上坂すみれさんの声と杏子御津さんの声

 初めてエロゲーを買ってしまった時、初めてアトリエかぐやのゲームを買ってしまった時、初めてフィギュアを買ってしまった時、初めて抱き枕カバーを買ってしまった時……。順番に並べるとだんだん下降しているような、あるいは上昇しているような感じがするが、そうした初めてのものたちの中に連なってしまうようなおののきがあった上坂すみれさんの音声作品杏子御津さんの音声作品
 素直に射精ですという言葉があるが、上坂ボイスで肩叩きされている音声で素直に射精してしまえるとはなあ。普通にマッサージしたり肩叩きしたりするときにあんな声でないと思うのだが、そこが暗黙の了解があって、あくまで健気な猫の女の子の話であって、最後にはちょっといい話風の設定も明かされる。でもあんな声なんだよなあ。どうしてもキモくなってしまうのであまり書かない方がよいのだが、上坂さんが知性派声優としてのキャラクターをうまくつくっているので(ラジオとか聞かないので僕が抱いている勝手なイメージだが)、演技における余剰部分としての吐息とかが予想外に色っぽかったときのよさがある(いわかける最終回の吐息にも聞き惚れた)。そのバランスが素晴らしい。大切なものを安易に言葉で包んでしまわずに、むき出しのまま聞き手にゆだねて差し出しているというか。むき出しといってもそれは技術であり技である。吐息はたぶん台本にも大まかな指示しか書けないだろうから、声優さんの本領が最も発揮される部分の一つかもしれない。アニメのキャラクターがいまいちだったり、セリフがいまいちだった時には脚本やビジュアルが悪いといえるが、音声作品の吐息が悪かったらそれは声優さんの演技が悪いということになる。とはいえ、そんなおまけの余剰部分でしか声優単独では評価されえないのだとしたら、声優というのはとても慎ましい職能であって、アイドルのように扱われているのは異常だと改めて思う。そういう声優というありかたの難しさも引き受けたうえでの全力の演技と、その結果としての作品におののくのは自然なことだ。
 杏子御津さんの18禁作品の方はさらに過激で、ほとんどエッチをしているときの喘ぎ声しかない作品で、しかも喘ぎ声は声優さん本人のアドリブだという。声優さんにこんな負担を強いていいものだろうか。買って聴いている僕もだが、制作した人もひどくないか。そういうぎりぎりを攻めるのが芸術なのだろうし、杏子さん(という区切りでいいのだろうか)もそこに芸術家としてのやりがいを見出したのだとしたら、僕はその挑戦を賛美してしっかり自慰するしかない。自慰するしかないというのがあまりにも情けないから、せめてこんな文章を賢者モードの今書いている。といってもこの作品、名称からして「【超感度】りえのNTRおま〇こに妊娠するまで連続種付け♪」という弁解の余地のないものなんだよな。これを僕は賛美している……。ほとんどが喘ぎ声なのだが少しはセリフもあって、そこから見えてくる「りえ」のキャラクターは特に魅力的でも好感を抱かせるものでもなく、ただの軽薄な欲望に流される女の子だ(でも情が移ってしまう)。ダメな設定部分と、ハードコアな喘ぎ声の部分の2極しかなくて地獄である(BGMもない。SEはもう少し控えめでもよかった)。単に杏子さんのほわほわした声を聴いてほわほわしたいなどという甘い考えは許されない。エロゲーの無駄な日常シーンは無駄ではないことが実感される。そもそも、僕の中で杏子さんの声のキャラクターイメージは「はつゆきさくら」の東雲希だ。他にもものべの(プレイ中)の夏葉とか運命君の梨鈴みたいな素晴らしいヒロインがいるしアニメでも多少なじみがあるけど、はじめに聞いた希ののんきでちょっと間の抜けたキャラクターのイメージをかぶっている。ところがこの音声作品はそんなのどかなイメージはなくて、でも声は杏子さんで、ハードコアなのだ。ハードコアといっても獣のように大声で喘ぐのではなく、だいたい押し殺した声なのが素晴らしい。セリフもだいたいは救いようのない下品な抜きゲー仕様なのだが、男性器を執拗に「ちんちん」と呼び続けるのは若干間の抜けた感じがして救いだ。エロゲーの喘ぎ声はシナリオが出しゃばらない純粋な欲望に近い気がして好きなのだが、みなさん声が元気すぎると感じるときもあるので、杏子さんが選んだ表現に正解を感じられたことが嬉しい。エロゲー的な喘ぎ声から離れたらAV、あるいは普通のセックスに近くなったとはいうまい。声で勝負する声優さんの技術の結晶である。文字にならない喘ぎ声の変化の中にストーリーの断片を感じる。エロゲー的な絶頂の絶叫は控えめなので、どこで絶頂するのか少し注意して聞いておかないと分からない。絶頂後は比較的さっさとシーンが終わってしまう。そういう緊張感も含めて、熱気と密度を感じさせる作品だ。
 ジャンルの進化というのはいつしか断片化して先鋭化して隘路にはまり込んでしまうことが多く、語りかけや吐息や喘ぎ声に特化したかのような音声作品にもその気配はある。でも個々の作品にとってはジャンルの運命などどうでもよく、その場限りの声優さんの最高の演技があるだけだ。十年先、二十年作にこうした作品はどうなっているだろうか。機材関係の技術はさらに発達して、いまの僕には想像もできないような体験が可能になっているかもしれない。でもこの上坂さんの声や杏子さんの声が消えることはないと思いたい。声は埋もれず、かき消されてしまう。吐息や喘ぎ声ならなおさらだ。そんなふうに形のないものだからこそ、いつかどこかで発せられた言葉にならない言葉として、形ではないものとして耳に刻まれる。

