クラーク『楽園の泉』

楽園の泉 (ハヤカワ文庫SF)

楽園の泉 (ハヤカワ文庫SF)

 今年はイリヤの空を読み返すことはなかったが、夏なので攻めて一冊くらいはSFを読んでおこうかなということで、1987年の茶色くなった文庫本を本棚から引っ張り出してきた。
 恋愛要素はゼロなので(主人公は工学しか頭にないような初老のおっさんであり、クラーク自身も同性愛者だったとか)切ない余韻のようなものは皆無だが、読みやすくて爽やかなSFだった(訳文もよかった)。作者あとがきを見ていると、この作品(1979年刊)が書かれた1960~70年代は米ソが宇宙開発競争を行っていたSFの青春時代の雰囲気が感じられた。軌道エレベータのアイデアも西側とソ連でほぼ同時に科学者たちが発表していて、宇宙飛行士レオーノフとクラークの交流が言及されていたりして何とも明るい。このあとがきでクラークは、ひょっとしたら軌道エレベータは22せいではなく21世紀に実現してしまうかもなんて書いている。そういう時代だったのだ。
 それからわずか13年後にソ連は崩壊し、ペレーヴィンが『オモン・ラー』で国家権力が演出したフィクションとしてのグロテスクな宇宙飛行を描く。それから世界の宇宙開発はほぼ止まり、近年になってようやく最初の宇宙観光ビジネスの実現がみえてきたありさまだ。今のところ新しい変化として現実的なのはせいぜい通信衛星打ち上げサービスの一般化くらいだろう。国際宇宙ステーションはまもなく予算不足で半ば破棄され、誰かがうまく活用してくれるのかどうかも分からない。本作で描かれたような超強度の複合素材の量産は実現しそうな気もするが、現在の世界の未来感の乏しさをみていると(インターネットもSNSもAIもまだまだだし、そもそも内向きな技術だし、社会や経済の問題もちっとも改善されていないように見える)、たとえ開発されても僕が生きている間に革命的なことが成し遂げられることはなさそうで残念だ。
 あえてエロゲーの話をするなら、空中から硬質な糸を両端に伸ばしていくようにして軌道エレベータをつくっていくというイメージは、『素晴らしき日々』で希美香と卓司が成し遂げた、学校の屋上を音楽により伸ばしていき、サファイアの結晶を育成するようにして宇宙にまで到達した楽しい儀式をふと思い出させてくれた。現実がSFに置いて行かれ始めたとしても、文学は何度でも新しい装いで戻ってきてくれる。

堕落ロイヤル聖処女 (90)

(神をかわす幸せな物語。新約聖書に触れたことがある人におすすめ。これからプレイする人は以下は読まない方が楽しめます。)

 

☆BC

 なんとも残念な安っぽい作品名だが、それがこの作品が示しているものを汚そうとしていることも含めて収まりがついているといえばついている。世紀末的な退廃の美意識を漂わせる作品であり、本当ならばユイスマンスの小説っぽく『聖処女』とだけしてもいいのかもしれないと思わせるが、このテーマがエロゲーとして成立してしまうところに(少なくとも僕にとっての)救いがある。他の人のレビューを読んだりこのサークルの他の作品がどうだったかを思い出したりしているうちに、この作品は僕にとって大切なものになるかもしれないという予感が大きくなり、手間をかけてパッケージ版を取り寄せたけどその甲斐はあったと思う。
 何に似ているかという話から始めるなら、この作品は田中ロミオ作品のエッチシーンのみを抜き出して引き伸ばしたかのような趣きがある。しかも絵が美麗で、ヒロインの声は耳に心地よく、それほど衒いはないので、本来の用途にも十分適している。衒いがなくてどこがロミオといわれるかもしれないが、そもそもヒロインを汚し、傷つけ、許され、共犯者になり、二人だけの強固な世界を作るという聖女もののジャンルがロミオ的だし、それ以上に滅びの空気や刹那的な諧謔に満たされた文章にも近いものを見出したくなる。誰かが魔王を滅ぼして世界は平和になったはずなのに、かえって神の不在が感じられ、原罪を意識せざるを得なくなって穢れの中に踏み出す聖女。そのときに悲壮感ではなくユーモアと皮肉で武装するからこそ幸せを見出したくもなる。どうせ堕ちなければならないのなら、幸せに堕ちたい。
 とはいえ、ロミオというよりはユイスマンスであり、ユイスマンスというよりは(アルトーによる)ヘリオガバルスのように思える。アルトーの小説というよりは、昔読んだ『アンチ・オイディプス』あたりで抱いた印象だけど。涜聖はフランス文学が大好きなテーマだ。
 ヒロインのセイナは本当に聖なる存在なのだろうかという疑問の余地はある。

「きっと、最も弱く卑しいものが、最も強く救われる時がもう訪れるんですもの」「だから私は、税とウスラと不正にまみれたこの富で、この体で、卑しい欲望に仕えたいと思います。……慰みものにしてくださいますか」(「下劣な方法でよければ」)「それが良いです……」(浅ましい俺は神を試したかった。恋を試したかった。「めちゃくちゃになりたい?」)「……なりたいです。世界が革命されるなら、高貴でいることに何の意味もないですから」

 個人的には、彼女がこういうキリスト教倫理をフランス的に解体するしぐさに、堕落だけなく必死の祈りのようなものも感じられて引き込まれてしまう。聖女といっても、セイナが自分を卑しいというときと、アン・シャーリーとか大草原の小さな家の誰かとかソーニャ・マルメラードワとかが自分を卑しいというときは聞こえ方がおのずと変わってしまい、カトリックはどうもうさん臭くて好きになれないのだが贅沢は言わない。一番卑しいのはこうやって余計な口をたたいている僕なのだから。
 セイナは言葉遊びの延長であるかのように主人公への「恋」を開始することを宣言するが(主人公も本気なのかよくわからないふうに承諾)、この歪さ、持続するのかわからない不安定さが、かえって二人が(戯れを装いながら)必死にしがみつこうとする契機になっているようにみえるのは声優さんと絵の力もあるかもしれない。魔王は不在、神も不在なのだから(神とは魔王のことなのかも)、確かなものなど何もなく、互いにしがみつき合って相手よりどちらが卑しくなれるか楽しく競うしかないのだ。
 涜聖といっても、本当に徹底的に破壊してしまうことはない。聖なるものは物理的に聖性を持っているのではなく、人間の象徴体系に位置付けられて聖性を帯びているに過ぎないのだから、その体系を少しいじって狂わせるだけでいいのかもしれない。「処女懐胎」のシーンだ。主人公は本当にひどいことをするものだが、それは涜神を行いながらも、冗談半分、本気半分で彼女を大切にしているようにも思えてしまい、彼女が喜んでいるならいいのかなと思ってしまう。そもそもこのメーカーのヒロインたちは聖女ばかりで、このような包容力は現実の女性には普通は期待できないという前提に立ち返れば、セイナは主人公と一緒にふざけられて喜んでいるに決まっているのだろう。そうなると、(「苦しさ?俺は苦しさなんて感じてませんよ」)「そんなはずはありません。この世界で、あなたには父も母もいません。肉親がいません。私と……同じです。ひとりきりで、父のない子は神のない子です。私が肉親になって差し上げます」(聖女として祭り上げられてきたゆえの尊大な目線を感じるが、それが今は少しだけ心地よくもあった。そしてこの姿勢[土下座]をとっていてもなお本質的な高貴は薄れない。)というやりとりにおけるセイナの言葉は、何やら妖しげな響きを帯びてくる。「幾重もの木霊に誓って。私の存在は間違っているかもしれないにせよ、私があなたにすることはきっといつでも完全に正しいのです」……力強い肯定。
 こうした遊びを経るうちに、いつの間にかセイナの身体は聖別され、「器官なき身体」のように喜びにあふれた身体になる。ような気がする。

 

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 やはりとんでもない作品だった。キリスト教的な神を扱った作品としては一つの到達点ではないか。最後の方は、賢者モードになってしまっていたということもあるが、半ば呆然と、神学的な問題と煩悩と個人の問題を掘り進んでいくテクストを見送っていた。最終的にヒロインが聖女というよりはほとんど神の子イエス・キリストになってるじゃないですか……。

――問い。
その子は神の子か?
あなたたちがそう言っているんでしょう。
種をまく。
すると種は芽を出し成長する。
青草になり穂が出、穂の中に実が満ちる。
そんな一説を思い出しながらセイナの身体を抱く。
セイナ 「ぁ、ん……、ゆっくり……」
聖女は堕ちた。俺以外から見ればそれ以外の解釈は難しいだろう。

 どこの聖句なのか分からないので間違っているかもしれないが、この流れだと麦の粒が落ちて多くの実を結ぶ話、キリストの死のたとえ話が連想される。堕ちる聖女というのは落ちる麦の実であり、ヘリオガバルスのように娼婦じみた格好で民に説教を行い、「そういう躊躇こそ踏み抜いてみせる」セイナは、パリサイ派に愛と自由を説くキリストのようなものだったということになる(「そしてもう一度聞きます。近頃増えている――この場に大勢いらっしゃる異国の民は、わたしたちにとって隣人ですか? 誰がわたしの隣人なのか? このような問いは見当違いです。――わたしは誰の隣人なのか? 離婚とか、個々の問題はそれぞれ話し合って解決するしかないでしょ。ただ、姦淫したからといって、異国の民だからといって石打ちにするのはちょっとどうかなって。あいつは姦淫したといって他人を裁く前に、まず自分を裁いてみたら? 律法を突き詰めれば、頭の中で姦淫してたら実際に姦淫したのと同じですよ。私も石打ちの刑にしますか? この私の姿を見て……姦淫を想像せずにいられる者がいますか? ね……。シたくなるでしょ……♡」)。

