星継駅疾走軌 (65)

 穿った見方をするなら、時間SFの魅力は隔てられることにあるのであって、年代記風に点描するならばまだしも、語りの欲望にとり憑かれてその溝を取り払ってしまう邪道は偽物をしか生み出せず、キモくしかあれないということか。
 困ったのは、苦手な野月まひるボイスのキャラが出すぎたことだ。ゴドーとアージェントの声が同じ声優さんだということにはまったく気づかないのだが、野月さんはどれも似すぎている。しかも、個人的な考えだが、シラギクの声は致命的に合っていない。それにしてもユキタダを襲ったゴドーさんの剛毅さには恐れ入った。しかもけっこうしっとり情緒的だったりして。それから、上坂すみれさんを思わせる整った顔立ちとはいえ、キモいさんのエッチシーンが本当にあるとはこれまた恐れ入った。『沙耶の唄』のような脱臭された生ぬるい人外ではなく、きちんとキモいキモいさんである。呪われた彼女の存在に救いがもたらされる感動のエッチシーンだ。

啜り上げる時だって、とても慎重に、神妙に、息を止めまでして、もたらさる彼の一部、その味を味わうべく構えていた―――のに、ずるりと身体の中の危険な部分が崩れた。あまりの甘露に。全身にぞわぞわと鳥肌が立つ。<…>しゃあぁあ、と、繋がっている部分から何かが漏れた。女の潮なのか、人外の血漿なのか、単なる尿か判らないのだがキモいはとにかく漏らしたのだった。

 しかもこのシーンのシーン名は「男冥利に尽きるやな」だ。このユーモアにはテンションが上がった。
 小学校の頃、クラスでいじめられていた女の子がいて、彼女はやけくそに自分のキモさで笑いを取ろうとしていて怖かった。彼女はクリスチャンで、僕も隠れクリスチャンだったから、何かの機会に絡まれることを恐れていた。自分は子供の頃から臆病で薄情な生き物だった。この前同窓会に顔を出していたが、今では子沢山の幸せそうなお母さんになっていてちょっとほっとしたりもした。ようするに、キモいさんには彼女なりの喜びと幸せがあるのであって、それがグロテスクだったりひょうきんだったりしても、僕も一緒に喜べることに何だかほっとするのである。エロゲーでは女の子は基本的にはキモい生き物に陵辱され、侵食される側の存在だ。ところが彼女自身がキモくて、キモいキモいと言われることに快感すら見出していて、反対に可愛げがあると言われると物足りなさそうな顔をするくらいだったりしても、今の自分ならば笑うことができる。これはありがたいことだ。思えば、三つ目、ふたなり、ゴリラ、屑等々のラブレー的な百鬼夜行と化した星継駅シリーズにあっては、キモいさんが登場するのは当然の帰結と言うしかないのかもしれない。時間と空間の広大さに抗するのだ。
 メビウスの輪の話は、クリアしてから実際に紙と鋏でやってみるまで分からなかったんだけど、不思議だ。ちなみに4分の1ずつやっても、2分の1をさらに2分の1にしても、3分の1でやったときと同じで輪が増えて、4分の1の輪をさらに2分の1にしたら輪が3つになったみたいだった。どういう仕組みなんだろう。あと、タイトル曲は「軌道ビスカニエーチナシチ」となっているけど、ロシア語のビスカニエーチナシチ、通常の翻字法ならばベスコネーチノスチは「無限」という意味だ。希センセ(あるいはさっぽろももこさんか)はどこで拾ってきたんだろう。工芸細工的な趣向ととぼけた味わいは、本作でも全編に及んでおり楽しめた。