冬に時間は流れるか

 「凪のあすから」は陰影に富んだ青がきれいな作品だ。後半に冬が舞台(というか時代?)になってから、地上は古びてひんやりとした田舎町になって、海の中も廃墟のようになってしまった。5年の時間が過ぎた間に、みんなの思いはまわりの風景ほど劇的に痛ましくではないけれど、同じようにひんやりと凝結し、ひび割れ、痛ましく純化されていった。風景は心象を先回りしてくれ、抱えるのに疲れた感情を負担して受け入れてくれる。廃墟の癒し効果と言ってしまってもいいのだろうけど、この作品の青い廃墟は、丸みのある繊細なキャラクターデザインや、気持ちを内面に飲み込みがちの台詞回しや、きれいな声で、時間の中で折り重ねられ、積み重ねられていく片思いの甘い痛みを、ひんやりと冷やして、空気の中に溶け込ませていく(空気の温度と恋愛というネタでは、前に「春萌」や「秋空に舞うコンフェティ」の感想でもちょこっと書いた)。ベクトルが向き合わない思いで回る群像劇はチェーホフ劇が好む構造でもあるが、「凪のあすから」の美術や音声による空気感の純度は、劇場演劇とはだいぶ異なる。感情をもつれさせてこちらを疲れさせていくようなストーリーテリングは必ずしも褒められたものではない。でも、この青い風景の中に折り重ねられていくのを見るのは別で、その冷えた空気を自分でも感じられるような気がして終わりが近づくのが惜しくなっていく。


 というようなことを書いておきたくなったのは、実家が売却されることが決まり、自分の荷物を引き取りに行ってきたからということもある。9歳から25歳くらいまで、物心ついてから大人になるまでの時間を過ごしてきた家だ。もう十年くらい定住しておらず、時おり本を取りに帰ったりするくらいだった。久しぶりに駅から歩いて行ってみると、町が潤ってきたせいか、住民が時間の余っている年寄りばかりになったせいか、道路や家並みが僕の記憶の中のものよりもこざっぱりとしたきれいなものになっていて(建材も20年前より進化したのだから当然か)、でもところどころ年季が増したように感じられる気配があったりした。通学路だった130段もの大階段は補修工事中で、田んぼ道はアスファルトで舗装されていた。近所の公園はきれいに整備された代わりに、サッカーや野球をする子供はまったくいなくなっていた。しょっちゅうボールを放り込んでは怒られていた家はリフォームされていたが、ボールを蹴り当てて遊んでいた壁は埃っぽくなっていた。我が家に関しては、親も含めて現在はきちんと人が居住していないので荒廃が目立っていた。何よりもたまにこうした機会に会うたびに親にも老いの影が見えてきて寂しい。ひんやりした冬の空気と明るい光の中、決して甘美な思い出ばかりとはいえない子供時代の記憶の気配の中に身を置くと、これは「凪のあすから」の空気感とも通じる感傷だと思った。
 僕の荷物は本ばかりだ。思い出の品とかまでは手が回らなかった。憑かれたように蒐集していたロシア語の本とか留学時の資料とかは捨てにくくて、結局ほとんど全部をもってきた結果(本は呪いなので、捨てるにしてもちゃんと供養したい)、小さめの段ボール箱70〜80箱分になってしまった。これまでに引越しの時とかに既にそれと同量くらいを今のアパートに持ってきていたけど、今回の荷物のおかげで居住スペースがかなり狭くなり、身体を横にしないで歩けるところがなくなった。夜中までかかってトラックの荷台に積み、
 父に手伝ってもらってロープを巻きつけて固定する。荷台の向こうからこちらに父が掛け声をかけてロープを放り投げるのだが、その度に見上げた夜空が澄んでいて、星と月がきれいだった。最後に家でこれを見ることができてよかった。月と星は何年経っても変わらないけど、僕が育った場所はこれからは記憶の中だけのものになる。その当たり前のことを理解するための目印だ。

星空めてお『ファイヤーガール』

(アマゾンではない巻もあるようなので一応公式も)