アマカノ Second Season 雪静

 芸術評論は詳しくないのでとんちんかんな思いつきかもしれないが、絵画と彫刻、あるいは二次元と三次元の大きな違いというのは、奥行きや立体感の有無だけでなく、フレームの有無だと思う。一般に彫刻は絵画のようにフレームに守られて安定した視点から鑑賞するものというよりは、作品の周囲の様々な角度から鑑賞したものを総合して印象を得る。彫刻の鑑賞は安全地帯から行うものではなく、鑑賞する角度や遠近の自由度が高いため、逆に作品から鑑賞者(のプライベート空間)に対する干渉を意識せざる得ず、絵画よりも緊張感があり疲れる。
 エロゲーは二次元芸術なのだが、この作品をプレイしているときにぼんやりと感じていた手ごたえは、絵画というよりは彫刻(フィギュアでもいいが)を鑑賞して楽しんでいるような充実感だった。劇的な展開や壮大で幻想的な物語はなく、ひたすらヒロインの可愛さを鑑賞していくことで話が進んでいくのだが、それが彫刻的な印象だったというか。彫刻のもう一つの特徴として、硬くて無機質な素材でできた、基本的に静止したものだということがある。だからこそ芸術家たちは彫刻で、あえてやわらかいものや動きのあるものを作り、その二律背反で作品に深みを与えようとしてきた。
 まだ雪静のルートを終えただけなので、この印象が他のヒロインでもいえることなのかは分からないが、雪静の可愛さは正面向きの立ち絵の可愛さによる部分が大きいと思う。身体を縮こまらせている防御の姿勢だ。髪の毛も内側に向いていて、厚い質感を感じさせるブレザーやコートも含めてさながら重厚な鎧のようになっている(本作の美術については全ルート終えてから改めて考えてみたい)。斜め向きになっている立ち絵もワイシャツのボタンの隙間から奥がちらっと除いていて非常にハラショーなのだが、この正面の雪静は、凝固して防御していながらもその自信なさそうな気持ちの揺らぎをそのままにこちらに全身で向き合って、その身体をこちらに投げ出してくれている感じが、とてもよい(エロい)! 特に意味のないシーンでも何度もスクリーンショットを保存したくなった。この立ち絵の恋人感がそのまま作品のコンセプトを表しているのだろう。その武器がよく分かっているようで、例えば、図書室での立ち絵を使ったフレームの遊び可愛らしかった
 エロゲーは二次元なのだが、大きなおっぱいとは奥行き(というか「前行き」)であり、その意味では三次元である。したがっておっぱいは彫刻であり、動きであり、二律背反を仮託しやすい象徴である。防御する雪静はおっぱいを隠しているが、それはその立体感を押し隠し、制御しているという意味で彫刻的な姿勢だ。姿勢だけでなく、おどおどしていて口下手で、本の世界でしか安心できず、独り言みたいなしゃべり方しかできない雪静という女の子の在り方が彫刻的であるように思える。
 声についても一言触れておきたい。そのそも本作にたどり着いたのは、松田理沙さんによく似た力丸乃りこさんの音声作品「保育士のなでしこさん」を思い立って購入して、そのやわらかくて高い声(こういう高音を鼻や口蓋に響かせるような声質を専門的にはなんていうんでしょうか)にほわあーとなってしまったためだった。松田理沙の出演作品は残念ながらこれまであまり当たったことがなく、せいぜい「あまつみそらに!」の清澄芹夏くらいだったのだが、個人的にこの役は松田さんの長所を活かしきれていないように思う。「最果てのイマ」のイマも松田さんだそうだが、フルボイス版は邪道派だ。昔ましろ色シンフォニーのアニメを観て、みう先輩の声が印象に残っていた。そこで今回、非18禁の音声だけは満足しきれずに本作とタユタマで飢えを満たすことになった。雪静は上記の通りの性格の女の子なので、松田ボイスはよく合っている。