NieA_7とか

 アニメの感想はうまく書ける気がしないので書かないことにしているのだが、近年はニコニコ動画で無料で見られるのを中心にけっこう見ていて、生活のリズムの一部になっている。傑作といえなくても、そこそこ面白いアニメ(今なら進撃の巨人とかレールガンとかはたらく魔王さまとか)を見ると頭が程よくリラックスして疲れが取れる。他にも昨日から今日にかけて、ネットで公開されていた「秒速5センチメートル」、最近近所に出来たブックオフで100円で売っていたONEのアニメの1巻、同じく1巻250円で売っていたニアアンダーセブン(4巻だけ抜けていたけどアマゾンで500円で売っていて明日届く)とか見ていた。「秒速」の作者のアニメは大昔に「ほしのこえ」を東浩紀が褒めていたか何かで知ってレンタルビデオ屋で借りてみて以来で、やっぱり同じように感傷以外に何もないアニメだけどその感傷がかなりの執念と繊細さで表現されていて、その感傷を受け止めてくれる対象としての純朴で可愛い女の子というのは素晴らしいけど、それでも感傷だけのものだから手放しでは楽しめないものだった。ONEは「秒速」の後に見ると絵の作り方が違いすぎて、演出も独特すぎて、ほとんどホラー映画かアウトサイダーアートを見ているような薄ら寒い迫力があった。絵に味があることが長所であるニアアンダーセブン(2000年)でさえも、10年ぶりくらいにノートPCで見てみたら意外に線が太くて古く見えたのだから、最近10年くらいでアニメの線とか色はずいぶん変わったのかもしれないと思って少しさびしくなった。エロゲーにたどり着く前の2000年代前半、エヴァ(はまったのは2001年くらいだったか)で掻き立てられたオタク熱をどこへ向けていいのか分からず、2ちゃんのエヴァ板をうろついて他に面白いアニメがないか探す日を送る中で知ったのが安倍吉俊関連のアニメだった。当時は学生でお金を持っていなかったし、本以外にお金を使うのは馬鹿らしいと思っていたから、アニメはレンタルビデオ屋で借りることが多かった。所有欲を書き立てられたとしても、ヤフーオークションで安い中古にしようか中国の海賊版にしようかと延々と悩むくらいに時間があった(今はレンタルビデオ屋もヤフオクもすっかり利用しなくなった)。久しぶりにニアを見てみて、やっぱり面白かったのだけど、この10年の間にアニメの作り方も僕の生活もすっかり変わってしまったのにまゆ子は相変わらず不安定なモラトリアムの中を生きていて、なんだか申し訳なくなったというか何というか。気がついたら生活の中で荏の花のようなレトロな風物を見る機会はほとんどなくなっている。住んでいるところは平成的な住宅地だし、家と会社の往復以外はほとんど外出がないし、出張で地方に出る機会もほぼない仕事。テレビのない生活が5年以上続いていて、動画で地方を見るということがほとんどない。そこまで徹底的に古いものから遠ざけられてみて、あらためて時間の止まってしまったかのような古いものたちや訳の分からない宇宙人たちに囲まれて、うだつの上がらない日々を風通しのよい貧乏下宿で送るまゆ子の鬱屈とか、夏の空気とか、屋根の上からの景色とかを見ると、安心感があるというか、そこに留まってくれているまゆ子に感謝しなければならないような気になる。考えてみるまでもなく、この10年の間にモラトリアムを物質的には脱して自活するようになった僕も相変わらずうだつが上がらず、訳の分からないものに囲まれて日々を送っていて、このまま中年になっていきそうな気配もあるけど、まゆ子の方がもっときちんとそんな生活に縛られて振り回されて、きちんと焦燥感を抱えてうだうだ悩み続けてくれているから、僕のほうは息をつけるのかもしれない。久々にニアのスレッドを見てみたら(今のスレッドは2009年からある)、もう10年たってまゆ子も大学を出て出来る社会人になっているんじゃないかとか、でもまた荏の花に戻ってきちゃってるんじゃないかとか、後日談を作ってほしいとか、のんびりした書き込みのやり取りがあってちょっとほほえましい。この10年間でブックオフとかアマゾンとかでアニメが中古なら安く簡単に手に入るようになったし、ニコ動などで無料で見られるものも多いし(業界は相変わらず苦しいみたいで申し訳ないが)、新海誠以来か京アニ以来か知らないがアニメの線や色もだいぶ変わった。10年後、40台半ばになっている自分を想像したくはないけど、そのときにもアニメを楽しめる余裕がありますように。