 『謀略のズヴィズダー』がどうやら立川あたりを舞台にしているらしいことは、補足的な楽しみを提供してくれそうなので、ぜひともこの機会に昔の記憶を積極的に美化しておきたいところである。今から約20年前、インターネットも携帯電話も知らなかった頃に、生活の拠点と言うのが大げさならば、少なくとも毎日通っていたのが立川だった。そもそもそれ以前の小・中学校の頃から立川は僕の意識の中に存在していたが、当時の立川は世界の終点であり、立川より先に地図は広がっておらず、といっても立川は「B&D」というサッカーショップにスパイクを買いに行くくらいしか子供には用がなく、実在の街というよりはどちらかというと象徴的存在だった。立川まで通う「大人」になったのは高校からだ。Hello, Againも立川の頃の記憶とともにある。dvaでもdvoikaでもdvushkaでもなく、「どばあ」と珍妙なロシア語で呼んでくれる幼女はいなかったが、走り回ってボールを蹴ったり、コンビニに弁当を買いに行ったり、授業をサボったり泊り込んだりして体育祭の準備をしたり、こっそりフォーチュンクエストやドストエフスキーにはまったり(品揃えのよかったフロム中部の本屋はまだあるだろうか)、片思いが本格的な恋にもならないうちにあえなく潰えたりしたのは、すべて立川だった。今はフォレストの舞台となった街から遠くない場所で一日の大半を過ごす生活。単なる背景以上のものではないのかもしれないが、立川とロシアと幼女というピンポイントな爆撃を、この際思い切り被弾しておきたいものである。
 前置き終わり。
 腐り姫やフォレストでは、文章から作家の息遣いを感じさせず、過去の作品やジャンルから色々拝借しつつも借り物感のない作品にまとめる、底の見えない作家という印象だった。物語としての面白さを肉付けることにすべてを集中しているというか。僕の読み方ではそう見えてしまうというだけなのかもしれないけど。
 というわけで僕には星空めておという作家の個性はよく分かっていないので、とりあえず「〜ではない」という否定的な特徴づけしかできない。本作は一見すると青春部活物というようなジャンルに回収できるような小説で、未知の世界の探索をする探検部という設定でそのジャンルを可能な限り壮大なものにしようとしている作品と言えるのかもしれない。今風のライトノベルみたいにテンポのよいかけあいやつっこみで話を進めつつも、設定の開示やストーリーの展開が抑制されていて、どこまでいっても語りが先走った感がない、登場人物たちの目線で辛抱強く話を進めていく。『人類は衰退しました』のように情念がこもった語りでもない、見る主体や語る主体に負けない新鮮な世界。高校生たちにとっては、部活のしごきも未知の惑星の探索も同じようにセンスオブワンダーに満ちた世界である。エロゲー的に恋愛と世界の秘密が物語の特権的な位置を占めているわけでもない、価値体系が未分化の物語であり、まだ底の見えない不安定な世界であることこそが青春の甘美さである。江ノ島にしろ虚惑星にしろ未踏破の地域は広大で、高校生の皮膚感覚でも理解できるような体育会的なあるいは単純な方法によって少しずつ広げていくしかない。卒業するころにはその未知の世界の冒険とは別れなければならないから、その世界を見る目は永遠に若い目であり、その若さも一緒に語って聞かされる僕らにとっては麻薬的な魅力を持つことになる。というのは、まあ、青春部活物の一般論でもあるのだけれど、本作のけれんみも照れもない(「ない」ばかりだ)純化された語りは、古風なようでいてサービス精神に溢れたとても狡猾なものであるかもしれないのだ。
 現代の大人の大半は、生存能力の低い甘やかされた人間という自己認識で楽に生きていられるのならそっちを選びそうな気がする。ほむらというキャラクターは誇張されているのかもしれないけど、僕らにとってはストレスが低い。低いけど、大人ではない彼女がいるのは、「天才などいくらでもいる」と言えるほどに世界の広さを知ってしまった大人、地図を持つ大人の見方に毒されていない、僕らにとっては彼岸の世界である。そこにすれ違いがあり、軽さや未熟さの意味合いの違いがあるのだけれど、それを狡猾な仕掛けと言っていいのかは分からない。彼女が魔法使いとして何やら非凡な才能を秘めているらしいのも、彼女が普通のことに感激したりへこんだりする若々しい高校生であるということの前には、このまま運だけで物語を進める(語りの流れを止めてはならない)のにはちょっと無理があるから設定で補ってあげよう、という程度の重みしかないかのようにさえ見える。ほぼ運だけであれだけの経験をできるというのも高校生的な若さの特権と言えなくもないけど。
 僕がアウトドアライフの薀蓄を知らないからなのかもしれないが、高校生たちのサバイバル術を美しい未知の惑星で平易な語りで見せられるのは、まったくもって贅沢なことである。作者がつぎ込んでくる全方位的な知識はどこか一方に方向付けられているようには見えない。チョークの話も四次元幾何学の話も風呂の沸かし方も登山用具の性能も、高校生の目に映るように、すべては並列で提示され、一発芸の出し物のエピソードと同じように、意味づけられることなく一つの映像として流れ去り、堆積していく。意味づけられずとも誰かにとっては美しく、眩しく見えるのが若さの特権であり、そのような時間がある日突然終わってしまうことが甘美であり、また残酷なことである。
 分厚いラノベを4冊読んでこの程度の感想とは寂しいが、ひとまずここで終わり。物語がいつ終わるともなくゆるゆると積み重ねられていくように、本当は僕もいつまでもこの世界に浸っていられたらいいのだけれど。

