石川博品『メロディ・リリック・アイドル・マジック』

 アイドルについてのガチな小説なので、そのシステムにアレルギーを持つ自分にとっては一筋縄ではいかない代物だ。確かに文章は素晴らしいんだけど、アイドルっていうのがなあという。例えば、『Key the metall idol』という渋いアニメがあって、そこではロボットや民俗学の概念を借りてアイドルという概念が補強されているので安定感があるのだけど、このメロリリはもっと剥き出しのアイドル観を押し出してくる。アイドルたるもの、アーティストぶるな、それじゃ見るほうが気を遣うわ、という。つまり歌や踊りにプロフェッショナリズムは要らない。もちろん、一生懸命練習して努力はするけど、一番大事なのはそこじゃないという。また、アイドルは何かの手続きを経て選ばれてなるものでも、ファンの数とか曲の数とか所属組織とかはっきりした指標があるものでもなく、本人がアイドルになると決めた瞬間に出現するものだという。つまり、とても儚い仮設建設のようなものであり、持ち運びできる機材を組み立てて会場を作り、ファンが一時的に集まってきてよく聞こえなかったりよく見えなかったりしながらもなんか盛り上がって、ひと時出現する疑わしい魔法のようなものなのだ。作中ではLEDというAKBをもじったグループが変な衣装を着て媚を売る大手として目の敵にされているけど、傍から見れば沖津区の若者たちも同族に見える。素人感がさらに増しているので、あざとさも増し増しと言えないこともない。
 確かにライブのシーンの臨場感は素晴らしい。剥き出しのアイドル観、技術のない素人が作り素人が歌うステージ、(嫌な言葉だけど)人間力で魅せるステージというものは、芸術や歴史や超常的なものがなければ物事に価値を見出しにくい、人間不信気味の自分にとっては胡散臭いものだけど、ここではアコにある種の天才性が付与された描写がなされている。それは単に主人公が彼女に恋をしているからというだけのことかもしれず、また、実際のコンサート会場の客には知ることのできないステージの裏や歌手の心理といった細部を描ける小説という形式の狡さであり、また優しさなのだろう。
 同じステージ音楽の魅力を描いた作品としてキラ☆キラがある。こちらは初心者グループの成長物語という点ではメロリリよりも本格的で、悪く言えばメロリリのキャラ配置やストーリーの流れはキラ☆キラの縮小版のようにも見える。そしてきらりの天才性の表現は割りと中途半端で(エロゲーだと実際に音楽が鳴るので、ライターにはコントロールできない部分があるので仕方ない)、作品の主題もそれとは別のところにあった。メロリリでは、アイドルというシステムに乗せて青春を描くという主軸とは別に、ヒロインの「内面」(悩み)に迫る描写が多かったのは石川博品作品にしてはベタだなと思った(その悩みにしても、割とよくありそうな感じでのものでやや拍子抜けだった。というか、後半はストーリーの展開を詰め込みすぎた気もする)。同系の作品としてヴァンパイア・サマータイムトラフィック・キングダム、ノースサウスのような作品はあるけど、これらはどちらかというと実験作だと思っていて、石川作品の魅力が発揮されている本流は、ネルリや後宮楽園球場や平家さんのような、女の子を不思議な魅力に溢れた存在として描く作品だと思っている。女の子しか出ない四人制姉妹百合者帳でさえも(それとも女の子しか出ないからむしろ当然なのか)こちら側なのだから、石川センセの童貞力は筋金入りだと思うのです。
 その意味でアーシャの方はまだ「見られる」キャラクターとして描かれて部分が大きいので、もし続刊があるのならそのまま素敵な奇人路線を突き進んで欲しい。最後にチラ見せしたアコとの妖しげな友情路線もよい。この巻だけで判断すると、アコの陰に隠れてあまり分からなかったのが残念だ。インド(?)舞踊のような不思議な踊りも文章ではよく分からないし。
 僕にとっては石川作品で一番ハードルが高い作品だったけど、アーシャやアコの掛け合いや心の中の突っ込みが愉快な方向に転がっていって飽きさせず、下手に深刻ぶらない、というか深刻さを乗り越える軽やかさがあってよかった。この軽さは若さの特権であり、無からきらめく何かを作り出すアイドルという幻影のシステムに、明るさを与えてくれていて素晴らしかった。本物のアイドルやアイドル育成ゲームは相変わらず痛ましくて好きになれないけど、石川作品ならアイドルのきれいな部分を存分に見ることができるのだから。

