Musicus! (90)

 とてもいい作品だったので整った感想はかけなそうだ。余韻の多くは一晩寝て日常が始まってしまうと失われるので、勢いで書き殴れることだけでも残しておかなきゃ。

・作品の音楽面では特に突出したものは感じなかったがそれは何の問題もない。

・田崎さんルートがなくて残念。ひょっとしたら一番好きな関西弁ヒロインになったかもしれなかった。惚れるしかない外見、性格、声及び発声方法だった。どさくさにまぎれて爆死した金田に共感してしまいかねない素晴らしさだった。

・声といえば、三日月の声も素晴らしかった。あそこまで頭がずれた女の子のしゃべりを作り上げられるとはライターも想定していなかったのではないか。ただセリフに感情を乗せて読み上げて、意味を伝えているだけではなく、一つの話芸として単純に聞いていて楽しかった。それをいうと金田もだけど。というか声優さんは熱演や渋い演技が多くて耳が嬉しい作品だった。

クラウドファンディングには参加しなかったのだが(18禁シーンが入るかよくわからなかったし、なんかいらないおまけにお金を払いたくない気がしたので)、それでも製作者日記と小説はちょっと気になる。まー、作品内の考え方によれば、クラウドファンディングというストーリーで作品を限定的に読まずに済むので(ブランドやロックンロールの美学にも深い思い入れはないし)、より純粋な形で楽しめるということにしておきたい。

・エッチシーンは絵が多くてありがたかったのだが(クラウドで資金が集まりすぎて枚数を追加したりしたのだろうか)、それまでの語りが平均的なエロゲーと違いすぎるのでいきなりエロゲーのお約束が露出したみたいで違和感があった(田中ロミオだったら少しひねっただろう)。でも、考えてみれば、エロは歪なピースとしてごつごつとむき出しになっていてもそれはそれで正しい在り方なのかもしれない。

・瀬戸口作品の技術的な面についての感想、どこがドストエフスキーっぽいとか、どこがトルストイっぽいとかは過去作品の感想で書いた通りで、本作ではさらに質・量ともに充実していたかもしれないけど、面倒なので省略。そういや本作ではペレーヴィンへの言及があったけど、現実を虚構に解体してしまうようなペレーヴィン作品のうすら寒さが澄ルートに似つかわしいのかもしれない。

・本当は三日月ルートや弥子ルートについてじっくり語らなければいけないのだろうけど、澄ルートで傷を負ってしまったので今は書けない。澄ルートは、一歩引いてみると、ありがちなお涙頂戴、ご都合主義的悲劇、典型的なバットエンドなのかもしれないし、EDムービーもベタといえばベタなのだが、ぐさっとやられてしまった(野暮なことを言えば『電気サーカス』にもこういう暗さがあった気がする)。僕はクリエイターを志して失敗したわけでも、純真な女の子のヒモをやったことがあるわけでもない、ありふれたオタクだけど、それでも物語に感情移入してショックを受けてしまった。あれで終わらすのはひどい。幸せになる可能性が閉ざされてしまったのはおかしい。澄が小さな幸せを手にした瞬間って、何度も対馬に弁当を作ってきてあげて話をできたときと、対馬の家に上げてもらって音楽を聴いて感激したときと、それから結ばれて対馬ととりとめのないおしゃべりをしたときと、対馬が作る曲を聴かせてもらっていたときと、子猫を拾って飼うことにしたときと、その子猫とじゃれていたときと、イタリア料理店で二人で夕食を食べたときくらいだろうか。少なくとも描かれている範囲では。嬉しそうなCGは弁当を食べてもらっている場面と、子猫と部屋でじゃれている場面だけだ。ささやかすぎるんじゃないかな。他のルートとの対称効果を狙ったとかあるのかもしれないけど、それにしても少なすぎる。エピソードを増やしたからって何が報われるわけでもないし、別に誰かに対して抗議したいわけじゃないけど、どうにかならないものか。澄が対馬の曲を理解できなくてもありがたがって何度も何度も聴いていたというのは、二人の幸せを示す滑稽で温かいエピソードでなくちゃならない(ついでにいうと、喜んで聴いてくれるというのはすごく羨ましい)。でも、同じことがふとしたことで反転して、いつまでも宙づりの悲しいエピソードになりうるとしたら、それはどうしようもない暴力であり、僕たちはいつその暴力がやってきて足元を崩されるのかという不安を抱えて生きていかなければならない、あるいはすでに何かを失って泣きながら笑顔で生きていかなければならないことになる。確かに、自分の大切な人が何かのすきに取り返しのつかない形で壊され、失われてしまうという不安はいつもどこかにあって、この世界には急に恐ろしい穴が開いたりするのだが、それを僕はフィクションの世界でも味わわねばならないのか。そんなフィクションのおかげで僕はまだ失われていないその人にいろんなことをしてあげられると思い出させてくれるのはありがたいけど、それは澄の物語から目をそらしているだけのようにも思えてしまう。まあ、澄ルートはそれ単独で受け止めるには重くて、他のルートとの対比やセットで認識すればまだ少しは気がまぎれるのかもしれないけど、そのせいでますます澄という存在はさらにやりきれなくなる。作品としては澄の物語は完結しているのだけれど、存在としての澄はちっとも完結しておらず、残酷な宙づり状態のままになっている。そういう甘美な物語に囚われるなという花井の言い分も、物語を排して音だけの世界にのめり込んだあの暗い対馬を見せられると説得力がない。だからって僕の感情もいつまでも宙づりにしておくのは不可能なのだけど。たかが感情だけど、でも大事なことなんだ(おっさんになったからかもしれない)。

・まだ書いておかなきゃいけないことがたくさんあるのだろうけどプレイで消耗して疲れている。本当にクソみたいなことしか書けない。

スクリーンショットもとらずに寝食を忘れて没頭できる作品だった。人との死別とか、人生における何かの探求とか、自分の人生を自分がどう受け入れるかとか、人と一緒に何かを背負うこととか、中年の自分にとっても大事なことに何度も繰り返し直面させる作品だ。これが僕の恥ずかしい勘違いだったとわかればエロゲーともすっぱり別れられるかもしれない。でも、たとえエロゲーの形ではなくても、こういうものはこの先も読んでいきたい。

陸秋槎『元年春之祭』

元年春之祭 (ハヤカワ・ミステリ)

元年春之祭 (ハヤカワ・ミステリ)


 もう一つ、新刊の『雪が白いとき、かつそのときに限り』も印象的なタイトルで、こっちは著者サイン入りだったので一緒に買おうか迷ったけど、立ち読みしてもぴんと来なかったのでやめた。やっぱり気になるのは中国古代を舞台にした中国人による衒学的な小説ということだ(どちらも百合を扱った作品であることは前提として)。現代中国を舞台にした新刊の方は中国小説に期待したい語彙の豊かさはなく、だらだらした文章が続いているように思えた。
 そして予想通り、中国の歴史や文物をあまり知らず、漢の時代の宗教や精神文化もほとんど知らない自分にとっては、多分この小説を実際以上に豊かなものに感じられたような気がする。すぐに人を殴りつけたりする気性の激しい女の子が目立つが、これは古代だからなのか、中国人だからなのか、田舎の巫女だからなのか、それともミステリ小説だからなのか、自分にはよくわからないがそこがよい。この小説を読んでも、この時代の巫女とは何だったのか、どんな宗教だったのか、神明(神)とは何なのか、ぼんやりとしかわからなくて、物の本を探してみたくなる。若い作者が情熱を注いで描いた、さらに若い女の子たちの目に映った、遠い昔のお話だ。経書とか五行とかよくわからない記号システムに縛られた世界の中で(本当は縛られていないのかもしれないがよくわからない)、生きる意味を考えたり、自分の生きる世界を変えたいと願ったりしている苛烈な女の子たち。
 現在から2000年離れているという意味では、紀元前100年も、西暦3000年もそんな違いはないのだろう。この作品の読後感は、ミステリ小説というジャンルに寄せれば、僕の知るものなら西尾維新の小説(戯言シリーズとか病院坂黒猫シリーズ)かもしれないが、真っ先に思い浮かぶのは『ハーモニー』だ。それは本作が小説という虚構だからなのだろうけど、中国に対してもそんなとっかかりが欲しかったところだ。僕の乏しい知識では、中国の古典文学といえば髭の生えたおっさんが髭の生えたおっさんとの別れを惜しんだり、髭もなくなったおっさんが髭だけ残っているおっさんに酒や風景や道徳を語ったりしているしているような、萎えるシチュエーションのものばかりというイメージだからだ。屈原女性説のようなものがもっと必要だ。作者の世代やそれより下では、オタク文化の影響もあってそういう試みはたくさんあるのだろう。中国文化にきちんと入門したいものだが、残念ながら機会がないので邪道を行くしかなさそうだ。