セイナ 「えっと、あの、その。おっぱい。もうちょっと触ってみて……?」
俺 「どうして」
セイナ 「いいから。さわりなさい」

……という箇所ですら、なんだかキリストが復活して弟子の前に現れ、殺されたことを示すために槍で刺された脇腹を触らせた話を思い出してしまうようで、脳が破壊されそうになる。セイナは死んでから復活し、聖女から聖母になってしまった……。
 というのは半分冗談だが、圧巻は、本作では「幾重もの言霊に誓って」、聖書では「はじめに言葉があった」という有名な聖句を、異世界転生の設定にひっかけて言語学的に解体し、はじめの言葉が生じる前の瞬間に愛の根拠を見出し、そのことで神の存在を否定すると同時に受け入れたシーンだった……と書くとなんだか陳腐になってしまうが、隙のない論理展開だった。

「……あのね。もしかしたらこの間にかみさまがいるのかも。うん。私の目と、あなたの目の間」――触れたと思った時にはもう触れ終わっている。見つめ合ったとわかったときにはもう見つめ終わっている。――見ている自分や触れ返されている自分に交差の中で気づき、自覚する。まるで何者かに促されたように。見つめ合って触れ合った瞬間にその何者かは過ぎ去っていく。静止する現在にしか居ない者。セイナ「本当は気づきたくないんだけど」――愛しい人の中にどこまでも埋まっていたい。――そこまで考えたときに朝陽が目に入り、俺の瞳の中に輝きを灯す。それがセイナの瞳にも写って乱反射する。俺たちを見ていないくせに見ている、腹の立つ奴がいる。存在していないのに存在している。――そいつからは逃れられない。聖女がいくら堕ちたとしても。最後には祝福を受けざるを得ず、どんな優しさにも介在してくる。――「、、、、、」――俺たちは間にいる存在を裏切って、自分たちだけの世界を手に入れた。――セイナ「神は存在しません」 今度は異常な静けさだった。数秒、この場の空気が完全に固まってしまってから――。セイナ「しかし、そこに居ます」 どよめきはまだ大きい。セイナは特にうるさく騒いでいるものの隣を指さす。セイナ「はいそこ。そこに居ます」 教師が生徒を差すような指だ。――セイナ「私は言います。生きて、愛しなさい」 そして自分たちだけの言葉を、音を、見つけなさい。セイナ「本当の天の国はそこに。すぐそこに。まさに、私たちの手の届くところに」――また、あなたと共に。

 

――セイナ「ふふ、だんだん素直になるね……♡」 いつもなら憎まれ口を返すところだけど、今は流した。――あの響きは過ぎ去った。やはりあの瞬間にしかないもので、今はもう音ではなく言葉になっている。それに二人とも気づいてしまっていて、繋がりながらもどこか不足を感じる。だから見つめ合ったり、手を握り合ったり、唇と唇を重ねたり。腰を動かして、快楽のなかで相手の存在を感じたりするしかない。――花婿と同席しているのに、優しくせずにいられましょうか[cf.マルコ2-18]。

 なぜ神さまについて考えるのにエロゲーを経由するのか。どちらも最も個人的なものだからだ。この作品を受け入れられる教会があれば洗礼を受けてもいいかもしれないが、そんな教会には二度と顔を出したくなくなりそうだ。代わりのこの、「いくら汚しても汚しきれない」神さまと戯れていた方が幸せになれそうだ。

声の引力

 上坂すみれさんの色っぽい音声作品が出たと知って久々にDLsiteの同人音声をいろいろ見てみた。すると澤田なつさんやかわしまりのさんや杏子御津さんの18禁作品もあると分かり、思わずいくつか買ってしまった。いちいち声優さんの出演作に知っているものがないか調べたりサンプル音声をたくさん聞いて回ったのでこれだけで2~3日かかったが、それはそれで楽しい時間だった。これに合わせてそろそろ限界が近かったイヤホンも新調した(2000円くらいのから3000円くらいのに強化)。
 一緒に「ものべの」のスピンオフ音声作品(非18禁)も買ったが、これは声優が多少聞いたことがある鈴谷まやさん(Pretty Cationの小町先生とか帝都飛天大作戦の瑞城お嬢様など)だったことと、彼女が演じるヒロインの雪御嬢という雪娘の熊本弁が可愛らしくて懐かしかったことに惹かれてだった。僕自身は九州の方言はしゃべれないが、親の実家があるので子供の頃に熊本弁に近い方言を聞いていた。だからしゃべるのはお年寄りやおじさんばかりで、若い女の子がしゃべる熊本弁をじっくり聞いたことはないので、不思議な親しみを感じることができる幻想の言語だ。僕にとってはお年寄りが特に重要ではないような世間話をするのんびりした言葉なので、のんびりしたあやかしの言葉になっても自然だ。ちなみに雪御嬢のゆきの出身地は最近洪水被害があった人吉の球磨だそうで、念のため僕も親に実家の安否を確認したりした。
 DLsiteではものべののメーカーが気前の良いセールをやっていて、雪御嬢の音声作品を1200円くらいで購入したら、1万円くらいするようなものべのハッピーエンドが無料でついてきたので、これも少しやってみた。堕落ロイヤル聖女は低価格作品ですぐにエッチシーンになって終わってしまうのでもったいなくて(それに家人がいると落ち着いて楽しめないので)なかなか起動できないが、ものべのは大作らしく当分エッチシーンはなさそうなので気楽に始められる。発売当時はいまいちピンとこなかったので流していたが、四国の山奥を舞台にけっこう設定にこだわって作った作品らしい。テキストは冗長でスピード感がないので、昔の自分がスルーしたのは無理もないが、今なら無料で入手して気軽に楽しむ分には行けそうだ。杏子御津さんの声は好きだし。タイトル画面の雰囲気もよい。イヤホンのせいか、BGMも心地よい。
 音声作品は、結局上坂さんのは今回は買わなかった。彼女の活躍をかげながら応援してはいるし、ついに彼女の色っぽい声をじっくり堪能できる作品が出たのは大変喜ばしいのだが、彼女の声自体は僕にとっては澤田なつさんやかわしまりのさんより先には来ないので、まずは純粋に聴きたい声を欲望の赴くままに選んだ。
 音声作品は長い。なぜだか耳掃除や耳舐めが定番になっているらしく、寝転がって目を瞑って聞いているといつの間にか眠ってしまい、気がつくとエッチなシーンになっていたりして、前に戻して聞き直しているとまた眠ってしまう。かわしまりのさんの「うたかたの宿」というシリーズの秋、冬、春の3作を買ったが、全部きちんと聴こうとすると1日が終わってしまう。しかし大変エロい。残念ながらエッチパートは薄いが澤田なつさんの声も相変わらず素晴らしい。久々に現役のエロゲーマーだった頃に戻った気分だった。
 そうして賢者モードになっていると、ついに家人が妊活を始める準備が整ったと言ってくれて(ずっとご機嫌取りをしていたのが報われたかな)、このタイミングかよと心の中で天を仰いだ。エロゲーマーとしての自分と家庭人としての自分の両立が試される時が来たと奮い立ったつもりだったが、その日は僕のコンディションが回復せず誠に残念な結果に終わった。これがいつか笑える思い出になればよいのだが、お互いに適齢期は逃しつつあり、持病もあるので難しいことも分かっており、なんだか不穏なスタートになってしまった。ハッピーエンドになるようがんばりたい。
 そして性懲りもなく同人音声の話に戻る。その他に、DLsiteのランキングで圧倒的な人気を誇っていた伊ケ崎綾香さんのかなり過激なエッチボイス作品も買っていた。彼女自身がシナリオも手がけたそうで、「本物を持っている女性が作る音だからリアルなのは当然ですよね」という力強い宣伝文句に好奇心が刺激されたということもあるし、ユーザーレビューでも彼女の音声表現に関する探求心の高さを称賛する声が大きかったということもあるが、要するに純粋なスケベ心からだ。4時間半の大ボリュームだそうだ…。
 まだ作品は聴いていないのだが、今日になって急に伊ケ崎綾香さんの名前に聞き覚えがあった気がして確認してみたら、なんと8年前に僕が声優さんに本名を呼んでほしくて台本を書いて音声作品を作っていただいた声優さんだった。その時の日記のエントリはご大層に「声の力」と題されている:

 ……音声作品にはCGの他に「台本」のファイルも同梱されていて、思い立ってこの台本を改造して同人声優さんに自分専用の音声作品を作ってもらうことにした。ちゅぱ音とか喘ぎ声とか、とても自分でゼロから書くのは無理なので台本があるのはありがたかった。
 一番の目的は、本名をたくさん呼んでもらってエロい声を堪能したいという弁護のしようもない煩悩まみれの欲求で、あらためて自分で書いた台本を見ると声優さんに申し訳なくなる。言い訳じみた宗教ネタを入れて少しストーリーと設定を工夫しては見たけど、性欲丸出しであることには変わりなく、次に進もうにもまずはこの願望を叶えてみないと始まらないと自分に言い訳。「萌えボイス」というサイトには600人以上の声優さんが登録されており、相当な時間をかけて200人ほどのボイスサンプルを聞いた中からこれぞという人を選ぶ執念に我ながら感心し、思い切って申し込んでみて、演出や設定に関する声優さんとのやりとりの細やかさにちょっと感動している。これが2回目3回目と慣れればもっと違ってくるのだろうか。まだ作品が出来上がっていないのでどうなるか分からないが、1文字2円の方に5000字弱をお願いしたのでエロゲー1本分強ですみ、十分お手頃な楽しみのような気がする。感想はたぶん書かないけど(書いて切り離したくない)、まあ万が一何か書いておいた方がいいことでもあれば。それにしてもこういうニッチな産業(しかもまだ発展途上)があるのを目にすると、性欲ってのはすごいなと思う。

