どうにもならなそうなこと

 趣味の壁は三次元の壁と同じくらい高い。言葉で伝わること、説明して説得できることのさらに先に趣味の領域がある。
 以前に仕事でご一緒させていただいた関係で招待券をもらい、上坂すみれさんのライブに行ってきた。オタクイベントに行くのは2,3年前のかわしまりのさんのトークショー以来で、当然ながらライブは初めて。上坂すみれの歌やキャラクターについては2年前に苦しげな感想を書いた通りで、その後もまだ取っ掛かりをつかめずにいる(つかもうとしていない)。アニメ声優としもアイドルとしても成功していってるのは喜ばしいけれども。


 ライブの歌は、多分ありがちなことなのだろうけど、演奏の音量が大きすぎて声がよく聞こえなかったところが多くて残念だった。大半がアップテンポな曲なので声が荒れてしまうし、曲自体もいまいちなものが多いので、声を良く聞けたとしても楽しめたかどうかは分からないが。知っている曲では唯一の割と好きな曲である「テトリアシトリ」(作詞作曲・桃井はるこ)は、視覚的な演出も含めてけっこう丁寧に聞かせてくれたので嬉しかった。あとは何というかしょっぱい曲が多いのだが、上坂さんの前向きな性格とファンの人たちのエネルギーの勢いで乗り切った感じだ。サイリウムの統率感や野太い声の必死さはむしろ心地よく、「かがやきサイリューム」とかこんな感じなのだろう。けっこう危ういバランスだと思うが、ラジオとかでしゃべり慣れている声優だから、若さでごまかさなくても、音楽だけじゃなくてホスピタリティみたいなところで楽しませてくれるのがよい。いまいちであっても、なんかMCでしゃべるためのネタとかちゃんと考えているみたいで、そこは応援したくなる。あと、やっぱ整った美人なので踊り回っているのをただ見ているだけでもそれなりに絵になってしまう。三次元の壁がとか何とか言っても、アイドルが太ももや腋を惜しげもなくさらして動き回っているのには目を奪われてしまうおじさんである。上坂すみれの声は張りがあって弱くない、お姉さん声なので萌えるのが難しいのだが、それなのにひらひらの服を着てアイドルをやっているという論理が飲み込めず混乱するおじさんである。その若さ、美しさは涼しげで、意味が分からないけど(まだこれぞというはまり役を見たことがないからかもしれない)、分かろうとせずになんとなく視線を奪われて置けばよいのだろう。どうもありがとうございました。以上。
 徳が高いエロゲーマーであり、素晴らしいアジテーターであるtempelさんの素晴らしいエントリを読んでエロゲーをやりたくなり、挙げられたゲームの体験版をいくつかやってみたけど、自分でやってみるとあんまり面白くないんだよな。大図書館の羊飼いもそうだった。とても説得力のある感想なのに(特に僕がけっこうひどいことを書いてしまったCationシリーズに関する指摘には唸らされたし、女の子をチヤホヤできない男としては耳が痛いところもあった)実際にプレイしてみると合わないという趣味の壁。自分の許容幅が狭すぎて情けない。もっと楽しんだほうがいいよと人から言われることも多いのだが、趣味だからこそ無理して何かを受け入れたりはしなくてもいい。絵がきれいな星織ユメミライなら何とかなるかなと思って買いにいったけど、高かったので結局事前情報ゼロで美少女万華鏡というの選んできた。八宝備仁氏の絵は以前に能天気な抜きゲーをやったら失敗して苦手意識を持ってしまったかも知れず、このシリーズで楽しめるように慣れるかもと期待している。

