世界と世界の真ん中で (55)

 立ち絵がとてもきれいで大きい。近さは普通なのかもしれないが、布地をたくさん使った服やリボン、ボリュームのある髪などで大きく見える。みんな髪が長く、ポーズもきれいだったり可愛かったりして目に優しい。咲き誇っている花を見るような感覚がある。立ち絵鑑賞モードがあるのも正しいことだ。
 萌木原さんが描くヒロインたちの目は、以前にいつ空をやったときにはあまり感じなかったけど、瞳孔と虹彩があまりはっきり色分けされていなくて、ぼんやりと膜がかかったように見える。瞳の色合いが赤紫だったり青だったりして宝石みたいで、それも何だか夕闇や夜の空を感じさせ、ふたを開けてみたら静かで幻想的なお話だった作品の世界に似つかわしいように思える。
 他方で、一枚絵の方は立ち絵の完成度の高さに比べるとばらつきがあって、崩れたものや印象の弱いものも多かった。エロい絵よりも可愛い絵を描くのが好きな絵師さんなのだろうなと思う。
 作品の第一印象はかなり悪かった:

 クソゲーの文学性。
 「クソゲー」というのは必ずしも悪い意味ではなく、ある種の美点を持つアニメを「クソアニメ」と呼ぶ程度にはいい意味のつもりだが、うまい言葉が見つからなかったのでひとまず。
 「世界と世界の真ん中で」を始めたのだが、何というか、社会主義リアリズム文学を連想させるところがある。学生寮エルデシュはどこかの田舎のコルホーズかライコム(地区委員会)で、寮生である優等生ヒロインに「連理君はエルデシュの精神的支柱」と評された主人公は、そこで頼りにされている議長だ。村民は誰もが幸せで、美しい……。連理という主人公の名前も、連理の枝とかの連理じゃなくて、本当は「レーニンのことわり」とか「連邦のことわり」いうような由来で、意識の高い市民であることを示しているんじゃないのか。
 料理や家事が得意でヒロインたちに褒められる系の主人公が、ヒロインたちや親友役男キャラやヒロインたちの仲良しグループで「連理君らしいわね」とか「どうしたの?あのとき、連理君らしくなかったから」とかちやほやされながら(社会主義リアリズム文学における「ディシプリン」や「イニシアチブ」があると評される肯定的主人公)、あるいはヒロインが喜ぶのを見て「よかったな」(イリイチもきっと同意しただろうよ)とか声をかけてやったりしながら、あるいは元気のないヒロインを見て「俺にできることといったら、美味しい料理を作ってやることくらいだ」(労働は裏切らない)とかつぶやきながら料理や家事をする描写や誰が何を作るかとか食べることの話題ばかりが延々と続く序盤の日常パート、イケメン家政夫による介護施設での労働的なパートの文章のつまらなさが苦行レベルなのだが(無意味に爽やかな高原の別荘風――共産主義ユートピア…――の学生寮だったりして倫理的な意味での居心地も悪い)、この作品を手にした主な動機のひとつである絵の美麗さに助けられた。
 音声が流れているときはメッセージを消すという設定があって、それを使うとヒロインたちの表情や姿勢の変化をぼんやり眺めることに集中できる。特にヒロイン同士が会話しているときは地の文が少ないので、たとえそれがまったくどうでもいい言葉の応酬であっても、あるいはむしろ非効率極まりない冗長性の塊りであるからこそ、そしてエロゲー文法の魔法によりなぜかヒロインの立ち絵はいつもこちらを見ているので、それを浸す善意の空気にぼんやりと包まれながら、思考停止の境地に遊ぶことができる。正確には、ヒロインたちの他愛のない間の抜けたやりとりはセクハラ的なつっこみを入れる余地だらけの無防備なものなので(ニコニコ動画で大量にコメントがつく萌えアニメのタイプで、例えば、BGMが変わると曲名がその都度右上に出てくるのだが、穏やかないい雰囲気のシーンになって「黄金の円光」と出るといちいち馬鹿馬鹿しく釣られて、あぁ、となる)、思考停止というわけではないのだが、日本語の読み物としての面白さや倫理性の問題から遠く離れた境地に至れることは確かだ。主人公の提灯持ちみたいなうざい親友キャラはすぐさま音声を切ったが、立ち絵も非表示にできたらもっと快適性が増しただろう。こういう楽しみ方をするなら主人公はノイズでしかないので、なるべく主張せずしゃべらない、人格というよりは一つの機能に退化(進化か)させるのが望ましい気がする。それを推し進めて主人公を消したのが萌え4コマであり、エロゲーではシステム上そこまで至るのは難しいのだろうけど、この作品のようにヒロインの絵が美麗で声も可愛ければ、高度に空虚な癒し作品として十分に比肩できる。