とはいえこれでいいのかなとやや疑問な演技もあって、独り言のつぶやきのようなセリフがきちんと相手に向かって言っているようなイントネーションになってしまっているのは違和感があった。しかし、そのままボソッと呟けばよかったのかというとそれも疑問で、おそらく音声化が不可能なニュアンスのしゃべり方をする女の子なのだろう。それを松田さんが音声化すると、イントネーションに対して文章が一押し足りないようなちょっと変なしゃべり方になっていて、「~だね」とか「~かなあ」とか文末の着地を和らげる助詞があればいいのに(あるようなイントネーション)、なぜか断言めいた言い方になっていしまっていて、その歪みが可愛らしい。これをからかってあげて愛でたい気もするが、そうするとしゃべり方が普通になってしまうかもしれなくてもったいない。主人公(当然本名プレイ)はどこまでもイケメンでやさしく、しゃべり方でからかうことなんてしないで自分でも筆談を楽しんでいたくらいなので、後日談や続編でも特に触れられないままなのかもしれないが、だとすれば主人公はむっつりすけべの変態だという解釈が可能だ。
 おっぱいの話に戻ろう。おっぱいが彫刻的に制御され、最後まで隠されたままであれば大問題だが、おっぱいは顕現するべきものであり、その前提で隠されている。初めて雪静のおっぱいが顕現した時の驚きを表現することは難しい。これほどまでの防御されながらも激しく主張されていたおっぱいがついに姿を現したとき、それは期待ほどではなく軽く失望した、などということはなく、それまでにずいぶんと上がってしまっていたハードルをさらに超えるほどのおっぱいだった。乳首が大きい!大きくて丸い!しかしおっぱいも大きいから下品な感じではなく、調和がとれている!透明感があって、果物ようで、マスカットのように美しい。僕はエロゲーをプレイすることを食事に例える仕草が好きではなく、できるだけ控えるようにしているのだが、この美しいおっぱいと乳首を果物に例える誘惑に抗うのは難しい。2回目のエッチの時のおっぱいも素晴らしかった。1回目であれだけ驚かされたのだから、さすがにもう難しいだろうと思ったところで再びやられた。3回目はさすがに趣向が変わり、おっぱいが閉じられた状態から差分でとんでもない形に変化してしまい、あまりのエロさに衝撃を受けてお先に失礼してしまった。この3回が特に印象的だったが、その後のエッチシーンもどれも素晴らしいものだった。まだ残っている後日談のシーンが楽しみだ。ただし、主人公がやたら広範囲にぶっかけたがることはあまり好きではなく、僕は精液ではなく雪静の身体をもっと見ていたかった。あと、雪静がやたら卑語を口にするのはどうしたものか。いうまでもなく受け入れて共犯者になるしかないのだけど、らめえ系の崩れた言葉の濫用はライターさんにもう少し自制してほしかった。そんなステレオタイプの卑語を使わなくても雪静は十分にエッチなのだから。それから、いちいち書くようなことではないかもしれないが、口でしてくれているときなどのセリフのイントネーションが妙に落ち着いてしまっていて、セリフとは乖離してスーパーの試食コーナーで感想でも口にしているみたいな感じになってしまっていたのはやや残念だったが、雪静の意外とたくましい一面だということにしておこう。
 エッチシーンはダイナミックなものばかりなのだが、雪静との物語は特に読んでいて面白いわけでもない平坦な日常の連続だ。部屋で一緒に画集を眺めたとか、本屋で一緒に買い物をしたとか、ケーキを作って渡したら周りの人も祝福してくれたとか、雪の上を歩いたら風が吹いて雪が夜空に舞い上がってきれいだったとか、平坦な日常の中に小さな幸せを見つけていく。雪静はそうした小さな幸せに感激して、ときには泣いてしまう。それがただ積み重なっていくだけの物語は、エロゲーとしては枯淡の境地なのかもしれない。ただ美しい造形がそれ自体で豊かな物語であるように。