歌詞のこととか

 残響さんにご返事を書いていたら長くなってしまったので、読みやすいように別エントリに。


 書き込みどうもありがとうございます。
 キモいさんの意味づけについては、作中ではそういうメタな言及は直接はないし、無理に意味づける必要もないのですが、自分の悪い癖です。星継駅シリーズは最初は低予算・低価格の慎ましい小品なのかなあと思っていたのですが、話が意外に広がっていったので、その都度なんらかの意味づけをしたいと思ったということもあるのかもしれません。そうでもないと、今回のお話はファンディスク的なドタバタでしたで終わってしまいかねないところもあるので。筆を走らせた即興的作品という面はもちろんあると思いますが、キモいさんがキモくて、希センセのお気に入りらしい智里が大活躍したという点でも、ちょっとした何かの仕掛けはあってもいいんじゃないかなあと。あと、屑は癒しですね(莞爾)。屑、ヒプノマリア・ゼルダクララ、アージェントという三角形が、無意味に楽しく駆動していました。
 暴力性の問題は、本質的には何も解決していないのですが、今では自分がどちらかというとキモい側の人間になってしまったので、もう「解決」するのがつまらないようにも思えるようになったというか。偽善なのかもしれませんが。エロゲー万歳です。
 マイラバは、前回のやり取りの後でCDを5枚くらい買ってしまいました。二十歳ごろからJPOPもすっかり聴かなくなってしまったので、ゼロ年代になってもまだ活動していたなんて知らなかった。今は青春から遠く離れた生活をしているからか、流して聞いてみても残念ながら一向に心に響かないのですが、あせらずにそのうち気に入った曲でも見つけられればと思っています。


 音楽は本当に素養も思い入れも薄い盆暗なので、ご期待に沿えるような文章もないです。昨年は他にも堀江由衣川田まみ詩月カオリのアルバムをいくつか買いましたが、残念ながらどれも期待はずれ気味でした(期待しすぎていたのかもしれません)。
 最近では、上坂すみれさんのデビューアルバムを買ってみました。偉そうな物言いになりますが、声優としても歌手としても彼女にそれほどの才能があるとは思っていませんし(まだ開花していないだけだったらいいですが)、ロシアの文化や社会に関する知識もまだまだ表面的ですが、そういうちょっとイケてない部分も含めてオタク領域におけるロシアのアイコンを担ってほしいなあと応援しています。星継駅疾走軌の感想で彼女とキモいさんを比べたのは、実はエールを送ったつもりでした。



 それはさておきCDですが、これは聴いていて恥ずかしくなるような偽物感に溢れた代物で、先日の花澤香菜さんのハイレベルな危ない音楽の後では、別の意味で戦慄しました。たぶん、ウォッカで流し込みながら聴くような音楽なのでしょう。一応一言ご説明すると、上坂さんはレトロ・ソビエト大好きなミリオタ女子で、「革命的ブロードウェイ主義者同盟」なる結社にファンたちを呼び集めています。ご本人自らネタにしているようですが、中二病的な装置でどこまでいけるのか真剣に試しておられるようで、その意味ではパンクになれるのかもしれません。歌にもおかしなアジテーションコールが入ったりするのですが、あんまり迫力がないので聴いていて恥ずかしくてダメージを受ける。はじめの数曲はDJがなんか回してそうなディスコ音楽調の曲なのですが、ディスコ音楽は明らかにブルジョア的なので檄文みたいな歌詞とまったく合ってない。後のほうで短調の軍隊行進曲のような歌があるのですが、こちらはいくらかましです(音楽としての価値はともかく)。上坂さん本人が歌詞を書いている曲は一つもなく、コンセプトはご本人が提案したのかもしれませんが、明らかに「他人の言葉」を歌っています。彼女は自分の大好きなロシアについて語るときも、作品名やお決まりの特徴でしか表現できず、それがまだ若い彼女の現時点での限界なのかなあと思います。
 その中で一番まともに聞こえる曲は、桃井はるこさんが作曲した「テトリアシトリ」という曲です。メロディもきれいなのですが、テトリス(ロシアで生まれたゲームですね)をモチーフに恋心を切なげに歌い上げた歌詞が見事な安定感を持っていて、全体的に不安定なCDの中でオアシスになっている。申し上げたとおり自分は音楽をほとんど聴かない人間ですが、これまで聞いた桃井さんの歌だけは歌詞がうまいなと思います。十代の頃に聞いていたJPOPは、当時の自分にとっては背伸びした歌詞だったし、明らかに日本語を馬鹿にしたようなものも多かったので、断片的にしかかすらなかった。浅慮な自分は、好きになろうとした歌手(当時流行っていたもののうちミスチルスピッツ、サザン、ジュディマリマイラバ、おまけでYen town bandとか)の歌詞を真面目に読もうとすると、自分にとっては微妙なものばかりだったこともあり(かっこつけすぎだったり、雑だったり、自分とは遠すぎたり)、理想の歌というものにたどり着けず、JPOP全体を否定して聴かなくなってしまいました。その点桃井さんは、適度な距離で日本語と付き合っているなあと思います。挙げると色々ありそうですが、例えば「かがやきサイリューム」とか「泳・げ・な・い」とか、歌詞と音楽がきれいに合っていてうまいなあと思います。
 上坂さんも桃井さんを大変尊敬しているということなので、いつか才能を開花させてほしいものだ、というのが感想でした。好き勝手書いてしまいました。人の好みは様々なので、素養のない人間が書いても業がさらされるだけですね……