クソゲーの文学性

 「クソゲー」というのは必ずしも悪い意味ではなく、ある種の美点を持つアニメを「クソアニメ」と呼ぶ程度にはいい意味のつもりだが、うまい言葉が見つからなかったのでひとまず。
 「世界と世界の真ん中で」を始めたのだが、何というか、社会主義リアリズム文学を連想させるところがある。学生寮エルデシュはどこかの田舎のコルホーズかライコム(地区委員会)で、寮生である優等生ヒロインに「連理君はエルデシュの精神的支柱」と評された主人公は、そこで頼りにされている議長だ。村民は誰もが幸せで、美しい……。連理という主人公の名前も、連理の枝とかの連理じゃなくて、本当は「レーニンのことわり」とか「連邦のことわり」いうような由来で、意識の高い市民であることを示しているんじゃないのか。
 料理や家事が得意でヒロインたちに褒められる系の主人公が、ヒロインたちや親友役男キャラやヒロインたちの仲良しグループで「連理君らしいわね」とか「どうしたの?あのとき、連理君らしくなかったから」とかちやほやされながら(社会主義リアリズム文学における「ディシプリン」や「イニシアチブ」があると評される肯定的主人公)、あるいはヒロインが喜ぶのを見て「よかったな」(イリイチもきっと同意しただろうよ)とか声をかけてやったりしながら、あるいは元気のないヒロインを見て「俺にできることといったら、美味しい料理を作ってやることくらいだ」(労働は裏切らない)とかつぶやきながら料理や家事をする描写や誰が何を作るかとか食べることの話題ばかりが延々と続く序盤の日常パート、イケメン家政夫による介護施設での労働的なパートの文章のつまらなさが苦行レベルなのだが(無意味に爽やかな高原の別荘風――共産主義ユートピア…――の学生寮だったりして倫理的な意味での居心地も悪い)、この作品を手にした主な動機のひとつである絵の美麗さに助けられた。
 音声が流れているときはメッセージを消すという設定があって、それを使うとヒロインたちの表情や姿勢の変化をぼんやり眺めることに集中できる。特にヒロイン同士が会話しているときは地の文が少ないので、たとえそれがまったくどうでもいい言葉の応酬であっても、あるいはむしろ非効率極まりない冗長性の塊りであるからこそ、そしてエロゲー文法の魔法によりなぜかヒロインの立ち絵はいつもこちらを見ているので、それを浸す善意の空気にぼんやりと包まれながら、思考停止の境地に遊ぶことができる。正確には、ヒロインたちの他愛のない間の抜けたやりとりはセクハラ的なつっこみを入れる余地だらけの無防備なものなので(ニコニコ動画で大量にコメントがつく萌えアニメのタイプで、例えば、BGMが変わると曲名がその都度右上に出てくるのだが、穏やかないい雰囲気のシーンになって「黄金の円光」と出るといちいち馬鹿馬鹿しく釣られて、あぁ、となる)、思考停止というわけではないのだが、日本語の読み物としての面白さや倫理性の問題から遠く離れた境地に至れることは確かだ。主人公の提灯持ちみたいなうざい親友キャラはすぐさま音声を切ったが、立ち絵も非表示にできたらもっと快適性が増しただろう。こういう楽しみ方をするなら主人公はノイズでしかないので、なるべく主張せずしゃべらない、人格というよりは一つの機能に退化(進化か)させるのが望ましい気がする。それを推し進めて主人公を消したのが萌え4コマであり、エロゲーではシステム上そこまで至るのは難しいのだろうけど、この作品のようにヒロインの絵が美麗で声も可愛ければ、高度に空虚な癒し作品として十分に比肩できる。

らぶおぶ恋愛皇帝 of Love! (80)