走る列車から跳びだして

 ツイッターで流れてきたリンクを何気なく開けてみたら、昔モスクワで話をしたことがある若手作家の人が何か書いていて、この人メディアによく出るようになったなあと思いつつ読んでみたら、最近オランダで自殺した反体制活動家の遺族に話を聞きにいったルポだった。去年の大統領選のときに派手な抗議運動をして当局から目をつけられ、オランダに亡命しようとしたら拒否されて絶望したらしい。そんなに興味ある話題ではないので最後まで読まずに閉じて、休日なのでだらだらしつつ惰眠をむさぼった。すると夢の中で朝の通勤電車にプーチン大統領が乗り込んできた。僕はプーチン氏の後ろにいたのだが、奥のほうから「あーあー」と(いーけないんだー、のイントネーションで)大声で言っている人がいて、プーチン氏が興味深げにしていたので、「あれは誰か人のせいにしようとしてわざとあんなふうな声を出しているのですよ」とロシア語で教えてあげた。プーチン氏は事情が分かったようで、僕にお礼を言うと、電車を降り際に抱擁と頬にキスを交わす挨拶をしてきた。僕はこのキスが前から苦手で、左右両方にやるのだが、後半を失敗してなぜかプーチン氏とディープキスをする羽目になってしまい、口の中が気持ち悪くなって目が覚めた。自業自得だった。最近は仕事で少し反体制派関連の調べものをしているからかもしれない。ミカンを食べて口直しとした。
 だがもうひとつの話を書いてさらに直しておきたい。作家が書いたルポが載っていた媒体が「ロシアの生活」という電子雑誌で、そこの別のコラムがやはり最近ツイッターで流れてきて読んでいた。今回気になったので何の雑誌か見てみたら、作家たちが集まってインテリゲンツィヤを読者として想定して作っている雑誌とのことだった。ロシアは幸か不幸かまだインテリゲンツィヤ(知識人)という自己認識を持つ人たちがけっこういて、一定の水準の教養とか倫理観とかメンタリティを持っている。
 流れてきたコラムというのは、やはり最近のニュースをネタにしたものだった。それは先日、アムール州(シベリアに近い極東で、相当内陸部にある僻地)を夜間に走っていた鉄道の乗客の42歳の男性が、タバコを吸うためにデッキに出て、一服して戻ろうとしたら、間違った扉を開けて線路に落ち、零下40度の中をTシャツとサンダルで最寄りのリヒャルド・ゾルゲ駅まで7km走り、無事に保護されたというニュースだった。同じ日に、西ロシアのウリヤノフスク(レーニンの本名にちなんでつけられた町の名前である)近郊では、ボルボのトラックがビールを積んで雪道を走っていたら、突然馬に曳かれた橇が現れ、避けようとしてプラストフの銅像に突っ込んで壊してしまったという出来事もあった。プラストフというのはこんな感じの絵を描いていた有名な社会主義リアリズムの画家である。甘ったるくユートピア的な農村風景、橇、ボルボのトラックに積まれたビール、零下40度のタイガの静寂、生きるためにサンダルで必死に走るおっさんというシュールなイメージの交錯を見ていると悲しくなるという趣旨のコラムだった。
 おっさんは間違った扉を開け、「そのまま暗闇に足を踏み出した」とニュースは詩的な表現で伝えているという。僕も昔似たような体験をしたことがあるのを思い出していた。当時、モスクワ郊外にホームステイをしていて、前述の若手作家はそこの家の親戚の人だった。毎日のように市内まで電車で通っていたのだが、ある日、終電での帰り道、駅に着いたので降りようとしたら運悪く扉が凍っていて開かなかった。電車が動き出してしまい焦っていたら、近くで先ほどまでクダをまいていた不良少年がやってきて、緊急停止レバーをブーツで蹴飛ばして電車を止めてくれた。それから扉を蹴飛ばしてこじ開けてくれ、開いた隙間から僕と友人は線路脇の真っ白な雪だまりの中にダイブしたのだった。それから家まで歩いて帰ったが、ホームステイ先のおばあさん(小さくてしわくちゃなおばあさん)にその話をしたところ、その晩悪夢を見て夜中に悲鳴を上げて起きてしまったという。真冬のロシアの田舎で、終電で人気のない知らない町に下ろされたらと思うと確かに怖い話だった。だが、電車から跳んだあのとき、僕は妙な解放感を味わったようだった。扉が凍っていたのが偶然ならば、ガラガラの車内で近くに不良少年がいたことも偶然で、すべては夢の中のことのように一瞬で滑らかに起こった。白い雪に包まれて雪まみれになったとき、僕と友人は笑いあった。その友人も今はロシアから離れてどこかでひっそりと生きている。あの時、僕たちはどんな「暗闇」に足を踏み出したのだろうか。おばあさんは元気だろうか。今度久しぶりに聞いてみよう。