『天気の子』

 テレビ放映の録画を見た。せっかくなので何か感想を書いておきたいのだけど難しい。一番難しいのは、ストーリーやキャラクターの好悪というよりは、美術面のディレクションというか詩学のようなものだと思う。新宿を中心とする東京の風景があまりに写実的過ぎて居心地が悪い。特に作中に夥しく氾濫している様々な店やブランドの広告やロゴだ。僕たちの目は日頃から広告という視覚的暴力にさらされて傷ついていると思っている人間にとっては、アニメという物語作品に事あるごとに仕掛けられている広告は目の凌辱のようなものなのだが、それは新宿と舞台とする物語なら同時に自然な風景なので受け入れるしかなくて、非常に居心地が悪い。純粋な商業広告だけではなく、例えばJRの身近な駅の看板のロゴは通勤を思い出させてそれだけで疲労を与える。僕は通勤に新宿駅を使っているので反射的にそうなるだけで、地方の人とかならこの作品を見て東京の生活に憧れたりするのだろうか(それはさすがに地方の人に失礼な話だ)。ロゴや広告というのは原理的に目を引き付けるようにできていて、しかも個々のロゴや広告同士には何のつながりもなくバラバラなので暴力的だ。それはCMやテレビ番組と同様で、見られるために視覚的に配慮された情報であり、そのこぎれいな視覚的要素が他の「本質的」な要素に優先されていることが僕を苛立たせる(今回のテレビ放映ではCMも作品と連続したアニメ仕様になっていて地獄だった。なるべくスキップしたが)。普通のアニメとかでは実在の特定ブランドが分からないように処理されていたり、パロディになっていたりするのは、考えてみれば視聴者の目に対する優しい配慮だったということになってしまう。新海作品はなぜかその都市の風景の暴力性をむき出しにしてしまうのだが、スポンサーとかそういう商業的動機はそれほど重要でないレベルの成功を収めたクリエイターの作品なのだから、何かしら意味のあることなのだろう。それは新海作品の美術の無駄な(あるいは過剰な)こぎれいさにも通じているような気がする。刻々と色や形を変える空は確かに美しい。でも僕は古い人間だからか、100年以上前の詩で描かれたような空は美しいと感じても、新海作品の全く意味ない空の美しさは受容が難しい。まあ、こういう嫌味は今まで何度も指摘されてきたことなのだろうけど。話が逸れたが、新海氏には僕には見えていないものが見えていて、僕はそれを共有することができないのだろう。一番ありそうなのは、僕にとってこの風景の時代は同時代すぎて、しかもその同時代のうちでも僕にとってあまり居心地のよくない部分が切り出されているので不快感を覚えずにはいられないが、新海氏はこの風景に別のものを見ているということなのだろう。東京の風景は変わる。今の気分からは想像することが難しいが、20年後にはこの作品の新宿を見て懐かしくて泣きそうになるかもしれない。新海氏はそういう視点から、失われる予定の風景に何らかの思いを乗せて描いているのかもしれない。視聴後すぐの直接的な感想だからどうしてもこんな調子になってしまうが、時間を空けて僕の中で処理された後であれば別の言葉が出てくるのかもしれない。ついでに言っておくと、クライマックスでなんかおしゃれな感じの男性ボーカルの歌が流れ始めるというこのパターンも、トレンディドラマ(なんて言葉がまだあるのか知らないが、要はオタク的感性を逆撫でするものといいたい)みたいで好きになれない。