柳宗玄『秘境のキリスト教美術』

秘境のキリスト教美術 (1967年) (岩波新書)

秘境のキリスト教美術 (1967年) (岩波新書)


 いつどこで買ったのか忘れてしまったが何気なく手に取った本が面白かった。刊行は50年前だが、著者は今年1月に101歳で大往生を遂げた美術史の大家(で柳宗悦の息子)だということも後から知った。特に面白かったのはアトス山での調査滞在を述べた章のひとつ、「聖母大祝日の夜」。少し長いが引用しておこう。

 その日、祝祭のために、カトリコンの脇の小聖堂の納められているポルタイティッサ(門の聖母)と呼ばれるその聖母のイコンが、そこから運び出され、カトリコンの聖障の前に安置された。私が聖堂の入り口に立ったとき、先に入った一人の男が、聖母のイコンの方に歩み寄った。イコンは全体が豪華な金属細工で蔽われ、聖母と聖子の頭部だけ、絵の部分が見える。それがいかにも神秘的で、彼方なる霊界からのぞく二つの顔といった感じだった。画面が暗くて目鼻立ちが見にくいのは、その制作時期が十世紀(?)という古さのゆえか、燈明に燻されたゆえか。いずれにしても、暗い聖堂の中で燈火に照らし出されたその聖母子の姿は異様に神秘的だった。
 先に入った男は、イコンに近寄り、その前に立ってうやうやしく口づけを繰り返した。それがイコンに対する強い敬意の表現であり、礼拝という行為であった。そういう礼拝の仕方は、私には物珍しかった。
 突然、私の横にいた修道士が(私は黒衣の彼がそこにいることに気がつかなかった)、私に合図した。今度はお前がイコンに口づけに行く番だ、というのだ。私は思いがけないことを強要されて、どぎまぎして後ずさり、どうしようもなくてそのまま外へ出てしまった。有難いイコンにはうやうやしく口づけするのが当然の礼儀であったのだろうが。
 私は、ふと一抹の寂しさを覚えた。それは私がこのギリシャ正教の世界の中で、よそ者だということを感じたからではない。自分がイコンに対して、あるいは、ビザンティン美術そのものに対して、よそ者なのではないかと感じたからである。
 いったい、私にイコンがわかるのであろうか。私は、おそらくイコンの発生やその沿革、地域的発展やその意義について、アトス山のたいていの修道士よりは、広い知識を持っているかもしれない。しかし私は、イコンの内に秘められた生命にどれだけじかに触れることができるのだろうか。私にイコンを云々する資格があるのだろうか。
 さて、その晩八時から荘厳ミサが始まった。それは翌朝十時まで続くという長いものである。私はただでさえ疲労があるので、典礼の途中で一度寝室に戻り、夜中の二時頃にまた起きて聖堂に行ってみた。
 修道士の一人が、書見台の前に立ち、つやのあるろうろうたる声で巧みに抑揚をつけながら何かを読み上げていた。燈火があたりを照らし、イコンも、聖障も、光冠(巨大な冠の形をしたシャンデリヤ)その他すべての調度も、暗い空間の中で、キラキラと光っている。私は、そこで金色という色彩の意味を、改めて理解した。そして修道士たちの衣や帽子の黒い色も。
 暗い空間の中に、光に照らし出されて立つ黒衣の修道士は、すでに幽界の人のごとくであった。その白い顔だけが、そこにあった。あとはすべて、闇に溶け込んでいた。
 聖母子のイコンの方は、逆に金色燦然ときらめく中に、黒っぽい顔が二つ、こちらをのぞいていた。修道士の朗読がとぎれ、あたりに異様な、恐ろしいほどの、静寂が立ち込めた。その雰囲気は、私たちのふだん知る「夜」とは全く違ったものであった。私は、奇蹟の聖母が今ここでかすかに動いても、その口から言葉が洩れても、何か異常なことが起こっても、別に不思議ではないと思った。数々の奇蹟の言い伝えが生まれることは、当然だと思った。それは、単なる描かれた一枚の絵以上のものであった。それは現実に呼吸している生き物のようであった。
 昼間にこの聖母子のイコンを見たときは、それほどの感じはしなかったのである。とすれば、その神秘的な感じには、昼間とは違った夜の何ものかが働いているのだ。すべてを包み隠そうとする闇、その中で光り輝く燈火、照らし出される金色のイコン……。さらに夜のしじま、静かに輝く祈りや詠唱の声。
 私はふとビザンティン美術というものは、本質的に夜の美術ではないか、と思った。あの暗い聖堂の金色の十字架やモザイックなどは、夜の暗さとそして明るい燈火を必要とするのだ。壁に描かれている絵の世界にも、いつも一種の暗さが支配しており、そこに働く静かな光が、神秘的な効果を生み出しているのだ。

 

(中略)