声の力

 マインディアの詳細が語られたレビューを読んで同人の音声作品(「爆乳洗脳術」と「くノ一の末裔」)を買ってみて、新たな世界を開いた。この方は本当に作品を紹介するのがうまい。
 思えばKiss+100のBGMのない一人語りのドラマCDにはお世話になっているが、こういう音声作品の系譜なのだろう。構成要素やバリエーションの可能性の限られたミクロな世界で、「不純物」になりうる中身の薄い「日常シーン」もなく、みっちりとエッチな音声に集中するというのは隠微な親密さを味わえて面白いが、単なる性風俗に落ちそうな危うさがある。音声ファイルと同梱されているCGがリアリティを支えている部分もあって、絵の力はやはり侮れない。上記2作では特に「くの一」の方のシンプルなエロさがよかった。伊東もえさんの声がよかった。
 音声作品にはCGの他に「台本」のファイルも同梱されていて、思い立ってこの台本を改造して同人声優さんに自分専用の音声作品を作ってもらうことにした。ちゅぱ音とか喘ぎ声とか、とても自分でゼロから書くのは無理なので台本があるのはありがたかった。
 一番の目的は、本名をたくさん呼んでもらってエロい声を堪能したいという弁護のしようもない煩悩まみれの欲求で、あらためて自分で書いた台本を見ると声優さんに申し訳なくなる。言い訳じみた宗教ネタを入れて少しストーリーと設定を工夫しては見たけど、性欲丸出しであることには変わりなく、次に進もうにもまずはこの願望を叶えてみないと始まらないと自分に言い訳。「萌えボイス」というサイトには600人以上の声優さんが登録されており、相当な時間をかけて200人ほどのボイスサンプルを聞いた中からこれぞという人を選ぶ執念に我ながら感心し、思い切って申し込んでみて、演出や設定に関する声優さんとのやりとりの細やかさにちょっと感動している。これが2回目3回目と慣れればもっと違ってくるのだろうか。まだ作品が出来上がっていないのでどうなるか分からないが、1文字2円の方に5000字弱をお願いしたのでエロゲー1本分強ですみ、十分お手頃な楽しみのような気がする。感想はたぶん書かないけど(書いて切り離したくない)、まあ万が一何か書いておいた方がいいことでもあれば。それにしてもこういうニッチな産業(しかもまだ発展途上)があるのを目にすると、性欲ってのはすごいなと思う。