言葉の上滑り

 描かれていることよりも描かれなかったこと(わざと黙っていたことではなく)が気になるときというのは、何か別のものを欲して無いものねだりをしているときであって、読み手としてはだめなときなのだけど、一期一会なのでたまには覚え書きくらいは残しておこう。
 これまで何度か名前を見かけて気になっていた長野まゆみの本を探しにブックオフに行ってきた。『上海少年』と『鉱石倶楽部』を買ってきたけど、これがこの作家の中でどういう位置にある作品なのかはよく分からない。『上海少年』は僕の目には、映像美に優れていて印象的なシーンはあるけれど、それは視覚的な美しさであって精神的な美しさは衰弱していて、退廃的なように映った。長野まゆみ宮澤賢治を愛読しているとのことで、確かに言葉遣いにはこだわりを感じる。でも宮澤賢治が持っていたような苛烈さがなく、世界に対して生産者ではなく消費者としてしか関われないように見えた。少年の同性愛という美学の儚さ、無意味さにもつながり、それが悲劇ではなく居直っていることの後ろめたさを感じる。『鉱石倶楽部』で石をひたすらスイーツに喩えているのは(スイーツ以外に幻想の風景に喩えていた場合もあったけど、スイーツが特に目に付いた)、バブル時代の軽薄さを感じるし、後書き部分で作者がそんな自分の頭の悪さを揶揄してみても開き直りに見えてしまう(ファンの方が不快な思いをされたら申し訳ないが、あくまで僕の個人的な感想なので)。でも僕が、こんなふうに形ある意味、結果を出すものにしか意義を認めないのは粗野で下品な根性なのかもしれない。僕自身デカダンスは好きなはずだけど、たぶんただのスノッブなので小市民の地が出てしまうのかもしれない。革命の理想に人生を捧げたデカブリストの話を読んだ後では、ことさらそうなのかもしれない。とはいえ、『鉱石倶楽部』はいさぎよく視覚的な美の表現に自らを限定していたので、まだ性質がよかったかもしれない。鉱物の美しさは単なる化学現象であって、精神的な美しさは人間が外部から読み込むものだ。だからたとえその外部の美を共有できなかったとしても、そこに美を求めようとする姿勢には共感できるという最低限の保険がある。
 あと、以前人に勧められていたウディ・アレンの『アニー・ホール』のDVDも見つけたので買ってきた。見てみたら、20歳くらいの頃に一度レンタルショップで借りてきたけど、初めの部分を見て寝落ちしてそのまま返却した映画だったことを思い出した。離婚どころか女性と付き合ったことすらなかった当時の自分には、まったく意味が分からないし不要な映画だったので、当時全部見なかったのは正解だった。今回は最後まで見た。コメディアンにもいろいろあるのだろうが、人の上に立って他人を笑い飛ばすインテリコメディアンは悲しい。人をおとしめて、自分もおとしめて、残るのは若かった自分たちに対する感傷だけである。ダウンタウンとかのお笑い文化も同じようなもので(ウディ・アレンダウンタウンと同じく楽屋裏物が得意らしい)、切れ味は鋭くても、俺もバカだけどお前もバカ、の世界では何も(生きては)残らないので好きになれない。それどころか、テレビで見ている者には感傷すらほとんど残らない。まあ、こんなふうにぐちぐちいうのは息苦しく凝り固まった人間なのだろう。言葉は裏切るから、賢い人は言葉をつぐむのだろうが、コメディアンは常にしゃべっていなければならず、言葉はインフレで重みを失い(ラブレーの笑いの増殖性とはまた違うが、アルビー自身、アニーに「多型倒錯的だね」と言ったけど自嘲的に響くしかなかった)、それを補うために更にしゃべる。それはユダヤ的な去勢感覚だなんて、ロシア系ユダヤ人のウディ・アレンは言われ慣れているのだろうな。そんな呪いのようなものであっても、騒々しくて疲れるばかりであっても、アニーの家族の健全なアメリカ的痴呆生活よりはずっと魅力的なのかもしれない。感傷が残るだけでも素晴らしいし、それは大切にしていいものだろう。でも本当の理想の生活は、その二択とは別の答えなのだろう。何だか笑えるけれど美しいものだ。アルビーはアニーの笑顔にそれを求めていたのかもしれない。アニーの方はどう思っていたのかは分からないが、アルビーが真剣に何かを求めて、一緒に夢を見ようとしていたことは伝わっていたのだろう。
 あと、ついでに新井素子の『もいちどあなたにあいたいな』も買ってきた。解説で大森望が絶賛していたので騙された気になって。正直なところ、そんなにたいしたお話じゃなかった。エロゲーでも十分ありそうな設定だ。大森氏の言うようにこれが新井素子の最高傑作のひとつなのだとしたら、実はあまりすごい作家じゃないのではという疑惑が。和の運命の孤独ばかりが強調されていて、それはそれで正しいことなのだろうけど、一番救われないのは陽湖(主人公の母)だと思う。まあ、それは野暮なつっこみだ。もいちどあなたにあいたいな、という言葉の響きはよく、さすが新井素子なのかもしれないが。
 ふと、久々にフォーチュン・クエストを読みたくなった。途中からパーティ内の恋愛話っぽい要素が強くなっていっていつしか読むのをやめてしまったが、中学の頃に読んだはじめの数冊、海洋冒険譚の「隠された海図」くらいまでは素晴らしく面白かった。たぶん、2005年に出た「キットンの決心」というやつまでは読んでいたと思う。あの世界に浸りたくなるというのは心が弱っている証拠だと思うのだが、まだ読んでいないのがたくさんあるというのはありがたいな。読むかは分からないけど。


上海少年 (集英社文庫)

上海少年 (集英社文庫)

鉱石倶楽部 (文春文庫)

鉱石倶楽部 (文春文庫)

もいちどあなたにあいたいな (新潮文庫)

もいちどあなたにあいたいな (新潮文庫)

Ю.Тынянов "Кюхля"


 いろいろと生活の方は息苦しくて面倒なのだが、悲劇作品を受け入れられるのだから精神状態は悪くないのだと思う。190年前のことを書いた80年前の小説、しかも1987年にノヴォシビルスクで出版された古本だけど、ずいぶんと近しく感じながら読んだ。特に最終章が恐ろしかった。キューヘリベッケルの頑固さ(僕も頑固だと言われることが多い)、高潔さ、コミカルな不器用さは生来のものであり、デカブリストの乱を経てもそれを貫いていけると期待していたけど、独房を出てシベリアでの流刑生活が始まると、生活という名の虚無にすり潰され、信念や理想を失った虚ろな人間になってしまう。恋人との再会の夢を忘れ、粗野で空っぽな女と温もりのない騒々しい所帯を持ち、親友たちに先立たれ、自らの文学作品に幻滅する。熱が失われていき、シベリアの寒さの中で人から物になって命が停止するような最後だ。展開としては『オブローモフ』に、あるいは『罪と罰』にも近くないともいえないが、ロマン主義と革命思想まっただなかの時代で、プーシキンやグリボエードフのような個性と過ごした青春のきらめきと苦さは、まったく別の苛烈さを持っている。こんな風に鬼気迫る小説になったのは、トゥイニャーノフにそういう同時代的な問題意識があったのだろう。人の流れ、兵士たちの流れをネヴァ川の街ペテルブルクを流れる血液に喩え、ひたすら橋と広場と通りの名前とうごめく群集ばかりでダイナミズムを描いたデカブリストの乱の章などは、十月革命を描くエイゼンシテインを彷彿とさせた。誰が誰に対応するというわけではないが、トゥイニャーノフが描いた『キューフリャ』、『ワジル・ムフタルの死』、『プーシキン』の3作は、シクロフスキー、エイヘンバウム、トゥイニャーノフというフォルマリスト三人衆の青春時代を感じさせるとか。『キューフリャ』を書いたとき(1925年)のトゥイニャーノフがまだ31歳だったというのは驚きだが、同時に納得もできる。『プーシキン』は以前に読んで、49歳で病死する直前まで書いていた未完の小説としての迫力があったが(プーシキンの『オネーギン』も未完だ)、『ワジル・ムフタルの死』は確か持ってなかった気がする。次はいつトゥイニャーノフの小説を読めるのやら。エロゲーでは不足してしまう悲劇成分は、たまに青春を描いたロシア文学を読んで補うのがいいのかもしれない。

乗松亨平『ロシアあるいは対立の亡霊』

ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン (講談社選書メチエ)

ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン (講談社選書メチエ)

