天使の羽根を踏まないでっ 夏日ひかる/照

(ネタバレは少なめですがご注意を)


 また関係ない話から。官公庁のことを霞ヶ関と、ロシア政府のことをクレムリンというように、ペテルブルク市政府のことは所在地の名前からスモーリヌィというのだけど、(本作のアーリャ・レーニナとはおそらく関係のない)レーニンが革命後に政府を置いていたこと以外にも、スモーリヌィ女学校スモーリヌィ女子修道院など、良家の子女を教育するための説が並ぶ美しい一角が近くにあることでも有名だった。大昔に僕が一時期ペテルブルクにいたときには、毎日ワシーリエフスキー島からバスやトラムでネヴァ川を渡り、エルミタージュ宮の脇を抜け、この明るい水色に輝く美しい女子修道院、今はペテルブルク大学の一部となっている建物に通い、外国人向けのクラスでスペイン人やイタリア人に混じってロシア語を勉強していた。生まれて初めての外国だった念願のペテルブルクに渡ったときは、空港からホームステイ先のワシーリエフスキー島に向かうタクシーの窓から見えたネフスキー大通りの景色に圧倒され、「罪と罰」のセンナヤ広場や「白夜」のフォンタンカ運河を歩き回って嬉しがっていた記憶ばかりが強い。スモーリヌィは小説には出てこないので興味はなかったし、改装工事中でいたるところで塗りたての漆喰の匂いがきつくて、授業が終わるといつもそそくさと退散していたけど、今はもっと落ち着いたところになっているのだろうか。
 本作の太陽の学園のあまり面白みのない西欧風建築群も、こんなふうに何も知らない学生を育てる学び舎として考えるととっかかりになった。お嬢様たちの女学院の雰囲気と言うのはもちろん知らないし、作品中のキャラたちのお嬢様ぶりは虚構のイメージから作られた胡散臭いものだというのはわかっているけど、これだけ皆がまどろっこしい丁寧語で話していると、そこにはおのずと善意の共同体の雰囲気が生まれてくる。朱門シナリオの掛け合いは「ありがとう」と「気づきませんでしたごめんなさい」の言葉の応酬から成り立っていて、前作きっすみではちょっとしつこすぎるくらいだったけど、本作では女子教育の設定もあっていちいちつっこむのが野暮なくらいしつこく、かつ適切。会話のテンポの概念自体が別物であり、言葉は引き伸ばせれば引き伸ばされるだけ自制とお淑やかさを表すものとされる。そうなるともう楽しみどころは善意の雰囲気と心地よい声音になってくるわけで、そうしたなかではアーリャのぼそぼそしたつぶやきも、素に戻った気さくなひかるの声もそれはそれでやさしく響く。佐藤しずくさんによる照の声が可愛さは相変わらずで、ギズモの声に反応したの人間としては本作の楽しみの一つだった。はじめに太陽ルートを選んだのは照の声をもっと聞きたかったからというのが大きい。
 主人公は王子様である。西欧風建築の女学園が舞台の作品なので、がさつなキャラやうじうじしたキャラは雰囲気にそぐわない。プレイヤーと似ていないのは別に問題とはならず、主人公が女装するように、プレイヤーは自分の中の願望の仮装としての主人公に合わせ、その曇りない善意の演技に快感を見出す。
 ひかると照の物語としてのこのルートに関しては、天使の羽根の色とか運動速度とか、確か中沢新一が「ケルビムのぶどう酒」か何かで書いていたようなというくらいで、とりたててディティールについて書くことはない。それよりも、この変わった雰囲気の学校を舞台に二人が幸せを得たというおとぎ話的なあたたかい雰囲気のほうが印象に残る。他のシナリオではまただいぶ雰囲気が変わりそうだし。