 それぞれの言葉には神経の足か何かのようにコノテーションのフックがいくつも生えていて、言葉に自由を与えすぎると、言葉は分子みたいにバラバラな方向に飛んで、勝手にいろんな言葉を引っ掛けて結びついていく。極端な場合にはそれは単なるナンセンスになる。文学作品としての文脈の中に放り込まれた言葉は、芸術としての価値やジャンルの記憶を保持した馴致されたものだけど、他方でそういうグロテスクで無軌道な自由、文脈を壊して人間的な一体性の彼方へと飛び去っていってしまいそうな危うさも隠している。言葉遊びはきれいに決まるときもあれば、空振りして自己パロディに滑るときもある。後者は怖いから、言葉遊びは無難にコミカルな文脈で用いられる場合のほうが多い。そうでなければ、連歌のように強固に儀礼的な制約性の鎧で防御力を高めておくか、枕詞や序詞のようにパケット化してそれが滑ったかどうかはひとまず脇に置けるようなジャンルの文法が必要になる。
 だが、自由を与えられすぎた凶暴な言葉にとってはそういう配慮はあまり意味がない。燃料が尽きるまで、その推進力で心のままに突き進んでいくだけである。本作の掛け合いはコミカルな文脈でもシリアスな文脈でも言葉遊びが満載だが、シリアスな文脈で惜しげもなく遊ぶのは珍しいので目立つ。そもそもコミカルとシリアスを明確に区分する必要はなく、未分化な野生の言葉を受け入れるのもありのはずだ。気づいたら必死にタンスを背負って修行して、人間離れしているのもありだ。Keyの主人公がやっていたようなことだ。連歌のような掛け合い。相手の言った言葉の何かのフックに引っかかって、その言葉を別の文脈において返答する。会話をしながら言葉はずれ、さらにずれて元に戻ったり、桂馬のように跳んだりする。聞いている間は相手の言葉に耳を澄まし、うまくさらってやろうと身構えている。滑稽ではない。真剣であり、入神の状態である。相手どころか、自分が話した言葉に話しながら自分で引っかかり、自分で自分の言葉を読み替えてしまう。自分という人格の統一性は崩れ、自他の境界は曖昧になる。……見返してみたら4年近く前のわーすと☆コンタクトの感想でも同じようなことを書いていて我ながら進歩がない。
 こういう文体の詩学をきれいにストーリーに接続して消化していたのがギ族ルートだった。「嘘」がテーマのお話だ。回想と現在を交互に、リズミカルに行き来する構成自体がすでに韻文的だった。自由な言葉は、方向を喪失してうろうろと這い回るようなものであってはならない。放流となって善悪や喜怒哀楽を押し流す暴力的な力を持っていなければならない。だからこそ、ひかりが会心の笑顔を見せるシーン、空を飛翔しているようなシーンの開放感は素晴らしかった。言葉で現実を捻じ曲げる権力を手に入れ、言葉が思考にぴったりと即した瞬間の喜びを噛み締めているようだった。あとはあれっすね、「バカ。キスだぞ。唇と唇がぶつかっちゃうんだぞ。エッチである。あーエッチである」とか「ま……間違えた。女の子ではない。吸血鬼である」とか、ギ族はおかしな生き物ですね。
 僕の思い込みなのかもしれないけど、どのヒロインであっても、何か問題を解決して主人公とヒロインが「成長」したりはしていないように見える。リアルでもばれない嘘がつけるようになれば無敵になれる、雲のような存在になれる(そういや不定形の荒ぶる自然の象徴であり豊穣の雨を呼ぶ存在である雲は、人類学的には吸血鬼と同系列のメタファーであり、マヤコフスキーの「ズボンをはいた雲」はそういう制御不能な状態の自分を描いた作品だった気がする)、そう願っていたひかりは、結局反省してその願いを完全に捨てたというわけではなさそうだし、ルキナルートで批判された恋愛による人への依存は、「毒は抜けた」とか何とか言われていたけど、ハッピーエンドの幕切れ時にはさらにひどくなっていたようにも見える。偉そうな物言いになってしまうが、成長っていうのはそんなふうにきれいにストーリーをまとめて達成できる、低いところから高いところへ上がるようなものなのではなく、はじめに低いとされていたところも別に本当に低いわけではなく、単にそのときは経験がなかったからうまくいかなかっただけで、これから先もそういう低いところの問題っていうのは何度も出てくるけど、そのときに側にいてくれる人がいるという安心感、幸福感があるから違うということなのかなと思う。
 それからやはり挙げておかねばならないのはイサミさんだろう。いや、イサミさんは変態だからそれでいいのかもしれないけどね、主人公もっとイサミさんを幸せにしてあげなきゃだめだろう。もっと彼女に溺れなきゃだめだろう。違うのかな。そうなるとイサミさんはかえって不満になるか、それとも一歩引いてしまったりするのだろうか。こんなこと言っているうちは僕はモブキャラレベルなのだろうか。彼女、声が静かなんですね。いつも囁かれているみたいで、オタクなのでなんか秘密を打ち明けられているような気が勝手にしてしまう。あとあの立ち絵の視線だ。なんかサブヒロインなのにやけに可愛い顔でこっちを見てくるなあと思っていたら、最後にやったシナリオでまさかのルートヒロインになっててまいった。しかもなんかむっちりしてるし、完璧に尽くしてくれるし。イサミさんの単独エンドで終わってくれてもまったく少しもかまわなかったが、あの終わりだから見えるイサミさんの魅力というのもあって困る。
 ルキナは、言葉の奔流というこの作品の特性を体現するようなヒロインで、彼女にとっての恋愛は、幸せを実感するとかそういう自己の感覚的なものよりは、相手を奪い、傷つけ、守り、救うような、外に対する行動として現れる部分が大きい。放火者であり、雨を待つ炎であり、その雨さえも自分の中から作り上げる。立ち絵も可愛いというよりは、ごつかったり鋭かったりして獣的である。あのピースをしている立ち絵とか、横向きおっぱいの立ち絵とか、何というか媚びているのに媚び切れなくて、ちょっと痛ましさというか疚しさを感じてしまう。彼女は普通の女の子になろうとしたのに、周りがそれを許してくれなかった。落ち込んでも、強くなるという苦しい選択肢しか選ぶことができず、そしてそれを実行できる。うまく立ち回ったりしないので、これから先もいろんなところで周りとぶつかっていかざるを得ない損な性格で、だからこそいっしょにいると温かそうだなと思う。
 エリカについても何か書きたいけど、一人目に進んだヒロインだし、共通ルートはもう忘れてしまったしで、なんだか文脈の分からないメモの断片(「つんつんチェック」「秋人とキスするの気持ちいいから、キスしながらだったら、おっぱい触っても……いい可能性が出てきてる」)が残っているばかりで、彼女の頭の中も何だか異次元みたいだし、まあいっか。本当はもう1周していろいろ思い出してから書いたほうがいい感想だったけど(いろいろあってクリアに3ヶ月かかった)、作品にも倣いつついつもの通り勢いで書いてしまった。
 エロゲーに説得は求めていない。そりゃあ、あれば嬉しいけど、感染なくして説得はない(少なくとも恋愛という領域では)。その意味ではきわめて王道をいくエロゲーだと思う。