 伊ケ崎さんは多分当時も界隈では知られていたと思うが、現在はさらに大活躍しているようで喜ばしい。2015年くらいから商業活動もされているとのことで、今ならもうこんなふうに制作を依頼することはできなそうだ。他の作品も買ってみようか……。この僕だけの作品は恥ずかしくて何度も聴けずにウォークマンの中に眠っていたが(1回聴くだけでも濃密な体験で、そのことに慣れてしまうのも何だか嫌だった)、この機会にこっそり聴き直してみるのもいいかもしれない。どんな気持ちになるだろうか。録音の品質は現在の作品よりだいぶ悪いけど、今の僕にとっては何か声以上の声が聞こえてくるのかもしれない。

ヘリオガバルス、声優の声

 夜のひつじ『堕落ロイヤル聖処女』を読み終えてしまうのが惜しく、内容的に関係がありそうに思えたアントナン・アルトーヘリオガバルス、あるいは戴冠せるアナーキスト』を取り寄せて読んでみた。実際にはあまり関係はなさそうで、とはいってもまったく無関係ではなさそうなのだがそのあたりは後日作品感想で触れるかもしれないとして、奇書といわれる本書は、個人的には訳文(鈴木創士訳)がひどくていまいち入り込めなかった。訳語の選び方、句読点の使い方、語順、リズム感などがことごとく日本語として不自然で不親切で、大学生の逐語訳を読まされているようだった。原文のフランス語が透けて見えるような文章は意図的なものなのかもしれないが(鈴木氏は哲学寄りの訳書が多いので逐語訳的な厳密性にこだわっているのかもしれない)、これはとても幸せな翻訳とはいいがたい。といっても僕は原書を読めるわけでもないし、旧訳と比較したわけでもないので、無責任な印象に基づく感想なのだが、僕が以前に小説の翻訳を出した時の編集者なら赤を入れまくっていたに違いない訳文だと思った。ついでに、難解とされている他のフランスの思想書なども、きちんとかみ砕いて訳せばもう少し身近なものになるような気もした。そんなわけで入り込めずに流し読み気味になってしまったのだが、内容については特筆するところはなかった。昔ドゥルーズだかの本で読んで抱いたイメージを出るものではなかった(器官なき身体とかはドゥルーズらの発明概念なので出てこないのだが)。ヘリオガバルスがシリア出身で皇帝となってローマに凱旋したとか、当時のシリアの女系社会と宗教のこととか知らなかったので興味深かったが。


 話が変わるが、愛聴するアニソンがたまってきたので簡単に感想を残しておきたい。基本的にはニコニコ動画で無料放送しているもののうち面白かった作品の気に入った歌のデータがアマゾンでばら売りされていれば買い、通勤時などに聴くという付き合い方をしている。帰りに聴くとリラックスできることが多い。以下、おおむね買った順に。
Colorful☆Wingガーリー・エアフォースED):シャープな電子音が心地よい。北都南さん系というのかな、どちらかというと幼い感じが多い声の編集の仕方もきれいで、合唱もよい。「ふーらーぐ」というあたりで気になってはまってしまった。確かEDアニメーションも清涼感のあるよいものだった。森嶋優花、大和田仁美、井澤詩織
それゆけ!恋ゴコロ(超可動ガールズOP):声がヒロインのフィギュアのこのイメージに近く(実際には違う人が歌っている)、電子音の処理がうまくて可愛らしい声なので買ってしまった。メロディが古く(ついでにいうとキャラデザも古い)、子供の頃に聞いたような、あるいは歌詞も含めてゼロ年代秋葉原で聞いたような印象を受ける。「はーらはらどーきどき」のあたりとか。フィギュアと暮すオタク青年という作品の主題的にも懐古的で後ろ向きであり、影があるので少し寂しいけど、それは明るさでしか表わせない寂しさであり、そのあたりにゼロ年代感がある気がする。A応P
憧れFuture Sign(Re:ステージ!ドリームデイズ♪ ED):それぞれの声の個性のバランスがよい(声だけでなくアニメのキャラクターもよかった。特にかえちゃん)。歌詞も前向きでよい。「迷子の大好きさん」というのがよく、脚韻を踏んでいる前行は僕の頭の中では「憧れフューチャーさん」になっている。KiRaRe。
ユメシンデレラ(荒ぶる季節の乙女どもよ。ED):アニメ作品中では脇役だったが、声優の麻倉ももさんの声が素晴らしく(詩月カオリさんと似た感じ)、声を引き立たせるような曲になっていると思う。疲れたときによい。特に2番の序盤の力の抜けた声が取り留めのないおしゃべりのようで素晴らしいが、声を張っているサビの部分も悪くなく、よい歌手だと思う。
ヒロメネスSHOW BY ROCK!!ましゅまいれっしゅ!!OP):アニメ作中でエモい言われていたが、ギターの音がきれいでメロディ、盛り上がり方が心地よい。そしてなんといっても4人の声がよい。特に遠野ひかるさん(ほわん)と和多田美咲さん(デルミン)が好きだが、夏吉ゆうこさん(ヒメコ)と山根綺さん(ルフユ)もよいフレーズがある。デルミンの「あの日の陽炎」は聴くたびにHPが回復する。遠野ひかるさんのやわらかい裏声に目覚めた。
キミのラプソディーSHOW BY ROCK!!ましゅまいれっしゅ!!ED):ヒロメネスに比べるとメロディの美しさは劣るが、楽しそうな雰囲気が良い。マイラバのアッパー系の曲(Shuffleなど)を強く想起させるメロディと音色。「こーころにー」とか。EDアニメーションも楽しげだった。ルフユの「もうもどーらないー」が可愛い。デルミンが声を張り上げているのも可愛い。
歩いていこう!(恋する小惑星OP):飾らない歌詞を東山奈央さんが一生懸命歌っていて励まされる。作中の担当キャラのイメージとは少し違うけど、そのずれがまたよいのかもしれない。東山さんの歌のお姉さん的な素直な声。アニメ作品もささやかな夢を追いかける女の子たちを描いていてよかった。OPアニメーションではみらの目の中に星空が広がるカットがとても美しい。
夜空(恋する小惑星ED):こちらはとがった個性はないけど優しい歌で、アニメEDでの入り方がよく、女の子たちの後ろ姿と星空を描いたアニメーション自体も雰囲気がよく、思わず聴いてしまう歌だった。鈴木みのり
Have a nice MUSIC!! デルミンver.(SHOW BY ROCK!):デルミン(和多田美咲さん)の声をもっと聴きたくて買った曲。持ち味の低めの静かな声のパートはなく、幼女が一生懸命声を張り上げているみたいな歌になっているが、これはこれでよい。
nameless storyとある科学の超電磁砲T ED):岸田教団&THE明星ロケッツの歌を久々に聴いた。昔は東方風神録のアレンジ曲を歌ったのをよく聴いていた。アニメの方はマンネリ気味なのかもしれないが、毎回それなりに引き込まれて観ていた。ヒロインである食蜂操祈をめぐる物語で、その余韻がよかったので買った歌。歌は「この思い出の向こう側にたどり着けばいい」という部分の盛り上がり方が素晴らしい。
ようこそ!ヒミツの雀バラや!?おまたせ!雀バラや♪OP):アニソンではないが、なんかふと聴きたくなってアマゾンで探したらあったので。ゲームは知らないし、麻雀も全然知らないけど。こういう中華系の歌がジャンルとして存在するなら聴いてみたい気がする。MOSAIC.WAV.
ハイファイ新書相対性理論):アニソンではないが。シフォン主義と天声ジングルも買ったけど、今のところはこれが一番よい。ずいぶん前の曲だけどあまり古さは感じさせない。そもそも90年代の空気を歌ったアルバムだし。やくしまるえつこさんの歌はこれまでルル(電波女と青春男ED)とノニエル・少年よ我に帰れ(輪るピングドラム)を聞いたことがあり、それなりに印象に残っていたけど、アニメにそこまではまらなかったこともありそのままになっていた。ハイファイ新書はコンセプトがはっきりしていて面白く、歌も歌詞やメロディや声の吸引力が高い。でもこういう建設的ではないが完成度の高い遊びは一回だけの禁じ手なのかもしれない。これにはまっている限り前には進めないのだろうが、他方でとんでもなく繊細な感性を凝縮した逸品にも思える。
シャボン セレナver.バミューダトライアングル 〜カラフル・パストラーレ〜ED):ヒロメネスの遠野ひかるさんの裏声をもっと聴きたくて調べてたら出てきた歌。そして堪能。何気に歌詞もけっこうよい。海の中で静かに暮らす女の子(人魚)たちを描いたアニメで、カードゲームのスピンアウトであることを知らなかったので、視聴していた時には何で最後に彼女たちが歌手になるのかわからなかったが、それはともなく、雰囲気のよいアニメで、EDもよかったことを思い出した。「ふわふわ この空に浮かんでく/七色 虹の色 映し出し/キラキラ 光ってる海も越えて/皆で見てる夢は まるでシャボン」何回でも聴ける。
 この先もよい歌にめぐりあえますように。