 ちなみに、「人格というよりは一つの機能」としての主人公は、個別ルートに入ったらそのままの設定であることが判明してちょっと驚いたが、そう考えると主人公は人間になることで不快感が増して退化したと言えるかな……。
 この後、最初に愛良ルートに進んだ。ストーリーの展開はどれも似たようだったけど愛良ルートが一番面白く感じたのは、最初にやったからかもしれない。面白かったといっても文章に引き込まれたとかそういうことではなく、ルート後半以降で歌声が超常的な効果を示したり、聖女とあがめられたりと話がめまぐるしく展開するのも淡々と静かに進められ、町の広場でいきなり歌いだすと周りの人々が静かに聴き入って明るい光がさして秘蹟が行われる、その全てを悟ったかのような流れにスピリチュアル文学や聖者伝のような奇妙な静謐さを感じられたからだった。共通ルートのいびつな箱庭感がいつの間にか、見方によってはサイコホラーと言えなくもない静かな喜びへと変わっていた。説明に言葉を尽くしたりしない謙虚さが好ましく思えた。
 あと、エッチシーンはこの作品はヒロインが吼えたりせず声を押し殺して喘ぐので全体的によかったけど、なかでも元々口下手な愛良は特によかった。何というか、でかい一物を突っ込んで乱暴に動かしてぶちまけて終わりというのではなく、壊れやすい女の子をその女の子の視点まで降りてきて気持ちよくさせているという感じがあった。
 ただし、エッチシーン以外では、悪い意味で女の子視点になりすぎていると感じることも多々あった。愛良ルートで言えば、愛良に結婚式のドレスのような衣装をいきなりプレゼントして、寮でおしゃれな高級レストランを訪れたカップル風の食事デートをやって(あまつさえそのドレスでエッチにまで及び)ヒロインを喜ばせるというのは、できるイケメンを誇示するシーンなのかもしれないが、プレイヤーとしては個人的に実にくだらないサプライズだと感じてしまった。トレンディドラマ風というか、まあ今でもこういうカップル席で夜景を見ながらディナーみたいなデートは割と標準的なのだろうが、ともかく(三次元)女性視点の幸せを描いているように思えてしまった。つまり愛良も三次元女性っぽく感じてしまう。同様の「女の子が夢見るイケメンを演じさせられている感」は、美紀ルートのデートイベントでも感じられた。女性が喜ぶなら男性はそれで幸せになれるのかもしれないが、やっぱりフィクションの中でくらいは男も我慢せずに同じもので喜びたいよなあというのはある。ライターが女性なのかどうかは知らないが、変なところで現実を思い出させないでほしい。上記の第一印象のところでも書いたけど、主人公はヒロインのことを除くと料理、買い物、掃除、洗濯のことくらいにしか生きる意味を見出していないようなところがあって、生活においてこの辺のルーチンの優先順位が一番低くなっている非モテ人間としてはつらい。しかし、デートをするといって湖に散歩に行って、そのまま木陰でことに及んでしまう(しかも他にはほとんど何もしない)愛良の二次元的な無防備さは賞賛したい。
 ついでにもう一つのノイズについて。中(あたる)という主人公の友人ポジションの男キャラがいて、これが設定的には結構意味のあるサブキャラであることが後ほど判明するのだけど、日常シーンでは何かある度にハーレムの主である主人公に気配りを見せる非常にうざいキャラで参った。男キャラに恋の相談をして、そういうのもいいと思うよ、せっかくだから、この恋を機に生まれ変わってみるべきだよといわれる気持ち悪さ。ショッピングは女子だけでやるといって主人公と男キャラはいったん外されるけど、その後主人公はなぜかオーケーされて、「やったね、連理♪」と嬉しそうな男キャラ。あるいは僕の感覚が平均的なエロゲーマーとはずれているのかもしれないが、こんな気味の悪い男キャラを気に入るようなプレイヤーはいるのだろうか。なぜわざわざ気持ち悪い言動を取らせるのか分からない(設定的には主人公の守護霊みたいな存在ということだが、それならもっと別の性格、というか女キャラにしてもよかったと思う)。そもそもエロゲーで男の友人キャラをきちんと描いて成功するケースなんて多分ほとんどないので(物語の本質にあまり関係ないキャラか、あるいはエキセントリックなキャラや人生の先輩のようなキャラばかりで、僕の知る例外は『最果てのイマ』の男共くらいだ)、あまりむきになっても仕方ないことだが。
 愛良の他のシナリオについては特に書くべきこともないので手短に。
 美紀ルートは、会長との三角関係で会長の魅力が一切描かれていなかったので感情移入できず、二人の美紀の話もどこか他人事になってしまった。また、このルートは耳に優しくない稚拙な日本語で書かれていて、例えば「みのり」と「美紀」の連呼に悪酔いしそうになった。しかしラストシーンのクラスメイトたちとのハイタッチは不気味な調和に満ちていて、意図せずして(?)よい電波を出していたと思う。
 小々路ルートは、最後の不条理な終わり方に不満が残った。そこはご都合主義的に病気が治るか、あるいは治らなくて終わってほしかった。もっと前のシーン、特に病院を抜け出して牧場へ行き、でもお金を持ってなくてアイスクリーム屋を眺めるだけというのはとてもよかったのに。結局苦しんだ母親は放置して、恋人たちは天球儀の世界で末永く幸せに暮らしましたというのは不気味すぎる。小々路ちゃんはあんなに可愛いのに、可愛い顔をしてなかなか思い切りがよい。そういえば、天体観測をしに牧場に行ったのに観測そっちのけでエッチしかしなかったし、「お兄ちゃんの赤ちゃんがほしい」と直球で言える娘なのだった。もちろん、彼女だって苦しんだし、だからこそそもそも天球儀の世界にやってきたのだろうけど、終盤の展開の中でそこを描かないところにこの作品の奇妙な空白、もしくは迫力があるのかもしれない。
 遥ルートは、マリポ先輩を好演し、らぶおぶやノラととで元気なロリキャラを気持ちよく演じていた卯衣さんに期待していたけど、この作品のおっとりキャラはこの人の声にはあまり合わないようだとの結論に至った。菜緒もそうだけど、元気で早口なロリ声なのに無理やりゆっくりしゃべっているように感じられて不自然だった。残念ながら、エッチシーンも遥っぽいというよりは、ところどころ淫乱お姉さんキャラみたいな発声になってしまい不自然だった。お話自体は猫撫ディストーションのギズモを思い出させるもので、それだけでも何だか嬉しかった。しかし理系要素は完全に上っ面だけで残念だった。遥はエルデシュというハーレムの中で唯一、主人公にはじめからべったりではなかったのもよかった。この共産主義ユートピアでは、成員が互いを監視しあっており、ミクロな観察ややり取りが絶えず行われていて、どんなことが連理らしくてどんなことが連理らしくないかが最も重要な関心事になっている。そんな気遣いと察しの文化に息が詰まりそうになったとき、主人公など気にせずにボリボリとスナック菓子を食べながら、星や数式に夢中になっている遥が癒しになる。ただし遥ルートには他のルートのようないびつさはほとんど感じられず、「距離」や「好きという解」をめぐる不器用で臭い言葉のやり取りくらいしかなかったので、どちらかというと平凡なお話の印象だった。
 冒頭に書いたとおり、グラフィックに惹かれて事前情報なしに手に取った作品だったので、あまり評価が高くないことを後から知ってちょっと残念に思ったが、それでも何かしら楽しめた。まあ、女の子が可愛いということを思い出せば大抵の作品は何とかなっちゃうんだけども。

この大空に、翼を広げて (65)

 空とか星を作品名に入れた爽やかそうなゲームが増えたなあと好ましく思いつつも、いまいちな感じのものばかりで見送っていたけど、先日安かったのでつい買ってしまったのがこれ。結論から言うと、パッケージから受ける爽やかな印象以上のすごさはなく、子供向けの小説みたいに健全すぎ、風呂敷をたたみすぎ、きれいに収めすぎで軽かった。ソアリングというものを知らなかったので、エンジンを使わずにただ風に乗って空に浮かぶということの魅力には十分引き込まれた。ソアリングは、空を飛ぶことが気持ちいいだけでなく、それを見ている者(キャラクターもプレイヤーも)も何らかの思いを抱きながら爽やかな気持ちになることができ、おいしいモチーフといえるだろう。それに音楽と背景画でいくらでもきれいに見せることができ、実際にこの点では(やや淡白ではあったけど)がんばっていたと思う。モーニンググローリーの上の金色の夜明けの空は、分かっていても壮大で美しい。ただし、文章が読みやすすぎ・主張しなさすぎで、退屈といえば退屈だった。青と白を基調にした大空、風、飛行機、風車、車椅子の美少女というイメージは爽やかなんだけどあざとすぎるので、何かまったく予想外のお話であればよかったのだけど、割とありがちな物語だった(浮かれては落ち込む亜紗のくだりはけっこうよかったが)。立ち絵が全体的に薄味だったのと同様だ。
 そんな中で個人的に救いになっていたのが、小鳥のキャラクターだ。こんなところにいたのか、アン・シャーリー!といわざるを得ない女の子だ。個別ルートに入るまで意識してみていなかったので気づかなかったが、まさにモンゴメリの小説から抜き出してきたまんまのような文章があってcomrade感が高まった:

「……ふむ、私はきっとリア充ね。 そう言って、ぶすり、と大きなイチゴにフォークを突き立てた」 「私って美少女だし……勉強もスポーツもできるから、もし足がこんな風になってなかったら、謙虚な気持ちで生きられなかったと思うの。碧くんは知らないでしょうけど、私って結構図に乗りやすい性格なのよ」 「こないだ、この自転車に乗ってる碧くん、初めてみたけど……超カッコよかった! シビレるくらい。私の王子様って感じ。あんまりカッコイイから、こないだなんて夢に見ちゃったくらいよ。……うー、こんなカッコイイ男の子が私の彼しだなんて、まだ信じられないわ。何かの手違いじゃないかしら」

 大仰な減らず口をたたく夢見る少女だ。アンは赤毛であることがコンプレックスだったけど、小鳥は足の障害がコンプレックス(というと不正確かもしれないが)で、アンが何かと鼻の形がよいことを自慢するように、小鳥は自称美少女、あるいは「くーるびゅーちー」である。こういう子がいると退屈しないし、場が明るくなる。いつまでもさえずっていて欲しい。
 星咲イリアさんのヒロインは僕にとっては実質的に初めてで(月に寄りそう乙女の作法の瑞穂お嬢様は色物的な設定のヒロインで、星咲ボイスの魅力が十分に活かされていなかったのでノーカウント)、とても美少女感のある声なので前から気になっていたのだけど、残念ながら気になる作品には出ておらず、今回の購入動機のひとつだった。いやあ、これが小鳥にぴったりだったんだよなあ。(残念ながら引退してしまった)高槻つばささん系といえるだろうか、高めの爽やかな声で、いわゆる「鈴の鳴るような声」というときに僕が想像する声に近い。この声で上記のような愉快なおしゃべりをしてくれるのだから、それだけで恩寵ともいえる。しかもエッチシーンもあるんだもんなあ(欲をいえば、胸は仕方ないにしても、もう少しむっちりしていてほしかった)。こんな女の子と空を飛べれば、複座式のコクピットだってあざとくないし、一緒に喜べるし、着陸後も「体が揺れているように感じるの。まだ空の上にいるみたい」と言われて僕もなんだか体が揺れているように感じられてくる。というわけで、文句を言いつつもFDもやらざるを得ない。


『この大空に、翼をひろげて』たった一つの青春がここに―

ノラと皇女と野良猫ハート (75)

 ヒロインの個別感想で書きそびれたので一言。おっぱい大きかったです。これだけ揃いも揃って大きいとおっぱいの安売りのように感じても仕方ないですが、とにかく景気がよかった。豊穣感があった。おっぱいは魔法だな。


夕莉シャチ
 「ノラさん」と呼びかける声がいつもとても優しくて、この娘は本当に丁寧に言葉を発しているなというのがわかる。基本的に取り乱すところがないよくできた娘さんだけども、機嫌がいいときはそれが自然と分かるような、嬉しいときには頬が上気して目も喜んでいるような表情豊かなところがとてもよい。いつも落ち着いているかのようでいて、何気に立ち絵が傾いていたり、肩が力み気味の絵があったり、ちょこんと結んだ尻尾みたいな髪束が元気そうだったりと、実は言葉に劣らず身振りで語る娘のようである。主人公と結ばれた後も、淡々とじゃんけんで勝ったらキスをするゲームを何度もやり、しまいには勝つことが予測できたので先にキスしてしまいましたとおっしゃる。ロボットの話が出てきたけど、ある意味で抑制が効いているからこそ一番表情が豊かというか、表情がしゃべる娘だったように思う。陥没乳首もそれを象徴している。こんな娘が獲ってきた海の幸で作った食事、さぞかしうまいだろうな。ノラが塾を続けてシャチが料理本を出してと、とても牧歌的な終わり方で気が遠くなる。


明日原ユウキ
 あだ名が「ビッチ」で、すごく申し訳なさそうな目が印象的な娘である。あとつっこみが愉快な明るい娘である。ギャルを演じつつも、主人公に告白されたら笑って断り、私と付き合ったっていいことないんすよ。往生際悪く告白を続ける主人公はかっこ悪いが、一度手にした幸せは決して離しはしまいとする必死さが印象的だった。


黒木未知
 黒髪ロングの優等生キャラなのに、性格にもストーリー展開にも安定感がなくて面白かった。優等生であることは彼女の本質なのではなく、不安定な生き方の中でかろうじてバランスを取るための分かりやすい浮き袋のようなものなのだと思う。主人公と結ばれてからのわがまま、甘え、周囲との衝突は、彼女がこれまで押し殺してきたものの噴出であり、彼女はこれから第2の成長を始める。彼女は効率悪く動き回って、振り回されて、理不尽な目にあってばかり(冥界にまで飛ばされる)。なぜ彼女ばかりがこんな損な役回りになるのか分からないが、そこはもう諦めて受け入れ、むしろ彼女とのドタバタし、一喜一憂できる若さを幸せと感じたほうが有意義なのだろう。大声の告白は絶唱だった。世の中にはスマートに生きられない人ってのもいるのだ。