星空めてお『ファイヤーガール』

ファイヤーガール3 青銅の巨人 下巻【書籍】

ファイヤーガール3 青銅の巨人 下巻【書籍】

 いつの間にか最終巻が出ていたんですね。感想は2年前に書いたものとそんなに変わらなかったと思う。設定を最後まで語りつくすこともなく(この辺はタイプムーン的なノウハウもあるのだろうか)、キャラクターの物語を最後まで推し進めることもなく、1年という区切りで終わらせてしまったので、自分探しとかモラトリアムとかというのがこの作品の主なテーマのように見える結果になったと思う。その意味では、主人公たちの物語を卒業まで描ききって終わらせずに、あるいは卒業した先輩たちについても別に何も終わっていないことを暗示しつつ、中途半端なところで終わらせてくれたのは、このふわふわした青春の時間に浸っていたい読者への慈悲なのかもしれない。
 未知の世界のセンス・オブ・ワンダーで圧倒するのではなく、組織運営や折衝や人事の地味な話をひたすら描く。誰がどういうふうに動いて何を届けるかということ、その決定のプロセスを執拗に描く。その話し合いは理詰めではなく偶発的なところもあり、そのおかげで無駄に動き回ってほとんど宇宙に出てしまったりもする。何かを達成するにはたくさん無駄な動きをしているものなんだな。地味な話といえば、『大図書館の羊飼い』もそういうところがあったが、あっちは主人公がクールなイケメンなので生々しさがなく、年寄り臭い裏方フェチのように思えて、ヒロインを「受け止める」というプロセス、というかテキストそのものが息苦しくて読むのが疲れた(だからこその達成感も合ったのかもしれないが)。多分、前の感想で書いた視線の高さの問題なのだろうけど、『ファイヤーガール』は世界に対する関心と隣人に対する関心が等価に置かれているように思えて、若さを感じた。地味でよく分からないことを熱意を持ってやり続けるには、一緒にやる仲間が必要で、だから彼らはあれだけ大きなコストを払ってまで仲間たちとのコミュニケーションを維持しているのかもしれない。こういう非効率さは、作中では欧米式や中国式に対する日本式の教育的な「探検部」という概念だと説明されていた。真に受ける必要はないのだろうけど、そういうシステムには何かきれいなものを生む可能性があるのかもしれない。歳をとると、あまり人に関心を持てなくなり、対人関係に頭を悩ませるのが面倒になり、だらしのない子供大人になる。なった。仕事ではコミュニケーションにそんなにコストをかけていられないし、仕事外ではとにかく快適さと静けさを求めてしまうので人から遠ざかる。生活を単純化してストレスを減らす。ストレスとか言い出すともはや老人である。本作の登場人物の数が多すぎて、読んだ時期にも間が空きすぎたということもあるが、彼らが何をあてこすったり悩んだりしているのかよく分からない箇所があっても、そのまま読み進めてしまう。そもそも、悩みとか分かりやすくまとめて語ってくれず、何かの拍子にこぼれるだけで、しかもすぐに誰かが来たりして中断されて、言いよどんでしまう。そうやって恥ずかしい言葉は腹の底にたまっていく。その代わり、言いよどんだ瞬間や言ってしまった瞬間の空気が印象に残る。誰かと共有した瞬間だからだ。そういう断片が流れていく。動いているから流れていく。冒険はどこにでもある、のだそうだ。

森薫『乙嫁語り』

乙嫁語り 1巻 (BEAM COMIX)

乙嫁語り 1巻 (BEAM COMIX)

 ヒロインの身体を覆い尽くす装飾文様が緻密であればあるほど、それを追う視線はじっくりとヒロインの身体の上を這い回り、その装飾文様が抽象化された意匠であればあるほど、視線はひたすらその線と模様の運動にとらわれる。そうした装飾文様と、その文様を自ら布地に刺繍して刻んでいった、これから嫁になる、あるいは嫁になったばかりの女性たちの若々しい表情のコントラストが鮮やかで、「語り」とは銘打たれているものの、どちらかといえば物語や音声を聞くというよりは視線の運動であり、鑑賞であるような作品だった。エロゲーにおける微細に描き込まれた瞳や髪、服のテクスチャなども同種だ。こちらは健全な内容だけどエロい。時々裸体の描写も出てくるけど、あくまで衣装を着た身体が本体だなという感じがする。
 だからこそ、せりふが少なくて抑制気味だけどじっくり鑑賞できるエピソード、アミルとタラスの話がよかった。特に新しい何かがあるわけではないのだろうけど、小さな夫に一途なアミルと、悲しい未亡人のタラスの美しさには抗えない。双子姉妹はキャラデザはよいのだけど話の展開の仕方にデフォルメ感が強すぎて、ドタバタと落ち着きがなくて疲れたし(ただし、双子を独立した人としてではなく、二本の線のような一種の文様としてみるとその運動に嘆賞できるし、爽やかな読後感ではある)、男どもの戦いの話は男どもの身体に視線を這わせても仕方ないので普通のアクションマンガとして読まざるを得ず、アニスの話はなんかもう絵的にも別ジャンル過ぎてハラハラした。パリヤさんは表情はいつも落ち着かないけど、嫁になるために一生懸命な姿は素晴らしい。
 作者が自分と同年代で、中央アジアの衣装フェチであることが作品の動機になっているというが親近感が沸く。中央アジアはこの作品の時代からだいぶ変わってしまい、それは作中でも影を落としている西洋文明、というかロシアとソ連のせいであり、今では石油・ガスが出る国と出ない国に二分された感がある。出る国(カザフスタントルクメニスタン)はオイルマネーで今のロシアの都市部ような殺伐とした景観を保っており(農村部とかはソ連の農村的な何か)、出ない国(ウズベキスタンキルギス)は貧しいまま、人々はロシアなどに出稼ぎにいってどうにか生きている。知り合いでキルギス人の嫁と結婚した日本人がいるが、嫁の村での結婚式は大層な見物だったそうな。この作品は19世紀のウズベキスタン辺り(ブハラとか)がモデルになっているそうだ。僕は中央アジアカザフスタンしか行ったことがなく、中央アジアで一番経済規模の大きなカザフスタンは上に述べたとおりの有様だったので(料理は確かにああいうのが出てきたけども)、もう少し南の方、サマルカンドとかブハラとかタシケントとかフェルガナとかをいつか旅行者としてみてみたいというのはある。昔、ウズベキスタンの国歌の詞を作ったという詩人が来日したときに話を聞いたことがあるが、かの国は中世のイスラム詩人アリシェル・ナヴォイの故郷であるとか古めかしい話ばかりしていて却って好感が持てた記憶がある。中世イスラム詩といえば、花や女や酒をテーマに、編み物のように脚韻やフレーズが反復されて絡まりあった典雅な様式で、まさにモスクの唐草模様や女性の衣装の文様のイメージである。といってもそれは素人外国人のオリエンタルな妄想であり、よく資料を研究している本作であっても果たして19世紀の一般人が日常的にあれほど美しい服を着ていたのか分からない気がするが(着ていたとしたらかなり裕福な人たちだったように思う)、そこは優しい幻想であってもいいのかな。嫁入りという出来事はいつの時代にあっても重要な人生の転換点だったし、とても美しい何かだったのだろうから、それを主題に据えただけで本作は正しさを手に入れている。結婚に至るまでを描いたモンゴメリの小説も昔たくさん読んだが、こうした話は何度繰り返してもその度に美しく、その意味では抽象的な美しい文様のパターンと同じなのかもしれない。
 森さんがわざわざ中央アジアに取材に行かれたというのは嬉しいことで、次巻以降にその成果を期待できるそうだ。僕も以前、有名なマンガ家(本人ではなく出版社の担当編集の方だが)のロシア取材に協力したことがあるが、ロシア編はいつ始まるのだろうか。ともあれ、現実を美しい幻想に作り変えられるのは羨ましいことで、ありがたいことだ。