 以上の重大なノイズのせいでこの作品の魅力に気づくのはけっこう難しくなってしまっているのだが、終盤で不快な東京の風景が消え、水没した空想上の東京に切り替わると、少し居心地は良くなった。おとぎ話から日常に帰るのではなく、日常がおとぎ話に変容するという転倒した構成は気が利いていた。本当はあの後の物語こそが見たいものであるはずだが、作中で実際に見せられたものの大半は極めて散文的でストレスフルな東京の生活と、どこかで見たようなキャラクターやストーリー展開(小粒化した秋山瑞人作品風)だ。考えてみれば、僕は時代の内側の人間であり、主人公の少年に同化しすぎてしまっているのかもしれない。作中で描かれた常に雨が降る東京の風景は、僕の精神状態を誇張してデフォルメしたものなのかもしれない(そもそも創作物における雨は定番の内省用装置だが)。晴れは垣間見ることしかできない。晴れ渡った天上の草原には、夢の中でしかたどり着けない。美術がこぎれいだからこそ、「本当」はもっと無条件に美しい世界がどこかにあると夢想してしまう。それはそれで悪いことではないけど、目の前にはこの不愉快でこぎれいな現実しかなく、それは基本的にはどこかで見たような物語で乗り切るしかないのだろうか。

 かつてAirKanonを通過して夏や冬の空気や景色に新しい情感を見出せるようになったように、この作品を見たおかげで東京の風景を少し受け入れらるようになるだろうか。よくわからないけど、少なくとも今の時点では、いわゆる聖地巡礼はありえない。あったとしても若干ひねくれたものになる(これが40過ぎのおっさんが書くことか、と我ながら戦慄…)。でも、こんな形で反省させられたのは、この作品が東京とその空と住民というある程度大きな塊をおかしな切り口で描いた物語だったからだと思う。空虚であることである種の存在感を獲得するのが新海作品、という評価が適切かどうかは僕にはまだよくわからないが。

 我ながら芸がないが、最後に声の話をしておこう。ヒロインの陽菜の声がぼんやりした感じなのはよかった。くぐもった彼女の声はこの雨の世界にふさわしい。僕らの耳を優しく閉ざしてくれる。そして、いつか突然やってくるつかの間の晴れを夢見させてくれる。