花澤香菜『claire』

claire

claire

 それにしても花澤さんのような人が声優として引っ張りだこになって、その声が生かされるようなキャラクターが(千石撫子のような批評的なものも含めて)たくさんいるというのは、考えてみれば贅沢な時代である。
 ツイッターで何かのついでに気になって、こんなアルバムが出ていたことを知ってすぐさまポチり、届いたのが大晦日。十代の頃にこのCDに出会わなかったことは幸運でもあり、不幸でもあり。十代の頃に出会っていたら、勉強などせずにオタクまっしぐらになっていたであろう恐ろしいアルバムだった。当時、特に音楽好きでもオタクですらもなかった自分は、それでも本能的なオタク嗅覚(あるいは聴覚)によりMy little loverの声の端っこ辺りに求めていたものを嗅ぎつけて、ハローアゲインとかを繰り返し何度も何度も聴いていた。初めての受験のプレッシャーにもマイラバのおかげで耐えられたといってよい(試験会場でも聴いていた)。数年前にPerfumeがブレイクしたとき、マイラバ的な声の復活を感じて懐かしく思ったものだが、それでもPerfumeはとても禁欲的な編集方針なので、不完全燃焼感があった。歌詞に関しては無理をするのをやめてミニマリズムに徹したおかげで、歌詞がひどかったマイラバよりは毒にも薬にもならないという意味でましになったけど、声の可能性を押さえつけているから窮屈で単調な感じになった。
 花澤さんのこのCDは、メロディとかリズムとか以前に、何よりも声の音色が前面に出ていて素晴らしい。フレンチポップ以来の可愛い声の理想がかなりの水準で達成されている。1曲目の「青い鳥」とか、あまりの多幸感に笑いそうになってしまった。まだ歌詞とか吟味して聴いたわけではなく、ながら聴きしただけだけど、自意識とか自己表現の陶酔とかともあまり縁がないように聞こえる。表現することではなく、表現されるものの完成度にひたすら集中した、技巧的でプロフェッショナルなものになっているように思えるのは声優さんだからか。小学校の頃、音楽の先生に頬の肉を持ち上げて笑うように歌えと言われて音楽の授業が嫌いになったものだが、花澤さんは良い声の出し方をきちんと制御していて、だからといって歌は技巧を見せつけるための器というわけではなく、聞き手を幸福感に感染させることが最優先になっている気がする。感染させられる側は、当然ながらそれまでは幸福ではない状態なのだが、それを幸福にしてしまおうという暴力性と、それと同時に幸福でない自分を相手にも投影してしまい、それではこの幸福感はどこから来る慈愛なのかと考えた時に、何だか泣けてしまいそうになる。この声の魔力に比べれば、同封されていたミニ写真集に写るご本人の可愛さなどはおまけである(確かにきれいな方だが)。制作の背景とか、音楽史的な位置づけとか、本人の思い入れとかは知らずに、ただ声の作品としてだけ愛でていきたいものだ。

石川博品『後宮楽園球場』

 後楽園球場に「宮」(睾丸の除去、あるいは貴人の住処)を加えた小説……。
 ハーレムと野球という、それ自体はただの無駄でしかない悪しき存在と、処女たちの眩しさとスポーツの興奮という、それ自体に罪はない正しき存在のコントラスト、みたいな構成になりそうなところだけど、筆致がいちいち明るい官能に満ちすぎていてその奔流に押し流されてしまう見事な作品だった。女性の体を果物と並べるのはありふれた組み合わせのはずなのに、どこまでも爽やかな絵になっている。「バフチサライの泉」では控えめで、ヴァルーシアでは病んでしまっていた、豊かな南方幻想が広がっている。

