあって、よい。主人公の暗さにもいろいろなタイプがあるのだろう。ロマン主義ドストエフスキー的な古典的なナルシストではなく、フランス文学にでも出てきそうな悪魔的な英雄でもなく、滝本竜彦的なダメ人間でもなく。この人の場合は優等生だけど人の温もりに耐えられないというのがいいのかな。それでも周りが放っておかない、暗いヒロインとすぐにぶつかるわ、明るいヒロインはへこむような説教をたれるわで、暗いけどなんとなく居心地がいい。暗くてドロドロとした部分というのは文学で吐き出してしまう快感というのがあって、それが上記の他のタイプには多いけど、それとは逆に秘め隠して静かに湛えさせる快感というものもある。西尾維新の小説は戯言だ戯言だとふわふわと近くを飛び回りながらも(だがこれも禁欲的にというか疲れたようにというか、いやいやながらっぽい)、一番印象に残るはずの黒い部分は、沈黙で語ることが多い気がする。そこがスマートでよい。ATフィールドが全開の特異な世界であるエロゲーのヒロインには、無邪気すぎるというか純真すぎるのんびりした女の子が多いのが時々つらくて、水夏のさやか先輩のようなクールで頭の回転の速い女の子はとても貴重だけど、そういう意味では西尾維新の小説の暗いヒロインたちには、頭の回転も速めの子が多くて、エロゲーの不足分を補ってくれるかもしれない。主人公はすぐ「話の合いそうな」女の子を見つけちゃうしな。