自分だけでは残せない自分だけの記号に

 「宇宙のステルヴィア」に続いて「響け!ユーフォニアム」を一気に見た連休だった。自分が渦中にいるときは無我夢中で余裕なんてないし、楽しくて美しい瞬間なんて本当は数えるくらいしかないないのだろうけど、その後に残る痕跡を通して、いつかその日々を振り返ることもあるのかもしれない。それは心の弱ったときなのかもしれない。そうしてまた志麻も久美子も歩き続けていくのだろう。
 実家を引き払う際に出てきたという僕のノート類のダンボール箱。小学校の担任の先生が毎日発行していた学級通信、生い立ちの記、進路相談書類、社会科見学や修学旅行のしおり、骨折して入院した小学校1年のときにクラスのみんなが書いてくれたメッセージカード、引っ越したときにもらった寄せ書き、かっこよすぎてあまり着られなかったウインドブレーカー(下ろしたてを着ていったドンド焼きで火の粉を浴びて小さな穴が開いて半泣きになった)、中学の班分け表や学級委員の任命状、自分は指揮者をやって好きな子がピアノを弾いた合唱際のプログラム、高校の体育祭のためにつくった法被にみんなが書いてくれた寄せ書き……。30年前から20年前くらいまでの間の10年ちょっとの時間が一気に逆流してきたようで、別に自分の記憶や生い立ちに秘密はないし、エロゲー的な回想シーンでもないけど、遠い昔においてきたはずの自分の痕跡が今でもどこかにあったという、ただそれだけの事実に触れてなんだか感動してしまった。
 小学校1年生から高校2年生くらいまでの間の授業のノートや提出したプリント類のような、それ自体としては何の価値も持たない情報の残骸。マス目いっぱいに字を書いていた小学校から、自分なりの個性を探していた中学校を経て、こぎれいで(とはいっても現在に至るまで決して能筆ではない)神経質な筆跡になっていった高校生のノート。英語、物理、数学、古典など、科目によって体系が違うから筆跡も変わるし、一冊のノートの中でも気分とか問題の種類とかで筆跡が変わる。大学生以降は、科目ごとに一冊のノートに筆写するようなことはなくなったし、プリントの余白にメモする程度であまりきっちりと文字を書かなくなってしまったので、書くという行為を体が忘れてしまった。このノートたちがその感覚を一気に思い出させてくれた。英語では、筆記体の美しさに憧れて、ブロック体よりも読みにくいしそんなに速く書けるわけじゃないけど、斜めに倒したきれいな筆記体を書いて満足していた。数学では、整然と並ぶ記号や数字、均整の取れた図形を描くのが好きだった。記号と視覚的に戯れる快感という点では、英語と数学に勝る教科はなかったと思う。物理や数学、国語、古典、世界史、生物等は、書く文字や線の量に比して意味や情報の量が多すぎて、頭を使わなくちゃならないからだ。英語と数学はほとんど反射神経のスポーツみたいなものだったけど、そんな風に楽に楽しむほうに流れてしまったからこそ、英語ではヒアリングや会話はてんでダメだったし、数学もベクトルや行列のように考えなきゃいけないものは苦手で理系には進めなかった(代わりに今度は世界史に出てくるカタカナの固有名詞に酔って文系に傾斜していった)。図工や美術の成績はぱっとしなかったし、創意工夫が必要なので授業も楽しくなかったけど、英語や数学のノートを書くことのアクション性を楽しんで補完していたのだろう。頭を使わずに書いてはパズルを解くようにして勉強しているうちは、ちょっとした忘我の境地を味わえていたのだろう。それで周りから褒めてもらえるのだからありがたいことだった。僕にとっては勉強はそんなものだったから、つまらない板書の筆写だって当時のリズムや空気を伝えてくれる大切な痕跡だ。大人はもっといろんなことを考えて、見守ってくれていたし、友達やクラスメートも本当はもっといろんなことを教えてくれていたけれど、そうしたことには気づかずに他愛のないことに無邪気に傲慢に夢中になりながら、一日一日と育っていった。今でも客観視するのは気が進まないような記憶もたくさんあるし、自分がかわいい子供だったなどとは決して思わないけど、自分にもこんな平凡で特別な過去があって、自分は育ったのではなく育てられたのだなと実感することができるのは恵みというほかない。こんなところに書いてもしょうがないのだけど、本当にどうもありがとうございました。