『神様になった日』

 作品としての品質の問題はいろいろあるが置いておいて(ひなとの日々はそんなに楽しくなかったように思われるし、「ひと夏の思い出」って他の言い方ないのかよと思うし、Airの後継だとか鬱ゲーやバッドエンドの美学だとかいろいろ言えるのかもしれないが)、作品外の文脈に大きく依存する作品だと思う。
 僕以外には全く必要のない情報で恐縮だが、結婚してよかったなと思うのは、例えば、休日とかにお互いに別の部屋にいて静かに過ごしていて、時折手を打ち鳴らして相手がいるか確認すると相手も手を打ち鳴らして応答するというようなとき、あるいは用はないけど単に顔を見に行って、5秒くらい一緒にいてまた戻るような、まったく意味ないやりとりがうまくいったときだったりする。恋愛とか大げさなものではなく、単に知っている他人の存在のぬくもりを確認するだけのような瞬間だ。あるいは、運動不足を解消するために腕立て伏せをやろうと思い立ち、妻に下に寝転がってもらって伏せるたびにキスするようなシステムはどうかと提案して無理やりやろうとしてお互いにドン引きして大笑いするような、何もないところから笑いを作り出せた瞬間だ。他人との生活はストレスフルだけど、そういう瞬間もある。最近では妻は僕が手で足裏マッサージをしないと安眠できないので、かなり面倒くさいがマッサージがそういう瞬間の契機になっている。
 そんな小さくて静かな幸せはいつ失われてしまってもおかしくなくて、その不安を抱えながら生きていても奪われる時には決定的に奪われ、奇跡は起きない。それは震災のような災害かもしれないし、大切な家族を襲う死や、生まれてくる子供の知的障害のようなものかもしれない。我が家はお互いに危なっかしい人間なのでそのような喪失の影が空気に漂っている気がする。喪失の痛みを描く物語は多いけど、それを奇跡やハッピーエンドでうやむやにせず、痛みのまま残すことで視聴者に与えられる傷もある。そうして受け取った傷の理不尽さは、その作品内で埋め合わせすることはできなくて、視聴者が自分の生活のどこかで埋め合わせるしかない。こんな話は求めていなかったのかもしれないけど、ひなを介護しながら車椅子を押す日々の厚みに思いをはせてみることは、この結末でなければ難しい。これを覆すような後日談や続編は必要ないように思う。この物語を見続けることは苦痛になりそうだけど、心のどこかにしまっておくことはできる。

滝本竜彦『異世界ナンパ』

異世界ナンパ 〜無職ひきこもりのオレがスキルを駆使して猫人間や深宇宙ドラゴンに声をかけてみました〜(滝本竜彦) - カクヨム

 165話の発表から1ヶ月以上経っているが、ライブとかあるので一休み中ということらしい。この直近のオークや闇の女神が出てくる話のあたりから、いわゆる燃え展開のようなインフレ異能バトル物になってしまって、小説としての面白さは薄れた。それまで偶発的に発動してしまったり後発的に獲得してしまったりしていた「スキル」を意図的に使いこなせるようになった結果、普通のなろう小説っぽくなってしまったというのがあるし、女体化した主人公が……という展開に引いたというのもある。来年1月に第三部「現世編」連載開始ということらしく、果たしてまた面白くなるのかは分からないけど、少なくとも途中までは滝本氏らしい丁寧や自己認識描写や文学功利主義やユーモアが楽しい小説だった。それにしてもこの投げやりな作品名よ……。まあ、18世紀以前のヨーロッパ文学はこういうのばっかりだったから(19世紀以降はどちらかというとパロディネタになった)、日本の大衆文学が文学的伝統に回帰したみたいで面白いけど……。
 以前の『ライト・ノベル』の感想では、「これが究極の答えであり、滝本氏がもう何も書かないというのなら、この作品を何度も読み返して何かを掘り当ててみたい気もするが、もっと「よい」次の作品を書くというのなら、そっちのほうが楽しみになってしまうのかもしれない」と書いたが、そうして発表されたのが今回の作品だと考えるなら、今回はもう少し読み物としての面白さ、読書体験の面白さに立ち返りながら、セラピーとしての小説に挑戦したということなのかもしれない。分かりやすい読み物になっている分、『ライト・ノベル』より間延びした感じがする。最後のオークや闇の女神のあたりの展開はその方向性からは逸脱したように見えるが、これも今後の展開やまとめ方次第なのだろうか。もし、このまま更新がなく中断されたままだったとしても、それはそれで面白い気もする。主人公はインフレの果てに設定を抱えすぎてパンクして死んでしまい、結局、ナンパで物語を回す必要はあったのだろうかというメタ的にも虚無なエンドだ。そもそも、ナンパの修業を終えて無事に強くなった主人公を見て、それでハッピーエンドで面白いだろうか。そんないにしえの宮台先生的な強迫観念から逃走するのが滝本氏のスタート地点なのではないのか。その先に向かうのがセラピー文学だけというのが滝本氏の答えなら、そうですかと納得するしかないし、それだけではないと期待させてくれるならありがたい。そんな貧しい読み方になってしまうのは半分は読者のせいなのだろうけど、今回はお気楽な読み物風の作品だから短絡化もされやすい。エンディングが悩ましいのは滝本作品の宿命なのだろうか。