球詠


 アニメを観てはまり、マンガを一気に読んだ。ちょうど8巻が発売されたばかりだった。
 最近読んだ順に ハチナイ → ぐいぐいジョー → 球詠 とだんだん男性の存在感が希薄になっていき、球詠では観客もすべて女性で男性は一切存在していない世界のようで、女性の同性愛はごく自然な感情になっている。野球に集中したいから後回しであり、野球を通じた心の交流に比べれば不自然な感情という位置づけなので、希が途中から芳乃への気持ちを自覚してくぎづけになってしまっているのを見るのは面白いけど、ちょっと心配になる。それほどまでに野球要素が純化されていて、女の子を鑑賞して感情移入したいという欲求は野球部分だけで十分に満たされてしまっているので、もはや恋愛要素は不純にもみえかねない。
 その意味でも、例えば、久保田の熊谷実業との試合のエピソードが素晴らしかったことを覚えておきたい。この試合では新越谷の女の子たちのカップリング的な掘り下げはなく、梁幽館戦のカタルシスの後の喪失(3年生の引退)を消化するためのエピソードだった。ライバルを失った久保田も気持ちを新越谷にぶつけるわけにもいかず、新越谷は代わりにしかならないことを受け入れ、年下ばかりのチームに敗れて引退する(そしてひそかに藤原が思いを託されて成長する)。敗北を受け入れ、さっぱりと球場を去る姿が梁幽館戦とは別の感じで印象的だった。優勝するチーム以外はすべて敗れて3年生は引退するので、何も特別なことはないのだけど、野球は喜びや楽しさばかりではなく、傷も与えるものであると久保田の表情を見ていると感じる。隣の扉絵は熱暑の熊谷の実家で暑そうに寝そべっている久保田の一コマで、そこにも勝手に感傷を見出したくなるけど、絵柄は全体的にめそめそしていないのがありがたい。どのキャラも真剣に野球に向き合って、野球を楽しんでいるのを見ているのが心地よい。
 とはいえ、梁幽館戦でホームランを打った希が塁を回りながら芳乃を指さしたのにはさすがにぐっときた。あと珠姫が詠深に話しかけるときに密着しすぎているカットかやはり見てしまう。練習方法とかヤジとか試合運びとか、ディティールにこだわるマンガだからか、いつのまにかそれ以外の部分のファンタジーを受け入れてしまう。
 それにしてもアニメを何度も観返して、同じ話をマンガでも3回くらい通読しても飽きないのがおかしい。アニメの次の回は原作をもう読んじゃったのでさすがにこんなはまり方はしないと思う。
 8巻では新しい選手が登場したけど、あっさり自分の居場所に収まれそうでかえって不安になる。左腕として大野の分まで活躍してほしい。
 1巻は12刷だった。たくさん売れて長く続いてほしい。

ノア・ゴードン『ペルシアの彼方へ』


 以前にイラン旅行を思い立った時に事前に想像力をかき立てるために読もうと思ったけど当時は下巻しか見つからず、結局読まないまま行ってしまい、最近思い出して上巻も買って読んでみた。文学作品としては取り立てて技巧的なところはなく、クズミンが書いたアレクサンドロス大王の伝記のようにエキゾチックな歴史娯楽小説として楽しく読めたが(そのバランス感覚があるいは英米文学らしかったが、ちょっとエロ描写が多すぎて安っぽい感じがした)、それがまさに僕が旅行前に求めていたものだったので思えばちょっともったいなかったが、ともあれもう一度ペルシャに思いをはせる機会を持ててよかった。イングランドの風景、しかも11世紀、それにその頃のイスファハンとくれば堪能するしかない。といっても、僕が見たイスファハンは何世紀も後に建設されたものだろう。この辺を確認するには映画版も観た方がいいのかもしれない。この小説で描かれていたものと今でも変わらないのは、ペルセポリスくらいだろう。調べてみたら、小説の主要登場人物の一人であるイブン・シーナはブハラのあたりの出身だそうな。僕が見たブハラやホラズム、シラーズもきっとイブン・シーナの時代には違う形をしていたのだろうな。
 大河小説というのは、結局何が言いたいのと聞かれると何も残らない。大河のような流れの中に身を浸し、何かを洗い流すためのものなのだろうけど、その流れは空想上のものであり、作り物なのだ。それでも実際に空間だけでなく時間の中も旅行してきたような感覚を抱けるのは、中世的な倫理観でいえば罪深いことなのかもしれない。11世紀のイングランドスコットランドの草地や魚、巡業外科医兼理髪師の大道芸に集まる村人たち、ロンドンの賑わいと汚泥、バラ色に染まるイスファハンの街並みやマリスタン(医学アカデミー)の営み、ユダヤ人コミュニティの生活、象やラクダの乗り心地…。すべてが空想の産物だ。だが現実のイランやウズベキスタンだって、僕が今後再訪しないのなら空想の産物とほとんど変わらない。空想は僕たちの旅と同じくらいに終ると儚くなるものだが、同時に僕たちをどこかで支えてくれている。

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イスファハンの古い寺院…だったはず


 

樺薫『ぐいぐいジョーはもういない』など

 ゴールデンウイークに読もうと思い立った本にようやく手をつけられた。まずはハチナイ小説『北風に揺れる向日葵』と『潮騒の導く航路』(asin:4047351075 / asin:4047356700)。ゲームではあまり描かれていないエレナと潮見が何を考え、何を背負っているどんな人間なのか分かっただけでも満足できるものだったが、ゲームともアニメとも違い、音声や音楽がなくて絵がわずかしかないことでいつもと違う形でハチナイ世界を楽しめたのもよかった。なんというか、普通の文庫本のフォント(明朝?)で描かれているだけで趣きを感じてしまうのだから我ながら安っぽい感性だが、やっぱり音の出ない本ていうのもいいな。作品の技術的な部分についてはあれこれ細かいことを言っても仕方ないような狡猾な代物だが、女の子たちがおおむね行儀が良すぎた中で、メインのエレナ、潮見、有原はしっかりと描かれていて印象に残った。そういえば有原はゲームでもあまり描かれていない(無課金プレイヤーなので知らないストーリーも多いが)。あと九十九さんはセリフが少なくても安定していたし、竹富くんは唯一の出番があまりにもな感じで笑ってしまった。
 次に読んだのは『Room No.1301』の1巻と2巻(asin:4829162244 / asin:4829162600)。だいぶ前に評判を聞いたことがあったが、今回何となく手に取った。青春時代の不安定な感じが懐かしく描かれていた。なぜだか13階の部屋が自分が昔住んでいた家になり、そこに一人で住むという設定にやられてしまい、今は失われてしまった自分が育った家の間取りや家具の細部や、失われたあの頃の家族の誰がどの部屋でどんなふうに過ごしていたかを思い出そうとしているうちに眠り込んでしまった。小説に流れる空気に触発されたところもあるかもしれない。このことだけでも手にとって良かった。といっても2冊読んである程度満足してしまったので、またいつか何となく読みたくなるまで続きはいいかな。
 それから『ぐいぐいジョーはもういない』(asin:4062837552)。刊行から10年だそうだ。『花咲くオトメのための嬉遊曲』もそうだが、僕が知る文学史や文学ジャンル体系には野球小説、ましてや女子野球小説というものはないので、僕にとってはオーパーツのようなインパクトの作品だ。そう思わざる得ないほどに文体や物語構造が、伝統的な文学史とは全く関係のない野球という外的ファクターに合わせて変形され、野球以外のテーマを扱うことはできないように練り込まれたような印象を受ける(映画はあまり知らないし、本作で取り上げられた映画も見たことがないのでよくわかっていない部分もあるだろうが)。まさか一試合のほぼ全投球の内容を隙なくリズミカルに解説していくことが青春と百合の濃密な物語になるとは。こんなにガチの「女子球児」なるものがこの世に存在するのがにわかに信じられないが、確かにどこかに存在するのかもしれず、といっても別に存在してもしなくてもそんなことはどうでもいいというくらいに高密度な青春女子野球百合小説という構造体が、何かよくわからないものに対する記念碑のように存在しているのだった。わずかに惜しむとしたら、鶫子の言葉遣いが男っぽすぎることくらいだ。女子と野球の関係については、『花咲くオトメのための嬉遊曲』の感想では視線の問題と時間の問題を中心に書いたが、本作品ではイラストはほとんどないので視線の問題は語りの問題に置き換わり、そのことにより時間の問題は語られる時間、すなわち記憶の問題になったかのように思える。ただの玉遊びがこんなものを生み出すのは何とも不思議なことだな。それをいったら世の中の素晴らしいものの多くは不思議なことだけど。

Musicus! 続き3

・仕事始めの憂鬱な朝になってやっと気づいたが、「今はつらくても、もう少し頑張れば芽が出る。うまく回るようになればもっと楽になって、いいものも作れるはず」という状態、これ僕の仕事のことでもあるんだよなあ。音楽とは比べるべくもないけど、僕の仕事にもほんの少しだけクリエイティブな部分があって、でもそこに労力をかけている余裕はあまりない(実際はかけているので残業が増えてる)。だから感情移入しやすかったのかもしれない。あまり気づきたくなかったけど。そんなことを考えて憂鬱になっていたけど、それを奮い立たせるには仲間(家族)の存在を思い出すのが一番なのだろう。僕に傷つけられると「ヒトリ・コドク、ヒトリ・コドク、ヒトリ・コドク……」と奇妙な呪文を唱え始めていじける家人の姿を思い出したら少し憂鬱が和らいだ。


・三日月ルートの入り口。「『もしどうしてもソロがやりたかったとしても、バンドはやめないでほしい。これが僕の本心だ』 そして僕は口を閉じた。これで、言うべきことは言った。あとは彼女が決めることだ。僕は黙って、その返事を待つ。」 この肝の座り具合よ。こういう間合いを持てる男になりたいもんだ。そしてきちんとした返事を聞かずに病院を出ても、「一晩考えれば答えを出してくれるだろう」と自分からは何も聞こうとしない。