 食堂での会食は、すでに前日の晩にもあったのだが、食堂で私の目を瞠らせたのは、壁にかかっている夥しいイコンだった。四方の広い壁面に、ギッシリとかかっている。場所によっては三段にもなっている。私はその数の大体を数えてみたが、少なくとも四百枚はあった。
 その主題の大部分は聖母子だが、他にキリスト、天使、聖人、それに聖書の場面もある。それも、まったく無秩序にただ並んでいるのだった。聖書の場面が乱雑にあちこちに散っているのを見ると、イコンにおける説話の図像が、よく言われるような教育的なものだということに疑問が持たれる。奥の壁の中央にだけは、古格を保った大型の立派なものが幾枚かかかっていた。他は、中型小型のものが、秩序もなく、ただ数多く掛け並べればいいといった調子で掛かっている。それはそれとして、異様な風景であった。しかし、個々の絵を見ると、その大部分は近代風の低俗化したつまらぬものであった。宗教的香りなどは全くないのだった。
 なぜ近代風のものがこのように低俗なのだろうか。単にアトス山のイコンに限らず、ロシヤのイコンでも、また壁画でも、近代的になるとたちまち低俗になる。西洋に例をとるなら、教会の絵ガラスでも彫刻でも、近代風のものには宗教的な深みが全くない。ドラクロワの描いたサン・スュルピス教会(パリ)の壁画でも、アングルの下絵によるドレゥーの王室礼拝堂の絵ガラスでも、いかにも低俗なものだ。
 それは、近代芸術の基礎をなす写実主義が、本質的に宗教美術と相容れないからなのであろう。現実界をていねいに移そうとする限り、超現実的なものを表現することが不可能なことは当然である。ナザレ派やラファエル前派が、いかに宗教的感情の表現を意図しようと、結果的には低俗な人間感情の表現に終ったのは、要するに写実主義を抜け出さなかったためであろうと思われる。
 ところで、おそらくアトス山の修道士に言わせれば、これこれのイコンや壁画が低俗だなどと批判するものこそ低俗ということになるのであろう。美術史家や美術批評家など世俗の徒は、宗教画を目だけで見ている。それを信仰の心で見るなら、絵の絵としての欠点などはたいして問題ではない。問題なのは、絵の本体なるキリストや聖母に対する私たちの信仰心なのだ。信仰心さえ篤ければ、聖像の描き方が少しぐらいどうであろうと、人間は、その前で感動することができるのだ……。
 もちろんこれは、私の勝手に想像したアトスの修道士の考え方なのだが、この私の想像を裏づけるような光景を、私は見たのである。
 イヴィロンのカトリコンは、正面入り口左右の壁に絵が描いてある。その壁画はキリストや聖母の説話を数多く描き並べたものであったと記憶する。それはおそらく十八世紀頃のもので、図像学的には、もちろん儀軌に則ったものであったろうが、絵としては崩れており、私は格別の注意も払わなかった。
 一人の五十がらみの平服の男(もちろん聖母の祝日のためにやってきた在俗の信徒であろう)がその壁画の一部をじっと見ていた。飽かずに食い入るように見ていた。私は、彼のその異様な見方にしばらくして気がつき、壁画よりもその男を私はじっと観察した。と突然彼は、蜘蛛のように両手を拡げて壁面にへばりつき、そのある場所に口づけをしたのである。しばらくして彼は、壁の別の場所へ行って、同じようにしばらくそれを見た後、また口づけをした。それから今度は椅子に乗り、高い所の壁面に向かって同じことをした。彼は壁に描かれている場面を一つ一つおい、おそらく福音書に書かれている文章を思い出しながら、祈っていたのだ。その態度は真剣そのもので、絵の美醜を見るといった態度とは、全く異なっていた。それもそれで一つの絵の見方に違いなかった。それhが本格的な見方で、私たちの味方の方が邪道なのかもしれぬ。少なくともアトスの修道士は、そう思うに違いないのである。
 さて聖母大祝日の翌日、空は快晴であったが海は荒れ、私のあてにしていたメギスティ・ラヴラ修道院行きの舟が来ない。その翌日もだめで、私はやむを得ず、一番近いスタヴロニキタ修道院を徒歩で訪れ、最後の晩をまたイヴィロンで過して、山越えの道をカリエスを経てダフニ港に戻った。丸一週間、聖山に黒衣の人々と暮したわけで、帰りの舟がトリピティの手前でアンムリヤニという島に寄ったとき、岸辺に島の女たちを見かけて、不思議な動物に出会ったような気がした。

 それほどドラマチックな体験や発見ではないかもしれないが、自分かつてロシアや長崎で体験したことを思い出した。イコンは美術館や画集でゆっくり眺めるのもいいが、やっぱり一番迫力があるのは暗い教会の中でみたときだろう。疲れていてゆっくり見れないことが多いのだが、イコンの方も疲れた顔をしていることが多い。
 前半はカッパドキアの話がメインで、僕は行ったことはないが臨場感があって面白かった。臨場感があるパートだけでなく、著者が提示した教会美術を読み解くためのツールもわかりやすくてよかった。あとはアイルランドの話も面白かったが、著者はこの時はまだ行ったことはなかったようだ。
 といっても、もっと若い時に読むべき本だったという感が強い。著者がカッパドキアを訪問したのは1966年、50歳頃だが、僕はもうこれほどの体験をできる心はなくしてしまったと思う。せめて他の誰かにこういう体験をたくさんしてほしい。

米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)


 いまさらながら初めてきちんと読んだ米原万里の本。昔、『オリガ・モリソヴナの反語法』か何かが朝日新聞で連載されていたことがあったが、その時は特に関心なかったので読んでいなかった。今回は田中ロミオが書評サイトで紹介していたからだ。
 しかし今回は手放しに評価する田中ロミオには賛同しかねる(僕が読んだのは『反語法』はないが)。前にどこかでちょっと『不実な美女』か何かを読んだときに抱いた感想を思い出したが、僕は米原さんの日本語を評価できない。いかにもビジネス通訳をやっている人の日本語という感じで、色気や余裕がないからだ。
 僕が初めてロシア語を勉強し始めたとき、当然ながらNHKロシア語会話(多分再放送)なども観ていたが、そのとき出ていたのが米原さんとサルキソフさんだった。その後、何かの学生向けシンポジウムか何かで米原さんが話したのを聞いたことがあるが、残念ながら同時通訳として現役で活躍している米原さんを見たことはない。僕が大学生の頃はすでに物書きになっていたし、社会人になったころには故人だった。でも米原さんの通訳としての優秀さや機転については亀山先生だったか井桁先生だったかが言及していて印象に残った。
 仕事柄、ロシア語の会議通訳の人の仕事ぶりを目にする機会があるが、日本人の優秀な通訳、すなわち聞いていて心地よく、安心して聞いていられる通訳は一人しか知らない(吉岡ゆきさん)。日露首脳会談で安倍首相の通訳を務める外務省のお抱え通訳官も含め、その他の人たちは数段落ちる印象だ。僕が知らないだけで、優秀な人は他にもいるのだろうけど。ロシアと欧米のビジネスマンのコミュニケーションのレベルがロシアとアジアのそれよりずいぶん高いことが多いのは、通訳によっている部分もあると思う。和露通訳を通さず、英語でロシア人とコミュニケーションをとっている人はその限りではないが。
 話がそれたが、ビジネス通訳の人の日本語は「細かいニュアンスはともかく、情報(特に数字)が伝わればよい」ということを最優先するので、個性や余裕のない痩せた情報の塊になる。もとの言葉自体もビジネス会話であれば、話す方も聞く方も集中しすぎなくて済むように、定型句が多い。そうした言葉のファストフードを大量に摂取しているのが通訳という人種なので、言葉に対する繊細な感覚が麻痺してくるのだろう。非常に擦れた物言いが多く、神経の通っていない言葉で雑なコミュニケーションをとる。通訳といっても言葉を訳すだけでなく、声色や身振りでごまかしたり、簡単な紋切型の言葉に言い換えてしまうことも多い。
 やや誇張もあるが、米原さんの文章はそういう鈍感な通訳の日本語の典型例のように思える。本書でもそういう鈍感に書き流した箇所、ウィキペディア(当時はなかっただろうが)からコピペしたような箇所がいくもある。
 しかし、日本語が貧弱であっても、物語は結構読めてしまうこともある。本書は米原さんの特異な人生や交友関係を惜しみなくネタにした本なのだから(日常的に東欧とかかわりがある日本人なんてほとんどいないだろう)、情報としてユニークになってしまうのは当然だ。この辺の追悼文などを読むと、人柄も魅力的で素晴らしかったようだ(僕はこんなパワフルな人とはあまりお近づきになりたくないが)。というわけで面白かったけど、別の日本語で読みたかった本だった。しかし通訳は100%の完成度は求められない仕事なわけで、通訳を引退してしまっても米原さんはそういうスタイルで突っ走っていたのだろう。今の時代は80~90年代よりも東欧は日本から遠ざかっているように思う。これからは同時通訳にしても、グーグルアシストがその場でスマホに翻訳した言葉を表示してくれるような時代である(まだ精度は低くて仕事では使えないみたいだけど)。米原さんのような生き方をして、情報を発信する人は絶対に必要だったが、そういう人だからこそ書き残したものは時間の中に取り残されているのを感じる。結局残るのは情報としての情報というよりは、米原さんの筆致の質感のようなものなのだろう。その意味で僕にとっては意義のある本だった。