 時折雑誌「現代思想」とかに掲載されていたロシアの批評家の文章も、ましてやНЛОとかЖурнальный залとか人文書の出版動向などは長いこと追いかけていないので、この本がどの程度の新しさやカバー領域の広さを持っているのか分からないけど、個人的にはついに出会ってしまったなあという感じがする。できれば避けたかったかもしれない。ペレーヴィンやソローキンやグロイスやカバコフの作品や著作は早くから翻訳が出ていたし、北大スラ研の人たちがかなり詳しく紹介していたので触れる機会はあったけど、どちらかといえば一回触れればいいやという感じだった。殺伐としすぎていたのだ。取り上げられている問題系はどれもロシアのインテリゲンツィヤの伝統的な問題系に回収されてしまいそうなものばかりで(他者、ユートピア、ロシアのアイデンティティetc)、新しい時代のための建設的な価値観やインスピレーションの予感はなかった。そういえば、恒例の投票をみていて「見上げてごらん、夜空の星を」という作品にちょっと興味が出たけど、宇宙といえばペレーヴィンのオモン・ラーをまだ読んでいなかった。星や宇宙の世界を本当に楽しむには、それを夢見たソ連・ロシアの怨念をどこかで一度くぐってみたいものだ。といっても今の自分なら、ロシアでも普通の娯楽っぽいSFを探したほうが楽しめるのかもしれない。そして、そういうのは日本語でも間に合ってしまいそうだ。
 新しいものがないのなら、若者よ、まずは過去に学べ。というわけで、ソ連・ロシアの「温かい」人文科学の伝統、ヴャチェスラフ・イワーノフがソ連記号論史として跡付けたような、人類学から脳科学に至るまでの学者たち(アファナーシエフ、フロレンスキー、フォルマリストたち、エイゼンシテインヴィゴツキーフレイデンベルグ、メレチンスキー、バフチン、ギンズブルグ、アヴェリンツェフ、リハチョフ、ガスパーロフ…)の著作に夢を見ようとした。本書で言うなら「文学中心主義」の世界なのかもしれないが、イデオロギーの「深読み」に回収されないきらめきがあるように思えた。そしてその中には、当然ながらロトマンやウスペンスキーを含む記号論者たちもいたけど、記号論は扱っている領域が広すぎるので後回しにしているうちに、何だか学術研究の進歩が遅く見えてきて、気の遠くなるような根気を必要とすることについていけなくなった。ロトマンは「詩的テクストの分析」で文学作品の秘密を暴くための鋭利なツールを紹介し、事実その後でたくさんの研究者が人海戦術で作品分析に当たったけど(ロトマン・ヤコブソン的な分析方法の学生向け教科書もけっこう見かけた)、それもてんでんばらばらな印象でいつまでたっても終わりは見えず、ロトマンのような一部の優れた研究者の名人芸の域を出るのはなかなか難しいように見えた。そうして、ソ連崩壊後には記号論自体も新たな価値観を生み出す力を失ってしまったのか、あるいは地味な学究的土方作業に埋もれていったのか、予算不足という現実にぶつかったのかわからないが、何だかどこへいったのか分からなくなってしまった。もちろん2000年代以降も素晴らしい名人芸的な著作は出たようだけど、まだ道半ばのものばかりだったと思う。
 つまり、ミーハーな僕は現代のロシアに勝手に失望し、自分にとっての新しい価値は得られないと思ってしまった。かつての人文科学の隆盛(?)を思えば、残ったのはエプシテインやおそロシアネタばかりというのは寂しい。それに現代文化は古典よりも、少なくとも外国人にはハイコンテクストすぎて難しく、クーリツィンがなんかいろいろやっているといっても関心は持てない。
 ロトマンの『セミオスフェーラ』(記号圏)は直接的に文学を論じたものではないので入りづらく、ヴェルナツキーのノオスフェーラやグミリョフのエトノスに関する本と一緒に、いつしか本棚で埃をかぶっている。そのロトマンを「深読み」で葬ってくれたのが今回の本だ。著者が断っている通り(開き直っている通り?)、この本では現代ロシアを語る言説がかなり狭い範囲に限定されていて、インテリゲンツィヤの繰言ばかりで生産性がないように見える。フィクションが後退して、平板だったり殺伐としていたりするノンフィクションばかりになって憂鬱だ。後ろ向きなテクスト、プーシキンやカラムジンの研究書を読んで無駄な知識を蓄えたり、グネージチ訳のイリアスやジュコフスキー訳のオデュッセイアを読んで古代ギリシャに現実逃避したり、クズミンやアフマートワの詩を読んでなんか想像界的なものに浸ったり、ゴーゴリの小説を読んで語り芸を楽しんでいたりするほうがましなような気がする。現実から逃げ切るためには、僕にはもう少し堅固な城が必要だ。
 本当に2000年代に入ってから、プーチンオイルマネーのおかげで、特記すべき新たなことは何もなかったのか。今回のような本は貝澤氏が書くのかと思っていたけど、乗松氏はもっと若い世代だ。現代日本にも目を配りつつ、しつこく書いてくれたのはありがたかった。他にもロシアの現代思想を追いかけている人は2〜3人くらいはいるらしい。そのうち何かもっと前向きな本は出るだろうか。ロシアは本当に天才を生まない普通の国になってしまったのか、自分で確かめなければダメってことなのかもしれないな。最近エイヘンバウムの「不死へのルート」を読んだ。19世紀半ば、あまり才能に恵まれなかったがバイタリティのある変人がたくさん現れて、はた迷惑な創作活動に勤しんだという。そんな偏執狂の一人に光をあてた伝記小説だ。変人だから天才に近いということはないけど、現代のロシアにも本当はもっといろんな人がいるんだと思う。

西暦2236年 (75)