再考ロシア・フォルマリズム

なんかうまく書影が出ないのでリンクを貼り
 ロシアの文学研究の困ったところは、その射程が広すぎること、面白すぎることなのだった。本当の学者でなければ立ちいれないような美と真理への展望を開いてくれるのだが、それと同時に限られた存在である自分の無力さを実感させられる。開いてくれるのは展望だけであり、それを自分が引き受けるためには常に脳内麻薬を垂れ流しながら何十年間も研究を続けてようやく小さな、真理を前にしたらあまりにも小さな功績を残せるだけ。そういう地獄のような祝祭に耐えるには、自分を取り巻く現実や実際的な生活というのはあまりにもくすんでいて鬱病になりかねない。フォルマリストたちが1930年代以降は理論的探求を離れ、いわば還俗して地味な文献学的研究や小説の執筆、韻律研究の統計作業などに埋没していったのは、全体主義時代の政治的圧力や有用性の強迫観念に追い立てられたからというだけではなく、10〜20年代にぶち上げすぎて覗き込んだ深淵のあまりの大きさに絶望したからなのではないかと思う。というのは僕の個人的な投影も強いんだけれども。
 フォルマリズムは「形式」や「手法」の話ばかりしていたのではなく、むしろ「意味」、正確には「意味を生じさせる機能」の解明に肉薄していった運動。その点で、本書ではヤコブソンやシクロフスキーよりもどちらかというとトゥイニャーノフやエイヘンバウムに焦点が当てられているのは適切な選択だ。というかなんだかトゥイニャーノフ愛に溢れすぎていてくすぐったくなる。彼はその素描して見せた深淵の入り口だけでおなかいっぱいになるような切れ味の論文を何十本か残した研究者で、その魅力は「詩的言語の問題」のような純粋な理論書よりは、時評やジャンル論のほうがよく出ているのだが、残念ながらたぶんそれはロシア語ネイティブの人でないと十全には分からないだろうし、なにより日本人の僕が読んでいくら面白くてもいたずらに空しさというかタスカーを募らせてしまうだけでむしろ有害といえるかもしれない。エイヘンバウムといえば日本や海外では「ゴーゴリの『外套』はいかに作られたか?」ばかりがしられているが、本書では「ロシア抒情詩のメロディカ」が取り上げられていてたまりません。これは原理的に計量可能な詩の韻律ではなく、さらに一歩進んで計量の難しい「イントネーション」と意味の関係を明らかにしようとして実際にいくつかの詩を分析した論文で、すごくおもしろいし繊細な分析なんだけど、こんなのを読まされた日本人はこの次にどうすればいいのという代物だ。しかも本書の論者は冒頭で唐突に初音ミクに言及していて、なんと言うか、僕は論者の苦悩に共感してしまうのである。全体的に執筆者は若い世代で、何人かけっこう業が滲み出ている人もいるのだけど、今後も研究を続けていくことに価値を見出せるような平和な日本でありますように。
 というようなわけで、正直なところ、1929年のトゥイニャーノフとヤコブソンの短い宣言的綱領論文の発表後に終わってしまった運動としてフォルマリズムはどうでもいいのである。もっと面白いのは、救いようのなく面白いのは、彼らが見ていたけれども全体をその手につかみとることのできなかった真理の痕跡なのである。真理は全ての文学作品を完全に研究し、分類して並べなくては手にすることが出来ないけれど、それはもう研究者のやることではなくて神様か未来のスーパーコンピュータの領域なのだろう。その不可能に挑んだ営為の残骸として、フォルマリストや後代の研究者たちの仕事は意味を持つ。だからこそ、本書にフォルマリスト第2世代(ギンズブルグ、グコフスキー)や第3世代(ロトマン、ガスパーロフ)、隣接領域の準フォルマリスト(フロレンスキー、エイゼンシテインヴィゴツキー、アヴェリンツェフ、リハチョフ)がほとんど入らなかったのは残念だけど、あまりに深淵を見せつけられても僕はもう学生時代には戻れないのだから納得するしかないのだった。