澁澤龍彦『ねむり姫』

ねむり姫―澁澤龍彦コレクション 河出文庫

ねむり姫―澁澤龍彦コレクション 河出文庫


 先日、今更ながら積読していた『異端の肖像』を読んで、ブックオフで買っておいたもの。あとは『高丘親王航海記』が買ってある。
 澁澤龍彦の作品で最初に読んだのは、大学生の頃に読んだサド『悪徳の栄え』だったと思う。そのあとに『ソドムの百二十日』と『新ジュスティーヌ』も読んだが、当時の自分には書いてあることは実感としてはわからず、ただ文章から立ち上る淫臭(興奮した若い童貞オタクの体臭だったかも…)にくらくらしながらページを繰っていただけで、内容はよく理解できていなかった。三作の違いもよく分からなかった。エロゲーと出会う前のことであり、ひょっとしたらAVとも出会う前だったかもしれない。なんだかすごくエッチなものを見つけてしまったと興奮したのかもしれないが、周知のとおりサドの小説はエッチといっていいのかわからない代物だ。時代的にはロマン主義にかかっていたはずだが、恋愛や純情よりも快楽と肉欲を賛美し、人間とその精神を徹底して即物的に扱うことで精神の勝利のようなものをパフォーマティブに行うサドの創作活動は自分にとっては異質すぎた。
 それからしばらくして、やはり大学生の頃に『さかしま』を読んでいたく気に入った。世紀末芸術に一番はまっていたころだ。たぶん読みやすい澁澤訳だからはまったのだと思う。
 それから他にも何か読んだかもしれないが、20年くらいして今更『異端の肖像』を読んだのだった。取り上げられた登場人物はすでにどこかで聞いたことがある人ばかりだったが、語り口と語りの深度や文体がよかった。そして評論だけでなく創作も読んでみる気になりブックオフに行ったら、おあつらえ向きに近代以前の日本が舞台の作品があったのだった。象徴主義時代の作家や詩人がエキゾチズムを求めて古代や中世、異文明を好んで扱ったように、澁澤龍彦なら日本の中世や近世をよい意味でのスタイリゼーション(様式化、文体模倣)のネタに使うだろうと期待できた。折口信夫の『死者の書』とかそういうの。
 そして期待通りの粒ぞろいの短編集だった。前近代を扱うということは、近代的な価値観を無視してよいということで、これだけ男と女の愛の幻想譚を題材として扱いながらも、その愛は近代的な愛ではなく、あるいは近代文学的な描かれ方をする愛ではない。主人公とヒロインの恋愛や性愛が長々と盛り立てられてハッピーエンドを迎えるかどうかが焦点にならざるを得ないという点でワンパターンなエロゲー的価値観に慣れきってしまった自分としては、前近代の意識に通じる澁澤龍彦即物的で乾いた筆運びは新鮮だ。古い言葉や雅な言葉と軽いエッセイの言葉がまざった読みやすい文章もいい。男も女も割とあっけなく死んでしまうが、別にそれは暑苦しい悲劇ではない。物語の山場となる幻想的で官能的な場面が美しい言葉で語られてしまえば、あとは登場人物にどうハッピーエンドを与えるかではなく、登場人物をどう退場させるのかという語りの技法の問題になってくる。それはこれが短編集だからなのかもしれないけど。
 等身大の恋愛もたまにはいいけど、やっぱり非日常の彼方へと連れ去ってくれる幻想的な恋愛をみてみたい。その不可能性を情念的に湿っぽく描けばロマン主義文学になるけど、前近代的な道具を使ってさらりとした語りの工芸細工に仕上げると、「個人の内面」みたいなものに下品に肉薄はできない代わりに、語られなかったあれこれをぼんやりと想像して美しい絵を鑑賞するように楽しむことができる。近代人が前近代を描くときには、語ることと語らないことは文学的(あるいは文学外的)制約により選択する(正確には、選択の余地なく決まっている)のではなく、芸術作品としての効果や美意識に基づいて仕掛けられたものなので、実際には作者と読者の間のゲームとして回収されてしまうことが多いのだろうけど、それでもどこかここではない彼方を垣間見せてくれるのが幻想文学であり、その加減がここちよい短編集だった。表題作で最初に置かれている「ねむり姫」が一番ヒロインを美しく描いていてよかった。最後に置かている「きらら姫」ではヒロインはまったく登場せず、エピローグで「そんなおっかない女なんかに会わなくってよかったなガハハ」「ガハハ」みたいな落語のような落ちで終わっており、それまでの作品のような美しい姫様の登場に期待しているとアンチクライマックスで一本取られてしまうのだが、幻想をそうやって奥まったところに大事にしまっておくような手法に面白さも感じた。

花咲くオトメのための嬉遊曲 (75)

 セーブデータを見ると震災直前の2011年2月に手をつけて止まっていた。8年前だ。
 春にアニメのハチナイをみて、ゲームを始めて、ようやくこれを思い出した。当然だが、ハチナイよりも野球描写やそもそものモードというか心構えの部分が濃くて、その意味では読んでいて楽しめた。ほとんど野球の描写しかなく、いわゆる日常シーンはすべて野球をしているか野球の話をしている場面ばかり。そもそも日常シーンなんて意味のない概念だけど。
 野球を描くということは、これまでもにいろんな作品で無限に近いほど行われてきただろうけど、たぶん一般的なのは野球の個々のプレイを再演し、熱量を込めて体験しなおすことだろう。この作品はそうしたある意味でだらしのない野球作品ではなく、個々のプレイを記号として支配しているような描き方だ。思ったように体は動く。意思が体を制御し、意思が体に先行している。相当に練習を積めばそういう境地に至ることもあるのかもしれないし、この作品の世界では練習ですらもそういう感じだから、ここを上達させたいと思った時点でほぼ達成されている。だから野球はデータと思考を駆使する将棋のようなスポーツになっていて(実際にそういうところもあるスポーツなのかもしれない)、個々のプレイは心理の読み合いであり、なんだかよくわからない気合とかでどうにかなったりはしない。あるいは、試合の中でそのように見える瞬間だけが意図的に拾われて描写されている。それだけでも劇的になるくらいには野球には無限に近い選択肢があるので、描写はいくら理知的になろうとしてもなりすぎることはない。みんなが自分をコントロールしているように見えるけど、それは見えるだけで、実際にはどう転ぶかは誰もわかっていない。
 そういう描き方だからこその主人公の造形なのだろう。交通事故で野球をできなくなったという意味で去勢されているが、言葉によって自分や世界を制御しきれているので、自分の障害を冗談のネタにできるし、女の子に対して擦れた物言いをするし、エッチシーンではおっさんみたいに下品にヒロインを攻め立てる。すべての男はエッチの際にはおっさんになるとうそぶき、自分は純粋ではないと自虐しつつ。露悪的で結構不快なところがある主人公なのだが、自分からは語らないけどやっぱり若者らしいギラギラしたところがあるのも言動の端々からうかがえるようになっている。
 僕は野球をやるのではなく、見ている。選手であるヒロインたちは見られている。見られているのは彼女たちの心理や感情であるのと同時に、野球をやっている身体だ。その身体はすがすがしいほどに女性的な色気とは関係なく、野球をやるための筋肉として描かれているし、ヒロインたち自身も野球をやるための身体を作り上げていくことに最大の喜びを見出しているらしいという恐ろしい環境であり、絵もそういうごつい女の子を素直にごつく描いて恐ろしいのだが、そういう動くためにある身体が動いて喜んでいるのを見ると(スポ根的に苦しんでいるのではなく、ギリシャ的というかソビエト的に喜んでいる。実際、絵柄はデイネカの絵のように社会主義リアリズム的な働く女性の身体を強調している)、こちらもその充実感に感染する部分がある。そして、おっぱいがある(なぜか母乳も出るが、これも充実感が充実しすぎているからだろうか)。そう考えると、野球という進行の遅いスポーツは、身体をゆっくりと、舐めるように鑑賞するのに適した芸術であることを意識せざるを得ない。おっさんたちがやっているプロ野球をおっさんたちが観るのが好きなのは、不健全であると言わざるを得ない。本当はプロ野球は美少女がやるべきなのだが(『後宮楽園球場』でも実証されている)、おっさんたちはそこに底なしの美の深淵があることを無意識に理解して恐れているので、おっさんたちを見ることで踏みとどまっている。あるいは、古代ギリシャ人のように男の動く身体の方が女の身体よりも美しいと思っているのかもしれないが、僕はそういう話はしたくない。プロ野球よりも女子高校野球の方がある種のレベルは高いのだ。
 ヒロインたちの身体は、口よりも雄弁だ。紅葉の心は小学生の頃のまま、野球をする主人公の姿にとらわれて惚れ込んでおり、主人公の不快な性格など見えていないが、彼女の身体の方はもう完成されている。そのギャップは青春の一時期ものであって、やがて心の方も成長だか成熟だか老化だかしてしまうのだろうけど、そんな未来のことなど想像もできないまま彼女は現在の中にある。
 身体に目を奪われているということは、記憶の中ではなく、現在という瞬間の中に意識を固定し続け、目の前の現在を生き続けていることのように思える。でも、彼女たちの若くて美しい身体はこのときのだけのものであり、彼女たちはその現在を惜しげもなく野球に捧げているし、主人公が野球をする彼女たちといられる時間も人生の中のほんのひと時に過ぎない。エピローグはどれも、ヒロインとは完全に溶け合って一つになることはなく、肩を並べたり背中を合わせたりしながら、燃焼していく現在をかみしめているものばかりで、幕切れの文章がうまいので読後感がよいものばかりだ。バッドエンドもそういう時間に対する賛歌のようなものになっていて素晴らしい。この作品で一番印象的な絵は、女の子たちが打ったり投げたりしている絵や立ち絵を除けば(この辺とか明らかにエロゲーの絵の文法と違っていて見入ってしまう)、バッドエンドの寝そべって肌を焼きながら心の中を覗き込むような目でこちらを見上げている紅葉(と紅葉のおっぱい)の絵だ。15年前に発売された作品を8年ぶりにプレイした。この作品の中の現在はとっくに流れ去っており、僕はもはや週末でさえもめったに体を動かさなくなってしまった中年のおっさんだ。そんな自分を遠い過去からこんなふうに見つめてくる彼女のまなざしに心がざわめく。おいていかないでと言っているようだが、おいていかれようとしているのはこちらだと思い知らされるからだ。