文学の外側に広がる領域

 滝本竜彦のウェブサイト(http://tatsuhikotakimoto.com/)を読んでいた。「光の小説」というスピリチュアルなライト(光)ノベルを連載していて、NHKにようこそも含むこれまでの作品に対する率直なコメントもあったりして面白い(例えばこことか)。一時期は小説家を辞めたのではないかと思われるような音沙汰しか聞こえてこなくて残念に思っていたが、スピリチュアル系という特異なタイプとはいえ、というかむしろ特異なタイプだからこそいっそう、こうして文章を頻繁に公表してくれるようになったのは嬉しいことだ。今では書くことに対するわだかまりも克服したという。
 僕自身はスピリチュアルなものはあまり信用していない、というか歴史とか文化とかをとばしてワークとかトレーニングみたいに実用性が剥き出しにされがちなのに引いてしまうのだが(精神世界なのに実利的、悟りのためなのに欲望がぎらついている)、確かに瞑想テキストや催眠音声で呼吸やイメージをコントロールしようとすると身体的な反応があるような気がするし、そうしたスピリチュアルなものの存在や意義を否定するようなつもりはない。むしろ、伝統的な芸術(知識人の創作)の倫理の外にはみ出る危険な試みとして、スリリングなものなのだろうなという期待感がある。ロシア文学で言えば、ミハイル・クズミンの創作だろう。クズミンは象徴派の周辺にいながらも、オカルトや同性愛、旧教徒、ビザンチン文化などのマージナルなところに主な足場があって、危険なほど奇妙に明るい作品ばかりを書いていた。クズミンの作品を少し読みたくなってきた。
 滝本竜彦の「光の小説」は、あからさまにスピリチュアルな仕掛けを使い(作者が作品に関連した瞑想音声を読み上げてアップロードまでしている)、それでもいつもの娯楽作品としてのユーモアも捨てていないところがスリルがあるのかもしれない。笑いは基本的に宗教の生真面目さを引きずりおろすものだけど、この作品ではどちらが上とかいうような争いはなく、作者が光と呼ぶもので包み込んで共存させている。共存というか、スピリチュアルなものの方が多分上位なのだけど、それでもユーモアが殺されていないところがよい。そのような「光」を気持ち悪がるほどには、滝本竜彦の創作に対する僕の関心は低くないというだけのことなのかもしれない。あと、気分的な問題なのかもしれないが、星とか光とかエネルギーとか、歴史の重みのない概念ていうのは、見方を変えれば自由度が高くていいかもと思える部分もある。NHKや当時の一連の作品から更に先に進むにはこの方向が論理的だし(まだ僕の家の鍵のキーホルダーはマンガ版NHKを買ってゲットした岬ちゃんのやつのままだけど、結局、永遠にNHKの場所で足踏みしていることなどできないのだ)、確かに僕のような門外漢でも「エネルギー」を頂けてしまうので、その活動に感謝しつつ応援したい。多分、これまでクズミンの時代だけでなく、70年代にも80年代にも90年代も幾多の芸術家によって繰り返し挑戦されてきた分野なのだろうけど、滝本竜彦の文章には同世代の人間として引き寄せられる。同時代感がある。新しい地平を見てみたいというのもあるし、単純に読んで安らぎを得られてしまいそうということもある。ありがたいことだ。