高野史緒『カラマーゾフの妹』

カラマーゾフの妹

カラマーゾフの妹

 なってないよと叩くことは簡単だけどもそれで溜飲が下がるわけでもなく、カラマーゾフの兄弟をよく読んで当時のロシアのことを良く調べて書いたという愛情の深さに敬意と親近感を抱くことは出来るけどかといってドストエフスキーの小説の域に達したというにはあまりに卑小というか、現代の味気ない言葉で書かれた小説で、これを江戸川乱歩賞の審査委員の人たちのように褒める気にはまったくなれない。文体がいいと褒める人たちは何なのだろうか。文体のしょぼさと、そこから透けて見えるドストエフスキーの小説をミステリやキャラクター小説として読もうという最近の風潮(?)は、きっと亀山氏の新訳が受け入れられたことと同じ文脈なのだろうなと。亀山氏はとても面白い本を書く人だけども、そういう負の遺産を作ってしまったということはあると思う。大胆な読み方は面白い。でも、謎解きをして「発見」することで反対に失われてしまう読み方もある。江川卓氏の謎解きシリーズは登場人物の名前とかいうような初歩的な部分に留まっていたので害は少なかったけど、それでもひとつの源流だったらしい。自分のでもよくしくじるので厭になるが、専門用語というものは恐ろしいもので、それで縛られると全体の見方もゆがむ。キャラクター小説はキャラクターを立たせるための属性やアクセサリーで簡単にキャラを縛ってしまう。これがポリフォニー小説だと僕らが思っているドストエフスキーの作品の濃度を残酷なまでに薄め、異様な熱気と饒舌をきれいに拭い去り、まるでコンビニで売っているガムテープか何かのように無駄にさっぱりしたパッケージに入れてしまう。そういうパッケージと設定で売る商品臭が感じられる小説だった。ドストエフスキーは自分の魂の問題を小説に全てぶち込んで書いていたのに、この小説の作者はそこまで引き受け切れていないように見えて、だからここでは全体が商品のキャッチコピーのようなトーンになってしまう。もちろん、作者に悪意があるわけではなく、誠実に書かれた作品だし、終盤ではカタルシスのようなものもあった。でも使用されている言葉があまりにも現代的に陳腐で、霊感が導く射程があまりにも短くて、これが現代日本人の限界か、などと汚い言葉が出てきてしまう。できればロシア人の目には触れてほしくない作品だ。亀山氏はこの小説に自分の本の強調された短所を見るか、それともこんな小説でも褒めちゃうんだろうか。ドストエフスキーの小説はミステリとしても読めるのだろうけど、そうすることで失われるものはあまりにも大きい。高尚(あえてこんな言い方をしてみる)な部分や霊的な調子がなくなった抜け殻のような小説を読んでそう思った。改めていうのも馬鹿らしいが、設定よりも言葉の流れ方のほうが思想的なものを多く表すんだな。

植芝理一『謎の彼女X』9巻DVD付き

DVD付き 謎の彼女X(9)限定版 (アフタヌーンKC)

DVD付き 謎の彼女X(9)限定版 (アフタヌーンKC)

 ニコニコで第1話を見て次の日に原作マンガを期間分全巻買って、その後もアニメも楽しませてもらった作品なので、大して高くないしDVD付きを買って少しでもアニメ製作者に感謝しようということで。アニメは他のエピソードと同じで、程よくまとまって楽しめた(お姉さんのサービスカットもありがとうございました)。ディスコミュニケーションの新装版が出るということで、楽しみがひとつ増えた。マンガのほうは、諏訪野さんが可愛い巻だった。もともとこの作品のいいところは登場人物が少なくて劇的な物語がないのでヒロインの顔や仕草が描かれるコマが多い(たぶん萌え4コマも絵柄が違うだろうけど同じ)、しかもヒロインを捉える視点が窃視的ということだったのだけど、肝心の卜部は初期からキャラデザが変わって淡白になってしまい、顔や仕草を窃視・鑑賞するというよりは普通にストーリーの動きで見せる方向になってきているのが残念だけど、ずっと肖像画みたいなものばかり描いて連載するわけにも行かないので限界なのかもしれない。他方、諏訪野さんは初めから今の絵柄で登場したし、卜部もそうだけど、あまり表情が動かないのもいい。諏訪野ルートはあってもいいんじゃないでしょうか。