マイクル・コーニイ『ハローサマー、グッドバイ』『パラークシの記憶』

 ブックオフで何かの小説を探していて偶然手に取って買った。訳者解説が熱が入っていたからかもしれないし(SFの解説はそういうのが多い)、表紙のイラストがよかったからかもしれない。特に『ハローサマー、グッドバイ』の方はヒロインのブラウンアイズが可愛いし、青い色もきれいだ。 

ハローサマー、グッドバイ (河出文庫)

ハローサマー、グッドバイ (河出文庫)


 ハローサマーの方はサリンジャーの小説に出来るようなアウトサイダーな感じの少年の初恋を描いた恋愛SFで、少年の苛立ちとかときめきとか、田舎の港町の夏休みの雰囲気がよかった。少年はある種のエリート市民だし、ヒロインは庶民(居酒屋の看板娘)だし、現代のオタクとしてはリボンが救われなかったこと、ハーレムを維持できなかったことは看過できないし、そうはいってもなんだかテンプレ的なツンデレ表現が古いイギリス作家の小説から出てきてしまったことにやや困惑したし(訳者の文体が軽いことにも原因はある。確かイーガンも訳している有名な人だと思うが、訳文は文字の美しさやリズム感もいまいちだった)、できすぎたようなボーイ・ミーツ・ガールがちょっと軽いと言えないことはないけど、ハッピーエンドの瞬間をぎりぎりまで引き延ばしたのはよかったと思う。きっと作者はその後の話を書き継ぐこともできたのだろうけど、小説としての完成度のためにはあそこで終わっておくのがよかった。 

パラークシの記憶 (河出文庫)

パラークシの記憶 (河出文庫)


 次のパラークシの方は、1990年代に書かれた続編だそうだ。舞台設定は見た目こそ19世紀の地方をモデルにしたという前作から中世くらいに後退してファンタジーに近づいたけど、実際にはインターネット時代の情報処理と倫理を感じさせるものになていて、語り手もサリンジャー的少年からより後の時代の無個性で安定感のある少年探偵みたいになっていた気がする。前作のリボンと比較するなら、ファウンにもっと三角関係的な意味で頑張ってほしかったが、なんか妙に積極的に性描写があったりするという意味でも結構世俗的な作家だなと思った。
 SF設定の一つに過ぎないので単なる仮定の話しかできないが、先祖の記憶を完全に引き継ぎ、再生するように生きなおすことができるというのが面白かった。確かに社会の進歩を止めたり、近親相姦と表裏一体の性欲の喪失(動物レベルまでの後退)が起きてしまったりするけど、嘘をつく意味が消滅し、子孫に見られているという感覚から倫理観が強化され、なによりも人生の素晴らしい瞬間を最高の再現度で何度も反芻できるという嬉しい能力だ。本を読むこと、エロゲーを楽しむことにも通じる、瞬間と継続、反復と固有性の問題系だ。恋人との最高の瞬間、恋人の最高に魅力的な表情を、記憶の中で完全に呼び出せる喜びを地球人である読者に語りかける主人公が素直にうらやましい。
 前作で我慢していたご都合主義的なストーリーテリングは、今回は結構節操ないハッピーエンドになってしまったが、こんなふうな現代的な感性の作品なので仕方ないと納得することもできる。しかし、こういう箱庭的な創世神話を上演する作者はそれに満足するのだろうか、上演を魅せられた読者は満足すればいいのだろうか、という問題は残る。『アバタールチューナー』ではそこらへんは劇的なアクション展開と感情の振れ幅の大きさで押し切っていたような気がする(あまり覚えていないが)。コーニイ作品では恋愛物語としての情感と上記の記憶の魔法の魅力だろうか。

薬屋のひとりごと

 田中ロミオのシミルボンで紹介されていたのがきっかけで、「薬屋のひとりごと」お盆の前から読み続けてようやく最新話まで来た。長編のなろう小説を読むのは「幻想再帰のアリュージョニスト」(途中で読み止し、いつか再開したい)以来だ。
 「後宮楽園球場」もそうだったけど、後宮小説というジャンルの心地よさが素晴らしい。ファンタジー小説みたいなものかな。「Dragon Buster」のような中華ファンタジーの心地よさもあるのかもしれない。とうの昔に陳腐化してしまった西洋風ハイファンタジーとは違って、新鮮な感じがする。合戦とかRPG的な王国政治とかの代わりに、後宮若い女官たちの日常生活という小さな世界を細密画的に描き込んでいくのがよい。ロミオ氏も書いている通り、女官たちの日常というそれだけで華があるので、強いて大恋愛を劇的に描きたてる必要もなく、オタク的ファンサービスを過剰に入れる必要もなく、薬学をはじめとする中世の博物学的なネタのミステリーと女官たちの悲喜こもごもを描いていくだけで心地よい絵になる。といっても、楼蘭妃編の劇的で目まぐるしい展開と妃の運命が一番印象的だったかもしれない。子翠と猫猫がわずかな時間しか一緒に過ごせなかったのがさみしい。もっと温かいエピソードも堪能したかった。
 最初の後宮編が終わると砕けたネットスラングや現代ネタも交じり込むようになり、キャラクター描写にもラノベ的テンプレが入ってきたりしてちょっと残念に感じる部分もある。コミカライズもされているそうで、キャラクターデザインをちょっと見た感じはそんなにおかしくはないようだが、やっぱりこの小説はイラストなしか、あるいはキャラクターイラストなしで読んだほうが想像が膨らんで楽しめるような気がする。マンガ的キャラデザをみるとそれにイメージが引っ張られてしまう。例えば壬氏は作中であれだけ常人離れした美貌だとされていながら、マンガだと普通の美形キャラになってしまうだろう。猫猫の冷めた表情にしてもマンガやイラストではあまり見たくない気がする。といっても、雀くらいキャラクターとしてデフォルメされてしまうと(ほとんど化物語シリーズを読んでいる感覚)、もはや正しくライトノベル的にキャラクターを楽しむ読み方をするしかなくなってしまう(雀は好きなキャラの一人だ)。なんだかんだいって女官たちが華でいられる時間はそう長くはなく、だらだらといつまでも書き続けてほしいシリーズである一方で常に時間の流れの無常さの影を感じられるのが素晴らしい。これこそがファンタジー時空の醍醐味だ。
 こういう小説をたくさん読んでいれば僕も少しは王朝女流文学とか好きになれていただろうか。