 人をちゃんと見ていないから、人をちゃんと好きになることができない。だから自分の悪いところ、悪い感情を大切な人にも見せられない―――。人間として未熟で青臭い悩みだが、耳が痛いところがある。そういう人間は、好きという気持ちの純粋さだけを問題にすれば、大抵は失敗してしまうのだろう。二人で同時に失敗できれば、なんかもう運命共同体になって、天使のいない12月みたいに奇跡的にうまくいくのかもしれないが、そうでなければ結局エンディングのない現実、エヴァ的「気持ち悪い」の後にも続く日常に回帰するしかない。でもその日常はそれ以前とは少し変わっていて、少しは息苦しくなくなっているし、またやり直せる可能性がないわけじゃない。だからハルも泣き笑いだった最後のシーンは、そんなに悪い終わり方じゃないと思う。
 いくらヒメ先輩との方がうまくいくといっても、僕はジャケット絵にもなっているハルの美しさに惹かれてしまったので、シオソでもいいからハルとの夢を見たい。アスカよりはレイだ。というか、別の宇宙に暗号を送ってきたハルでもやっぱりだめなのかな(往生際が悪い)。ヨツバ自身、ハルエンドで別の宇宙にいけたのは、ピアノの夢は叶わないと分かった上でピアノの楽しさを認めて自分と和解できたからであって、一度は答えを見つけているわけだ。そこからもう一度ということなら、シオソになるのか……。
 まあこうして恋愛をめぐる図式だけに還元すると単純な話になってしまうのだが、この作品の面白さはそれを時間や可能性といった抽象的な概念に乗せ、フラクタル図像や豊富な視覚的・文字的演出で魅せ、(音声がないおかげもあって)テンポのよいテキストで引き込んでいく、読み物としての楽しさにある。あとマスコの可愛さにある。何気にマスコ可愛いんだよなあ。自分も傷つかないですむし、いいことずくめじゃないのか。といっても恋愛の純粋さということならおとぎ話にでもしない限りマスコでは無理だし(自己愛になる)、そのことが分かっているからハルという不可能な対象に憧れるのかもしれない。

こころリスタ! (75)

 Q-Xの作品をやるのは初めてで、正直なところ体験版をやっても特に強い個性が感じられたわけでもなく、引き込まれたわけでもなかった。絵が結構可愛くて、仮想世界のBGMが飽きの来ない曲だなあ程度の印象しかなかったのだが、一部で高く評価されていたので騙されたつもりで手を出してみて、結果としては後悔しなかった。
 気に入ったBGM(モノクローム、HEART RESTARTER、happinessful angelの仮想現実系3曲と、バレンシアの風に吹かれて)はやっぱり飽きず、何度も聞いている。こういう曲がもっとあればよかったのだが、気に入った曲ができるとそれだけで作品に親しみがわくのでともかくありがたい。
 本作の評判で、視点が安易にヒロイン視点に切り替わったりせず、ヒロインが何を考えているのか明示されていないとの指摘があったことも、手に取ったきっかけだった。明示されていないからといって別に推理ゲームになるわけでもなく、適度な緊張感があって読み心地がよかった(なぜ緊張感があるのか説明するには、エロゲーテキストのテンプレとは何かについて考えて例証せねばならず、面倒なので放っておく)。ヒロイン視点への切り替えとは、ヒロインの心を覗き見て、侵食することであり、その裏切り行為によってプレイヤーはヒロインに近づくどころか遠ざかってしまうからだ。本作のエンドロール後のエピローグはすべてヒロイン視点に切り替わっていた。僕たちはキャラクターの世界、ラウンダーの世界に生まれ変わって、いつまでも幸せに暮らしましためでたしめでたし、になりたいという欲望を抱えている。くそまじめに考える必要はないのかもしれないが、そうしたダメ人間の更正の物語がこの作品なのだとしたら、ヒロイン視点への切り替えは更正後の約束された大地のようなものでまだまだ道は長いなあと遠い目になる。そんな変な勘繰りをしなくても、この作品で示された幸せを味わわせてもらっていればいいのかもしれないが。
 文章のうまさについては、こういう地味にいい文章、丁寧でよい文章というのをうまく語れる言葉を知らないので、ひとまず宿題にするしかない。シナリオ構成については、ヒロインが変わるたびに共通ルートを読み返したりはしない怠け者なので、選択肢でいっせいに分岐する本作では共通ルートと個別ルートの分断を強く感じて、共通ルートの感覚を忘れてしまったのがやや残念。あと、メルチェ以外のルートに進むときには必ずメルチェを振らなくてはいけないのが申し訳なかった。というわけで後は個別ルートの感想など(アルファ以外はほぼ個別エントリの再掲です)。

  • 1月13日追記。思いつきだけど、共通ルートが長くて最後に急に分かれるというのは、再プレイしたときに気兼ねなくみんなとの日常を楽しむための配慮なのかもしれないと思った。最後の方までルート分岐とか気にせず浸ることができるのかもしれない。そう思ったほうが生産的かな。