夏の終わり=暴力

 今年の夏は有給を取って合計で1週間以上休みがあった。休みがあった。休みがあった・・・。あったけど、食っちゃ寝したり同窓会的な集まりに顔を出したりしているうちに終わってしまった。家で消化しておこうと思った仕事の宿題もあまり手がついておらず、追いつめられた感覚とともに嫌なプレッシャーになってきた。せめてコミケで買ったものの感想でも少し書いておく。今回のコミケは会場にいたのが30〜40分で風情も何もあったもんじゃなかったが、それでも良い買い物を出来た。

  • 希『星継駅擾乱譚外伝・雨ヶ森去来抄』:これが500円で小部数発行というのは納得しかねる満足度の高さ。ゲーム本編のほうもおそらく1000本にも達してないのではという慎ましい売れ行きのようで、スチームパンクシリーズで稼いだ資金を回してもらえればいいのだけれど、とレイルソフトのこの先について余計な心配をしたくなる。スチパンの方にはきっちりと6500円のお布施をして薔薇の魔女のバッグをもらい、まだ聴いても開封もしていない、だめなコレクターになってしまった。大機関ボックスもやってないし。そういえばこちらの次回作はフランスとか。世紀末の本場だけど、1900年代にはもう次の時代になってたんだっけ。1910年代なら、バレエ・リュスが来たりもするか。それはともかく、雨ヶ森去来抄。小僧がごろごろしたり、起き上がったり、ふてくされたり、酒を飲んだり、魚を釣ったり、走り出したりといろいろなことをするのをひたすら見ている、徳利小僧観察日記とでもいうか。どさくさにまぎれて本編の誰かさんが無駄に変態性を発揮していたり、誰かさんがまたもや幻惑的な美しさでふっと現れては消えたりするけど、中心となるのは徳利小僧と雨降る森の不思議な話。相変わらずの贅沢な筆致で、見ているだけで飽きることがない。もちろんゲームをやったあとだからこそ楽しめるという部分はあるのだろうけど、それにしてもゲームと小説で余韻の質があまり変わらないというのはエロゲーとしては稀有なことだ。
  • NH3『ぼくらのあいした美空島』:こんな同人誌を作れたら思い残すところは無しとしてもいいのではなかろうか、というお手本のような。在庫の最後の一部だったそうで、面倒くさがらずにコミケに顔を出してみて良かった。永倉さんとうぃんぐさん、どちらも作品との距離のとり方も思い入れの表し方もとてもうまくていつものことながら感心する。島のことについては、僕が自分の感想で回想した瀬戸内海の島は小豆島ではなく、そのことひとつとっても無茶な作品感想だと思うが、だからといって僕が小豆島に聖地巡礼的なことを今更したからといって良い結果になるとはあまり思えず、この冊子のようにふさわしい人がよい仕事をしてそのおすそ分けに与れるのはありがたい。
  • NH3『Oracion』、then-d『はつゆきさくら論』:はつゆきさくらに関して僕はシロクマ編の感想(とSS)しか書いてないのだけど、それはこの作品が突っ込みどころの多い出来で、所々読みながら脱力せざるを得なかった中、シロクマだけはキャラ属性と声優(涼屋スイさん)の演技の吸引力で乗り切れた気がしたからだった。全体として、言葉やストーリーテリングにキレがあるところとダメダメなところの波が激しくて、そうしたすべてを冬から春へ移る季節の感傷で覆い包んでいるのが印象的といえば印象的だ。2冊の同人誌では作品の「語られなかった余白」を意識させるような考察が参考になった(僕はインタビューとかVFBとか読んでないし本編も漫然とプレイしただけなのでそもそも理解が浅いということもある)。特に永倉さんのを読むとなんだかはつゆきさくらがトノイケダイスケ作品のような錯覚さえしてきた。そういう読みを誘発する作品だというのには同意できる。
  • NH3『Tokology』:手に入るとは期待していなかったワンコとリリー本。この作品でこれだけ愛情のこもった本が出て、それを読むことが出来たのはありがたいことだ。この本を前にすると自分の書いた感想がいかに歪なものであるかが明白で恥ずかしいが、死んでも直らない自分の愚かさを恥じるよりは良い本との巡り会わせを喜びたいもの。
  • sunagi『Node of Farthest 2.0』:未完成版とは言われながらも完成度の高いイマSSだった。この濃さで500ページ分くらい読みたい(無理な注文)。イマを再プレイできるようになるのはいつのことか。