へっぽこエロゲーマー

 残響さんの「エロゲーマー諸子百家」シリーズに取り上げていただいて恐縮である。なんだか僕がこうありたいなと思うところをかっこよく拾いあげてもらったみたいで、かなり強そうな人になっていて照れる。僕に二律背反だったり謎だったりする部分があるとすれば、本当は専門知識(それも今は完全に錆び付いてしまったが)を惜しみなく注ぎ込んで自分語りをしたい浅はかな自己顕示欲の塊なのに、エロゲーの性質上身元がばれると困るので制限をかけつつ自分語りをしているという、現実による縛りが妙なねじれを生んでいるところもあるのかなと思う。あとは単純に頭の回転が遅い人間なのであまり発言できないし、しても自分の馬鹿さに悲しくなることが多い。ツイッターにしろ、書き込みは少ないけどTLはかなり見ています。頭の悪い人間にとっては、話す・書くよりも見る・読む方が楽だ。また、むっつりすけべなので、馬鹿っぽく見えることが嫌で口ごもっているうちに謎な人だとみられるようになって、外面と内面が乖離していってしまう過程はオタクになった経緯とも重なっている。職場でも多分何か匂いたつものがあるのだろうがなるべくはぐらかすように努めていたら、かえって人の好奇心を刺激してしまったという流れはこれまでに何度もあった(疑わしい独身男性ではなくなったので、今後は僕も「理解できる人間」と見られて、怪しまれることがなくなると期待している)。実際には僕はそんなに大層な人間でも文章書きでもなく、個々の感想文を見ていただければ浅かったり粗かったりするので、むしろ僕は残響さんが描いたくれたようなエロゲーマーを目指して精進しなければならないのかもしれない。といっても、求道者としてのエロゲーマーを張れるほどの強さは持ち合わせていないので、みっともない言い訳をしつつこれからも恥をさらしていければと思う。

ついでに

 ついでに書く機会を逃してしまったのを挙げておこう。

  • 田中ロミオ人類は衰退しました 平常運転』:もう終わったと思っていたので書店で偶然見つけたときには幸運に感謝した。「おふたりさまで、業務活動記録」と「旅の手土産に最適なもの」が特に感慨深かった。あと、田中ロミオもネットの読者の感想を読んで力づけられたりすることがあるんだなあとしみじみ。次のシリーズが「ネタ寄りにならず、ロードス島やフォーチュンクエストのような生身感の強い話」とあったのは、まさにこの2作がラノベの原体験である自分にとっては嬉しい話だ。エロゲーも作ってほしいのだけど。
  • 石川博品『アクマノツマ』:コミケで見た石川先生が元気そうでなによりだった。日常物といっておけば後半で盛り上がらなくても許されるわけではなく、前半の勢いというか瑞々しさが後半は失速気味だったのが残念。なんにせよ石川先生の業の深さが遺憾なく発揮されていて得がたい作品だったけど。
  • 王雀孫『始まらない……』:これは残念な作品だった。この文体でこのネタで一冊丸々はきつい。おれつばの悪いところが出て滑った感がある。
  • アニソン:『夏色プレゼント』と「未確認で進行形」の小紅のキャラソンを買って繰り返し聴いた。小倉唯さんはもっと積極的に歌を聴きたい声なんだけどまだあまりいい歌がないようなので今後に期待。小紅のキャラソンは例のミュージックビデオを見て買ったもので、「ぜんたい的にセンセーション」は仕事帰りとかに聴くと疲れが抜ける素晴らしい歌。アニメを見たから当然なのだろうけど、なんというか、声からおっぱいの揺れや重量感が伝わってくる。アップテンポな曲だからということもあるのだろう。残りの2曲は穏やかな曲だからか、はじめはあまりおっぱい性が感じられなかったけど、注意深く耳を傾けると(想像力を働かせると)、きちんとおっぱいが伝わってきて感心した。これが結城友奈になるとおっぱいがなくなるから不思議なものだ。シニフィアンシニフィエは一対一対応ではないのだなあ(適当)。
  • 『さくらシンクロニシティ』:メーカーを信用できないので発売後すぐに買うかは分からないけど、予約はしておっぱい色紙をもらってある。この色紙が不思議な代物で、マルセルさんが指摘したように、この作品のりせというヒロインはけっこう「モニタを飛び越えてこちらを見ている」感じが強いキャラデザになっていて、これは色紙の絵でもそうなっている。だから色紙なのに既にゲーム画面のような距離感と緊迫感が伝わってきてうならされるのだけど、おっぱいまるだしなのである。たぶん買うであろうゲームということで、あらすじやキャラ設定はあえて読んでいないし体験版もやらないつもりなのに、すでに本来ならご褒美であるべきエッチシーンのような「理解できる」おっぱいとまなざしが現前している不思議。この齟齬のせいで、この子は何を考えて(おっぱい出して)こちらを見ているのだろう思わざるを得ないようなまなざしでもあり、声がないこともあり、大げさな言い方をすれば、スフィンクスのような謎めいた微笑み(+おっぱい)になる。事前配布の予約特典でこれほどの強度の絵を出すのが正しいのかどうかはよく分からないが(ちなみに、他の店舗特典はどれもいまいちに見える)、作品がこれに負けない出来となるよう期待したい。