【メルチェ】
 某麗知恵さんの時は発音がなってないなどと生意気なことを書いてしまったが、スペイン語は分からないので、メルチェがエッチシーンでスペイン語で何かしゃべりだしても余計なことを考えずに楽しめた。メルセデスという名前がスペイン語的に女性名としてどう響くのか、また乗り物由来か、と思ってみてみたら、そもそも自動車メーカーの方がスペイン風の女性名をブランド名にしたとかで、メルセデス・ベンツブルジョアかマフィアが乗る車というイメージ(ロシアでもメルスといえば役人や成金が乗る庶民には無縁の車だ)を持っていた自分としては、ミロセルドナヤ、「慈悲深い人」という本来の方の意味に認識を改めねばならない。
 それはともかく、メルチェの登場シーンは現実感のなさが素晴らしかった。ラッキースケベでおっぱいクッションで、最初の一言が怪しげな日本語の「ダイジョ〜ブ? 頭。ダイジョ〜ブ」。これで頭が大丈夫でなくなったのかもしれない。体験版でもメルチェは登場していなくて、片言日本語キャラだから大して期待はできないだろうと思っていた。でも背は小さくておっぱいは大きくて、柔らかそうな表情と不思議な光る目をしたヒロインということで気にはしていたのだけど、実際にプレイしてみるまでは分からないなと思っていた。そして変な関西弁である。関西弁は個人的に苦手で、しかもさらに苦手なお笑い芸人の物まね好きとあれば、普通なら悲しみしかないはずなのだが、メルチェはどちらもへたくそで、しかもそれを気にせず一人で楽しそうにしているので、こちらも関西弁が本来持つ(?)威圧感を受けることなく、メルチェ独特のやさしい浮遊感を味わうことができるのである。多分、メルチェも母国語ならばもっと普通のイントネーションで話すはずなのだが、おかしな日本語でしゃべっている限りは、ある種の猫撫で声のような、あるいは詩の朗読のような、モノトーン気味な高い声になり、そのちょっと変な優しい声に現実観が揺らぐ。
 個人的な印象(昔マドリードやトレドやグラナダに観光したときの印象)では、スペイン人というのは全体的に背が小さくて(ロシアの後に行ったからか、平均身長は160cmくらいに感じた)、そのくせに老若男女みなが彫りが深くて濃い顔をしているので、ただ歩いているだけでなんともいえないユーモアが感じられて、ドン・キホーテの国だなと思ったものである。しかしながらロシアと同じく今はヨーロッパの辺境であり田舎であり、共産主義や独裁者に振り回された過去を持ち、ガルシア・ロルカを持ち出すまでもなく情念の国である。ラテン系とスラヴ系はノリが違うし、スペインの夏の熱風とロシアの秋のぬかるみはまったく別の精神性を育むような気がするけど、それでもこの二つの民族は互いに惹かれあうという話は聞いたことがある。カルメン(原作者はフランス人だが)をペテルブルクの吹雪の中で歌い上げた某詩人の作品とかも印象的だった。
 それはともかく、メルチェはスペイン人なのに彫りが深くなく(主人公の観察によれば深いらしい)、滑稽ないかつさがない。そして彼女は日本に夢見る留学生であり、つまり普通の生活をしていては見えないものを見ている。夢に守られている。時々外国人的な間合いの大胆さを見せて驚かせる。こういういろんな記号、記号の不確かさ、キメラ的な混淆、やさしい嘘が、メルチェというヒロインの非現実感や儚さにつながっているようで、丁寧に描かれているとはいえテンプレ的なキャラばかりのこの作品において、独特の軽やかさと存在感を持つように思えたのだった。BGMも軽やかで良かった。
 といっても、この不思議時空は不確かなもので、軽くアルコールを入れてプレイした登場シーン以降は、あまり強く感じられなかった。個別ルートのストーリーはバイクレースというさらに非日常的なものでありながらも短く、手堅く終わってしまった。僕は何を見たかったのだろうか。彼女はネットの中ではなく現実のキャラという設定でありながら一番不確かであり、その意味で現実的でもあるヒロインだったわけで、この作品の奥ゆかしさによく合っているのかもしれない。


【マリポ】
 あの口みたいな栗をしているときの立ち絵。あれほど防御力の低い立ち絵は見たことがない。こちらを指差し、攻撃的な威圧感を与えようとしつつも、体をひねって半分横向きになっていて、腰が引けているような、当て逃げをしようとしているような弱気さが思わず出てしまっているような絶妙なバランスが、笑えるし可愛すぎる。そして――マリポ先輩に限ったことではなくこの作品のヒロインはみんな多かれ少なかれそうだが――身体のねじれによる動きの感覚も素晴らしい。Carnivalの絵にもあったようなダイナミックな感覚だ。
 すぐに言葉に詰まる防御力の低さも素晴らしい。「じゃ、じゃあ、これより……ち、契りの儀を執り行う」じゃないでしょ。うろたえすぎでしょ。「これより」ってなんだよ、というような感じでつっこみどころばかりで幸せになる。落ち着いて話すときも実感がすごく伝わってきて、ライターさんがよい仕事をしているということもあるが、声優(卯衣さん)の声音や間、スピードが心地よくコントロールされていて、聞いていて気持ちがいい。高島ざくろ神とか須磨寺雪緒神とかもそうだが、独り言気味の言葉をふわっと話す女の子の声には、いつも耳を澄ましていたような気がする。マリポ先輩の声は、自分に向けられているはずなのに思わず洩れちゃった感があるというか、こちらも、そういう人に聞かせるためのものではない言葉を思わず聞いてしまった気がするというか。「ふふっ……はぁ……こんな若くて激しいカレシ……これから大変だよ……バカ……」って、あなたと1歳しか違わないでしょ!というか嬉しそう過ぎてこっちまでニコニコしてしまう。声の質も、芯がなくて弱そうで夢想的で素晴らしい。純度的なものに惹かれるオタクとしては当然落ちざるを得ない。魔性というやつだろう。
 そもそもマリポ先輩は、何気に健全で如才ない主人公などよりもずっとディープでいじけたオタクであることが、可愛さの元凶になっている。告白されてうろたえて散々逃げていたのに、主人公がやけになってナンパしていると聞いて、速攻ですっ飛んでくる。早歩きのオタクのようなもので、初デートでの行動がいちいち唐突で笑える。「破局的な案件」になると想定しすぎて、聞かれてもないのに悪いところばかり告白しようとする。いきなり深刻そうに身長を低くサバ読んでたことを告白する。いきなりプールにいって水着になり、パッドのことを言い出そうとしていた節もあるが、普通に雰囲気に流されてプールを楽しんでしまう。映画を見たらご機嫌でせりふをまねする。唐突に部室に行って捲り上げる。バトルシーンでピンチになっても、主人公との絆を思い出すとかではなく、「ああ……二次元男子たちに……癒されたい……」とか弱気なことを言っている。見ていて飽きることがない。こんな風に自分のことだけでもいっぱいいっぱいで、とても相手をリードする余裕などないくせに、本人はそのつもりで幸せ。余裕がないのは自分なりに一生懸命理想を追い求めているからだ。これこそオタクの幸せなのではないか。エピローグ前の最後のせりふが「あ、母さん? 昨日は…………ごめん」でフェードアウトしていくのが印象的だった。7年たってすっかり大人になったマリポ先輩は、それでもきっと、まだどこか抜けたところがあるのだろうと想像して温かい気持ちになる。