エヴァとハチナイ

エヴァQ
 エヴァンゲリオン新劇場版Q(2012年)を観た。
 あまり評判は良くなかった気がしていたが、観てみたら結構よくて、中だるみも感じず最後まで見入ってしまった。エヴァの世界で何か新しいことをやろうとしても、たとえそれが公式のものであったとしても、すべてが二次創作のように見えてしまう環境の中で、今までのエヴァを裏切らないものを作ろうとすればこうなるかもしれないと納得できるものだった。かつてのような圧倒感を体験することはもはやなかったけど、それも含めての続編ということだと思う。結局、エヴァは単にストーリーで語られている出来事の連なりとしての物語なのではなく、それを作ったことや観たことも含めての作品という祝福された創作物だ。
 印象に残ったのは、陰鬱や廃墟や暗い巨大構造物(ロボットや選管も含めて)の物量感だ。エヴァが世に出てからの年月、僕がエヴァを初めて観てからの年月、いつの間にかここまで大量にグロテスクなものが堆積し、撒き散らかされてしまったかという感慨だ。旧劇場版でも巨大な綾波の残骸のようなグロテスクなものは描かれたし、テレビ版の頃から内臓をぶちまけたオタクのような痛ましさはあったわけだが、今回はそれが造形美的なインパクトを失って時間がたち、薄暗さが皮膚感覚になってしまったような世界になっていて、まったく居心地は良さそうではないのだけど、これなんだよなと安らげそうなものを感じた。夢の中の感覚に近いのかもしれない。レイがいないことで悪夢のようになった世界なのかもしれないけど。
 登場人物たちもみんなどこか疲れたみたいで、シンジに説明するのも億劫で(チョーカーのボタンを押せなかったミサトを好意的に解釈すれば、シンジをこれ以上巻き込まないためにみんながわざと彼と距離を置いているのかもしれないが)、誰も元気に笑ったり和んだりする気力がない。(マリを除けば)元気があるのはアスカだけだ。この作品にはシリーズを通していろいろとモチーフの反復や対称があって面白いが、最後のアスカがシンジの手を引っ張って歩いていくというモチーフには、破でレイを引っ張り出したシンジや、旧劇場版の最後で手を触れることなく気持ち悪いと言うしなかったアスカと対比したくなる良さがあった。映画の古典的な手法だろうが、最後に遠くに歩いて行って小さくなっていく終わり方もよかった。

八月のシンデレラナイン
 アニメがあまりによかったので(ひいきにしている野球チームが今期はいいとこなしなのでフィクションは一層爽快に感じられる)、ついに初めてソシャゲーに手を出してしまった。といっても何がソーシャルなのかよくわからず(まとめブログ「ハチナイ速報」を楽しめることだろうか)、ひたすらいろんなパラメータを理解して数字の最適化を目指すパズルのような作業を続けるだけで、それで週末の時間の大半がつぶれて生活に支障が出るのだけど、そんな無意味な作業をやりながら高速で明滅するヒロインたちの絵や声(大半は単純な反復)の流れに身を浸していると、これは東方シリーズにおける弾幕と同じようなものだと思えてくる。大量の数字に身を浸し、明滅する花火を眺めている。ある種のデータ浴のようなセラピーなのだろう(作品のコンセプトである「青春・女子高生・高校野球」のよさや各キャラの可愛さを堪能した上で)。長時間やっていると逆に疲れるが。ちなみに現在の僕のチームは評点が約1万5000、キャプテンは宇喜多茜、ピッチャーは岩城良美、最強に育てたいのは野崎夕姫。無課金でどこまで飽きずに続けられるかはわからないけど。

ウィザーズコンプレックス (75)

 マルセルさんのおすすめや討論会のおかげで結構事前の期待値が高まってしまったけど、やはりアイリスと学園長の関連が一番面白かったかな。といっても、先達の言葉に飲み込まれないようにと意識したせいで、かえって少し限定された読み方になってしまったかもしれない。他にはamaginoboruさんの整理の仕方が参考になった。

〇学園長と作品の枠組み
 学園は教育施設なのだけど、基本的には放任主義だ。学園長はパッシブな教育者であり、大枠を定めただけで、あとは学生たちが勝手に何かを学んだり得たりするのを待っているだけだ。学園は教育を受ける場ではなく、疑似的な社会であり、そこで多少無茶なことをしても物事を解決できるという陽性体験を与えることが、事後的に教育となる。大戦制度が学生に悪い影響を与えたとしてもそこから何かを学んでもらえれば結構だし、大戦で死者が出るような惨事が起きたとしても(生き残った学生たちが)そこから何かを学んでもらえれば結構、今度は自分がその罪を背負って生きていくだけだ、とまでは考えていないかもしれないけど、多分惨事が起きることは想定していないし、これはハッピーエンドを約束されたエロゲーなので実際に起きない。反対にすべてが安全地帯で健全な教育的配慮の下で行われるのは生ぬるいし、少しばかり傷ついても人はその傷を抱えて生きていくべき、というイデオロギーを背負わされたのが学園長だ。
 アイリスルートの終盤でやや唐突に挿入される過剰な母子の感動シーン。ここでは学園長は母親的なものイデオロギーを背負わされて人格が消えているようで、ストーリーラインを突き抜けた不気味なぬくもりと化している。だからこそ、5戦目で授業をさぼらせるルールのゲームを設定して教育者としてはタガが外れた行為を行い、自分も大戦に参加して楽しみ、批判もされ、あわよくば罰せられたいというはた迷惑な願望を抱いたのではないかと想像したくなるような余白がある。大戦制度について「仕組みが悪いんじゃない。使い方が悪いだけ」というアイリスは、学園長を代弁しているようにも弁護しているようにも思えた。そしてそんな風に弁護されてしまう学園長の残念さがよい。学園長本人はそこまでは考えていないかもしれないし、考えていたとしても一連の流れに抵抗せず、受動的なキャラクターであり続けているところにアイリスと同じ宿命が感じられて、ときどきアイリスが学園長と似た表情をするのをみて、それがエッチシーンにもあったりするとますますほっこりした。
 エロゲーではプレイヤーはクリックしていくことしかできないのだから(あとはエッチシーンで主人公と同時に達することくらいか)、勧善懲悪の隙のないこじんまりした作り話を見せられてもちょっとむなしい。欲望は割れ目や隙間に惹きつけられる。アイリスをはじめとするこの作品のキャラクターたちのように、どこかに不連続なものや暴力的なものを感じさせる日常に浸されながら生きていくのがちょっと現実的でいいような気がする(この辺の感覚は作中ではシャリーにもあった)。作品外も含めたコンプレックス、複合体としての作品だ。