 蒔羅の愛する中庭は、女君たちの住むところに面したものとちがって狭苦しい。日当たりが悪いせいで芝生の色も冴えない。
 だがこの時間には地面も周囲の回廊も殿舎の軒も碧に染められ、そこにいる彼女の心も空に溶け出してしまいそうになる。表裏などない唯一の永遠に包み込まれていると感じる。

 光と色が感覚に作用して精神を官能で包むことが、ごく日常的に起こる空間というのが幻想の南国である。後宮という日本の宮廷文学に通じる題材を使っていても、光量と湿度が違うのでまったく別の雰囲気になる。イスラム美術の抽象的で官能的な美しさにも、南国の光と色の明るさにも、本来それ自体にはオリエンタリズムだのいった政治を持ち込まなくてもすむはずであるように、本作品も精神的なものは持ち込まずにひたすら楽園の明るさを描き続けるシリーズになってほしい。そうはならない伏線が張られているし、ネルリシリーズを見れば巻ごとに主軸を変えてくる(だけの技量を持つ石川センセである)ことは予想できるけど、そんなにスマートに書かなくてもいいんじゃないでしょうか。気難しい北方の文学じゃないんだから、このまま官能性を追い続けてもいいんじゃないでしょうか。ハーレムの花として咲いていられる時間は限られているのだし、先を急がずゆっくりと愛でていたい。あるいは、香燻たちだけの物語で終わらせずに、シェヘラザードのようにいつまでも語り続けてほしい。

福嶋亮大『復興文化論』

復興文化論 日本的創造の系譜

復興文化論 日本的創造の系譜

 前著に続いて刺激的な内容の本だった。ただし後書きにあったとおり、日本文化論といった趣きが強く、別に復興という言葉をつけなくてもいい気はした。本書の啓蒙的な姿勢を見るにつけ、学校教育とは何だったのだろうという気になる。日本文化に関して古代から現代までをカバーする一貫性のある見方ができるなんて知らなかったし、知りたいと思うほど日本文化に興味を持ったこともなかった。そんな人間が十代で三島由紀夫川端康成を文庫でちょっと読んだって、彼らの作品が背負っているものに気づくことはない。これまで(過去の)日本文化に興味を持ってこなかったのは自分の責任だし、この先もこの爺臭い文化や不機嫌な文学を好きになることはないだろうし、関心を持って評論を読むこともそんなにはないだろう。本書にしても、著者が別人で、アニメに関する章がなければ、おそらく手にとっていなかった。
 とはいえ、たぶん一番参考になったのは、個人的に最も手薄の中国の古典と日本文化との関連についての考察だろう。作品の引用を見るだけでうんざりしてくるような、読みにくい日本や中国の昔の作品を、現代の文学研究用語で分かり易く捌いてくれるのはありがたい。昔、学生の頃に入っていたサークルで宮崎市定が基礎文献リストに入っていたりしたけど、結局僕は東洋史からも、歴史研究自体からも離れてしまったので、中国に関するまとまった理解を得る機会を逃した。そして今の僕の生活においては、中国は経済主体としてしか視野には入りようがない。日本社会全体についても、中国に対する関心は今は経済に偏りすぎているように思える(日経を読むサラリーマンの妄想かもしれないが)。経済主体としての中国はひどく夢がなく、日本に不安ばかりを与える神経症的な存在である(100年前の欧州世紀末に似た状況だ)。文化の国としての中国についてはすっかり忘れ去ってしまっており、そこが昔の日本とは大きく違うところだろう。というわけで福嶋氏にはこの先も中国と日本とを結ぶ話を、現代の文学研究の語彙でしてもらいたいものだ。中国は日本のものをすぐパクるとか海賊版の国だとか、そういうつまらない話はもういいから、日本のアニメやエロゲー業界に元気がなくなっているというのなら、いつか中国がエロゲーの傑作をバンバン生み出すようになって、それが日本に翻訳されたり、日本と合作したりするというような夢も見ていいんじゃないだろうか(ちなみにロシアでは、ソ連時代のピオネールキャンプらしきものを舞台にした初のエロゲーがまもなく完成する)。もちろん文化にも経済的側面はあるが、そんなことよりも優れたものを見つけ、夢中になれるかどうかのほうが先だ。何だか場違いな中国へのラブコールみたいになってしまったが、面倒なのでこのまま終わりにしよう。最後に一言だけ付け加えると、福嶋氏には、研究者としてだけではなく批評家としても活動するのならば、政治的・歴史的な正しさをかなぐり捨て、美的対象として夢中になれるような凄い作品を紹介するような文章も、いつか書いてほしい。

