向日葵の教会と長い夏休み (75)

 メーカーの先行作品をそれほどプレイしていないので勝手な解釈だけど、『素晴らしき日々』との連続性を何かと感じる作品だった。ひとつ挙げると、「それは、ささやかな――希望」というBGMで、これはすばひびの「夜の向日葵」のアレンジのようだった。日常の喜びを噛みしめるような明るい曲で、これが流れると「田舎の夏休み」という特権的でプレイヤーにとっては非日常的な安らぎの時間が、与えられた幸せなのだなあというありがたみが感じられて感慨深かった。またひとつ挙げると、感情を投影する対象としての向日葵の役割で、やはり本作ではつらいときに見守り、癒し包んでくれるものとしての向日葵畑が、特に詠と雛桜の話では繰り返し繰り返し登場していて、象徴としての深みが出ていくのがよかった。また、空もすばひびのようなバロック的な恐ろしい空ではなく、海とともにどこまでもやさしく包む存在だった。「朧白」という架空の土地になぜこれほど作りこむのか、なぜ作中人物たちはこの土地への思い入れを語ってそれを僕らに受け入れさせるのか、それは「雰囲気ゲー」だからと言ってしまえばすむことなのかも知れないけど、そこに日常が所謂自然との調和の中にある赤毛のアンプリンス・エドワード島や、あるいはコミュニティがユートピア的な調和の中にあるクラナドの町におけるものと同種のメカニズムが立ち上がるさまが見えるようで、自分が何かの場に立ち会っているような不思議な感じがした。それは錯覚かもしれない。立ち上がったのは朧白という作品世界ではなくて、そこで育った雛桜をはじめとする作中人物たちのほうなのだろう。といってもそれは同じことなのかもしれない。「狭い空間で長い時間」効果によるキャラ立ちの仕組みにおいては、狭いも長いも人間の主観なので、それを感じる作中人物がいないことには何も立ち上がらないからだ。古来よりエロゲーヒロインの自縛霊性はその正統的な構成要素となっているが、本作の意味と完成度における雰囲気ゲーというのはそれを洗練させた見事な仕組みだ。
 共通パートも含め、茶番のように思われた箇所も少なからずあったけど、それを指摘してもむなしいだけだ。というわけで、あとはヒロインたちについて一言ずつ。
 ルカ:言語は欲望を増幅させる装置です的なお話で、テオフィル・ゴーチエの青薔薇の詩から始まりつつも、お姉ちゃんの妄想エロ小説で終わるというやさしい展開。青薔薇を踊ったニジンスキーが牧神の午後で自慰する牧神を踊ってスキャンダルを起こした時代でもあるのでまったく自然な流れだ。公園で一緒にお弁当を食べて帰るだけの祝日もまたいい。ルカの枕カバーを広げられる日が来ますように。
 金剛石:本作を買ったきっかけは、エロゲー界のエレーナ・ソロヴェイともいうべき如月葵さんが声を担当したこの娘なのだった。『姫さまはプリンセス』のクリスティンも『いきなりあなたに恋している』の胤もよかったけど、やはり本作でもやわらかくて優しい声に癒された。お話は父親の名前にも出ている通り、ロミオとジュリエットを下敷きにしたもので陳腐といえなくもないけどテンポがよくて助かった。あと瑠璃子さんオチものどかで。お嬢様が木登りや農作業の好きな元気な女の子になって、その二重性が子供のときから損なわれずに連続しているというのがよかった。トマトの間接キスとかおいしすぎる。
 詠:ルカ、金剛石、詠の3人は、体験版をやったときに立ち絵のスカートがまくれすぎていて笑った。ちょうどテクストが表示されているあたりでチラチラ見えていて、小癪な技がこのメーカーらしいなと。それはともかく、詠は下半身がなんとなくむっちりしていて猫的な色気が、という話でもなく、詠のお話では泣かされた。台詞自体はところどころ不恰好に大人の語彙が入っていてまずかったのにもかかわらず、夏野こおりさんの子供ボイスは脆くて弱い子供らしさが絶妙に出ていて、それなのに面倒見のよい一途な子で涙腺が刺激された。特権視するのは間違いだろうけど、詠との子供時代の回想を経た後では、ONEにおけるみさおの回想のように、それが作品の基調になってしまった観もある。不恰好なアジの刺身とか、向日葵畑での遊びとか、そういうものと同じ思いやりがその後の詠が他の人たちにしてあげることにも重なってくるというか。
 雛桜:当初の設定はクールな軍人系ヒロインだったということで、そこからくるキャラデザと性格のずれのようなものが最後までよい意味でのアクセントになっていたとも見ることも出来る。ちょっと病的なくらいに色白で、顔の表情がこわばっていて目力があるので、見つめているとやや気まずさを覚える。反対に元気な女の子の顔もあるとはいえ、これが娘というのはちょっと怖い。垂れ目の月子ちゃんに転びそうになる。そういう違和感(主人公ではなくプレイヤーの)になじむための手順として、朧白での日常とか、見合い騒動とか、東京遠征とか、ラブホでの子育ての感慨とか、海の家とか、お祭りとかを経ていく中で、まずは娘としての違和感がなくなっていき、それからその先へという感覚のゆったりした変化が心地よかった。「この間まで娘だったのに」とはすでにエッチパート突入後の一節だが、そういうイベントによる起承転結ではなく日々の流転によるゆったりした物語進行の感覚が、先にも挙げたクラナドと同様に、終わりに向かうタイプの進行とは違った特別な雰囲気を作り出していた気がする。家族を持つというのはこういう彼岸めいた空気の中で日々を送ることなのかなあと願望ともつかない想像も。そう考えると朧白の向日葵や空や海に視線が吸い込まれていきそうで、月子ちゃんの思うつぼだ。いろいろとままならない日々を送る自分にとっては、翅を休めよと呼びかける声に釣られてはみたものの、本当に休める夏休みに出会えるとはあまり期待していなかったのでありがたかった。