パトリシア・オブ・エンド
 この作品の中心を成す物語のはずなんだけど、冥界の皇女とか、地上に死をもたらしにやってきたとか、設定がいかにも茶番で安っぽいドタバタコメディにしかならない題材である。実際にドタバタコメディなんだけど、パトリシアがいい娘すぎて引き込まれる。本や辞書を読んで勉強するのが好きな謙虚な女の子で、夢見がちな優しくて力のない声をしている(小鳥居夕花さん……こころリスタのアルファの声の人だ)。一人ぼっちの幸の薄そうな声なのだけど、地上では小さな喜びや驚きをたくさん見つけて楽しそうで何よりだ。話を聞くに、冥界はきっと暗くて不便で殺伐としたところなのだろうけど(そして魔法の呪文は何だかリズム感がおかしい変な言葉の羅列である)、そこでも日々をけなげに魔道書を読んだりしながら過ごしていたのだろう。
 そこら辺のアンバランスさは他にも、例えば、パトリシアのテーマ曲ともいえるBGM「月」とそのボーカル曲の使い方にも感じられた。戦前のレコードを思わせるようなレトロな感じの優しい曲で、深刻な場面や緊迫した場面で流れる。物語に対する優しいまなざしとしては音声付のナレーターが設定されていたけどちょっとくどかったのに比べると、このBGMは見事だった。
 印象的だったのは、シナリオ後半の展開だ。主人公を家族に認めてもらおうとして、妹二人がパトリシアに説得されて順番に攻略される展開になるのだが、パトリシアの一途さ、純真さがかえって強く感じられて何だか温かい気持ちに包まれてしまう。賢者になった主人公を元に戻すときに身体を張るのだが、これも一途ないい娘だなあという感想になってしまう。母親を説得するときも、敢えて魔法には頼らず、言葉を尽くす。母親も強引にことを進めることもありながらも、結局は娘の言葉をきちんと聞こうとする我慢強さがある。娘のデートに(魔界の玉座に座ったまま)大人しくついてきたり、食事をその場では食べなくても、冥界に持って帰ったりする。「自由奔放な私の娘。自由なのは構いません。しかしこのままでは地上は滅び、冥界すら滅びを迎えることだけを伝え、私は、私の世界へ帰りましょう。」 この間の地味で着実な展開がパトリシアの性格を表しているように感じた。
 結局ノラの心臓はパトリシアの心臓と引き換えに止まり、ノラは猫になってしまうわけだけど、別れるときにパトリシアが叫ぶ滅びの魔法――「月」の歌詞で、その優しい歌自体もBGMで流れる――が意味不明で、いやきちんと考えれば意味が分かるのかもしれないが、パトリシアが必死に泣きながら叫ぶと、何だか意味を超えた気持ちが乗せられているように感じてしまう。


「夢つむぐ はなびら 見上げれば 月 / 雨音に はなびら ガラスには 雪 踏みしめて 見上げた 真夜中の声 / 風に吹かれ 水際を呼んだ おいでおいでと 遊ぼうと また明日と はじめて出会った 光 / とくん とくん 生れ落ちゆく 空を破り聞こえた音 言葉はもうなく 足あと 消えても / 白い砂 すくって 音は静か / 響いて 今 歌声のない 世界には別れを 告げ さあ踏み出すの この命胸に秘め / 白い砂 すくって 音は静か / 夢つむぐ はなびら また会えるかな」


 ……こうやって連に分けて書き出してみて冷静に読むと、パトリシアがノラと会ってから別れるまでのことを歌ったものだと分かるのだけど、これはパトリシアが恋とか愛とか知らないまま冥界で覚えた魔法で、この最後で泣きながら唱えるというのは何とも悲しい。そしてノラはこれを滅びの魔法ではなく、ただの日々の挨拶だと読み替える(はとシナリオ特有の強引な読み替え)。ノラの死も茶番にしてコメディの出来上がりである。
 残念ながら僕は体験しなかったが、エロゲーの名場面としてWindという作品の「問い詰め」がある。「ノラと皇女と野良猫ハート」では、問い詰めではないけど、パトリシアが魔道書の長い告白やこの「月」を力いっぱい叫ぶ場面があって(未知も似たような告白をする)、声優さんの熱演もあってとてもきれいである。そもそも僕は普通に生活していると大声を出したり出されたりするような場面はほとんどない。あったとしても不愉快な場合である。らぶおぶでもあったけど、重要な場面ではせりふが詩のようになってヒロインが神懸かりみたいになる現象は本当に素晴らしい。ストレスフルな問い詰めよりも、こんなふうにパトリシアの細い声で愛の言葉を大声でぶつけられたい。

「凪のあすから」の話

 最近、偶然なのかもしれないけど「ブルー・フィールド」(蒼き鋼のアルペジオED)とか「a-gain」(蒼の彼方のフォーリズムED)とか、青い色とか空を連想させる歌を買って聴いている(「愛の詩」(学戦都市アスタリスクED)もよい。ついでにナディアのDVDも見返した)。やっぱ歌に関してはエロゲーよりアニメの方がよいものが多い気がする。映像とセットで印象付けられるからかもしれない。このままではplanetarianのEDとこの美術部には問題があるのEDも油断すると買ってしまう気がする。
 この辺の歌とかエロゲーで糖分を摂り過ぎたせいか、久々に「凪のあすから」を見たくなって、美海まとめ動画とかを見たり、主題歌(特に「アクアテラリウム」と「ebb and flow」がよい)を買って聴いたりしていたら一日が終わってた。以前に書いた感想と同じような話になるけど、主題歌の歌詞に「温かい水に泳ぐデトリタス/長い時間をかけて糸を紡ぎながら繭になる」とあるように、デトリタス(海中を浮遊する微小な有機物の死骸)が海中だけでなく地上の漁村をも漂うようなひんやりと寂れた背景と、美海たちの抱え込み堆積した気持ちの組み合わせに打ちのめされる。
 脚本家のスタイルということもあるのかもしれないが、アニメではこういう満たされない思いを抱えた若者の群像劇というジャンルがあって、男キャラの顔や語りを見せられてもこちらの目や耳は喜ばないのだけど、そいつらがいなくてはヒロインたちが輝かないという意味では、僕たちもその満たされない思いの連鎖(チェーホフ劇的な連鎖)にいびつな形で巻き込まれてしまっていて、視聴者→ヒロインたち→男キャラたち→他のヒロインたち→他の男キャラたち……作品枠の有限性という外的要因による終わり、という経済の一端を担ってしまう。
 こういう欲望の(年齢制限を含む)閉鎖的循環を解放するために要請されたメカニズムが、ヒロインとの矢印を可能な限り双方向にしてひたすら物量で攻めるエロゲーであって、エロゲーはアニメの次世代のはずなのだが、解放するばかりがいいってわけじゃないんだよなあと思わせる作品もある。こちらの気分に左右される部分も少なからずあるのだろうが、作品自体が研ぎ澄まされていれば、はまると一気に引き込まれる。せめて輸入版DVDくらいは買うべきなんじゃないかと考え込んでしまったが、とりあえず主題歌を何度も聴きつつまた時間が過ぎてゆく。いや、さゆと要の話とか、光をめぐる三角関係の話とかまだあってもいい気はするんだけど(一番好みのちさきは申し訳ないがエロい想像しかできず、何だか嬉しくない)、多分出てもそれはそれでまた満たされない気持ちが残るのだろうから、もうどうしたらいいか分からない。いい加減こんなことをブログに書くような歳じゃないんだけど、ここはそのためのスペースだと開き直りつつ敢えて書いておく。これからも書いていく。それにしても今でも後半のOPを見ると引き込まれる。そのことを確認して終わっとこう。