・それからそのまま公園での子供との演奏のエピソードへ。「それじゃあ、妖精さんは音楽の国に帰ります。じゃあね」の「じゃあね」の声色が三日月らしい素直さがあってよい。そのあと、疲れて座り込んだバス停でこちらを見上げる三日月の絵がきれい。そして「私、とんでもないクズなんです」と力説する三日月。生ぬるいところでしか生きられないクリオネみたいな生き物。なんか怒っているみたいなんだけど、必死になると怒っているようなしゃべり方になってしまう人なんだろう。対馬が口説くように念押しする形になって、三日月は怒ったような顔をしながらも頬が紅潮しているのが可愛い。三日月は性欲が強いことになっているけど、全然いわゆる発情した状態にならないのが面白い。自分をコントロールできなくなると真面目に怒ったり泣いたりして、自分と戦うので相手どころではなくなってしまう。


・すべては偶然の成り行きなんだろうけど、結局三日月ルートでバンドがブレイクできたのは、ワンマンライブをやったからなんだよな。とすると、澄ルートでだめだったのは、水村オーナーがもっと早くワンマンライブをやらせてくれなかったからということになるのだなあ。めぐるルートについては、きっとエンディング後にそのうちワンマンライブをやらせてもらって道が切り開けたということだろう。


・家に帰ると仲間がラーメン鍋を作っていて、そこからメジャーデビューの話にいくという流れが好きだ。


・澤村くんの声優さん読み方がすごくうまい。長いセリフもメリハリがきいていてすごく自然に聞こえる。


・「『だから、私は愛のためだけに歌うことにしたんです。自分の心のためだけに。わがままかもしれないですが、正直に歌うということはそれ自体価値のあることだと思うんです』 まあ、今はこんなことを言っていても、三日月はきっとこの先この理由がなくなったとしたって、また別の理由をつけて結局歌うんだろう。理屈なんか全部後付けで、彼女の魂はなんだかんだいって歌いたがっている。」 なんか結論めいたものが出てしまっている。そして自分はそんな人間ではないという。


・メジャー移籍が決まり、花井のアパートを出る三日月。対馬の家に来る。先日、21歳の誕生日をチョコレートケーキで祝ってもらったという。今度は祝ってもらってよかったな。


・金田の娘誕生。生まれる前の部分から文章がうまくて面白い。子供に何をしてあげたらいいかとしんみりする金田。病院までタクシーに乗ってもいいのかという戸惑い。タクシーの中での不安。笑い要素やバカ要素がなくなるといいやつだ。麻里にも不安をぶつけて、逆に金田は「世界で一番幸せな人間だ」と笑って励まされてしまう。幸せな風景だ。でもなぜか妻にも金田君と呼ばれているのが面白い。三日月のぼんやりした話。携帯の新機種が出ると現行機種が古く見えるようになる。それは別に嫌なことではない。不公平ではないと思うようになった。古びることを受け入れるわけではないけど、拒絶するわけでもないという。大人になっていく感覚なのだろうが、本当は嫌いのはずだという。こういうぼんやりした話を金田娘誕生の知らせを待ちながらする。そして金田からの「やったぜ!」という会心の写真とメール。いろんな人の心情が描かれていてうまい文章だ。


・三日月はずっと丁寧語でしゃべる。自分を信用していないから自分の言葉に緩衝地帯を用意している。だから丁寧語のくせに結構好き勝手に言い放てる。同時に他人が容易に踏み込んでくるのが嫌だからでもある。といっても、親に怒鳴りつけるときには北海道弁が出るのだが。最終兵器彼女をちょっと思い出した。


・強い風の吹く夜。人間は宇宙に行っていないかもしれないという話からペレーヴィンの『オモン・ラー』を想起。ソ連の宇宙飛行士は実際には宇宙に行っていなかったという話。虚構に囲まれるとそれが現実になってしまう。三日月も虚構の音楽に囲まれて歌う意味からも対馬と一緒に幸せに生きるという可能性からも隔離されてしまう。欲望を見失ったので窒息し、せめて人に役に立つには自殺でもするしかないという話になり、対馬がバンドの解散を提案する。対馬も有名人であることに未練はないから判断が早い。ここからエッチシーンに進むのは、三日月を取り囲む虚構を取り除いて解放するという意味合いだろうか。対馬は自分が三日月に釣り合わないと冷静に考えているが、それは「余計なこと」だったと決断する。「ああ、本当にこれ現実なのかな……。夢だったら醒めないでほしいな……。こうやって何にも隠さずに全部見せあって、自分のことをよく知った上で認めてくれる大事な人とくっついて……世の中に、これより素敵な、嘘みたいなことってありますか……?」といううわごとのような声の感慨に三日月の性欲の源が感じられる。達した瞬間が描写されていないのが面白い。ピロートークの「私たちは、たくさん食べてたくさん寝てたくさんセックスして、精一杯生きて最後は野良猫みたいにどこかの溝でひっそり死ねばいいんです。そして他のくだらないことなんか全部雲の向こうの宇宙を超えてどこか遠い星の物語になってしまえばいいんですよ」、欲望を見出し、虚構から解放された三日月。翌朝、目覚めた三日月の神秘的な体験:「さっき、夜から朝になるとき、窓から太陽の光が差し込んで、こう、ばーっと部屋中の影が一斉に動いたんですよ。普段影が動くことなんか感じないのに、でも全部が生き物になったみたいにこうばーっと……へえ」そのあともその体験を反芻していたらしい。新しい世界で目覚めてチベット仏教みたいな神秘体験をして時間の流れが引き伸ばされたかのような。そしてバンドを続けようという意志。「ここでやめる必要はないと思うんです」「今回は迷惑かけちゃって、申し訳ないんですけど、でもあとちょっと、あとちょっとで何かに届くような気もするんですよ」「だから、少しでも私に期待してるなら、ここでやめないでほしいなって思うんです」――主体的にしゃべらず、自分を含めた何かをわきから観察しているような語法。そのあと半分我に返って、「あ、あともうひとつ、お願いがあるんです」「ここに、引っ越してきてもいいですか? そのほうが、きっと頑張れると思うんです」「嬉しい」そして彼女は笑った。それから3日間、ひたすら求め合う。そのあとも二人の時は猫のようにべたべたしてくるらしい(トイレまでついてきて離そうとする泣きわめく)。紅白の時にぼうっとしていたのは、この時の感覚と同じだったのかな。絶好調であり、ただ集中しているだけだという。「全部愛のパワーのおかげですよ」


・尾崎さんが地元の市役所で働いているとの風の知らせ。デビューライブの時に聴きに来てくれていたのに会えなかったのは残念だった。でも会えていたからといってどうなっていなのか。結局断って以来一度も会っていないことになる。ライブには満足してくれたのかな。


・実家で父親と酒を飲みながら打ち解けてしまう対馬。それを喜ぶ母。いい光景なんだけど、澄ルートの最後に電話をかけてきて気遣いを見せた父を思うと素直に楽しめなくなったいる。


・「特に三日月は絶え間なく身の回りのことを再検証する。だから、当たり前のようなことも何度も考え直して悩む。そうした行動は僕らが見落としがちなことを再発見したり、古くなったものを新鮮にしたりしてくれるが、その代わりに彼女の世界を安定から遠ざける。だから彼女は人よりも不安定なのだと僕は思っている。」 この対馬の観察が妥当なものなのかわからないが、妥当なのだとしたら、なぜ歌手(作曲はしないで歌うだけの人)はそれほど多くないレパートリーを何年も繰り返し歌い、そのために繰り返し練習しても、作品を飽きてしまうことがないのかということの答えになるのかもしれない。三日月は普通の歌手よりも一回一回の演奏に「不安定」な状態で向き合っているから、毎回全力を出せるのかもしれない。飽きないというのはひとつの才能だ。


・三日月ルートの対馬には、三日月や澤村がいて、自分の限界を割り切っているので自分の中に沈潜せずに済んだ。澄ルートに救いを見つけてあげたいがなかなか難しい。


・襲撃されて以後、落ち込むそぶりを見せない三日月。PTSDがどういうメカニズムの病気なのか知らないけど、対馬と結ばれて心に余裕があったからにもみえる。退院したらバンドに戻っていいですか、と無邪気そうに聞く三日月に対して、金田が「おう! 何言ってんだ、当たり前だろっ!」と力強く即答してまくしたてるのがよい。包帯をとった三日月の顔の絵はとてもよい。何を考えているのか想像した来るような表情をしている。まったく余計な連想なのだが、「どうでした? 気持ち悪かったでしょう? 嫌いになってもいいですからね」と少し無理をしている感じで言う三日月に対して、対馬が無言でキスをする場面、大審問官伝説の終わりのシーンを思い出した。キスというのはこういう時のためにあるわけで。


・右目の視力を喪失する三日月だが、そのことについては何も言わない。もともとナルシシズムとは無縁の自己評価の低い三日月だからおかしくはないのかもしれないが、それにしても少なくとも対馬の目には何も言っていないように見えるというのは少しおかしい。それでも、遠慮しているのか、以前よりべたべたしてくるのが少し減った、とさらっと言及。そして、練習しようとしたら歌えないと知って涙を流す。実はフラッシュバックが何度もあったし、透明な液体を飲めなくなったと医者に告白した、とさらっと言及。三日月ルートは後半になると語られなかった部分で読ませるスタイルに移っていくように見える。エピローグの雰囲気だ。


・郊外に引っ越し、家庭菜園や釣り。1年が過ぎる。この辺りはなんだかトルストイの小説みたいな淡々とした描写だ。そういえば釣りはキラ☆キラにもあったな。セルフオマージュってわけじゃないと思うけど。「時々指で眼帯の周りをかいている。暑い季節だと蒸れてしまうらしい。」こういう異化の即物的描写を挟み込むのもトルストイみたい。三日月は穏やかだが、音楽に触れないようにしている。「悔いはないですよ。」婚約。プロポーズするとなぜかけんか腰になってしまう二人が微笑ましい。