then-dさんの訃報

 初めてそのご活動を知ったのは「永遠の現在」に東浩紀が寄稿するということで、どんな論集なのだろうと関心を持ったところからだったと思う。動ポモからエロゲーに入り、レビューサイトや2ちゃんねる葉鍵板をなんとなく徘徊していた自分には、ついに硬派な論じ手、葉鍵時代の生き証人の鉱脈にたどり着いたように思えた(論集は結局買わずじまいだったけど)。
 論集30x30は出る前から傍目にも盛り上がっていて、僕も楽しみにしていた。「美少女ゲームの臨界点」を除けば、コミケで印象に残るエロゲー評論本を買ったのはこれが初めてだったと思う。次の10x10もすぐに出て、その次の総合論集(もう2011年の話だ)ではお声をかけていただいて嬉しかったのを覚えている。この頃までには自分もそれなりにエロゲーに関する文章の書き方を固めていたけど、普段の感想ではなく論集に、それもthen-dさんの論集への参加ということで、ただのエロゲー語りのはずなのにむやみに身が引き締まる思いがした。then-dさんの仕事ぶりもまったく手抜きがなくて恐れ入った。エロゲーでここまでやるのだから本業ではどれだけプロフェッショナルなのだろうと思ったが、むしろエロゲーだからこそ注ぐ情熱もあるのかもしれない。
 結局、コミケ会場で一度ご挨拶しただけできちんとお話したことはなく終わってしまった。それでも、エロゲーを始めて10年の間に、関心の近いエロゲーマーでお顔を拝見したことがあるのはthen-dさんだけだ。エロゲーをやるのはエロゲーマーと知り合うためではないし、エロゲーに関する情報は基本的にネットのテクストだけだ。ユーザー同士の横のつながりは、ユーザーとエロゲーヒロインという縦のつながりに比べると何だかわけの分からないものだけど、それはエロゲーマーとヒロインのつながりが現実としてはありえないように、どこかねじれた次元のつながり方のようで、しかし考えてみれば、すべて人間関係はそのように部分的にベクトルが重なるだけのもののはずで、まあでも重なること自体が意味があるのだろうなと思う。このねじれ方、間に何か挟まった距離が心地いいのだろう。then-dさんの活動も文章もまったくまったく嫌味がなかった。then-dさんが論じたKeyの作品たちはこの先も死んでしまうことはないし、寄稿させていただいたテーマの猫撫ディストーションは何だかまだ細々と展開が続いていて、七枷琴子やギズモたちは今でも存在と非在の間で揺らいでいるのを考えると、then-dさんとのご縁も不思議だったように感じる。どうもありがとうございました。ごゆっくりお休みください。

声の魔法(エロゲーソング雑感)

 ゲームの方がなかなか進まないので代わりになんとなく。疲れた仕事帰りとかに聴いている曲について。
 クドわふたーのone's future(OP曲)とかFragment Kud.verとか、しゅきしゅきだいしゅきのしゅきしゅきちゅ〜いほう!(OP曲)とか、ロリソングにいい曲が多い気がするのは何か理由があるのだろうかと思っていたところ、あるようなないような。