石川博品『メロディ・リリック・アイドル・マジック』

 アイドルについてのガチな小説なので、そのシステムにアレルギーを持つ自分にとっては一筋縄ではいかない代物だ。確かに文章は素晴らしいんだけど、アイドルっていうのがなあという。例えば、『Key the metall idol』という渋いアニメがあって、そこではロボットや民俗学の概念を借りてアイドルという概念が補強されているので安定感があるのだけど、このメロリリはもっと剥き出しのアイドル観を押し出してくる。アイドルたるもの、アーティストぶるな、それじゃ見るほうが気を遣うわ、という。つまり歌や踊りにプロフェッショナリズムは要らない。もちろん、一生懸命練習して努力はするけど、一番大事なのはそこじゃないという。また、アイドルは何かの手続きを経て選ばれてなるものでも、ファンの数とか曲の数とか所属組織とかはっきりした指標があるものでもなく、本人がアイドルになると決めた瞬間に出現するものだという。つまり、とても儚い仮設建設のようなものであり、持ち運びできる機材を組み立てて会場を作り、ファンが一時的に集まってきてよく聞こえなかったりよく見えなかったりしながらもなんか盛り上がって、ひと時出現する疑わしい魔法のようなものなのだ。作中ではLEDというAKBをもじったグループが変な衣装を着て媚を売る大手として目の敵にされているけど、傍から見れば沖津区の若者たちも同族に見える。素人感がさらに増しているので、あざとさも増し増しと言えないこともない。
 確かにライブのシーンの臨場感は素晴らしい。剥き出しのアイドル観、技術のない素人が作り素人が歌うステージ、(嫌な言葉だけど)人間力で魅せるステージというものは、芸術や歴史や超常的なものがなければ物事に価値を見出しにくい、人間不信気味の自分にとっては胡散臭いものだけど、ここではアコにある種の天才性が付与された描写がなされている。それは単に主人公が彼女に恋をしているからというだけのことかもしれず、また、実際のコンサート会場の客には知ることのできないステージの裏や歌手の心理といった細部を描ける小説という形式の狡さであり、また優しさなのだろう。
 同じステージ音楽の魅力を描いた作品としてキラ☆キラがある。こちらは初心者グループの成長物語という点ではメロリリよりも本格的で、悪く言えばメロリリのキャラ配置やストーリーの流れはキラ☆キラの縮小版のようにも見える。そしてきらりの天才性の表現は割りと中途半端で(エロゲーだと実際に音楽が鳴るので、ライターにはコントロールできない部分があるので仕方ない)、作品の主題もそれとは別のところにあった。メロリリでは、アイドルというシステムに乗せて青春を描くという主軸とは別に、ヒロインの「内面」(悩み)に迫る描写が多かったのは石川博品作品にしてはベタだなと思った(その悩みにしても、割とよくありそうな感じでのものでやや拍子抜けだった。というか、後半はストーリーの展開を詰め込みすぎた気もする)。同系の作品としてヴァンパイア・サマータイムトラフィック・キングダム、ノースサウスのような作品はあるけど、これらはどちらかというと実験作だと思っていて、石川作品の魅力が発揮されている本流は、ネルリや後宮楽園球場や平家さんのような、女の子を不思議な魅力に溢れた存在として描く作品だと思っている。女の子しか出ない四人制姉妹百合者帳でさえも(それとも女の子しか出ないからむしろ当然なのか)こちら側なのだから、石川センセの童貞力は筋金入りだと思うのです。
 その意味でアーシャの方はまだ「見られる」キャラクターとして描かれて部分が大きいので、もし続刊があるのならそのまま素敵な奇人路線を突き進んで欲しい。最後にチラ見せしたアコとの妖しげな友情路線もよい。この巻だけで判断すると、アコの陰に隠れてあまり分からなかったのが残念だ。インド(?)舞踊のような不思議な踊りも文章ではよく分からないし。
 僕にとっては石川作品で一番ハードルが高い作品だったけど、アーシャやアコの掛け合いや心の中の突っ込みが愉快な方向に転がっていって飽きさせず、下手に深刻ぶらない、というか深刻さを乗り越える軽やかさがあってよかった。この軽さは若さの特権であり、無からきらめく何かを作り出すアイドルという幻影のシステムに、明るさを与えてくれていて素晴らしかった。本物のアイドルやアイドル育成ゲームは相変わらず痛ましくて好きになれないけど、石川作品ならアイドルのきれいな部分を存分に見ることができるのだから。

クソゲーの文学性

 「クソゲー」というのは必ずしも悪い意味ではなく、ある種の美点を持つアニメを「クソアニメ」と呼ぶ程度にはいい意味のつもりだが、うまい言葉が見つからなかったのでひとまず。
 「世界と世界の真ん中で」を始めたのだが、何というか、社会主義リアリズム文学を連想させるところがある。学生寮エルデシュはどこかの田舎のコルホーズかライコム(地区委員会)で、寮生である優等生ヒロインに「連理君はエルデシュの精神的支柱」と評された主人公は、そこで頼りにされている議長だ。村民は誰もが幸せで、美しい……。連理という主人公の名前も、連理の枝とかの連理じゃなくて、本当は「レーニンのことわり」とか「連邦のことわり」いうような由来で、意識の高い市民であることを示しているんじゃないのか。
 料理や家事が得意でヒロインたちに褒められる系の主人公が、ヒロインたちや親友役男キャラやヒロインたちの仲良しグループで「連理君らしいわね」とか「どうしたの?あのとき、連理君らしくなかったから」とかちやほやされながら(社会主義リアリズム文学における「ディシプリン」や「イニシアチブ」があると評される肯定的主人公)、あるいはヒロインが喜ぶのを見て「よかったな」(イリイチもきっと同意しただろうよ)とか声をかけてやったりしながら、あるいは元気のないヒロインを見て「俺にできることといったら、美味しい料理を作ってやることくらいだ」(労働は裏切らない)とかつぶやきながら料理や家事をする描写や誰が何を作るかとか食べることの話題ばかりが延々と続く序盤の日常パート、イケメン家政夫による介護施設での労働的なパートの文章のつまらなさが苦行レベルなのだが(無意味に爽やかな高原の別荘風――共産主義ユートピア…――の学生寮だったりして倫理的な意味での居心地も悪い)、この作品を手にした主な動機のひとつである絵の美麗さに助けられた。
 音声が流れているときはメッセージを消すという設定があって、それを使うとヒロインたちの表情や姿勢の変化をぼんやり眺めることに集中できる。特にヒロイン同士が会話しているときは地の文が少ないので、たとえそれがまったくどうでもいい言葉の応酬であっても、あるいはむしろ非効率極まりない冗長性の塊りであるからこそ、そしてエロゲー文法の魔法によりなぜかヒロインの立ち絵はいつもこちらを見ているので、それを浸す善意の空気にぼんやりと包まれながら、思考停止の境地に遊ぶことができる。正確には、ヒロインたちの他愛のない間の抜けたやりとりはセクハラ的なつっこみを入れる余地だらけの無防備なものなので(ニコニコ動画で大量にコメントがつく萌えアニメのタイプで、例えば、BGMが変わると曲名がその都度右上に出てくるのだが、穏やかないい雰囲気のシーンになって「黄金の円光」と出るといちいち馬鹿馬鹿しく釣られて、あぁ、となる)、思考停止というわけではないのだが、日本語の読み物としての面白さや倫理性の問題から遠く離れた境地に至れることは確かだ。主人公の提灯持ちみたいなうざい親友キャラはすぐさま音声を切ったが、立ち絵も非表示にできたらもっと快適性が増しただろう。こういう楽しみ方をするなら主人公はノイズでしかないので、なるべく主張せずしゃべらない、人格というよりは一つの機能に退化(進化か)させるのが望ましい気がする。それを推し進めて主人公を消したのが萌え4コマであり、エロゲーではシステム上そこまで至るのは難しいのだろうけど、この作品のようにヒロインの絵が美麗で声も可愛ければ、高度に空虚な癒し作品として十分に比肩できる。