山本弘『アイの物語』

アイの物語 (角川文庫)

アイの物語 (角川文庫)

 山本弘といえばソードワールド短編集の作家という認識。といっても、ソードワールド小説を読んでいたのは中学生から高校生くらいの頃だけで、当時はラノベを知っている人なんて周りにほぼいなかったし(一人友達でいたけど、僕と違って明るくてひょうきんなキャラの人だったのでとても共有しようなどという気にはならなかった。というか、当時の僕の性格では、ラノベの楽しさを誰かと共有することは不可能だったと思う)、フォーチュン・クエストロードス島戦記よりもさらにディープな感じのするソードワールドシリーズは、エロ本のように人から隠れて嗜まねばならないものだった。僕以外に世界で読んでいる人などいないような気がしていた。町の本屋さんとか、立川のフロム中武の大きな本屋とかでこっそり探していたあの頃が懐かしく思える。ソードワールド短編集は複数の作家が(妄想を共有して)書いているというそのシステムが当時の僕にはとても夢のあるシステムのように思えて、作品の出来には波があったけど、たいてい一作か二作はけっこう面白い話が入っていて満足したものだった。雑誌の原理と同じで、個別のコンテンツの単純な総和よりも全体の方が面白く見えるというやつだ。そして面白い一作か二作というのは山本弘の作品であることが多くて、自然にその名前を覚えていた。当時はネットなんてなかったからその名前を検索することなんてのもできず、短編集の目次を見て、あ、またいるな、と思うだけである。もう内容は忘れてしまったけど、――「ナイトウィンドの影」「マンドレイクの館」「スチャラカ冒険隊、南へ」「ヒーローになりたい!」「君を守りたい!」「愛を信じたい!」――ウィキペディアをみたら懐かしい作品名が並んでいた。後半3つのサーラの冒険シリーズは確か恋愛要素があるんじゃなかったけ?結構ドキドキした、というか性的興奮さえ覚えて何度も読み返していたかもしれない。絵もけっこうエッチだったはず。
 その後、ソードワールド小説を読まなくなって、自然と山本弘の名前も忘れた。と学会の人だったことも知らなかった。今回はブックオフでたまたま手にとって買ってしまった。
 というわけで、二十数年ぶりにこの人の小説を読んだ。さすがに衝撃的な斬新さは感じなかったけど、読みやすい文章で萌えるポイントをうまくとらえつつ、爽やかで夢のあるお話を語るのは、ソードワールドの頃と変わっていないように思えた。「ときめきの仮想空間」のジュブナイル感とか、ストレートすぎて無事に終わってくれるか心配になったくらいだ。「詩音が来た日」では、昔老人ホームでバイトしていたときのことを思い出した。終盤の章では、AIにとっては僕たちの現実こそが仮想現実であり、人間というキャラに幸せにするためのゲームであるという構図は元長的というかエロゲー的で小気味よく感じた。人間と理解することは出来ないけど許容することは出来る、そして自分たちなりに愛することも出来る、というのは、別にAIと人間の間だけの話ではなく、普通に人間同士でも起こっているようなことで、この「そして自分たちなりに愛することも出来る」の根拠の不安定さが見方によっては不穏でもあるのだけど(愛せない場合には、「許容」という言葉のニュアンスが寒々としたものになる可能性が高い)、この作者はそんな嫌らしいところをほじくらずに、主人公の少年を素直に納得させ、美しく話を締めるのである。明快だけど夢がある。それにしても、人類は衰退しましたでもあったけど、宇宙はもう有限の存在である人間には物理的に届かないものになってしまったというは寂しい。アイの世界ではどうやら人間のデジタル化とかできなかったみたいだし、見事に衰退していたし。あと人類の欠点、愚かさが単純化されていて、そんなにバカばっかじゃないような気もするけど、そんなところつついても仕方ないかな。高度なAIとアンドロイドの普及まで何とか生き延びたい。

どうにもならなそうなこと

 趣味の壁は三次元の壁と同じくらい高い。言葉で伝わること、説明して説得できることのさらに先に趣味の領域がある。
 以前に仕事でご一緒させていただいた関係で招待券をもらい、上坂すみれさんのライブに行ってきた。オタクイベントに行くのは2,3年前のかわしまりのさんのトークショー以来で、当然ながらライブは初めて。上坂すみれの歌やキャラクターについては2年前に苦しげな感想を書いた通りで、その後もまだ取っ掛かりをつかめずにいる(つかもうとしていない)。アニメ声優としもアイドルとしても成功していってるのは喜ばしいけれども。