唐辺葉介『電気サーカス』

電気サーカス

電気サーカス

 ネットで日記めいた文章を書くことに関する鬱屈といわゆる社会的な自分探しを扱った日記体の小説を読んで、その感想をネットの日記に書く。商業文学作品であり単なる創作物であると割り切って感想を書かないと、その自爆にこちらが巻き込まれてしまうわけだが、あまり距離を置きすぎても自分の貧しさにがっかりすることになる。こんなへっぽこブログであっても、書くたびにがっかりするような文章であっても、書くこと自体を面倒に感じることがあっても、一応本人はそれなりに楽しみながら書いているのだから。というわけでいつものごとく、結論を考えずに半ば自動的に書いてしまおう。
 本作でようやく、唐辺葉介エロゲーライターから小説家に転進したことに納得できた。だからどうだという話でもあるが、自分は頭が悪いので割りと時間がかかったという話だ。あらすじやモチーフはエロゲー時代とそれほど変わらない部分も多いのだが、それほどまでに日記体(正確には日記体ではないが、語りの流れ方や克明さは日記に近い感じがする)という形式は小説になじみ易く、すぐさま背後にジャンルの長い文学的伝統を背負うことができる装置であるのだ。以前にキラ☆キラの感想でも書いたはずだが、唐辺氏の文章では出来事は叙事的に流れていくものとなっており、何かが起きてもその次に起きることがそれを押し流していく。厳密に言えば一人称の小説に叙事も何もないのだが、主人公は冷静の壊れ気味の「僕」であり(僕小説の系譜というのもあるのだろうがひとまず無視)、叙情的に自己陶酔できず、喜怒哀楽を積極的に描写しないので、三人称に近い。間接的な描写の中から世界観が立ち上がってくる。「僕だって、ギリシャ神話の登場人物みたいに放縦に、その瞬間に嫌いなものは全面的に憎みたいし、好きなものは全面的に肯定してみたかった。僕の場合、それらはいつだってごっちゃになっていて、何を見たって、愛しているのか憎んでいるのか、訳がわからない。自分の感情を規定することができない。ただ、奥の方に黒い何かが渦巻いている。」ギリシア神話は演劇を基盤とする儀礼の文学であり、役者は英雄になりきって感情を全力で演じ、自己陶酔どころか入神することが求められる。そのことに対する不能感は、登場人物が英雄的な海外文学や古典を読むというかたちでも現れる。それを求めても、例えば本作の主人公は、不能なスヴィドリガイロフに共感を抱いてしまうのだ。
 主人公は、出来事の流れの中を通過しながら世界と自分を理解していく。だから語りは、基本的には過去から現在に向かって次第に近づいていくという形をとる。時間が経過していくということが不可欠なので、今現在の事やこれから起こることだけを切り離して取り上げることはできない。一人称形式ならば当然のことだけど、現在がゴールという形にならざるをえない。ではなぜ本作では2000年頃、主人公が20代前半の数年間を集中的に取り上げたのか。その理由はたぶん作者の個人的なものもあるのだろうからどうでもよいのだが、僕としてはやはり20代前半の魔力としか言いようのないもののおかげで刺さるものがあった。唐辺氏や滝本氏と自分は同世代だが、この世代が社会に出ようとしてその社会に対する幻想に振り回された2000年代前半というのは、情報がもっとクリアになった現在から見ると異質で、NHKにようこそやその唐辺版ともいえる本作に見られるように、すでに神話化すらされている。もう10年の彼方に過ぎ去ってしまったしいまさら感があるが、語り手としての唐辺氏は現代の村上春樹といえるのかもしれない(村上春樹本人はもう現役という気がしない。こんなキャッチコピーで唐辺氏が売れたら致命的なことになるかもしれないが)。
 では唐辺葉介は10年代の僕らの世代のことを書かないのだろうか。また、僕らはそんなものを読みたいのだろうか。主人公が自分探しをする若者だから青春の文学になるわけで、例えば本作の主人公のアラフォーを実感を持って書いたら、それは文学というよりはワープアの社会問題を扱うドキュメンタリー番組、あるいはそのパロディになるのではないか。それでは寒々しすぎるだろうか。それともきちんと社会の歯車になり、仕事でヘトヘトになる青年(あるいは中年)の愛(?)や幸福についての小説だろうか。多くの作家は、「青春の自意識小説」を書けなくなると、あいた空白を埋めるために、文学的伝統も含めた歴史やジャンルの意匠に頼るようになる。唐辺氏は本作で、ひとまず形式と内容の理想的な一致を達成したように見える。この先これを再生産し続けてもそれなりはよい作家であり続けるだろうし、磨きがかかってもっとよくなるかもしれない(偉そうなネット日記書きだ…)。年をとると自意識が摩滅して感度が悪くなってくるので、時々このような小説を読んで心の中に潜っていかねばならないという需要もある。でも、そういう需給関係はあまり嬉しくないかもしれない。そのうちに、本作の主人公が書く日記とあまり変わらなくなってしまうのではないか。僕自身も、いつまでもこのような形で小説に頼っていてはダメなのかもしれない。だからといって他人と向き合うというのも…。答えは出かかっているんだよね、と楽観的なことを書いてひとまず締めておこう。