らぶおぶ恋愛皇帝 of Love! (80)

 それぞれの言葉には神経の足か何かのようにコノテーションのフックがいくつも生えていて、言葉に自由を与えすぎると、言葉は分子みたいにバラバラな方向に飛んで、勝手にいろんな言葉を引っ掛けて結びついていく。極端な場合にはそれは単なるナンセンスになる。文学作品としての文脈の中に放り込まれた言葉は、芸術としての価値やジャンルの記憶を保持した馴致されたものだけど、他方でそういうグロテスクで無軌道な自由、文脈を壊して人間的な一体性の彼方へと飛び去っていってしまいそうな危うさも隠している。言葉遊びはきれいに決まるときもあれば、空振りして自己パロディに滑るときもある。後者は怖いから、言葉遊びは無難にコミカルな文脈で用いられる場合のほうが多い。そうでなければ、連歌のように強固に儀礼的な制約性の鎧で防御力を高めておくか、枕詞や序詞のようにパケット化してそれが滑ったかどうかはひとまず脇に置けるようなジャンルの文法が必要になる。
 だが、自由を与えられすぎた凶暴な言葉にとってはそういう配慮はあまり意味がない。燃料が尽きるまで、その推進力で心のままに突き進んでいくだけである。本作の掛け合いはコミカルな文脈でもシリアスな文脈でも言葉遊びが満載だが、シリアスな文脈で惜しげもなく遊ぶのは珍しいので目立つ。そもそもコミカルとシリアスを明確に区分する必要はなく、未分化な野生の言葉を受け入れるのもありのはずだ。気づいたら必死にタンスを背負って修行して、人間離れしているのもありだ。Keyの主人公がやっていたようなことだ。連歌のような掛け合い。相手の言った言葉の何かのフックに引っかかって、その言葉を別の文脈において返答する。会話をしながら言葉はずれ、さらにずれて元に戻ったり、桂馬のように跳んだりする。聞いている間は相手の言葉に耳を澄まし、うまくさらってやろうと身構えている。滑稽ではない。真剣であり、入神の状態である。相手どころか、自分が話した言葉に話しながら自分で引っかかり、自分で自分の言葉を読み替えてしまう。自分という人格の統一性は崩れ、自他の境界は曖昧になる。……見返してみたら4年近く前のわーすと☆コンタクトの感想でも同じようなことを書いていて我ながら進歩がない。
 こういう文体の詩学をきれいにストーリーに接続して消化していたのがギ族ルートだった。「嘘」がテーマのお話だ。回想と現在を交互に、リズミカルに行き来する構成自体がすでに韻文的だった。自由な言葉は、方向を喪失してうろうろと這い回るようなものであってはならない。放流となって善悪や喜怒哀楽を押し流す暴力的な力を持っていなければならない。だからこそ、ひかりが会心の笑顔を見せるシーン、空を飛翔しているようなシーンの開放感は素晴らしかった。言葉で現実を捻じ曲げる権力を手に入れ、言葉が思考にぴったりと即した瞬間の喜びを噛み締めているようだった。あとはあれっすね、「バカ。キスだぞ。唇と唇がぶつかっちゃうんだぞ。エッチである。あーエッチである」とか「ま……間違えた。女の子ではない。吸血鬼である」とか、ギ族はおかしな生き物ですね。
 僕の思い込みなのかもしれないけど、どのヒロインであっても、何か問題を解決して主人公とヒロインが「成長」したりはしていないように見える。リアルでもばれない嘘がつけるようになれば無敵になれる、雲のような存在になれる(そういや不定形の荒ぶる自然の象徴であり豊穣の雨を呼ぶ存在である雲は、人類学的には吸血鬼と同系列のメタファーであり、マヤコフスキーの「ズボンをはいた雲」はそういう制御不能な状態の自分を描いた作品だった気がする)、そう願っていたひかりは、結局反省してその願いを完全に捨てたというわけではなさそうだし、ルキナルートで批判された恋愛による人への依存は、「毒は抜けた」とか何とか言われていたけど、ハッピーエンドの幕切れ時にはさらにひどくなっていたようにも見える。偉そうな物言いになってしまうが、成長っていうのはそんなふうにきれいにストーリーをまとめて達成できる、低いところから高いところへ上がるようなものなのではなく、はじめに低いとされていたところも別に本当に低いわけではなく、単にそのときは経験がなかったからうまくいかなかっただけで、これから先もそういう低いところの問題っていうのは何度も出てくるけど、そのときに側にいてくれる人がいるという安心感、幸福感があるから違うということなのかなと思う。
 それからやはり挙げておかねばならないのはイサミさんだろう。いや、イサミさんは変態だからそれでいいのかもしれないけどね、主人公もっとイサミさんを幸せにしてあげなきゃだめだろう。もっと彼女に溺れなきゃだめだろう。違うのかな。そうなるとイサミさんはかえって不満になるか、それとも一歩引いてしまったりするのだろうか。こんなこと言っているうちは僕はモブキャラレベルなのだろうか。彼女、声が静かなんですね。いつも囁かれているみたいで、オタクなのでなんか秘密を打ち明けられているような気が勝手にしてしまう。あとあの立ち絵の視線だ。なんかサブヒロインなのにやけに可愛い顔でこっちを見てくるなあと思っていたら、最後にやったシナリオでまさかのルートヒロインになっててまいった。しかもなんかむっちりしてるし、完璧に尽くしてくれるし。イサミさんの単独エンドで終わってくれてもまったく少しもかまわなかったが、あの終わりだから見えるイサミさんの魅力というのもあって困る。
 ルキナは、言葉の奔流というこの作品の特性を体現するようなヒロインで、彼女にとっての恋愛は、幸せを実感するとかそういう自己の感覚的なものよりは、相手を奪い、傷つけ、守り、救うような、外に対する行動として現れる部分が大きい。放火者であり、雨を待つ炎であり、その雨さえも自分の中から作り上げる。立ち絵も可愛いというよりは、ごつかったり鋭かったりして獣的である。あのピースをしている立ち絵とか、横向きおっぱいの立ち絵とか、何というか媚びているのに媚び切れなくて、ちょっと痛ましさというか疚しさを感じてしまう。彼女は普通の女の子になろうとしたのに、周りがそれを許してくれなかった。落ち込んでも、強くなるという苦しい選択肢しか選ぶことができず、そしてそれを実行できる。うまく立ち回ったりしないので、これから先もいろんなところで周りとぶつかっていかざるを得ない損な性格で、だからこそいっしょにいると温かそうだなと思う。
 エリカについても何か書きたいけど、一人目に進んだヒロインだし、共通ルートはもう忘れてしまったしで、なんだか文脈の分からないメモの断片(「つんつんチェック」「秋人とキスするの気持ちいいから、キスしながらだったら、おっぱい触っても……いい可能性が出てきてる」)が残っているばかりで、彼女の頭の中も何だか異次元みたいだし、まあいっか。本当はもう1周していろいろ思い出してから書いたほうがいい感想だったけど(いろいろあってクリアに3ヶ月かかった)、作品にも倣いつついつもの通り勢いで書いてしまった。
 エロゲーに説得は求めていない。そりゃあ、あれば嬉しいけど、感染なくして説得はない(少なくとも恋愛という領域では)。その意味ではきわめて王道をいくエロゲーだと思う。