・誰のために歌を歌うのかという八木原との問答。今更ながら「たった一人の最愛の人のため」「おれは不真面目だから、したいことしかしないんだよ」という直球の答え。こういうのを八木原のような「通りすがりの人」が言う。「もしかしたら、私もそうすればよかったのかな……。」


・スタジェネのライブを体験することに対する不安。そこに「馨君、何も心配することなんかないんだよ」「すべてクソだ」。「そうですよね。きっとそうなんだ。僕はそれとは別の何かがあると思っていたけれど、結局それは見つからなかったんです」「……でも、だから何だっていうんだろうね? それが何であろうと、おれたちには音楽が必要なんだ。他の何よりも必要だったんだ。どうしておれはそれを信じられなかったんだろう?」 「馨君、顔を上げるんだ。」 このライブで涙を流したという対馬。いちおう花井を見たと自分で報告するけど、あまり語らない。花井の言葉に、「だからなんだっていうんですか!」と同じことを言う三日月。「音楽は音じゃないですよね。これです!」と花井と同じような「くさい」ことを言う。花井と同じことを言いながら、花井を論破するために路上で歌うと言い出す三日月。見知らぬ人を相手にした路上での三日月の歌は、ファンを前にしライブハウスで歌うスタジェネとは正反対の構図だ。犬のおまわりさん。迷子の迷子の子猫ちゃんを助けようと困って泣き出してしまう犬。自分の物語で勝手に泣く老婆。そしてまたバンドを結成する。結局、路上の歌で泣く人がいるかどうかなんてどうでもよくて、スタジェネのライブで対馬が「音楽は必要だ」という結論を出したように、三日月も何らかの答えを出したのだろう。ひょっとしたらスタジェネの歌自体がきっかけではなかった可能性さえある。その辺はあまり描写されていない。ライブが終わって一夜明けたら、三日月はいつのまにか歌えそうな感じになっていたのだ。


・「『でも、結婚したらそれって心の浮気になっちゃうじゃないですかー。不適切ですよねー』そしてケラケラ笑った。その後、さすがに彼女は泣いたけれど、今は大丈夫だ。」結局泣かしてるじゃないですか……。でも、このエピソードを復活ライブ開始直前にさらっと入れるのがうまい。このライブ前の控室の三日月の絵も、何かを考えているような笑顔の表情がとても良い。目を細めて笑うとケガの跡が目立つけど、それもいい笑顔になっている。花井の幽霊に音楽と引き合わせてくれたお礼を言おうと思っていたという。花井は三日月を世界に出したかったという対馬の考えと、三日月も同じことを考えていたのかもしれない。


・エンディングムービー冒頭のみんな、いい顔している。特に金田と三日月がいいな。ムービーを見ながらなら歌詞の冗長性もあまり感じられない。僕にはよくわからないが、音だけを聴く歌なのではなく、ライブという演奏者を見ながら聴くような歌のジャンルなのかもしれない。非常に今更だが。


・最後に三日月の歌声についても一言書いておこう。正直なところ、作品の評価や感想を「物語」として受け止めるここでは、楽曲そのものについては書かない方がいいような気もするが、歌声も代替不可能な作品の一部として与えられているので。好みの話しかできないが、僕はきらりの声よりは好きかもしれない。ときおりジュディマリYukiのような伸びを感じさせるところがあるのがいい。もちろん、テクストには負けていることが多いのだが(負けていないのは花井のぐらぐらくらいか)、そもそも「天才」だと書かれているのであまり気にしても仕方ない。一番気に入ったのはエンディングのMagic Hourかな。

 

いつまでもおしゃべりできればいいけれど、とりあえずこのあたりでいったん終わり。

Musicus! 続き2

 また少し続き。今日で連休も終わりだ。
 一人になるとたくさん寝てしまう。昨日は『電気サーカス』を読み返して(半分くらい読んだ)12時間以上寝た。昼夜逆転の年末年始だった。対馬とミズヤグチが混ざったような人が出てくる夢を見た気がする。あと、Musicusのサントラを作ろうとしたが、BGMをうまく吸い出せなかった。もういろんなやり方を試してみる気力はないし、それほど聴きまくりたいほどではないのでいいかな。作品の空気を思い出すには便利なんだけど。