 Fragmentを例に取ると、この曲の魅力は、メロディ(美しく感傷的)、キャラ声(ロリ)、中の人の非キャラ声(お姉さん)、歌詞(一人称・僕)、キャラ設定(一生懸命なロリ)といういくつかの要素がせめぎあっている緊張感がある。という理屈をこねる前に、まずはじめの「うーいうーいしい」の歌い方が天才的過ぎて満足してしまうところ。作詞は魁氏だそうだが、主人公「僕」がクドに語りかけている体の歌をクドに歌わせているところからしてずれていて、自分とクドの関係を「初々しい」と形容する言葉の選択が不適切なのに(普通は他人を評するときに使う)、それを歌うクドが完全に音程をはずしてしまっていてそのこと自体が初々しさを表現していることで、マイナスかけるマイナスがプラスになるような、ゲーム自体の詩学をも象徴するような荒業が一言で歌い上げられていて完敗。(ちなみにone's futureの白眉は、2番の「ちゅっとちゅっとキスした」の「た」だろう。)歌の後半では、クドが一生懸命歌って盛り上がっていって、鈴田さんやストルガツカヤの声も聞こえてきそうな気がして(鈴田ボイス版もある)、物語性を感じる。
 歌は自己表現の手段であるから、自分をすべてさらけ出すのがよいとなって、とにかく声を張り上げてしまう歌手、いろんな声を出していろんな歌い方をしてしまう歌手がいるかもしれないが、僕は声自体の「キャラクター性」が好みに合うかどうか(結局これが一番重要なのだが)、そしてそのキャラの魅力を追求して磨き上げていっているかが重要に思える。だからキャラソンが軽かったり薄かったりして、作中よりもキャラが遠く感じてしまうような歌は残念だ。
 また例を挙げると、好きなキャラソンとして、「セイレムの魔女たち」のED曲「そっとキスして」がある(一番好きなのはソフィ版だがジュリア版だけあった:http://www.nicovideo.jp/watch/sm3405229)。同じ歌をルートごとにそれぞれのヒロインが歌うのだが、壮絶な物語の後のハッピーエンドで流れる曲としてかなり幸福感を味わえる。あと、全員合唱のED曲「大好きダーリン」という曲があるが、これも同様の理由により名曲で(http://www.nicovideo.jp/watch/sm3405240)、ただでさえ脳が溶け気味になるのに、合唱で「浮気しちゃだめよ」とか言われると完敗。
 他にいびつな名曲としては、Hello,worldの奈都美のED曲「真珠のうた」を挙げることができる。真珠の殻を開けてほしいとか、優しく包んでとか、弾け飛ぶとか、歌詞はまじめに読むとかなり卑猥なのだが、榊原ゆいさんのエロかわいいキャラ声と、長い物語の最後を奈都美というヒロインと迎えた感慨に押し流されて完敗。ちなみに別の意味でやられたのは、先日歌詞をぐぐってみたら、長年中国語だと思っていたフレーズが英語だったことだ。
 I'veの歌では、一時代を築いた電波ソングは何だか最近はあまり聞かなくなってしまい、一番心地よいのは詩月カオリさん(とKotokoさん)のSave your heartだったりする。優しくてかわいらしい、物語性を感じられる声と歌だ。桃井はるこさんの歌にもそういうものを感じることがある。
 最後にもう一曲、昔の曲を。魂のルフラン綾波レイ版だ。あまり説明しても仕方ないが、途中で挿入される、歌詞をセリフみたいに読む部分のかっこ悪さに残念がりつつ、気が狂ったように何度も聞いていた。初めて聞いたのは、ネットの同人小説でクライマックスシーンになったらこの曲が流れるように設定されていた天晴れなページでだったかもしれない。
 こうして振り返ってみると、自分は歌の技術的な部分よりも呪術的・物語的な部分にはまりたがっているのが分かる(単に音楽の素人なのでメロディとかで語れないからというだけなのかもしれないが)。浸れる歌といっても、そんなもの少なくとも今までは不意打ちのような形でしか出会ってないから、どうしたらいいのか分からない。でも不意打ちが一番いい出会い方なんだろうな。あと、物語とはいっても、声には物理的な基盤があるので安心な気もする。それにしても歌について書くのは、褒めても逆効果だからかやはり難しい。