 ライブの歌は、多分ありがちなことなのだろうけど、演奏の音量が大きすぎて声がよく聞こえなかったところが多くて残念だった。大半がアップテンポな曲なので声が荒れてしまうし、曲自体もいまいちなものが多いので、声を良く聞けたとしても楽しめたかどうかは分からないが。知っている曲では唯一の割と好きな曲である「テトリアシトリ」(作詞作曲・桃井はるこ)は、視覚的な演出も含めてけっこう丁寧に聞かせてくれたので嬉しかった。あとは何というかしょっぱい曲が多いのだが、上坂さんの前向きな性格とファンの人たちのエネルギーの勢いで乗り切った感じだ。サイリウムの統率感や野太い声の必死さはむしろ心地よく、「かがやきサイリューム」とかこんな感じなのだろう。けっこう危ういバランスだと思うが、ラジオとかでしゃべり慣れている声優だから、若さでごまかさなくても、音楽だけじゃなくてホスピタリティみたいなところで楽しませてくれるのがよい。いまいちであっても、なんかMCでしゃべるためのネタとかちゃんと考えているみたいで、そこは応援したくなる。あと、やっぱ整った美人なので踊り回っているのをただ見ているだけでもそれなりに絵になってしまう。三次元の壁がとか何とか言っても、アイドルが太ももや腋を惜しげもなくさらして動き回っているのには目を奪われてしまうおじさんである。上坂すみれの声は張りがあって弱くない、お姉さん声なので萌えるのが難しいのだが、それなのにひらひらの服を着てアイドルをやっているという論理が飲み込めず混乱するおじさんである。その若さ、美しさは涼しげで、意味が分からないけど(まだこれぞというはまり役を見たことがないからかもしれない)、分かろうとせずになんとなく視線を奪われて置けばよいのだろう。どうもありがとうございました。以上。
 徳が高いエロゲーマーであり、素晴らしいアジテーターであるtempelさんの素晴らしいエントリを読んでエロゲーをやりたくなり、挙げられたゲームの体験版をいくつかやってみたけど、自分でやってみるとあんまり面白くないんだよな。大図書館の羊飼いもそうだった。とても説得力のある感想なのに(特に僕がけっこうひどいことを書いてしまったCationシリーズに関する指摘には唸らされたし、女の子をチヤホヤできない男としては耳が痛いところもあった)実際にプレイしてみると合わないという趣味の壁。自分の許容幅が狭すぎて情けない。もっと楽しんだほうがいいよと人から言われることも多いのだが、趣味だからこそ無理して何かを受け入れたりはしなくてもいい。絵がきれいな星織ユメミライなら何とかなるかなと思って買いにいったけど、高かったので結局事前情報ゼロで美少女万華鏡というの選んできた。八宝備仁氏の絵は以前に能天気な抜きゲーをやったら失敗して苦手意識を持ってしまったかも知れず、このシリーズで楽しめるように慣れるかもと期待している。

言葉の上滑り

 描かれていることよりも描かれなかったこと(わざと黙っていたことではなく)が気になるときというのは、何か別のものを欲して無いものねだりをしているときであって、読み手としてはだめなときなのだけど、一期一会なのでたまには覚え書きくらいは残しておこう。
 これまで何度か名前を見かけて気になっていた長野まゆみの本を探しにブックオフに行ってきた。『上海少年』と『鉱石倶楽部』を買ってきたけど、これがこの作家の中でどういう位置にある作品なのかはよく分からない。『上海少年』は僕の目には、映像美に優れていて印象的なシーンはあるけれど、それは視覚的な美しさであって精神的な美しさは衰弱していて、退廃的なように映った。長野まゆみ宮澤賢治を愛読しているとのことで、確かに言葉遣いにはこだわりを感じる。でも宮澤賢治が持っていたような苛烈さがなく、世界に対して生産者ではなく消費者としてしか関われないように見えた。少年の同性愛という美学の儚さ、無意味さにもつながり、それが悲劇ではなく居直っていることの後ろめたさを感じる。『鉱石倶楽部』で石をひたすらスイーツに喩えているのは(スイーツ以外に幻想の風景に喩えていた場合もあったけど、スイーツが特に目に付いた)、バブル時代の軽薄さを感じるし、後書き部分で作者がそんな自分の頭の悪さを揶揄してみても開き直りに見えてしまう(ファンの方が不快な思いをされたら申し訳ないが、あくまで僕の個人的な感想なので)。でも僕が、こんなふうに形ある意味、結果を出すものにしか意義を認めないのは粗野で下品な根性なのかもしれない。僕自身デカダンスは好きなはずだけど、たぶんただのスノッブなので小市民の地が出てしまうのかもしれない。革命の理想に人生を捧げたデカブリストの話を読んだ後では、ことさらそうなのかもしれない。とはいえ、『鉱石倶楽部』はいさぎよく視覚的な美の表現に自らを限定していたので、まだ性質がよかったかもしれない。鉱物の美しさは単なる化学現象であって、精神的な美しさは人間が外部から読み込むものだ。だからたとえその外部の美を共有できなかったとしても、そこに美を求めようとする姿勢には共感できるという最低限の保険がある。
 あと、以前人に勧められていたウディ・アレンの『アニー・ホール』のDVDも見つけたので買ってきた。見てみたら、20歳くらいの頃に一度レンタルショップで借りてきたけど、初めの部分を見て寝落ちしてそのまま返却した映画だったことを思い出した。離婚どころか女性と付き合ったことすらなかった当時の自分には、まったく意味が分からないし不要な映画だったので、当時全部見なかったのは正解だった。今回は最後まで見た。コメディアンにもいろいろあるのだろうが、人の上に立って他人を笑い飛ばすインテリコメディアンは悲しい。人をおとしめて、自分もおとしめて、残るのは若かった自分たちに対する感傷だけである。ダウンタウンとかのお笑い文化も同じようなもので(ウディ・アレンダウンタウンと同じく楽屋裏物が得意らしい)、切れ味は鋭くても、俺もバカだけどお前もバカ、の世界では何も(生きては)残らないので好きになれない。それどころか、テレビで見ている者には感傷すらほとんど残らない。まあ、こんなふうにぐちぐちいうのは息苦しく凝り固まった人間なのだろう。言葉は裏切るから、賢い人は言葉をつぐむのだろうが、コメディアンは常にしゃべっていなければならず、言葉はインフレで重みを失い(ラブレーの笑いの増殖性とはまた違うが、アルビー自身、アニーに「多型倒錯的だね」と言ったけど自嘲的に響くしかなかった)、それを補うために更にしゃべる。それはユダヤ的な去勢感覚だなんて、ロシア系ユダヤ人のウディ・アレンは言われ慣れているのだろうな。そんな呪いのようなものであっても、騒々しくて疲れるばかりであっても、アニーの家族の健全なアメリカ的痴呆生活よりはずっと魅力的なのかもしれない。感傷が残るだけでも素晴らしいし、それは大切にしていいものだろう。でも本当の理想の生活は、その二択とは別の答えなのだろう。何だか笑えるけれど美しいものだ。アルビーはアニーの笑顔にそれを求めていたのかもしれない。アニーの方はどう思っていたのかは分からないが、アルビーが真剣に何かを求めて、一緒に夢を見ようとしていたことは伝わっていたのだろう。
 あと、ついでに新井素子の『もいちどあなたにあいたいな』も買ってきた。解説で大森望が絶賛していたので騙された気になって。正直なところ、そんなにたいしたお話じゃなかった。エロゲーでも十分ありそうな設定だ。大森氏の言うようにこれが新井素子の最高傑作のひとつなのだとしたら、実はあまりすごい作家じゃないのではという疑惑が。和の運命の孤独ばかりが強調されていて、それはそれで正しいことなのだろうけど、一番救われないのは陽湖(主人公の母)だと思う。まあ、それは野暮なつっこみだ。もいちどあなたにあいたいな、という言葉の響きはよく、さすが新井素子なのかもしれないが。
 ふと、久々にフォーチュン・クエストを読みたくなった。途中からパーティ内の恋愛話っぽい要素が強くなっていっていつしか読むのをやめてしまったが、中学の頃に読んだはじめの数冊、海洋冒険譚の「隠された海図」くらいまでは素晴らしく面白かった。たぶん、2005年に出た「キットンの決心」というやつまでは読んでいたと思う。あの世界に浸りたくなるというのは心が弱っている証拠だと思うのだが、まだ読んでいないのがたくさんあるというのはありがたいな。読むかは分からないけど。