 あとは本当にだらだらしていた夏休みだった。ジャッキー・チェンのカンフー動画を見たり、桃井はるこメドレーを聴いたり、北斗の拳やら人類は衰退しましたやらの動画を見たり、カレー作りに例のごとく失敗してグロいものを無理に食べたり、他には何をやってたっけ・・・。友達の「黄土色の人形」が欲しくて初対面の男と初キスをしてしまう奥手な女の子とかか・・・(Kiss x 500)。
 それから、島の叔父がこちらに出てきていると今しがた電話があった。今年の僕の夏はもう終わってしまうけど、いつかの夏のためにも来週くらいに一度会いにいこうと思った。

20年遅れの告白

 中学の恩師の通夜があって、小中学校の頃ずっと好きだった人から連絡を受けて、その人の親御さんが出してくれた車に乗せてもらって一緒に顔を出してきた。通夜の後に同窓会的な懇親会があって、その後の二次会では彼女とその友達と僕という3人でファミレスで深夜までだべり。3人とも当時はいわゆる優等生で、生徒会の副会長だったり、学級委員だったりして、成績は学年トップ勢だった。今は30台半ばにさしかかろうとしている独身の人たちである。僕はニッチだけどそれなりに責任ある仕事をやっており、彼女は某省の役人、その友達は外資系の大手某社で役職についている。なぜだかみんな自分の中に高いハードルを設けてしまい、すぐには結婚しそうな気配がないが、関心は高い、という中でだべっているうちに水を向けられてついに、彼女に昔好きだったことを言ってしまった。内心どう思われたかはあまり深く考えたくないので措くとして、昔何年も憧れていて、冗談半分に気になる人みたいなことも言われたことがあって、当時は僕が本当にちょっとかっこよくて何かありそうで興味を持っていたと改めて言われて、今でも明らかに大物になれる野心を持っていながら、あからさまな婚活は出来ずに白馬の王子様が現れるのを待っているという彼女に告白したら、顔を赤らめてくれたのは嬉しかったと正直に言っておこう。ただし、僕が何年間も告白できなかった(子供には告白などということ自体が選択肢として頭に思い浮かばないということもあるが)ことからも言えるが、彼女には、一段上等な人間として、そのカリスマに惹きつけられていたというのがおそらく本当であり、性的欲望の対象として所有したいというのは二の次以下だったと思う。中学卒業以降、何度か突っ込んで話す機会があって、彼女が何を考えて何を目標にして生きているのか(「目標」を立ててそれに向かって努力するというのが彼女らしい;他方、僕は「目標」など立てず、ただきれいなものやすごいものに惹かれて追いかけ回している人生、二番手の人生、翻訳者の人生だ)知るようになってからもそれは変わらず、彼女を失望させるのが厭だから僕は彼女の隣に立ちたくないだろうなという気がする。ましてや今の僕はこのブログで散々ぶちまけているような体たらくの人間である。今回告白したときには、こっち方面のだめっぷりまでぶちまける勇気はなく、というか彼女に余計な不快感を与えるだけだろうから伏せておき、弛緩のベクトルではなく緊張のベクトルのほうの話(学生時代の理想とか今の仕事に関する野心とか)ばかりした。こうして、深夜のファミレスという微妙な場所で、20年間の懸案を片付けた。今は彼女に恋愛感情を持っているわけではないが、それでも当然、まったくどうでもいいということはなく、むしろ惚れ直すことが出来ない自分に不甲斐なさを感じ、とはいえここまで堕落した自分にはもう無理だという諦念に落ち着く。まあ、そんな感慨が、自分の小中学校時代が残してくれた思い出というのは悪くない、むしろ僕にとっては出来過ぎなくらいだ。
 (ここに書いてよいか迷ったけどやってしまう。どうか罰が当たりませんように)