〇アイリスと自他の境界
 作品との距離がそんなだとヒロインを好きになったり信じたりすることは難しくなるのかもしれないけど、そこはオタクなので絵や声を媒介に都合よく処理できたりする。というわけで、一度共感してしまうとよっぽどのことがないとアイリスを嫌いになることはないし、そのよっぽどのことは起こらなかった。言動があまりに幼かったりしても基本的には温かく見守るだけだ。そんなセリフは聞き流せばよいのだし、それは僕だって成長しなくてもよいのだということを保証してくれるあそびの部分だと考えてもいい。
 アイリスのどうしようもなさはアイリスの可愛さで中和され、さらには昇華されるので、別にアイリスが好きだという散歩をするのを眺めているだけでも心地よい(部屋の中を立ち絵がシュールに水平移動するのが素晴らしい)。アイリスは歩いていると何も考えないでいられるので散歩が好きだというが、こうしたプチ体育会系快楽主義はトルストイが農業に精を出したのと同じだ(性欲魔人だったトルストイに例えるのはアイリスに失礼か)。月光浴が好きだというのにも、そうしたひんやりとした小さな快楽主義が感じられる(こんな書き方をしてしまっても絵を見ればアイリスのきれいな感情が伝わる)。アイリスの魔法属性は光。浄化するもの、消失するものとしての光は、破滅と浄化を望みながらも空虚であるアイリスによく似合っており、僕の汚い欲望や同一化のまなざしもきれいに吸い込んでくれる。ママ……。
 アイリスが告白したシーンはきれいな流れだったと記憶している。いつものぐずぐずとしたためらいがなくて、「好きです」から始まって思い切りよくどんどん踏み込んできて驚いた。字面を見てもエロゲーとしては標準的な告白のセリフなのかもしれないけど、あのアイリスが言葉を詰まらせずに「私に頼っていいよ」と言い切ったり、「その言葉、信じていい?」と聞いてくるのはじわりとくるものがあった。
 アイリスルートの、主人公が実は異邦人で外国人的な立場にあるという指摘にどれだけ意味があったのかはわからないけど、仮に他のルートではそんなことには気づかなかったとしても、いろいろと不安定なこのルートでそのことに気づいたのは適切なのかもしれない。このルートでは主人公は一番ヒロインに似て声が小さく(主人公なのだからある意味で当然だが)、似た者同士だったと思う。主体性が発揮されたのはアイリスに寄り添うという行動のときのみだ。アイリスにとっては必要なのはあからさまな他者(王子様)ではなく、自分によく似た他者であり、自分の一部として自己愛に近い感情で愛せ、しかも頼れる人だ。
 そんなわけでアイリスは最終的には少し調子に乗りすぎて失敗するくらいが可愛い。ほのかとの一騎打ちの最後の一手とか、最後の閉会式で唐突にお付き合いしてますと発表するところとか微笑ましたかった。ちなみに、閉会式でアイリスとほのかがようやく念願を果たすシーンでは、二人の特徴的な立ち絵が使われていて、アンドレイ・ルブリョフの三位一体の天使たちのイコンによく似ている。ここにはいないもう一人の天使は学園長の立ち絵がしっくりきそうな気がするがやめておこう。あと、一言付け加えるなら、「おっぱいが大きくて元気な私」は実はアイリスのもう一つの姿だ(謙遜しているだけで相当大きくてよい)。

〇ほのかと女の子の概念
 ほのかはキャラクターとしてはどちらかといえば苦手だった。アイリスの言葉を借りて言うとこんがらかるかもしれないけど、「恵まれている」女の子過ぎて、ついていける自信がなくなるからだ。ちょいフランス語とか、序盤でなんかよくわからない皿とか紅茶の葉っぱの話が出てきて、こりゃだめかもと思った。「女の子っぽい」にも僕にとってよい「女の子っぽい」とよくない「女の子っぽい」があって、我ながら自分勝手だが、ほのかと恋人同士になったとしても、竜胆家のご両親(上品で朗らか)ともお近づきになるのは大変だし、自分のいろいろなところを否定していかないとだめなのだろうなと思われる。「王子様」になるには歳を取りすぎたかも。ほのか自身には何の罪もないし、むしろ一葉がいなかったらいろいろとあらぬ誤解を受けて人生苦労しそうな人ではある。
 そんなほのかだが、告白からエッチまでが速攻すぎてやや面食らい、楽しくなった。そしてエッチシーンでは永遠に続くかと思われるような長い喘ぎ声。いや~、エッチなヒロインはいいですね。こんな感じで運命の相手と出会ってそのまま幸せを突っ走るというのもいいのかもしれないが、ほのかという女の子を魅せる展開というよりは、学園の制度を改革する話が多くてほのかの印象は薄くなった。印象に残った、というか笑ってしまったのは、アイリスとの戦いの美少女サンドイッチだ。その前にシャリーが魔力をすべて主人公に吸い取られて降参するというのもちょっとエッチだったが、このサンドイッチでなんだか苦しんでいるらしい主人公が楽しそうで、かなりかっこ悪くてよかった。エピローグで申し訳程度にコンプレックス要素(「大戦システムというコンプレックスを解消」)が出てきたこともよかった。

〇一葉と愛の構文
 一葉のセリフは、同じくらいの長さの文が多くて、あまり緩急がない。「~だけど、でも~ね」といった2つのブロックがセットになっている印象で、主語が長いことが多い。日本語は主語が長いと重たく感じる。一葉の言葉はそうした自制の言葉であり、語彙も硬い。偶然にも本作のヒロインと名前が同じノラとと2のアイリス・ディセンバー・アンクライの声優さんだが、アイリスは元気でコミカルで声の幅が広いヒロインだったのであまり気にならなかったが、一葉は割とモノトーンなサムライガールなのでちょっと重苦しい印象がある(ちなみにノラととのパトリシアの声優さんがこちらのアイリスになっていたせいで、アイリスの深刻なセリフにもどこか愛嬌が感じられてしまったかもしれない)。そのことは本人も自覚があったのかもしれない。一葉は愛の言葉を囁けない。主語が長い構文は向いていない。でも囁きたい。他の言い方ができないけど、でも言っておきたい、という気持ちがせめぎあっている言葉であり、発声のように聞こえる。
 だからこそ、エッチシーンでは窮屈な一葉が窮屈で甘美な言葉の直後に開放的すぎるポーズをとってしまっていて微笑ましい。特に唐突感のある最後のエッチシーンの構図は、エロゲーとしてはそれほど珍しいものではないが、一葉という女の子を考えると濃密な秘教空間というか、一対一に包み込む幸せな空間であって、剣士・一葉の達人の間合いを堪能できるのであった。あと最後の海の絵も可愛かった。
 話が前後してしまったが、一葉の物語は、ほのかへの依存の話だった。「ほのかの隣にいること以外は何もする余裕がない」という自分への言い訳。そんな息苦しさを抱えながらもまっすぐな彼女が、お守りとかぬいぐるみとか、小物に自分の気持ちを託そうとする弱さをみせるのがよい意味で女の子らしかった。こんな子と素直に甘えあっていくことこそが幸せってもんだろうな。