【星歌】
 大昔の記憶なのであやふやだけど、トルストイの『復活』でネフリュードフがカチューシャの斜視の目に惹かれていくというのを読んだとき、斜視という言葉の意味が分からないまま読んでいて、なぜか黒目の大きな目(カチューシャの目は黒くなかったっけ)、どころ見ているのか分からないほどに大きな黒い目のことだと思っていた。
 この作品では星歌とさちがキャラデザ的に黒目キャラ(性格には目の色は黒じゃないけど)になっていて、そこに惹かれてしまう。大きな黒目(なんか正確な日本語がありそうだが恥ずかしながら知らない)はそれだけで無条件にこちらとの距離を縮めてしまうところがあって、とても美しいのに、なんだかあるだけで目の持ち主を傷つけているというか、痛ましく見せるようなところがあって、全く余計なお世話なのだが同情のようなものを誘うところがある気がする。目の黒さに陰を感じるということなのかな。それとも無防備さか。そんな目をした妹が部屋にこもって、スマホの合成音声で会話していて、自称が「ぼく」で、着ぐるみの中に隠れていたりすると、いくら兄に生意気な口をきこうがやはり微かな痛ましさを感じざるを得ず、普通の他人という距離感は崩れてしまう。星歌は勝手に内面化されて、他人ではなくなる。家族なのだから当然なのかもしれないが、雪音とは違って、あの視線でそうなってしまうのだからお兄ちゃんとしてはこちらの方が業が深い気がする(雪音シナリオは未プレイ)。だからあの告白、自室でのコンサートのシーンの奇跡のようなやさしい雰囲気にはすっかりやられた。
 ところがこれが大層性欲が強い子で、お兄ちゃんは参った。目が黒い女の子が、おっぱいが大きくて性欲が強いとか!もともと自他の境界が揺らいでいるところで、性欲の話をされたら、一緒に変態性を認め合って依存しあうしかないじゃないですか。まあでもこの作品の主人公は割かししっかり者だ。星歌もなかなか他人を信用できない臆病者なので(オナニーを見せるのとは別次元の信頼についていつも考えているのだ)、二人っきりで留守番になっても、「でも我慢しているんだよ」と言いつつも、もどかしげなそぶりすら見せずにソファに寝ているだけである。ただし着ぐるみの下は全裸で。ボクっ娘に関する認識を改めねばなるまい(あと、なぜ星歌がボクっ娘になったのか想像してみると楽しい)。腫れ物に触るみたいなのは嫌、と主張してみても、やっぱり自分からは言い出せない。二人でいられる時間は短く、終わりがある逃避行のようなもので、そんな中で妹はどうしたらよいのか分からずソファに転がっているだけ。甘くてもどかしい刹那的な時間である。キスをしたいと言ったら、「すれば」って。そして夢中になって「おにいちゃん」だ。部活にも兄妹で参加したいと言い出す。はじめは好きなのかどうか分からないとか強調していたくせに、気がついたらべったりです。本当はただ二人で部屋なり仮想空間なりにずっと引きこもってしまってもよさそうだし、星歌もそのことをよく知っているのだろうけど、それでも社会復帰を選ぶところに感慨深いものがある。花開いていく感じがする。
 個人的にアイドルというシステムが好きでないので、星歌と主人公の選んだ道についてはいろいろと想像すればついていけないところも出てくると思うが、物語自体はとてもきれいなところ、花が開いたところを見せて終わっていたので、面倒なことは考えず気持ちよく彼女の幸せを想像することにしよう。


【雪音】
 雪音はあんまり書くことがないんだよな……。コンプレックスのお話だ。顔が主人公と似ていて地味で眼鏡で、胸が双子の妹よりも控えめで、そういう意味では星歌よりもずっと妹らしい妹なのだが、実は夢見る女の子で、地味な自分が何かに長じたいと思ったら「姉キャラ」になってしまい、なぜか家族や全校生徒の面倒を見るという貧乏くじを引いていた。地味だからがんばるしかない。強迫的なキャラクターだ。「だって……重い奴と思われるし。や、違う、ほんと思い出して欲しいと思ったわけじゃなくてだね……」というツンデレイントネーションのせりふにも、そんなコンプレックスの影が見える。この物語の展開で、主人公の周りに急に美少女たちが現れだしてからさぞかし焦ったことだろう。自分は姉役をがんばってきたけど、兄への気持ちは表には出せず、自分の部屋でこっそりコラや音声を楽しむことや、胸が大きくて包容力あるミューティのマスターとして振舞うことで満足していたら、そんな慎ましい喜び、妹サイズの喜びの日々さえもいつの間に色あせてしまうことだろう。
 その雪音だが、そういう風に思いを秘め隠していたからか、エッチが何気に過激になった。初めてが寝込みを襲う痴漢まがいのプレイで、最中の会話がやけにシリアスだとか、2回目がぶっかけてその後で見て欲しいだとかで、3回目はもうウエディングプレイである。妹力を返すための装置がなぜか大人のおもちゃになっている。地味っ子なのにどうしてこうなったかといえば、それはやはり地味っ子だからだろう。
 星歌もだが、雪音も兄との恋愛であることを真剣に考えていて、公に結婚するのは無理だし、子供を作ることも多分できないけど、せめて一生をずっと一緒に生きていければ幸せだと思っている。けっこう悲壮な人生観である。そして、「……簡単に言うわね。長年連れ添ってきた積み重ねはそんな……」という言い間違いに現れた無意識は、雪音の願いなのだろう。月並みな感想だが、なぜか犬耳メイドになってしまった妹に(またもや過激)、そんなふうに深く慕われてみたい、そしてそんな妹の願いに応えてみたいものだ。


【さち】
 メインライターとは別の人が書いたということと関係があるのかどうか分からないが、さちシナリオは結局最後までどこかちぐはぐな印象が残った。さちがなぜあそこまであの丸っこい兄にべったりなのか分からないし、主人公がお兄ちゃんと呼ばれる感覚もよく分からない。車の人の声が強すぎたのだろうか。それっぽいエピソードがなく、丁寧語ということもあり、妹感も幼馴染感もあまりしなかった。露出プレイに走るのも唐突な感じがした。あとペンペがエロくて参った。
 とはいえ、そのギャップを楽しめた部分もある。特に目を大きく見開かずにフラットに開けると、吊り目気味の不機嫌そうな黒目っ子になって可愛い。絵師さんは全体的にぷっくりしたほっぺを描くのがうまいが、そのほっぺがいっそう引き立つように見える。肩幅が狭くて撫で肩なのも素晴らしく、元気なポニーテイルもすっきりしたうなじも可愛い。要はさちの姿かたちが好きなのだと思う。車の人の声はキャラクターのビジュアルイメージとややずれていたのだが、無理やり合わせようとしないで、まずはさちの性格や姿かたちを思い浮かべて、告白した後で急に舞い上がってチャット魔になってしまうような幼さを思い出す。そしてその後で本来はそうした幼さとは遠いはずの車の人のあの声をかぶせると、なにやらそのギャップを意識してこそさちの個性が浮かび上がってくるような気がして味わい深い。絵だけを見ていると結構妹感がある気がするが、声も合わせると違ってくる。そんな揺らぎがあるから、きっと一緒にいて飽きないのだろうなと思う。一緒にジョギングとかしてこころをムキムキしたい。