西尾維新『終物語』

終物語 (上) (講談社BOX)

終物語 (上) (講談社BOX)

 数学小説ってジャンルがあるのかしらないけど、数学と小説の形についてちょっと考えたところだったのである意味でタイムリーだった。表層的な理解かもしれないけど、阿良々木暦老倉育も数学が好きだというのは、終わりに向かってきれいに流れていく動きを追っていって、その内部の法則だけできれいに解決するのがいいのだろう。推理小説も同じなのかもしれない。ところが、推理小説にもよくあるパターンなのかもしれないが、当事者にとってはいろんなものに振り回されて、時間を逆行して、とてもきれいに流れるどころではなくて、終わりが近づくに従って物語の枠に窮屈に追い詰められていく。窮屈だから過去という時間の中に広がりを探すのかもしれない。このシリーズにしても。過去に遡っていくのは、過去の中で迷子になって消えるためではないのだけど。のだけど。(以下は扇ちゃんの存在はあえて無視した感想。)
 なんていうメタな話に滑ると自分のクズさがはっきり見えるということ。それは言い易いのだけれど、育については今の僕は何と言ったらいいのだろうか。僕はひょっとしたら幸せではないのかも知れないけど、そんなふうに言えない場合もある。幸せというのは相対的なもので、何かと比較しないと決定できない、なんていうものじゃないよ、恩知らずの愚かな人間にも、一番弱くて脆い人間にも、同じように手に届くような距離にあるのが幸せだよ、というのがこの物語の結論だ、最後のページで書きさしていたこともそこへ至るのかもしれない、と考えれば少しは救われるだろうか。追い詰められた脆い人間にそうでない人間が言葉をかけるのはやっかいな作業で、同情という回路を安易に使うことはできないし、そんな状況に自分がはまったことに倒錯的な喜びを感じるような思考はさらにいけない。感情に流されるのはいけないし、いけないいけないと縛るばかりのようだけど、結局解決できるような人は何も縛らないのだろう、なんか人間力みたいなので魔法のように解決してしまうのだろう。人間力がない人間の妄想だけど。
 前にも書いたが、シリーズが終わりに近づいて残念である。作者が後書きでフラグを立てたので、せめて終物語は3分冊になればありがたい。いつかこの作者の書くヒロインに安心して萌えられる日は来るのだろうか(後ろめたく萌えることは今回を含めてよくある。そだちかわいいよそだちと言う人もいるけど、ついでにという形でしか言えないのが残念)。それは幸せなことなのだろうか。もしそんな日がきたら、そのときにも幸せなんてものはまだ存在しているのだろうか。