ランス9 ヘルマン革命 (65)

 30年もの歴史があるシリーズの終盤の一作だけやってみてもひどく偏った感想にしかならないと思うが、せっかくなので一応文章を残しておく。確認してみたら合計7周したらしい。完全な作業感覚で進めていた時間が長ったが、苦痛になってもなかなかやめられない性格ので、ユーザーが作ったサイトの作品やキャラに対するコメントページを読んだりして(ランスの歴史を周回遅れで追体験して欲望を消費する作業)モチベーションを保ちながら、アミトスとエレナをユニットとしてそれなりに強化して気が済むまで続けた(バッドエンドは一部しか見ていない)。最近の家での時間はほとんどこの作品に使ってしまった。
 ランスシリーズを他のエロゲーと比較するのはあまり意味がないかもしれないが僕の場合はそうしないと書き始められないので比較すると、やってみて初めに目についたのは絵の特殊性だった。立ち絵がすごくでかい。特に男性キャラ人外キャラは骨格もでかく、全画面でやっているとかなりの圧迫感がある。この質感こそがランスシリーズの魅力の一つなのだろう。立ち絵は左右から飛び出してきて基本的に画面には2人で会話することが多く、そのためか少し横を向いていて、ユーザーに視線を向けてくることがないのが一般的なエロゲーとは大きく異なる。タイプはいろいろあるが、体はやや開いていて顔が横を向いているチルディステッセルの立ち絵などは動きがある感じがして面白い。
 デザインも個性的で、学校の制服が主流の一般的なエロゲーに比べると女性的な華美さのない旅装や戦装束のような作業着の質感の魅力をよく表す美術で、子供の頃に憧れたファンタジーRPGの世界を思い出す。露出度は低いが、例えばメルシィアミトスの服など、その袖やスカートの布地の厚みやボリューム感が目を楽しませてくれる。ケチャックのような下衆な脇役やモブの衣装にもそれなりの美しさがあり、バクストの描く実用性を無視したようなバレエ衣装のエスキスに似た華やかさがある。この点ではランス10よりも絵は好みに近い。
 主人公のランスも含めて立ち絵では誰もこっちを見ないので、プレイヤーは「英雄」たちが活躍する絵巻を眺める観客の立場だ。非人間的という意味での英雄感が特に強いのはランスで、英雄というよりは狂人に近いかもしれない。エッチシーンに勇ましい行進曲のようなBGMが流れ、とーう、とーうといいながら楽しそうに腰を振って可愛いヒロインたちを犯す狂人。子供が木で作ったお気に入りのおもちゃの剣を振り回して草をなぎ倒して遊ぶのと似た楽しさの感覚であり、繊細なエロゲー主人公とは無縁の純粋な邪悪さにうわあ…となってしまうのだが、そこにある吹っ切れた強さに惹かれないわけでもない。人が動くと必ずといっていいほど誰かにぶつかってしまうわけで、誰にも迷惑をかけないように考えていたら動くことはできない。誰かとぶつかり、誰かに不快感を与えながらも、結局は物事を動かしていくことに正義があると知っている強い人間の生き方だ。オタクにはつらい、陽キャリア充と呼ばれるような生き方であり、あるいは会社にいる暇そうな役員や嘱託が思いつきで若い社員を振り回してルーチンワークを邪魔し、楽しそうに新しいプロジェクトをやろうとするのにも似ている。「内面」のないランスは悲劇の英雄ではなく、ブィリーナのような民話に出てくる疲れ知らずの陽気な勇士のようなものであり、その無条件の強さは非人間的だ。読者はそうした勇士たちの「内面」に感情移入するのではなく、その素早い(無時間の)行動力にカタルシスを覚える。ヒロインたちが陽気な上司に振り回される若手社員だというとなんだか嫌なことを思い出しそうで楽しめないが、これは男性の脇役キャラには当てはまるかもしれないがヒロインたちは違うと思いたい。そう思わないと救いがないし、ランスが時折見せるちょっと人間的なゆらぎにも繊細に反応していることを知っているので。