上海少年 (集英社文庫)

上海少年 (集英社文庫)

鉱石倶楽部 (文春文庫)

鉱石倶楽部 (文春文庫)

もいちどあなたにあいたいな (新潮文庫)

もいちどあなたにあいたいな (新潮文庫)

Ю.Тынянов "Кюхля"


 いろいろと生活の方は息苦しくて面倒なのだが、悲劇作品を受け入れられるのだから精神状態は悪くないのだと思う。190年前のことを書いた80年前の小説、しかも1987年にノヴォシビルスクで出版された古本だけど、ずいぶんと近しく感じながら読んだ。特に最終章が恐ろしかった。キューヘリベッケルの頑固さ(僕も頑固だと言われることが多い)、高潔さ、コミカルな不器用さは生来のものであり、デカブリストの乱を経てもそれを貫いていけると期待していたけど、独房を出てシベリアでの流刑生活が始まると、生活という名の虚無にすり潰され、信念や理想を失った虚ろな人間になってしまう。恋人との再会の夢を忘れ、粗野で空っぽな女と温もりのない騒々しい所帯を持ち、親友たちに先立たれ、自らの文学作品に幻滅する。熱が失われていき、シベリアの寒さの中で人から物になって命が停止するような最後だ。展開としては『オブローモフ』に、あるいは『罪と罰』にも近くないともいえないが、ロマン主義と革命思想まっただなかの時代で、プーシキンやグリボエードフのような個性と過ごした青春のきらめきと苦さは、まったく別の苛烈さを持っている。こんな風に鬼気迫る小説になったのは、トゥイニャーノフにそういう同時代的な問題意識があったのだろう。人の流れ、兵士たちの流れをネヴァ川の街ペテルブルクを流れる血液に喩え、ひたすら橋と広場と通りの名前とうごめく群集ばかりでダイナミズムを描いたデカブリストの乱の章などは、十月革命を描くエイゼンシテインを彷彿とさせた。誰が誰に対応するというわけではないが、トゥイニャーノフが描いた『キューフリャ』、『ワジル・ムフタルの死』、『プーシキン』の3作は、シクロフスキー、エイヘンバウム、トゥイニャーノフというフォルマリスト三人衆の青春時代を感じさせるとか。『キューフリャ』を書いたとき(1925年)のトゥイニャーノフがまだ31歳だったというのは驚きだが、同時に納得もできる。『プーシキン』は以前に読んで、49歳で病死する直前まで書いていた未完の小説としての迫力があったが(プーシキンの『オネーギン』も未完だ)、『ワジル・ムフタルの死』は確か持ってなかった気がする。次はいつトゥイニャーノフの小説を読めるのやら。エロゲーでは不足してしまう悲劇成分は、たまに青春を描いたロシア文学を読んで補うのがいいのかもしれない。

乗松亨平『ロシアあるいは対立の亡霊』

ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン (講談社選書メチエ)

ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン (講談社選書メチエ)