石川博品『ヴァンパイア・サマータイム』

 確かネルリが出たときに、こんなマニアックな設定ではなくてもっと普通の高校生の学園恋愛物が読んでみたい、みたいな声がちらほらあった気がするが、その答えがこれなのか。これまでの作品(と言っても2作くらいしかないが)ではうまく抑制されていた恋愛のドキドキ感の描写が今回は全開。直球すぎて甘ったるくて、代わりにユーモアは控えめ、という意味では親しみにくいデザインになっているのだろうけど、その代わりに夏を描く上で必要な皮膚感覚的な季節感や時間感覚にじっくり集中することが出来るのだろう。というわけで、今回もまたテーマと文体が調和がうまくて、ストーリー的に小さくまとまったけどおもしろかった。
 中学生になって初めて中間テストというものがあって、確かはじめは自宅でのテスト勉強期間の勉強予定表というものを作って先生に提出して、それに沿って勉強していたと思う。6年間、テスト勉強やテストというものを好きになったことは決してなく、優等生の成績を維持しなければというキャラクターとしての自分を第三者的に見ることはできなかったけど、周りから期待されていると過剰に思い込んで勝手にプレッシャーを感じていたので、特にスポーツや人柄や頭の回転で優れていたわけではない自分にとっては、定期テストというのは毎回自分のアイデンティティを危機にさらす不安の行事だったと今なら分かる。自分で立てた勉強予定表もまじめに守ることが一番の関心事になったし、昼寝を含む睡眠を予定通りに取れないと不安が膨らんだ。優等生といっても、テストを解きながら余裕を感じたことなどなかった。テストは僕のアイデンティティを突き崩そうとする不安で不気味なものだったし、大抵は何問か回答に自信のない問題が混ざっていたし、ケアレスミスで恥をかく可能性だってあった。テスト返却の時間は努力が報われるべき時間のはずだったが、さすがに100点満点ばかりを取れるわけではないし、僕を危機にさらす正体不明のモンスターを完全に滅却したわけではなく、一時的に見えなくしただけなので、不安が消えることはなかった。それに僕が過剰に感じていた周囲の期待というものは、実際は僕のキャラクターをめぐるものではあっても内面にまで忖度するようなものではなかった。サッカー部に学年トップがいるというのはそれだけでひとつのキャラクターだったが、それだけだった。学校やら何やらが標榜する文武両道の建前を生真面目に守ろうとすることに精一杯で、そのキャラクターを受身に引き受けていたが、それに淫することはあっても積極的に引き受けていく余裕はなかった。当然、周りの人が不安を解消してくれるようなこともなかった。よくこれで禿げなかったものだが、こんなことでいちいち禿げていたら他の人達に失礼というものだろう。それほどに僕の不安というのは一般にはちっぽけな問題だったのだ。
 こういう不安を感じていた頃の空気を読んでいて思い出した小説だった。不安はその後も、大学に入って、ロシアにはまって、エロゲーにはまって、就職して、転職して、という中でも続いていったけど、社会的自立というものを考えなくてもよかった中学・高校の頃がやはりちっぽけながらも一番純粋な原点だったのかもしれない。吊橋効果というのとはちょっと違うのかもしれないが、そういう不安の中で生きていたからこそ、当時の季節感や恋といった贅沢なものの記憶は今も残る。それは必ずしも愉快なものではなく、むしろ不快だったり不協和音にまみれていたりするが、残るものは残ってしまうのだ。
 夜に活動することの不安。夜の活動はどんな社会においてもどこかイレギュラーなものだ。ヴァンパイアの社会という設定はその不安を解体するための装置であり、その社会の中で当たり前に生きるヴァンパイアの女の子との恋愛は、本来消えるはずのない不安を消すことが出来る魅惑に満ちている。その未知の魅惑は期待と不安に満ちたものであり、反対に、彼女から見た昼の世界というのも同様で、明るさが不安や滅びの感覚につながるというのは夜の世界の魅力に惹かれる視点にとってはまた面白い。暗くて狭い空間や暗くて広い空間を、夜の日常の側から描くというのも面白い。レールモントフが描くような夜の孤独とはまた別の風景なのだろう。主人公とヒロインの二人とも特殊な能力や才能を持たないながら、対称的な時間軸を挟んで不安が二人を近づける。時間物というジャンルは、ループとかSF的な時間の彼方とかがポピュラーとは思うが、こんな風に毎日繰り返される日常の中にも見出されてしまう。ラノベ的な奇想を介してではあるけど、こんな風にテーマを掬い上げるのはうまいものだ。

消化(チェルノブイリとか震災とか)

チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1

チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1

悲痛伝 (講談社ノベルス)

悲痛伝 (講談社ノベルス)

悲惨伝 (講談社ノベルス)

悲惨伝 (講談社ノベルス)

 最近は生活がごたごたしたり仕事が増えたり副業であちこちに文章を出したりというのが続いて、ブログを書く余裕がなくなってしまっている。うまくいけば来年の3月くらいには少し落ち着くかも・・・。とはいえ、忙しがっていると人付き合いを断る理由にもなるから人間関係を薄められるというメリットもある。こうして気がついたら中年になっているのだなあ。
 上に挙げた最近読んだ本は、どれも震災がらみのもので、冒涜的に見えつつもうまいやり方、といったらべたすぎるか。西尾維新という作家を知ったのは東浩紀を通してだったけど、その東浩紀の本にキリル文字がたくさん出てくるというのは感慨深いものがある。冒頭のチェルノブイリ周辺と福島周辺の地図を同じ縮尺で並べて汚染度を比較しているのは面白かった。チェルノブイリ〜モスクワが東京〜函館くらいだったり。またいつかロシア・旧ソ連国がらみのテーマを扱ってほしい。インタビューを読めば分かるとおり、あっちの人たちにはけっこう健全で強靭なので、不足している栄養分を補えるようなところがある。