星空めてお『ファイヤーガール』

ファイヤーガール3 青銅の巨人 下巻【書籍】

ファイヤーガール3 青銅の巨人 下巻【書籍】

 いつの間にか最終巻が出ていたんですね。感想は2年前に書いたものとそんなに変わらなかったと思う。設定を最後まで語りつくすこともなく(この辺はタイプムーン的なノウハウもあるのだろうか)、キャラクターの物語を最後まで推し進めることもなく、1年という区切りで終わらせてしまったので、自分探しとかモラトリアムとかというのがこの作品の主なテーマのように見える結果になったと思う。その意味では、主人公たちの物語を卒業まで描ききって終わらせずに、あるいは卒業した先輩たちについても別に何も終わっていないことを暗示しつつ、中途半端なところで終わらせてくれたのは、このふわふわした青春の時間に浸っていたい読者への慈悲なのかもしれない。
 未知の世界のセンス・オブ・ワンダーで圧倒するのではなく、組織運営や折衝や人事の地味な話をひたすら描く。誰がどういうふうに動いて何を届けるかということ、その決定のプロセスを執拗に描く。その話し合いは理詰めではなく偶発的なところもあり、そのおかげで無駄に動き回ってほとんど宇宙に出てしまったりもする。何かを達成するにはたくさん無駄な動きをしているものなんだな。地味な話といえば、『大図書館の羊飼い』もそういうところがあったが、あっちは主人公がクールなイケメンなので生々しさがなく、年寄り臭い裏方フェチのように思えて、ヒロインを「受け止める」というプロセス、というかテキストそのものが息苦しくて読むのが疲れた(だからこその達成感も合ったのかもしれないが)。多分、前の感想で書いた視線の高さの問題なのだろうけど、『ファイヤーガール』は世界に対する関心と隣人に対する関心が等価に置かれているように思えて、若さを感じた。地味でよく分からないことを熱意を持ってやり続けるには、一緒にやる仲間が必要で、だから彼らはあれだけ大きなコストを払ってまで仲間たちとのコミュニケーションを維持しているのかもしれない。こういう非効率さは、作中では欧米式や中国式に対する日本式の教育的な「探検部」という概念だと説明されていた。真に受ける必要はないのだろうけど、そういうシステムには何かきれいなものを生む可能性があるのかもしれない。歳をとると、あまり人に関心を持てなくなり、対人関係に頭を悩ませるのが面倒になり、だらしのない子供大人になる。なった。仕事ではコミュニケーションにそんなにコストをかけていられないし、仕事外ではとにかく快適さと静けさを求めてしまうので人から遠ざかる。生活を単純化してストレスを減らす。ストレスとか言い出すともはや老人である。本作の登場人物の数が多すぎて、読んだ時期にも間が空きすぎたということもあるが、彼らが何をあてこすったり悩んだりしているのかよく分からない箇所があっても、そのまま読み進めてしまう。そもそも、悩みとか分かりやすくまとめて語ってくれず、何かの拍子にこぼれるだけで、しかもすぐに誰かが来たりして中断されて、言いよどんでしまう。そうやって恥ずかしい言葉は腹の底にたまっていく。その代わり、言いよどんだ瞬間や言ってしまった瞬間の空気が印象に残る。誰かと共有した瞬間だからだ。そういう断片が流れていく。動いているから流れていく。冒険はどこにでもある、のだそうだ。

森薫『乙嫁語り』

乙嫁語り 1巻 (BEAM COMIX)

乙嫁語り 1巻 (BEAM COMIX)