 時折雑誌「現代思想」とかに掲載されていたロシアの批評家の文章も、ましてやНЛОとかЖурнальный залとか人文書の出版動向などは長いこと追いかけていないので、この本がどの程度の新しさやカバー領域の広さを持っているのか分からないけど、個人的にはついに出会ってしまったなあという感じがする。できれば避けたかったかもしれない。ペレーヴィンやソローキンやグロイスやカバコフの作品や著作は早くから翻訳が出ていたし、北大スラ研の人たちがかなり詳しく紹介していたので触れる機会はあったけど、どちらかといえば一回触れればいいやという感じだった。殺伐としすぎていたのだ。取り上げられている問題系はどれもロシアのインテリゲンツィヤの伝統的な問題系に回収されてしまいそうなものばかりで(他者、ユートピア、ロシアのアイデンティティetc)、新しい時代のための建設的な価値観やインスピレーションの予感はなかった。そういえば、恒例の投票をみていて「見上げてごらん、夜空の星を」という作品にちょっと興味が出たけど、宇宙といえばペレーヴィンのオモン・ラーをまだ読んでいなかった。星や宇宙の世界を本当に楽しむには、それを夢見たソ連・ロシアの怨念をどこかで一度くぐってみたいものだ。といっても今の自分なら、ロシアでも普通の娯楽っぽいSFを探したほうが楽しめるのかもしれない。そして、そういうのは日本語でも間に合ってしまいそうだ。
 新しいものがないのなら、若者よ、まずは過去に学べ。というわけで、ソ連・ロシアの「温かい」人文科学の伝統、ヴャチェスラフ・イワーノフがソ連記号論史として跡付けたような、人類学から脳科学に至るまでの学者たち(アファナーシエフ、フロレンスキー、フォルマリストたち、エイゼンシテインヴィゴツキーフレイデンベルグ、メレチンスキー、バフチン、ギンズブルグ、アヴェリンツェフ、リハチョフ、ガスパーロフ…)の著作に夢を見ようとした。本書で言うなら「文学中心主義」の世界なのかもしれないが、イデオロギーの「深読み」に回収されないきらめきがあるように思えた。そしてその中には、当然ながらロトマンやウスペンスキーを含む記号論者たちもいたけど、記号論は扱っている領域が広すぎるので後回しにしているうちに、何だか学術研究の進歩が遅く見えてきて、気の遠くなるような根気を必要とすることについていけなくなった。ロトマンは「詩的テクストの分析」で文学作品の秘密を暴くための鋭利なツールを紹介し、事実その後でたくさんの研究者が人海戦術で作品分析に当たったけど(ロトマン・ヤコブソン的な分析方法の学生向け教科書もけっこう見かけた)、それもてんでんばらばらな印象でいつまでたっても終わりは見えず、ロトマンのような一部の優れた研究者の名人芸の域を出るのはなかなか難しいように見えた。そうして、ソ連崩壊後には記号論自体も新たな価値観を生み出す力を失ってしまったのか、あるいは地味な学究的土方作業に埋もれていったのか、予算不足という現実にぶつかったのかわからないが、何だかどこへいったのか分からなくなってしまった。もちろん2000年代以降も素晴らしい名人芸的な著作は出たようだけど、まだ道半ばのものばかりだったと思う。
 つまり、ミーハーな僕は現代のロシアに勝手に失望し、自分にとっての新しい価値は得られないと思ってしまった。かつての人文科学の隆盛(?)を思えば、残ったのはエプシテインやおそロシアネタばかりというのは寂しい。それに現代文化は古典よりも、少なくとも外国人にはハイコンテクストすぎて難しく、クーリツィンがなんかいろいろやっているといっても関心は持てない。
 ロトマンの『セミオスフェーラ』(記号圏)は直接的に文学を論じたものではないので入りづらく、ヴェルナツキーのノオスフェーラやグミリョフのエトノスに関する本と一緒に、いつしか本棚で埃をかぶっている。そのロトマンを「深読み」で葬ってくれたのが今回の本だ。著者が断っている通り(開き直っている通り?)、この本では現代ロシアを語る言説がかなり狭い範囲に限定されていて、インテリゲンツィヤの繰言ばかりで生産性がないように見える。フィクションが後退して、平板だったり殺伐としていたりするノンフィクションばかりになって憂鬱だ。後ろ向きなテクスト、プーシキンやカラムジンの研究書を読んで無駄な知識を蓄えたり、グネージチ訳のイリアスやジュコフスキー訳のオデュッセイアを読んで古代ギリシャに現実逃避したり、クズミンやアフマートワの詩を読んでなんか想像界的なものに浸ったり、ゴーゴリの小説を読んで語り芸を楽しんでいたりするほうがましなような気がする。現実から逃げ切るためには、僕にはもう少し堅固な城が必要だ。
 本当に2000年代に入ってから、プーチンオイルマネーのおかげで、特記すべき新たなことは何もなかったのか。今回のような本は貝澤氏が書くのかと思っていたけど、乗松氏はもっと若い世代だ。現代日本にも目を配りつつ、しつこく書いてくれたのはありがたかった。他にもロシアの現代思想を追いかけている人は2〜3人くらいはいるらしい。そのうち何かもっと前向きな本は出るだろうか。ロシアは本当に天才を生まない普通の国になってしまったのか、自分で確かめなければダメってことなのかもしれないな。最近エイヘンバウムの「不死へのルート」を読んだ。19世紀半ば、あまり才能に恵まれなかったがバイタリティのある変人がたくさん現れて、はた迷惑な創作活動に勤しんだという。そんな偏執狂の一人に光をあてた伝記小説だ。変人だから天才に近いということはないけど、現代のロシアにも本当はもっといろんな人がいるんだと思う。