【アルファ】
 はじめは散々ごねていたアルファが、「君が必要としてくれるから、人間として生きるという選択肢が生まれた」と言うに至るまでには、アルファ自身にも整理がついていない葛藤があって緊張感があったが、それと同時に、自分の考えを変えて相手を受け入れるときの素直さが美しく感じた。そして、お約束と分かってはいたんだけど、やはりイヤリングをつけて感情が急に溢れ出てきて以後のアルファは可愛かった。「セックスをするのです」「(性的な快感を)ただ分析すればよいのです」とか言っていたあの子が、顔を赤らめたり恥ずかしがったりと色気づいたりして。同時に、急に子供のように無防備な存在になってしまって、部室でこっそり寝泊りしてもらうとか、ほとんどプラスをサーバールームでこっそり飼うのと同レベルである。そりゃあクレープもグワ――――ッとくるし、おいしそうに見えるわな。でも子猫とは違って、自分が消滅してしまうことも考えながら主人公を待ち続けていることを考えると、何がしたいかと聞かれて、泳いでみたい、シャチの鼻で押されて水中からジャンプしてみたい、とまっすぐに答えたことに思わずはっとする。こんなふうに明確なイメージがすらっと出てくることから、アルファが一人のときに何を見たり考えたりしているのかがちょっと覗えるからだ。別れの決意を秘めたまま、外に出て雪と戯れ、プラスのためにスカートの裾を抱えて「ここに溜めて……部屋の中で降らせてみるのです」と言ってフィンランド旅行を想像してみたときもそう。見方によってはあざとかったりありがちだったりするのだろうけど、感情だけでなく記憶の解放の際のやり取りにしても、主人公の突っ込みや反応が適切なこともあり、アルファの言葉や心の動きの一つ一つが注意深く描かれているようで素直に読めてしまう。他の方も書かれているが、アルファが真実の恋や感情の発露といった非効率的な価値に対して臆病であるところに共感して、感情移入しやすいのかもしれない。あるいはテキストだけではないのかもしれない。絵がきれいな作品であることはこれまでも書いたが、アルファルートのイベントCGはとりわけ気合の入った美麗なものが多いように感じた。プラスを肩に乗せているアップの絵は美術品といっても差し支えなく、こういう言語外の質感がアルファの存在感を支えている。最後のCGは笑っちゃうようなベタな構図なのだが、どこか写実的な(人間的な?)アルファの素直な表情に吸い込まれ、会話や音楽を聞いているうちに雰囲気に流され、恥ずかしながら泣きそうになった。


 というわけで皆さんいい娘さんたちだった。彼女たちが可愛いければ、そしてそこに「真実の恋」があれば、現実とか仮想とかどうでもよくなる。それは作品の趣旨からもそんなに外れていないはずだ。


Sekさんにありがたいコメントをいただいた:http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=19980&uid=vostok 

こころリスタ! (さち)

 メインライターとは別の人が書いたということと関係があるのかどうか分からないが、さちシナリオは結局最後までどこかちぐはぐな印象が残った。さちがなぜあそこまであの丸っこい兄にべったりなのか分からないし、主人公がお兄ちゃんと呼ばれる感覚もよく分からない。車の人の声が強すぎたのだろうか。それっぽいエピソードがなく、丁寧語ということもあり、妹感も幼馴染感もあまりしなかった。露出プレイに走るのも唐突な感じがした。あとペンペがエロくて参った。
 とはいえ、そのギャップを楽しめた部分もある。特に目を大きく見開かずにフラットに開けると、吊り目気味の不機嫌そうな黒目っ子になって可愛い。絵師さんは全体的にぷっくりしたほっぺを描くのがうまいが、そのほっぺがいっそう引き立つように見える。肩幅が狭くて撫で肩なのも素晴らしく、元気なポニーテイルもすっきりしたうなじも可愛い。要はさちの姿かたちが好きなのだと思う。車の人の声はキャラクターのビジュアルイメージとややずれていたのだが、無理やり合わせようとしないで、まずはさちの性格や姿かたちを思い浮かべて、告白した後で急に舞い上がってチャット魔になってしまうような幼さを思い出す。そしてその後で本来はそうした幼さとは遠いはずの車の人のあの声をかぶせると、なにやらそのギャップを意識してこそさちの個性が浮かび上がってくるような気がして味わい深い。絵だけを見ていると結構妹感がある気がするが、声も合わせると違ってくる。そんな揺らぎがあるから、きっと一緒にいて飽きないのだろうなと思う。一緒にジョギングとかしてこころをムキムキしたい。

こころリスタ! (雪音)

 雪音はあんまり書くことがないんだよな……。コンプレックスのお話だ。顔が主人公と似ていて地味で眼鏡で、胸が双子の妹よりも控えめで、そういう意味では星歌よりもずっと妹らしい妹なのだが、実は夢見る女の子で、地味な自分が何かに長じたいと思ったら「姉キャラ」になってしまい、なぜか家族や全校生徒の面倒を見るという貧乏くじを引いていた。地味だからがんばるしかない。強迫的なキャラクターだ。「だって……重い奴と思われるし。や、違う、ほんと思い出して欲しいと思ったわけじゃなくてだね……」というツンデレイントネーションのせりふにも、そんなコンプレックスの影が見える。この物語の展開で、主人公の周りに急に美少女たちが現れだしてからさぞかし焦ったことだろう。自分は姉役をがんばってきたけど、兄への気持ちは表には出せず、自分の部屋でこっそりコラや音声を楽しむことや、胸が大きくて包容力あるミューティのマスターとして振舞うことで満足していたら、そんな慎ましい喜び、妹サイズの喜びの日々さえもいつの間に色あせてしまうことだろう。
 その雪音だが、そういう風に思いを秘め隠していたからか、エッチが何気に過激になった。初めてが寝込みを襲う痴漢まがいのプレイで、最中の会話がやけにシリアスだとか、2回目がぶっかけてその後で見て欲しいだとかで、3回目はもうウエディングプレイである。妹力を返すための装置がなぜか大人のおもちゃになっている。地味っ子なのにどうしてこうなったかといえば、それはやはり地味っ子だからだろう。
 星歌もだが、雪音も兄との恋愛であることを真剣に考えていて、公に結婚するのは無理だし、子供を作ることも多分できないけど、せめて一生をずっと一緒に生きていければ幸せだと思っている。けっこう悲壮な人生観である。そして、「……簡単に言うわね。長年連れ添ってきた積み重ねはそんな……」という言い間違いに現れた無意識は、雪音の願いなのだろう。月並みな感想だが、なぜか犬耳メイドになってしまった妹に(またもや過激)、そんなふうに深く慕われてみたい、そしてそんな妹の願いに応えてみたいものだ。