〇鳴とキャラクターのサイズ
 キャラクターとしての完成度が高すぎてコメントをつけるのが難しい。セリフの引用を羅列しておいた方がましかもしれない。「女子としてそいつはだめだ!」「は~、やっぱあいつはダメだな。ここは、あたしがちゃんと恋愛について教育してやらないと……」「いやもう、背伸びすんのはむりだとつくづく思ったね」「ははは……とたんにキャラが男っぽくなったな。すっげぇリードされてる感じがする」「性的な目で見られるの、嫌いじゃない。エッチな目で視姦されたら、報われるって感じるんだ……」
 こういったことを素直に口に出してしまっても決して男臭くはならない。でも単に羅列しても、鳴の声や表情がないとだめっぽいようだ。鳴の楽しさは、しいて例えるなら、『最果てのイマ』の子供時代のあずさや『こころリスタ』のまりぽ先輩、あるいは赤毛のアンの楽しさと近い。「あんた」という主人公への奇妙な呼びかけは、「おたく」が起源なのかもしれないけど、慎重さと気楽さと雑さが鳴なりに混ざった独特のニュアンス、距離感になる。腕を組む思案顔の率直さ、裏表のなさちんちくりんさ。目はそらしても顔はそらさない。ぶっきらぼうな語尾だけど丁寧な突込み(愉快なオタク)。告白も思い切りがいいし、すごく嬉しそう(a, b, c, d)。
 鳴の物語はキャラクターが完成しているので何であってもよかったのかもしれないが、とりあえず「ガチ勢とエンジョイ勢の物語」だったとしておこう。もともと素直な言動の子だから、ターニャのように拗らせすぎることはなかっただろうし、鳴がガチ勢に紛れ込んでしまった方が間違いだったのかもしれない。鳴にとってはそれは子供らしい全能感のモードと同義なのだろうし、病的なほどに去勢された人でなければ、人は誰でも自分の中に多少のガチの分野とエンジョイの分野くらいは持っているだろう。それを無理やり自分の生き方だと思い込んでしまったことによる喜劇という程度の話だったといったら鳴に失礼かもしれないが、そんな軽くてさわやかな読後感だった。エピローグの「じゃ、ゲームでもするか」の絶妙な軽さ。
 一言、奇妙なパラレルスピークの魔法についても。事前情報でキャプチャーを見て、『ギャングスタ・リパブリカ』を引き継いでこういうのがどのルートでも延々と展開されるのかと思っていたけど、このルートにちょっとあるだけだった。「強大権力生徒会(オリガルヒ)」にニヤリとしてしまったが、これも含めておおむねこっぱずかしいラップバトル(?)だった。念のため無粋なつっこみをしておくと、オリガルヒはどちらかというとネガティブな言葉なので本人たちが自らオリガルヒと名乗ったことはないし、90年代の遺物であって2000年代以降にはプーチン政権に牙を抜かれてしまったので政治力は有しておらず、その辺を勘違いしているターニャのナイーブさを愛でるしかない。パラレルスピークはパロールエクリチュールを同時に作用させるものとのことだが、「パロール」の英語も「エクリチュール」の日本語もこっぱずかしかった。でも鳴はそういうことも素直に言える子なんだな。

 序盤を進めながら思ったのは、これは鬱病者としてのアイリスがストレスにさらされ続け、周りを気にかける余裕もないまま苦しむのを眺める作品であり、こういうぎりぎりの人間はまわりに迷惑をかけながら生きていくしかないし、まわりはそれを許してあげなくてはいけないということを説く病理的な物語であり、でもアイリスは天使のように可愛いので僕の現実認識に対する癒しであるという結論なのかな、とやや物騒なことを考えていた。でもアイリスはどうやら幸せを見つけたみたいだし、繰り返しになるが、実はおっぱいも大きくて元気なアイリスにもなりえる存在だった。もっと幸せな物語はいくらでもありえたのかもしれないけど、このアイリスが一番なのだと思う。

・あとはおまけシナリオを少しずつやって追記かな。

 

屈折と没入の時空間 (2019年11月3日追記)

 最近は本の感想ばかり書いていたが、ようやくおまけシナリオ(エッチシーン集)が終わったので、せっかく文化の日だし、エッチシーンについても少し書いておこう。といっても最後に終えたアイリスの最後のシーンについてだけだ。本編ではなかったサブキャラのシナリオもあったが、他のはだいぶ前に終えたので印象が薄れてしまっているし(手元の一言メモには「ターニャ:思い込んでからがっつくのが早すぎる」「シャリー:勝手に話を進めて思い込むという女の面倒くささ、でもエロいし可愛い」とあるがこれを感想とするのは申し訳ない)、感想を書くためにエッチシーンを見直すというのも本末転倒だ。

 アイリスは勉強して看護婦のコスプレをしてエッチすることを決心して提案したわけだが、主人公は医師という設定になっており、アイリスはなぜかいきなり主人公に性的診察をお願いする流れになるので、看護婦のコスプレをした意味がない。助言したという鳴と一緒に何か勘違いをしたようだ。これが屈折のひとつ目。

 構図がよかった(これは寄ったもので、もう少し引いた構図の方が分かりやすいがいろいろなものが映ってしまう)。といっても線や肌や衣服の描き込みに特に気合が入っているわけではなく、もっと煽情的で官能的な絵は他にあるのだが、この作品で最後に終えたエッチシーンがこれでよかった。おそらく普通の遠近法よりも下半身がやや大きめに描かれており、上半身はやや小さめだが、顔は(アニメ絵なので目が大きくて)遠くにある感じはしない。アイリスは主人公に後ろから挿入されているのだが、アイリスのやさしい表情や声のおかげで寝取られ感や窃視感は希薄で、プレイヤーである僕の視点はアイリスの背後と正面に二重化して存在することになる。少なくとも視点が3つに分裂している(アイリスの下半身、上半身、目に合わせて;アイリスのうなじなどとして物理的に描かれてはいないが、エロゲー文法的にはアイリスの背後に第4の潜在的な視点も想定できる)、おなじみのイコン的な逆遠近法だ。これが屈折、というか非連続性と跳躍のふたつ目。ここまではエロゲーではよくあることで、アイリスのやさしい顔ときれいな声に魅入っているうちに目的が達せられて終了しても別に不満はない。

 ところがここでさらに一つの屈折、ひとつ小さなひねりが入る。アイリスが聴診器で自分のおなかの音を聞いて実況し始めるのである。診察に看護婦と医師がいれば、聴診器を使うのは普通は医師なのだろうが、なぜかアイリスが勝手に聞いている。はじめはおなかを突かれる音らしいのだが、やがて子宮口を押す音や、角度を変えたときのゴリゴリいう音、中で動くときのぐちゃぐちゃいう音となっていくと、僕は聴診器で聞いたことがないのでわからないのだが、そのうちにアイリスが伝えてくれるのは実際に聞こえている音ではなくて、物理的な音を超越した何かなのではないか、だからアイリスは次元の壁を越えて僕に伝えることもできているのではないかという気がしてくる。描かれたものや聞こえている音が制約性のあるかりそめのものに思われてくる。アイリスの言葉に倍音が混じり始める。コスプレっぽい下品なピンクの看護婦服の色合いも、気がつくとやさしくて温かい色に見えている……。

 本編の感想では書き漏らしてしまったが、BGMにも触れておきたい。「濡れ光る唇」という官能小説みたいな残念なタイトルなのだが、寂寥感と閉塞感を透明な光や風に溶かし込んだようなよい曲だ。これも別にエロゲーのBGMとして珍しいタイプではなく、ONE、Kanon水夏あたりにあったような少し古い感じの曲で、僕のエロゲーのエッチシーンの原風景にもつながっている。本編でもこの曲のおかげでエッチシーンの質がずいぶん上がっていたが、このおまけシナリオでも活躍している。アイリスの顔や声に魅入りながらこの曲を流されると、深い没入感で少しトリップしたようになり、やはりエロゲーは麻薬であったと喜びをかみしめざるを得なくなる。

 ……と賢者モードの僕は書くのだが、現実には身体の衰えを感じ始めている中年のおっさんである(今日は少しジョギングしたい)。でもエロゲーをやっているときの僕は今も主人公の年齢(あるいはエロゲーを始めた20代半ば)に一瞬で戻ることができて、それはこの先何十年経っても変わらない。そういう感覚を抱けるのが没入するということだ。

今度は、どんなこと、してもらおうかな……」 たとえ実際には何にもできなかったとしても、だからこそ描かれえない実際では何だってしているし、「今度」は同時にすぐ近くでも何十年先でもあるような、あるいは永遠のいつもでもあるような位相の時間なのだ。