・めぐるは何であんなに寝てばかりなんだろうか。作者が起きている描写をめんどくさがっただけというのが有力なような気もするが、それにしてもノーフューチャーだ。演奏中毒であるということは、めぐるにとって演奏は抜けられない快楽であって、演奏し疲れたら自慰に疲れた後のように寝てしまうのだろう。いつも穏やかで感情を強く表現することがないが、弾いていないときは一種の賢者モードだからなのだろうか。対馬は何かをやると決めたら徹底的にできる集中力があるが、めぐるはそれが演奏に特化されていて、しかももっと官能重視なのだろう。めぐるの方が正直で純粋なような気がする。僕もずっとやっていたいことや好き放題にやりたいことくらいはあるが、そういう生き方をきれいに結晶化したのがめぐるなのだろう。彼女のこうした特質について作品中でネガティブな描写は何もなかった気がするが、わざと伏せていたのか、それとも本当にそんなものはない、美しく幸せな存在としてめぐるを作ったのか。そういう生き方をするには、守られていなくちゃいけないし(親の支援で生活には困っていなかったっぽい)、音楽の完成度に対する強いこだわりを持たずにグループの中での居場所を見つけなくちゃいけないし、見つからなければ押し流されていくだけなのだろう。音楽以外の外部からの入力情報に対してはあえて鈍感になる(「もしかして、私心のどこかで馨のこと好きなのかな? まあ、そうだとしても、自分では認識できないくらいだけどねー」)。真似したくてもできるようなものではなさそうだ。それでめぐると話していると悲しくなるという三日月にからまれるわけだが。
・三日月が「自称ネットのことならなんでも詳しい」けどセンスは微妙なオタクなのが面白い。三日月が作ったダサいサイトよりも、田崎さんが適当に作ったインスタグラムの方が盛り上がっていて、ライブの後に泣きながらゴリラみたいに暴れている三日月の画像が人気だという。三日月の才能に対するこの距離感がよい。勘違いした金田の裸画像が増えてインスタグラムの人気が下がるというオチも。
・「『はぁ、どうしたら私、もっと穏やかな性格になれるんでしょうか…… 普段はぼーっとしてるんですけど、時々わけのわからない感情が嵐みたいに襲ってきて、わーってなっちゃうんです』 だが、僕はそれを修正するべきものだとは考えていなかった。その激しい感情が、三日月を特別な人間にしているように思えたからだ。とはいえ、本人にとっては感情の起伏に振り回されるのはとてもつらいだろうというのも理解できる。自分の中の理解できない衝動を抑えたり、理解するためにそのエネルギーのほとんどを使ってしまっているように見える。自分と向かい合うことに精一杯で、外から刺激があるとそのバランスがすぐに崩れてコントロールできなくなってしまう。だから彼女は引きこもらざるを得なかったんじゃないかと、僕は最近想像している。『もっとまわりの人や、大事な人に優しくしたいんだけどな。どうしてもできないんです。めぐちゃんのこと大好きだし、いやな思い出とか誰にも言われたくないのに、今日もあんなこと言ってしまって……。自分が嫌になります』」 会話を交えた小説的作法の分析がこの後にも続いていく。こういう描写がエロゲーではあまりなくて残念だ。
・八木原がスター・レコードへの所属を提案しに来た場で田崎さんが抜けることを発表し、取り乱した金田がしまいには八木原にも意見と説得を求める。ここでいきなり八木原に話を振れるのが金田のすごいところなんだろうな(自分ですごさを分かっていないところも)。八木原も急に話を振られてびっくりしつつも、真摯に答えるのがよい。
・ライブの後でメンバーの反省点をメモ書きする対馬。減点法のこんなメモに意味があるのか疑問だが、感覚的なことを書くとメンバーの個性を殺してしまう可能性があるので書けないという。このストイックさが基調にあるのがよい。
・はじめに弥子ルートに進んだこともあり、だいぶ話が進んでから風雅が出てきたのはさわやかな空気が入ってきたようでよかった。澤村倫も同様だ。人が去ったり新しく来たりするのが瀬戸口シナリオのよさであり、ともすると淡々と流れていくようにみえる三日月ルート後半のエピローグ的空気にもつながると思う。
・二十歳になって三日月は対馬をケイクンサンではなく馨さんと呼ぶようになったが、誰にも(少なくとも対馬には)成人を祝ってもらわなかったのだな。それで対馬の呼び方を変えることを決心した。それでバンドを出て行ったらどうかと言われたら腹が立つよなあ。それでどっちでもいい星人になる三日月。「それはダメだよ。ミカちゃんがいなきゃこのバンドは成立しないのに、どうしてそんなこと言ったのさ? 理解できない! 売れる気がないの? Dr.Flowerはこれからだっていうのに。呆れて言葉が出ないよ。それに馨さんにそんなふうに言われたらミカちゃんは可哀想だ。自分の言葉がどんなふうに受け止められるのか考えてないの?」とズバッといえる風雅がよい。瀬戸口テクストは畳みかけるテンポがよい。ちょっとテンポが遅いようにもみえるけど、冗長でない内容を平易な言葉で伝えているから長く見えるだけで実際には無駄はなく、声優さんが読むとちょうどよいテンポになるようにできていると思う。同じことを金田と篠崎も対馬に言うわけだが(金田「おれにはミカの気持ちがわかるね。こんなに残酷なことはないじゃねえか……」、篠崎「お前が謝って、大事に思ってるよって言ってやればそれで解決するんだよ。簡単なことじゃねえか」(説教した直後にヒモになっていることが判明))、それぞれの性格を反映して言いまわしとかが変わっていて冗長に感じない。そうして対馬が話し合おうと三日月のアパートに来てみると三日月は自慰に耽っているわけだが、別に淫靡な展開にならずに逆切れし(対馬も淡泊)、自慰があくまで三日月の鬱屈を表すものとして使われているのがこの作品のエロゲーらしくなくてよいところだ。そのあと、「人生についても語っていいですか?」と聞いて突如死の不条理について語りだし、怒りをぶちまけたり、怒りを感じない対馬を哀れんだりする。ある種の賢者モードだが、ドストエフスキー的な会話の流れでもある。三日月が音楽に求めているのは確かな形でえられるものではないから、いつまでも不安定で、安定してしまったら音楽をやる意味も失ってしまいそうにも思えるけど(対馬が「必要だ」と言ってあげれば何も考えずに安心できるというが、実際に「必要」で「幸福」だというと、「急にニヤニヤして気持ち悪い」と答えるのがよい)、それは単にこの作品の外側のエピローグの世界だから描かれないだけなのかもしれない。
・正月明けの弾丸ツアーのエピソードは、おそらくテーマ的な意味では細かく固有名詞を出して描く必要のない部分だが、こういうのをずるずると読んでいかないと積みあがらないものもあるのだろう。そのあとで金田の嫁の話とか花井の遺作の話とかメジャーデビューの話とかが出る。
・澄ルートに進むと(進んでしまった)、金田が育児と仕事で活動を減らし、風雅は体を壊す。対馬がバンドの活動停止を決める。ここにはエロゲーらしい選択肢は出ない。選択肢はもっと前の時点で出ていた。だからプレイヤーは流れを追っていくことしかできない。それでも明るいトーンは残っているから、澄が登場した時もまさかあんな展開になるとは思わなかった。でも、その前に夢の中で赤ん坊がずっと泣いていて、顔のない風雅が「ここには何もないんだよ」と繰り返していたんだな。だからこそ澄の登場は救済のように思えたんだけど。先に進みすぎたが、澄が登場する前に、バンド活動停止から1年が経っている。この間に対馬は単独でコンセプトユニットを組んでそれなりの活動を続けていたとのことだが、内省的な描写がなく、何かを求めながら音楽をやっているのかわからないままいまま1年が過ぎた。そのうちに音楽が客に届いているという実感がなくなってきたという。となると、以前に実感を得ていたのはDr.Flowerのメンバーで活動していたからだということになる。独立した後はそういう契機がなくなってしまったというわけだ。Dr.Flowerをやめたのは何かの選択の結果ではなく、抗えない流れの結果だったから、そのことを対馬が後悔したりすることもない。一人になって経済的に安定してしまったから、後悔することもできないらしい。「この生活だけで、自分の一生はいいかなという気になってくる。」 登場人物が減って地の分ばかりになる。ある種の解放感というか、第2のスタートを予感させる流れだったから、そこに現れた澄は印象的だったんだけどな。
・今更新しいキャラクターかよと思った。この流れの感覚がよいのだな。この後の展開を思い出すとつらいのでほどほどにしておきたいけど。いきなり「お弁当を作ってきたので、よかったら食べていただけませんか?」か。思えばけっこう大胆だな。このころはまだよかったな……。といってもまだ始まったばかりのところだけど。花屋の店員は肉体労働で大変だけど、人の気持ちに触れられるから幸せだという。他にも澄は対馬が弁当を食べている間に故郷の自然の話などをしたという。聞いてみたかった気もする。
・澄を家に誘う。家に入る前にいつもの癖で郵便受けを確認する。こういう意味ない描写をいちいち挟むのが印象的。日常の延長線上あることを意味する異化の手法だ。できた新曲を聴いてみないかと尋ねるとすごく喜ぶ。喜びすぎだよ……。この時点でも澄は特に曲のことを理解しているだけではないけど(それが今の対馬にはあっているという皮肉)、それでもすごく嬉しいみたいだ。僕も嬉しくなる。
・自分が満ちすぎていて自家中毒を起こしそうな殺伐とした部屋に、女性が一人いるだけで「何もかも緩和されて、全く別の居心地の良い空間になっている」という。「どこにも何の根っこも持たない創造物があるなんて、とても想像できない」「他人がいるとこういう凝り固まった僕の淀んだ世界観が、すっきりと正常になるのを感じる」とも。どうしてこれがいい方向に行かなかったんだろうなあ。
・澄のエッチシーンでBGMがないのは良心的でよい選択だと思う(他のヒロインはどうだったっけ)。喘ぎ声テキストとかが単調で手抜きに思われかねないのも(急に饒舌になって余計なことをしゃべりだすよりはいいのかもしれない。手をどこかにぶつけて何かを落っことしてすみませんと謝るくらいしか言葉がなくて生々しい)。事がすんでピロートークで「『施設は中学校を卒業した時に出ました。それから、ずっと一人で暮らしているんです。今はとっても幸せですよ。人生で一番幸せだと思います。』 微笑みながら口にした言葉には嘘がなさそうに思えた。本当に今が一番なのだろう。そして彼女の話は終わりだ。(中略)『僕たち、お似合いかもしれないな』そう呟くと、澄は言葉では返さず、僕の腕を抱きしめる手にぎゅっと力を込めた。それからほどなく、僕らはアパートを借りて一緒に暮らすようになった。」 ……ここでエンディングになりませんかねえ。
・それから金田が誘いに来て断る。それから3年が過ぎる。あとはもうまっしぐらだ。澄も新興宗教みたいなのを頼りだした。この3年がすっ飛ばされたということは、今の対馬にとっては特質すべきことは起こらなかったということなのだろうが、いろいろなことがあったのだということにしておきたい。レストラン→八木原の電話→子猫→変な評価のライブ→帰宅すると「にゃああん、クロちゃあん、澄ちゃんでしゅちょー」→作曲再開→「ここにはない何か。もっと恐ろしくて美しいもの。そんなものが音の世界の先にはあるような気がする。喜怒哀楽のような表面的な感情ではなく、もっと奥深く、清冽な滝のように心を打つ何か。」(風雅の父と話が合いそう) と上がったり下がったりがあって、まだ上向くのではという希望を持たせられた。この間、対馬の認識力にぶれはないように見える。でもそれからすぐのことなんだな。妊娠の話は。このあたりから明らかにおかしくなったようだ。僕はある時点でいい加減に怖くなって社会に出ることに決めたが、対馬は苦痛とか恐怖に鈍感で集中力がありすぎるので、続けてしまったわけだ。ここもBGMがなかった。「今日はずっと馨さんの曲聴いてますね。私、どんな時でも、馨さんの作った曲を聴くと元気になるんです。だから人生、悪いことばっかりじゃないんだなって思うんですよ。」 これが最後のセリフだったようだ。実際に元気が出たのだと思う。
・この後きた金田が優しい声ですごくいいことを言うのだが(「大丈夫だよ。対馬は深く考えすぎているだけなんだ。お前、澄ちゃんのこと大好きだよ。安心しろよ。子供のことはどっちにすればいいのかおれにはわかんねーけど、お前はいいやつだから大丈夫」)、対馬のせいなのか話の展開のせいなのか、これでもだめなんてのはどうかしているよなあ。
・「僕が澄を根本的に好きになれないのは、やっぱり、音楽が伝わってる気がしないからだ。僕はもう生活の大部分を音楽に込めている。なのに、一緒にご飯を食べて、一緒に笑って、セックスもして、愛してくれている澄に何も伝わらない。根本的に同じ世界の人間じゃないなんだなという気がする。だから本当は澄に曲を聴かせるのは嫌なんだ。それをどうしても認識してしまうから。」 まあ、八木原にも伝わらなかったわけだが。澄が理解してくれていたら、八木原にも伝わる曲を作り続けたのかもしれないが。それにしても、今更ここでこれを言っちゃうと八方ふさがりになる。自分が好きなものを共有できないという恐怖から遠ざけるために、その話はしないでと言って少し距離を置いてくれる人もいるが、澄は反対に対馬の曲が大好きだと言って距離を詰めてきてくれる。これに不満を持つのは贅沢な気がするけどなあ。
・この期に及んで対馬は、絶望した花井が自殺に至った「最後の1ピースが分からない。一度音楽を離れたってよかった」と言っている。僕もその最後の1ピースはよくわからないが、対馬の場合はこの後で明瞭に示された通りだった。その前には急に父親から優しい電話がかかってきて、追い詰められた気がして衝動的に死にたくなったそうだが、澄のことも考えて堕胎を見直すと決心するところまでになったのに。
・それにしても意地の悪いテクストだ。最初に読んだとき、病院に行くときに澄が以前に虫垂炎で入院した時の回想が始まって、僕はこれが途中から回想ではなくなったような気がしてちょっと安心したのだった。勝手に期待して誤読しまった。ここでペレーヴィンが出てきたのは嫌な感じがした。……。澄の死に顔の絵が必要だったかよくわからないが、むだにグロテスクな絵ではなかったのが多少の救いだった。
・澄の携帯電話で再生した時に流れたBGMが対馬が作った「no title」なのだとしたら、僕は素人なので良し悪しは判断できないが、これは改めて聴くと悪くない曲に思える。短いフレーズだけなのでどう展開していくのかわからなくはあるが、Musicusの中ではむしろけっこういい部類の曲のように思える(冷めた言い方をすれば、泣けるテクノみたいな感じのジャンルのやつ)。そして澄がこれを聴いてつらい気持ちを乗り越えようとしたのも想像できる(あと、エンディングムービーの曲も、濁ってはいるけれど、もとは結構きれいな曲だったのがうかがえる。どっちの曲だろう)。そして、これが澄を殺したゴミのような曲なのだと言われたら、それにも頷いてしまうのかもしれない。でもまあ、ここで音楽のストーリーと価値に関する花井理論の話はすまい。澄が最後に聴いていた音楽という情報だけで十分だろう。
対馬はこの後で澄を思って自分を責め、自分の中に残ったものをすべて音楽に変えて、何一つ残さず消えたいと願うわけだけど、このモノローグの流れがきれいだ。
・でも果たしてこのエンディングムービーは必要だったのかな。これは瀬戸口氏が考えた演出なのだろうか。「何一つ、残さない」という最後の言葉でそのまま終わりでもよかったような気がする。
・また澄の話になってしまった。この後三日月ルートを再読する気力はあるだろうか。こんなふうな何の編集も、それどころか読み返すことすらしていない感想というか、ストーリーの要約のようなものを書いて何の意味があるのかわからなくなってくるし、いい歳のおっさんが恥をさらしているような気もするが、とりあえず残しておこう。