石川博品『平家さんと兎の首事件』

 コミケは3日目に用事が入ったので、結局2日目に行って石川センセの平家さん小説だけを買ってきた。その後、秋葉原に行って普段の職場近辺では見つけられなかった同人ゲーム「西暦2236年」と「彼女、甘い彼女」、ついでに「ノベルゲームの枠組みを変えるノベルゲーム」、及びガラケーのジャンクバッテリーを買ってきた。
 石川センセにはサインももらい、今度は離婚をテーマにした小説をお願いしますと冗談半分の無理なお願いをしてきたのだが、すでに今回の平家さんが離婚後の家庭を背景にした物語で、アクマノツマに続いてまたもや個人的にタイムリーな小説だった。
 作品としては、こういうビターな背景や学校生活のノスタルジックな描写があってこそ、平家さんや及川さんの滅茶苦茶っぷりが映える構成で、ネルリの時と似たような眩暈をおぼえそうになる。別に主人公の翔と平家さんや及川さんの恋愛物語だったりはせず、彼女たちは勝手に暴れまわっていて、翔は妹を気遣いながら彼女たちと仲良く学校生活を送っているだけなのだが、そのキャラクターの濃さと訳の分からない田舎ワールドの空気のおかげで、主人公兄妹(と僕)の悲しみは癒され薄められていく。普通は人が物の怪や怨霊を鎮めるはずなのに、まるで反対である。それから、下校する主人公の視点が急に、下校する生徒たちを引く波にたとえる海の上の漁師の視点に切り替わるシーンがあるが、そういうまなざしの優しさにもやられる。
 石川センセの文章の楽しさについてはいまさら言うまでもない、というか僕にはうまく言い表すことができないのだが、今回も何度も笑わせてもらった。平家さんの古文調の言葉の自在さも素晴らしかった。毎度ながら、自分が日本語話者であることに感謝したくなる小説だ。もう2〜3冊のシリーズ化はできないものでしょうか。

こころリスタ! (星歌)

 大昔の記憶なのであやふやだけど、トルストイの『復活』でネフリュードフがカチューシャの斜視の目に惹かれていくというのを読んだとき、斜視という言葉の意味が分からないまま読んでいて、なぜか黒目の大きな目(カチューシャの目は黒くなかったっけ)、どころ見ているのか分からないほどに大きな黒い目のことだと思っていた。
 この作品では星歌とさちがキャラデザ的に黒目キャラ(性格には目の色は黒じゃないけど)になっていて、そこに惹かれてしまう。大きな黒目(なんか正確な日本語がありそうだが恥ずかしながら知らない)はそれだけで無条件にこちらとの距離を縮めてしまうところがあって、とても美しいのに、なんだかあるだけで目の持ち主を傷つけているというか、痛ましく見せるようなところがあって、全く余計なお世話なのだが同情のようなものを誘うところがある気がする。目の黒さに陰を感じるということなのかな。それとも無防備さか。そんな目をした妹が部屋にこもって、スマホの合成音声で会話していて、自称が「ぼく」で、着ぐるみの中に隠れていたりすると、いくら兄に生意気な口をきこうがやはり微かな痛ましさを感じざるを得ず、普通の他人という距離感は崩れてしまう。星歌は勝手に内面化されて、他人ではなくなる。家族なのだから当然なのかもしれないが、雪音とは違って、あの視線でそうなってしまうのだからお兄ちゃんとしてはこちらの方が業が深い気がする(雪音シナリオは未プレイ)。だからあの告白、自室でのコンサートのシーンの奇跡のようなやさしい雰囲気にはすっかりやられた。
 ところがこれが大層性欲が強い子で、お兄ちゃんは参った。目が黒い女の子が、おっぱいが大きくて性欲が強いとか!もともと自他の境界が揺らいでいるところで、性欲の話をされたら、一緒に変態性を認め合って依存しあうしかないじゃないですか。まあでもこの作品の主人公は割かししっかり者だ。星歌もなかなか他人を信用できない臆病者なので(オナニーを見せるのとは別次元の信頼についていつも考えているのだ)、二人っきりで留守番になっても、「でも我慢しているんだよ」と言いつつも、もどかしげなそぶりすら見せずにソファに寝ているだけである。ただし着ぐるみの下は全裸で。腫れ物に触るみたいなのは嫌、と主張してみても、やっぱり自分からは言い出せない。二人でいられる時間は短く、終わりがある逃避行のようなもので、そんな中で妹はどうしたらよいのか分からずソファに転がっているだけ。甘くてもどかしい刹那的な時間である。キスをしたいと言ったら、「すれば」って。そして夢中になって「おにいちゃん」だ。部活にも兄妹で参加したいと言い出す。はじめは好きなのかどうか分からないとか強調していたくせに、気がついたらべったりです。本当はただ二人で部屋なり仮想空間なりにずっと引きこもってしまってもよさそうだし、星歌もそのことをよく知っているのだろうけど、それでも社会復帰を選ぶところに感慨深いものがある。花開いていく感じがする。
 個人的にアイドルというシステムが好きでないので、星歌と主人公の選んだ道についてはいろいろと想像すればついていけないところも出てくると思うが、物語自体はとてもきれいなところ、花が開いたところを見せて終わっていたので、面倒なことは考えず気持ちよく彼女の幸せを想像することにしよう。