唐辺葉介『つめたいオゾン』

 『電気サーカス』のようにただ流れていく物語もいいけど、本作のように形式を工芸品的に洗練させた作品もすばらしい。人は何かを諦めながら生きていくとか、いつかそれまでの自分を捨てなければならないときがくるとか、そういう説教くさい人生訓があるが、本来はこんな風に非倫理的なまでに美しくあるべき事なのだろう。安心して自分を委ねられる人がほしい、すべてを共有したい、むしろ女性化した自分を愛したいというエロゲー的で下世話な欲望が昇華される。理想的な半身を描く言葉は注意深く、傷ついた彼らにも深く踏み込もうとはせず、大人しい二人が抵抗したり、諦めて受け入れたり、喜んだり悲しんだりするのを静かに描いていく。強い感情は無視されるのではなく、押し殺されるのでもなく、語りのフィルタに吸収されて大気中に薄く拡散する。二人は、自分と同じ境遇の相手を思って、手にした小さな喜びすらも手放していくけれど、それでも終わりは確実に近づいてくる。心の中に逃げ込んでも、その心すら奪われる。お互いに相手がいたからこそ生き続けられると分かったのに、それ以上近づける思ったらそんな人生は終わり、その後にはまったく別の人間になる。人格の幸福な共有は、それ以上に残酷な断絶の上にしか成り立たず、半身どころか本体すらも失われる。そこに悲しみはなく、悲しみに似た感情は、どこかに宙吊りになっている。
 設定やプロットの妙だけを取り出してみてもあまり意味はない気がする。「似た」作品としては『アルジャーノンに花束を』があるし、さらに遡れば1912年に書かれた『ミルスコンツァ』("終わりからの世界")もある。後者は短い対話劇で、冒頭では介護老人だった二人が、会話をしているうちに壮年に、青年に、幼馴染の二人にと若返っていき、最後は乳母車に乗る無邪気な赤子になって終わるという話で、二人の人生が転倒した走馬灯として描かれる。叙情的な演出は何もなく、乾いた断片的な会話と逆行する時間の厳格な流れが妙な印象を与える掌編だ。時間の流れとは歴史であり、つまり積層していくこと、獲得していくことが大前提であるはずなのに、実はそれはある角度から見た場合の見え方の問題に過ぎないのかもしれない。
 引き算の人生。引かれていくもの、失われてしまうものを拾い集めていくのは意味のない行為だが、引かれ後に残ったものの方がもっと意味がないという虚無的な諦念から出ているように思えてやるせない。脩一の祖父は、現在の自分は夢の中の存在であって、本当は今も死んだ妻、というよりは少年の頃に好きになった女の子と輝く夏の日の中にいると想像するのが好きだという。花絵は暇さえあれば眠ること、眠って別の人生を見ていることで自分の生活を忘れようとしていた。僕も睡眠は好きなので共感できるのだけど、誰しもが何らかの希望を秘めながら生きているとかそういうことではなくて、結局最後まで残るのはふとした断片的な瞬間の数々だけだ、というのはさびしいなということだ。でもそうやって拾い集めるもの、懐かしがるものさえもないとしたらその方がもっとさびしいことであり、自分の送っている日々を省みて若干の寒気を覚えつつも、代わりにこうして美しい形の作品に出会えることには感謝しなければいけない。オゾンは人を太陽から守り、その残酷な光を温かくやさしいものに作り変えている。そしてこの作品は、つめたいフィクションのフィルタがあるからこそ、痛ましい二人を見ても、悲しいだけでなく思いのほか美しいと感じられるのかもしれない。自分がいちいちこの作者の作品に惹かれるのは、たぶんフィルタとしての語りの機能の仕方やフィルタを通して見える世界に惹かれているのであり、淀まず淡々と進む語りは本作では真骨頂を見せていたようにも思えた。
 シナリオライターから転進して以降も作品には通底するテーマがあり、作者がエロゲーからスタートしたのは偶然ではなかったと作品を重ねるごとに強く感じられる。唐辺さんが作家としてちゃんと前進しているかというのは僕にはよく分からない。僕はできれば作品と距離を取りたくないエロゲー読みだし、科学は継続を前提とするが創作は非連続なものであるし、歳のせいか、そもそも作家は成熟するという考え方があまり好きでなくなった。でも彼が非連続な世界をフィルタで濾し取って描く世界を、これから先も見続けていけるといいなと思う。