 ヒロインの身体を覆い尽くす装飾文様が緻密であればあるほど、それを追う視線はじっくりとヒロインの身体の上を這い回り、その装飾文様が抽象化された意匠であればあるほど、視線はひたすらその線と模様の運動にとらわれる。そうした装飾文様と、その文様を自ら布地に刺繍して刻んでいった、これから嫁になる、あるいは嫁になったばかりの女性たちの若々しい表情のコントラストが鮮やかで、「語り」とは銘打たれているものの、どちらかといえば物語や音声を聞くというよりは視線の運動であり、鑑賞であるような作品だった。エロゲーにおける微細に描き込まれた瞳や髪、服のテクスチャなども同種だ。こちらは健全な内容だけどエロい。時々裸体の描写も出てくるけど、あくまで衣装を着た身体が本体だなという感じがする。
 だからこそ、せりふが少なくて抑制気味だけどじっくり鑑賞できるエピソード、アミルとタラスの話がよかった。特に新しい何かがあるわけではないのだろうけど、小さな夫に一途なアミルと、悲しい未亡人のタラスの美しさには抗えない。双子姉妹はキャラデザはよいのだけど話の展開の仕方にデフォルメ感が強すぎて、ドタバタと落ち着きがなくて疲れたし(ただし、双子を独立した人としてではなく、二本の線のような一種の文様としてみるとその運動に嘆賞できるし、爽やかな読後感ではある)、男どもの戦いの話は男どもの身体に視線を這わせても仕方ないので普通のアクションマンガとして読まざるを得ず、アニスの話はなんかもう絵的にも別ジャンル過ぎてハラハラした。パリヤさんは表情はいつも落ち着かないけど、嫁になるために一生懸命な姿は素晴らしい。
 作者が自分と同年代で、中央アジアの衣装フェチであることが作品の動機になっているというが親近感が沸く。中央アジアはこの作品の時代からだいぶ変わってしまい、それは作中でも影を落としている西洋文明、というかロシアとソ連のせいであり、今では石油・ガスが出る国と出ない国に二分された感がある。出る国(カザフスタントルクメニスタン)はオイルマネーで今のロシアの都市部ような殺伐とした景観を保っており(農村部とかはソ連の農村的な何か)、出ない国(ウズベキスタンキルギス)は貧しいまま、人々はロシアなどに出稼ぎにいってどうにか生きている。知り合いでキルギス人の嫁と結婚した日本人がいるが、嫁の村での結婚式は大層な見物だったそうな。この作品は19世紀のウズベキスタン辺り(ブハラとか)がモデルになっているそうだ。僕は中央アジアカザフスタンしか行ったことがなく、中央アジアで一番経済規模の大きなカザフスタンは上に述べたとおりの有様だったので(料理は確かにああいうのが出てきたけども)、もう少し南の方、サマルカンドとかブハラとかタシケントとかフェルガナとかをいつか旅行者としてみてみたいというのはある。昔、ウズベキスタンの国歌の詞を作ったという詩人が来日したときに話を聞いたことがあるが、かの国は中世のイスラム詩人アリシェル・ナヴォイの故郷であるとか古めかしい話ばかりしていて却って好感が持てた記憶がある。中世イスラム詩といえば、花や女や酒をテーマに、編み物のように脚韻やフレーズが反復されて絡まりあった典雅な様式で、まさにモスクの唐草模様や女性の衣装の文様のイメージである。といってもそれは素人外国人のオリエンタルな妄想であり、よく資料を研究している本作であっても果たして19世紀の一般人が日常的にあれほど美しい服を着ていたのか分からない気がするが(着ていたとしたらかなり裕福な人たちだったように思う)、そこは優しい幻想であってもいいのかな。嫁入りという出来事はいつの時代にあっても重要な人生の転換点だったし、とても美しい何かだったのだろうから、それを主題に据えただけで本作は正しさを手に入れている。結婚に至るまでを描いたモンゴメリの小説も昔たくさん読んだが、こうした話は何度繰り返してもその度に美しく、その意味では抽象的な美しい文様のパターンと同じなのかもしれない。
 森さんがわざわざ中央アジアに取材に行かれたというのは嬉しいことで、次巻以降にその成果を期待できるそうだ。僕も以前、有名なマンガ家(本人ではなく出版社の担当編集の方だが)のロシア取材に協力したことがあるが、ロシア編はいつ始まるのだろうか。ともあれ、現実を美しい幻想に作り変えられるのは羨ましいことで、ありがたいことだ。

山本弘『アイの物語』

アイの物語 (角川文庫)

アイの物語 (角川文庫)

 山本弘といえばソードワールド短編集の作家という認識。といっても、ソードワールド小説を読んでいたのは中学生から高校生くらいの頃だけで、当時はラノベを知っている人なんて周りにほぼいなかったし(一人友達でいたけど、僕と違って明るくてひょうきんなキャラの人だったのでとても共有しようなどという気にはならなかった。というか、当時の僕の性格では、ラノベの楽しさを誰かと共有することは不可能だったと思う)、フォーチュン・クエストロードス島戦記よりもさらにディープな感じのするソードワールドシリーズは、エロ本のように人から隠れて嗜まねばならないものだった。僕以外に世界で読んでいる人などいないような気がしていた。町の本屋さんとか、立川のフロム中武の大きな本屋とかでこっそり探していたあの頃が懐かしく思える。ソードワールド短編集は複数の作家が(妄想を共有して)書いているというそのシステムが当時の僕にはとても夢のあるシステムのように思えて、作品の出来には波があったけど、たいてい一作か二作はけっこう面白い話が入っていて満足したものだった。雑誌の原理と同じで、個別のコンテンツの単純な総和よりも全体の方が面白く見えるというやつだ。そして面白い一作か二作というのは山本弘の作品であることが多くて、自然にその名前を覚えていた。当時はネットなんてなかったからその名前を検索することなんてのもできず、短編集の目次を見て、あ、またいるな、と思うだけである。もう内容は忘れてしまったけど、――「ナイトウィンドの影」「マンドレイクの館」「スチャラカ冒険隊、南へ」「ヒーローになりたい!」「君を守りたい!」「愛を信じたい!」――ウィキペディアをみたら懐かしい作品名が並んでいた。後半3つのサーラの冒険シリーズは確か恋愛要素があるんじゃなかったけ?結構ドキドキした、というか性的興奮さえ覚えて何度も読み返していたかもしれない。絵もけっこうエッチだったはず。
 その後、ソードワールド小説を読まなくなって、自然と山本弘の名前も忘れた。と学会の人だったことも知らなかった。今回はブックオフでたまたま手にとって買ってしまった。
 というわけで、二十数年ぶりにこの人の小説を読んだ。さすがに衝撃的な斬新さは感じなかったけど、読みやすい文章で萌えるポイントをうまくとらえつつ、爽やかで夢のあるお話を語るのは、ソードワールドの頃と変わっていないように思えた。「ときめきの仮想空間」のジュブナイル感とか、ストレートすぎて無事に終わってくれるか心配になったくらいだ。「詩音が来た日」では、昔老人ホームでバイトしていたときのことを思い出した。終盤の章では、AIにとっては僕たちの現実こそが仮想現実であり、人間というキャラに幸せにするためのゲームであるという構図は元長的というかエロゲー的で小気味よく感じた。人間と理解することは出来ないけど許容することは出来る、そして自分たちなりに愛することも出来る、というのは、別にAIと人間の間だけの話ではなく、普通に人間同士でも起こっているようなことで、この「そして自分たちなりに愛することも出来る」の根拠の不安定さが見方によっては不穏でもあるのだけど(愛せない場合には、「許容」という言葉のニュアンスが寒々としたものになる可能性が高い)、この作者はそんな嫌らしいところをほじくらずに、主人公の少年を素直に納得させ、美しく話を締めるのである。明快だけど夢がある。それにしても、人類は衰退しましたでもあったけど、宇宙はもう有限の存在である人間には物理的に届かないものになってしまったというは寂しい。アイの世界ではどうやら人間のデジタル化とかできなかったみたいだし、見事に衰退していたし。あと人類の欠点、愚かさが単純化されていて、そんなにバカばっかじゃないような気もするけど、そんなところつついても仕方ないかな。高度なAIとアンドロイドの普及まで何とか生き延びたい。