Musicus! 続き

 気を取り直して少し読み返してみる。というか自分の中でこの作品をなかなか終わらせたくない気持ちがあるが、僕にはそのアウトプットの仕方がよくわからない。本来はこの飢餓感が僕がエロゲーに求めているものだったのかもしれない。没入するというのは、ゲームの中の世界の生活の方が現実の生活よりも濃密に思える状態のことだろう。
 この年末年始は、約10年ぶりくらいに田舎に行って、寝たきりで痴呆の進んでいるおばあちゃんを見舞ってきた。もう生きているうちに会えないかもしれないと思ったからだ。おばあちゃんは1年以上、鼻に入った管だけを栄養源にして生きていて、自分では寝返りも打てない。母さえも認識しているかわからないくらいなので、僕のことはおそらく覚えていないだろうが、しゃべれないのできちんと確かめることもできない。でもその日は思ったよりも元気だったらしく、僕をじっと見ながらしきりに瞬きをしていた。僕は何度か耳元に大声で話しかけたけど、特に何かおばあちゃんと話したいことがあったわけではない。死にそうな人の顔を見に来ただけであり、後味が悪いを思いをしたくないという利己的な理由からだったのかもしれない。それでもいかないよりは行った方がよかった。
 前回帰省したのは約10年前におじいちゃんが亡くなったときだったが、その時は15年ぶりくらいだったかもしれない。今は叔父が一人で暮らす家は、かつてはお手伝いさんもいてにぎやかで、商売も繁盛していたが、今回帰省してみると床が柔らかくなったところが多くて、朽ちて行っていることが実感された。築100年くらいだそうだ。集落全体が衰えて行っており、小学校も今では新入生が5人くらいしかいないという。店にお客さんが来たが、よぼよぼのおばあさんで、家まで帰れるのか心配になる。近所のポストに新聞がたまっており、おじさんが訪ねてみたら孤独死していたこともあったという。小学生の頃にはよく夏休みに帰省していたが、冬に来たのは今回が初めてだったので、余計に寂しさを感じられたかもしれない。
 もう片方の田舎の方は20年以上顔を出していない。こちらはおじいちゃんもおばあちゃんも僕が小学生の頃に亡くなっており、やはり叔父さんが一人で住んでいる。瀬戸内海に浮かぶ小さな島だ。先日、芸能人がぶらぶらする番組で親戚の家が出てきたので(芸能人にお邪魔された)見てみたが、相変わらずののどかな風景で懐かしかった。前から帰省してみたいのだが、妻が嫌がっているので僕もやる気が出ない。確かに気を遣ってしまうので仕方ないだろう。いつか一人で行くしかない。本当はスズキ・ジムニーを買って子供と一緒に行って泳いだりみかん山に登ったりしたいと思うのだが、子供もジムニーもいないのでただの夢だ。
 妻は休暇中には実家に帰ることが多く、お互いにちょっと寂しくなるのだが、僕はまとまった時間をエロゲーなどに費やすことができるのでありがたくもある。この年末年始はテレビをつけない静かな環境の中でMusicusに集中できてよかった。年始早々仕事に出たが、僕しか出社していなかったので静かに仕事して、Musicusの余韻がまだ持続している。次にこういう作品に出会えるのが12年後とかになる可能性もあるので(昔はこのことが分かっていなかった)、今はもう少し楽しんでおきたい。まだ明日と明後日を休めるのはありがたい。
 というわけで、どこのシーンを読み返したいというのがあるわけではないのだが(どこを読んでもそれなりに面白い)、たまたま流していたら尾崎さんの実家を正月に訪問するシーンになった。この実家の雰囲気、母と子が打ち解けていて温かい感じがするのがよい。ぼろいアパート暮らしで、小さなプランターで食べられる野菜を栽培したり、もやしだかなんだかを育てていたり、大きくない居間にこたつとかタンスとかあるのがよい。先日の田舎にも掘りごたつがあった。僕の家は炬燵もタンスもなくて、ガスヒーターとエアコンとクローゼットだけだ。尾崎さんの家の居間には壁に子供が描いたような虹と太陽のクレヨン画が貼ってあるが、あれは尾崎さんが描いたものなのだろう。テレビの上には木掘りの熊と狸の置物が乗っている。隅の方には学生カバンとか鏡と櫛とかあるから、ひょっとしたら尾崎さんの自室すらなくて、この居間くらいしかない家なのだろうか。尾崎さんの母は太っていて早口で朗らかだという。とても和む雰囲気だ。これが対馬をも和らげたのだろう。尾崎さんも、考えてみれば、澤田なつさんみたいなブレスが多めで声量のある声をしていて、健康的だ(きっといいボーカルになるだろうなと思っていたら、案の定歌ったわけだ)。尾崎さんのような女の子って実在するのだろうか、あんなふうに女の子を育てることって可能なのだろうか、そもそもこんな居心地のよさそうな慎ましい家ってまだあるのだろうか、僕の今の家もいつかは古びてこんな雰囲気をまとえるのだろうか、と無益なことを考えてしまう。まあ僕は今年はめんどくさいので実家に顔を出しておせちを食べたりしなかったので、せいぜいこのゲームで実家感を味わっておいたことにしよう。対馬は前の学校を辞めた後、神社でみかけた尾崎さんと話をして定時制に通うことに決めたそうだが、その尾崎さんのルーツが感じられる家庭の雰囲気なのだった。尾崎父は創作で行き詰って酒を飲みすぎて死んだそうだが、その頃にはきっと違った雰囲気があって、尾崎さんも学校に通えなくなったが、それでも父に対しては明るい感情しかないらしい。そうして現れる、「人生を何かに賭けるべきか、賭けないべきか」という意地の悪い選択肢……。
 対馬は尾崎さん以外のルートでは、家を出てぼろくて広い家に引っ越し、そこがすぐにバンド仲間のたまり場になってしまい、それはそれで楽しい生活を送るわけだが、この家と尾崎家の感じが好きだ。もちろん住んでいる人のせいなのだが。存在しない澄ハッピーエンドルートでは、澄のマンションも尾崎家のようなかんじになったのだろうか。
 ……。こんなふうにだらだらとゲームを読み返しながら実況半分の感想をいつまでも書いていければどんなにいいことか。でも、まず飽きてしまうだろうし、それにそんな時間はどこにもない。せいぜいあと2日だ。とりあえず気楽なメモのつもりで残しておこう。

・音楽面では突出したものはないと書いたが、しいて言えば、無音の場面が多かったのは良かった。あと、歌については作中ではなく個別に聴けばそれなりにいいのかもしれない。作中では明らかに文章に負けており、声量や音圧が不足しているように感じられる。でも、歌詞はやっぱりだめだな。意味の塊が長すぎて、メロディに対して意味が遅れており、そのせいで冗長に感じる。わかりやすい歌詞にするならもっと早口で歌う必要があるが、僕はそれよりももっと短いブロックの言葉の連なりをゆっくり聞く方が好きだと思う。
・何度も言及された、対馬が香織をかばって学校を辞めたエピソード。「どうなるか試してみたかった」というが、対馬がロボットに比されていたことと合わせると、『悪霊』のスタヴローギンが町のお偉いさんと頬にキスを交わす挨拶をするときに、思いつきで突然相手の耳に噛みついてみて仰天させたというエピソードを思い出す。何事にも受け身であるスタヴローギンとロックに魅入られた対馬ではまったく違うが。
・あえて書くまでもないが、いい大人になっても定職につけずバンド活動に生活をささげているゾンビのような人々の話、僕は研究者になることをあきらめてサラリーマンになった人間なので自分のアナザーライフのように感じられ、この作品の登場人物たちに感情移入してしまう。僕の同世代ではすでに助教になった人もいるが、いまだにフリーターみたいな人もいると思う。そんな僕に必要なのは、尾崎ルートのアフターストーリーなのかなあ。
・三日月がほんとうにいい子だなと思ったのは、最初のライブが終わって自分に不満を感じて怒っているのを見た時だ。そういうものを抱えていなくちゃいいクリエイターとは言えない。作品を完成させたそばから、その作品への関心を失っていくようでないと、あるいは人の作品であっても勝手に作り直そうとして作品をめちゃくちゃにしてしまうようでないと天才とは言えない。三日月が寝たまま吸い込まれたように上を見上げて、もう少しで何かがつかめそうだとつぶやいている印象的な絵があるが、あれはどういうことなんだったっけ。そのうち読み返したい。

 あとでまた続きを再開しよう。