石川博品『四人制姉妹百合物帳』

 もっと若いころに読みたかった。そうしたら何か違っていたかというと分からないが、だらしないおっさんになってから読むと眩しすぎて、優しすぎて、心苦しさを覚える。ネルリと同じ、ハイテンションなコメディから始まって時間の流れに打ちのめされる展開。2回目だからということがあるのか分からないが、百合時空は移り変わっていく途中の儚い美しさ、儚い幸せに形を与える意味にとても自覚的で、まさに一筋の混じり毛もないかのごとく純度が高かった。彼女たち自身も自覚的でありながら、それでも若さの中にある。そしてそれはすでに過去のものとなっている。女の子に生まれ変わって女子高に通いたい、というか百合の創作世界に紛れ込みたい、という憧れが出てくる。いや、違うのかな。BL好きの人みたいに、カップルの幸せに感染したいという感覚だろうか。その辺りは百合物をあまり知らない自分にははっきりと意識できないが、とにかく溜息が出るような見事な言葉の工芸細工だった。最後の剃毛式にさえなんだか感動的なものがあった。語りの入れ子構造にあるとおり、自分は物語に思いをはせる傍観者でしかありえない。クミコの憧れに憧れるようにしか関われない。向き合わないベクトルの思いは、どこかへ向かって進んだままの状態で結晶化し、噴水のように止まりながら動き、いつまでもきらめきを失わない。