本棚鎮守の神


 パッケージが邪魔をするのはエロゲーにもあることで、お店に通って手にとっては箱に印刷されている写真がのっぺりしていて萎えるけど、お店を出ると自分の頭の中にオーラをまとったキャラクターの姿が思い浮かんで気になり始めるということを繰り返しているうちに、こんなことで迷っている自分に嫌気が差して最後はやけくそ気味に買ってしまった。近年のフィギュアの進歩はおそらく目覚しいのだろうけど、こちらの年齢が上がるとともに、冷めてしまったときの恐れから購入の心理的なハードルが上がり、こうしてお参りのようなことをしてチューニングしておかないといけないのだから面倒だ。
 キャラクターとしての自分との相性から言ってフィギュアとして買うならパチュリーしかないというのは自分で分かっているつもりだが、それでもいざとなると、設定と音楽とビジュアルとプレイ体験だけという得意な要素で構成された東方キャラクターと、うまい距離感を見つけられるのか見当がつかない。しかし考えてみると、古来から彫像化されたキャラクターというのは近代的な意味での芸術作品の登場人物ではなく、無名の人々の集合的な創作物の登場人物だったわけであり、その意味では隙間だらけのテクストから立ち上がるキャラクターとしてのパチュリーのフィギュアは、古代の彫刻の伝統を正しく伝えるものということになるのかもしれない。エロゲーヒロインのフィギュアを買う仕組みというのは好きなキャラクターを手元において彼女と彼女のもつ物語にいつでもアクセスできるチャンネルがほしいという欲望と、そうした立体物としてのヒロインが自分の日常空間に闖入していることの驚きを味わって自分でコントロールしたいという欲望だろう。パチュリーの場合は物語的な始まりと終わりを持たないキャラクターだから、かえって気楽に気が向いたときにお地蔵様に手を合わせるような感覚で付き合うことが出来るのだろうか。原作に何か「完成形」といえるようなクライマックスの瞬間があるわけではないので、フィギュアのほうが原作に確実に劣るという序列がないという巧妙な仕組み。というわけで、この部屋にある本は誰も持っていったりはしないから、おかしな百合設定は忘れて。ロトマン、バフチン、エイヘンバウム、フロレンスキー、スラヴ神話事典、中世ロシア・アポクリフ集、ベールイのシュタイナー回想録、メリニコフ=ペチェルスキー・・・なんでもいいから、怪しくて楽しい本をいつまでも好きなだけ読んでいてください(僕が買ったまま死蔵しているものばかり)。
 あと、いちおうレビューらしいことも書いておくか。開けてみると心配は杞憂だったようで、素人目にはとても繊細で見事な出来に見える。指も細くて白くきれい。ゆったりした姿勢も衣服の襞の質感もよい。全体的に色調が淡く艶消しされたようになっているのもよく、小物として鉱石などを足元に置くと映える。このサイズのフィギュアを定価で買ったのは初めてだが不満はない。問題は置き場所くらいだ。

西尾維新『悲鳴伝』

悲鳴伝 (講談社ノベルス)

悲鳴伝 (講談社ノベルス)

 『ハーモニー』を読んだときと同じで、いろいろ設定の話はあるけど、結局は女の子たち(在存、花屋、剣藤)と主人公の少年が互いをぶつけ合う様を見る小説なのだなという感想。ぶつかり合う度合い順ということにしてしまうのはまずい言い方かも知れないが、一番印象に残るのはやはり剣藤だった。救いのない設定の世界観の中では、逃避行は解放に行き着くという意味では唯一の救いになるのかなあといまさら。『少女不十分』の感想は書かずになんとなく流してしまったので、とりあえず一言だけでもメモ代わりに。