田中ロミオ『人類は衰退しました』9巻

 1巻が出たのが7年前の2007年。完結してしまったのが名残惜しくて、1巻から順番にどんな話だったかパラパラ見返してみたけど、アニメを経ても全然陳腐化したような気はしなくて、ほとんど記憶から滑り落ちてしまって初めて読むような気がしたような話もあって(例えば2巻の「人間さんの、じゃくにくきょうしょく」とか)、なんともありがたい作品だ。9冊となると物理的にも貫禄がある。というか、5巻と6巻はイラストが代わった新装版であることに気づかず、旧版とだぶって買ってしまったので11冊だ。初代のイラストが好きだけど、イラストが代わるというハプニングもロミオ作品的な認識変容のトリックとして納得できてしまったり。なんにせよ、忘れてしまったところが結構あるので、読み返せば楽しめるだろうなあと。田中ロミオがこのシリーズを書き続けて、僕はそれを読んだり読み返したりするだけの世界とかないのだろうか。
 で9巻の感想も少し。SF的な発達史観では、現代はたぶん冷戦の終わりと共に宇宙開発競争も終わってしまったエアポケットのような時代なのだろう。宇宙開発の問題はど素人なので適当な聞きかじりだけど、人が月より遠い星に行く計画とかだいぶ先の未来だろうし、アメリカの会社が宇宙旅行の商業事業をやっているとかいうのも全然わくわく感がない。確かロシアも2020年ごろまでは遠い宇宙の探索にはとりあえず手をつけない予定で、それまでは停滞した宇宙開発を再開するためのリハビリ期間という位置づけだったような(今のロゴージン国防・宇宙開発担当副首相は、隕石撃墜システムを創るとか発言するかなりエキセントリックな人だが)。前世紀の月面到達以来、フィクションの方はあまりも進みすぎてしまって、ビジュアルイメージが溢れたのに比べると、現実の進歩はあまり遅すぎて、そりゃあSF作家も分かりやすい方向付けをえられずに量子SFみたいな理論の領域に逃避していったり、社会設計や小さな日常の問題に埋没していってしまうようなあと。「宇宙に出る人間」を描く作品があまりにたくさん、長いこと作られ過ぎて、もはや歴史的厚みを持ってしまった。宇宙開発が失速している現代、宇宙の話は未来ではなく過去の話だと言えるほどだ。その感覚がこの作品の世界とちょうどシンクロしていて、この作品でも宇宙開発を行えるほど勢いがあったのは過去の時代であり、それどころかその時代の技術は妖精を通じてでないとアクセスできないほどに失われてしまっている。そんな寂しさや穏やかな諦念が、主人公ちゃんが抱える欠落感のようなものと重ね合わされるようで、いろんな仕掛けを凝らしつつもシリーズが一人称の語りに終始したのはよかったと思う。これをSF的な郷愁と呼んでしまうのは安易過ぎる。彼女、意外に頑固だし。彼女が頑固だったのは、家族なのか心の平穏なのか暗くて狭くて居心地のいい場所なのか分からないが、受身がちな彼女にも守らきゃならない何かがあるからだろう。ついでの思いつきだけど、『巨匠とマルガリータ』のヨシュアはイエスの名前で、マルガリータは空を飛べる女の子だった。主人公ちゃんはおいしいお菓子は作れても、妖精たちの神様にはなれても、深窓の令嬢になれない。一人称の語りが採用された時点で無理だし、いくら彼女が不機嫌になろうとも、そこが彼女の魅力だし。とはいっても、一人称で丁寧語調を崩さなかったのは育ちがよさと思慮深さ(と人間不信)が感じられてよかった。8巻は生命の誕生の話で、9巻は生命の死と文明の継承の話である。主人公ちゃん的には、どちらもめんどくさいことだ。それを夢と妖精によって、つまり存在があやふやなものによって、するりと受け入れさせてしまう。冷徹な論理による説き伏せや脅迫ではない。シリーズを通して見ても、空間と時間、精神と物質といった尺度からいって、毎回取り上げられる題材が自由自在すぎて、語りの焦点も柔軟すぎて、どこに一貫性があるのか分からなくなりかねなかった。すべてを語る語り手ではないので、何が解決されたのか、そのそも何か解決されたのかも分かりにくい。問題が起こるのではなく、出来事が起こる(少なくとも表面上は)。主人公ちゃんは何か欲しかったものを手に入れるのではなく、達成するのではなく、事態を収拾し、見守る。自分を守っているうちに、いつの間にか手品みたいに何かを作り上げていた。その散らかった感じが魅力だ。主人公ちゃんは期せずして、僕らと僕らの世界(ちきゅう')だかとの間を取り持つ調停官にもなっていた。「そして未来がわたしたちを待っていました。」 温かい言葉だ。

冬の終わりに

 ブログを始めてちょうど8年、最近はめっきりペースが落ちてしまったが、平均して週に1回くらいはエロゲーの感想を中心に書いていたらしい。アクセス数が30万になった。家はなくなってしまうが、せめてブログくらいは引っ越さずに続けていきたい。ロシア語を始めた頃の教科書の書き込みとか、筆写した詩のノートとか卒論用のメモとか、あるいは単に昔読んだ本とか、この先何かの役に立つことは絶対にないけど、何となく捨てるのが惜しくてダンボールに放り込んでしまった。小説やエロゲーに出てくるような引越しをしない古い家の倉に眠る古い本のように、夢中になってどこかへ向かっていた時の何かの痕跡は、別にそれが何かの事件の暗号とかでなくても、自分のものであって自分のものでないような感覚、今と過去の区分を揺らがせるような存在感を持っていて、ネットをやっていなかった時代なのでファイルとか紙の質感だけでも不意打ちしてくる。ブログはそういう物的な感傷は持ち得ないけど、いつかふとした時に迷い込める、役に立たない倉として引っ越さずに残しておきたい。あんまり女々しいことばかり書くとうんざりするかもしれないけど、その時その時の記憶や感傷、感じたことは、時間を経て振り返ると不思議な容貌で立ち現れてくる。文学とかでは散々取り上げられてきたことだろう。実際に自分の身に起こったらしい。きちんと言葉にできるような力がないから、今回もまた流してしまうけど。