 ヒロインたちはそれぞれ自分たちの理想や目標や生き方を持っていて、ランスはそこに邁進する中で運命を共にすることになってしまった同道者という趣きだ(かなみについては違う言い方をした方がいいのかもしれないが、本作しかやっていない僕が書けることではないかもしれない。彼女がランスに見せる幸せそうな笑顔が本作の一番の見せ所の一つだとは思うけど)。キャラクターとして一番新鮮で楽しかったのはミラクルだった。女版ランスなどともいわれているようで、現実を認識によってポジティブにねじ伏せようとする力はランスにも劣らず、ランスとかけあいをしても言い合いで負けることはない。レイプされても不敵な笑いを忘れず、ランスを寛大に褒めて許してやる。ランスと違って勉強家であるのもよい(一人称が「余」なのに)。個別ルートの突飛な展開も好きだったが、こういうヒロインとの30年というのは楽しかっただろうな。対照的に控えめなシーラも可愛く(さらにシーラはかなりエッチ方面も充実していて)、この二人は本作のヒロイン勢の軸のように思えた。
 戦略シミュレーションゲームであることがベースになっている本作のストーリーにいちいち突っ込むのは野暮だが、副題に革命を掲げているのにしては革命というよりは反乱の物語に近かった。地名などでも間接的にネタ元になっていそうなロシアでは、17世紀初めに動乱時代というものがあり、死んだ皇帝の血筋をめぐって僭称皇帝・偽ドミトリーの反乱というものが起きた。偽ドミトリーの死亡後も実はまだ生きていたという設定を背負った偽ドミトリー2世、その後は3世や4世が登場したそうだが、社会制度の変革には至らなかった。ロシア革命では、軍事作戦としても面も確かにあるけど、革命家と呼ばれる人々が様々な社会層の中に潜り込んでいって扇動・啓蒙を行い、身分制社会を解体したところに意義があるのだが、本作ではその面は一切なかった。あと、革命は権力奪取した後の方が大変で、そのせいで為政者は疑似戦闘状態を維持して仮想敵を作り出すために軍服を着続けていたが(レーニンは例外的に軍服を着なかった)、ヘルマン革命では成就後も社会制度はあまり変わらず、変わったのは人事だけだったようで牧歌的に見える。社会制度の変革という建設的な事業において破壊的なランスが活躍できるような気もしないので、描かれなかっただけなのかもしれない。現実の社会革命なんて描いても重苦しくなるだけだろうし。
 いろいろこね回してみても、結局はランスを中心とするハーレムの箱庭世界であって、それ以上の意味はない。その中でランスは永遠に若く、強く、性欲第一の男だ。革命とか崩壊とか大きな動きを描いているように見えるシリーズだが、逆説的にその箱庭世界自体は穏やかに静止していることが魅力のはずで(そこに浸っていれば安心できる)、完結させてしまったのはもったいないことだと思う。人が生きて物語が動いていく以上、どこかで終わらなきゃいけないのかもしれないし、そういう生き方をするランスを軸にしたシリーズなのだから当然なのかもしれないが。
 僕のパーティ編成の最終的な主軸は、ランス、リック、ロレックスの男勢と、シーラ、チルディ、ミラクル、志津香、ハンティの女勢となり、後はかなみ、アルカネーゼ、アミトス、エレナがだいたい入った。戦闘時の3Dの動きは、骸骨に放り投げられて攻撃を回避するミラクルや、踊りのように回転するチルディの必殺技、仮面ライダーや新体操選手のような小さなピグが楽しく、他のキャラクターたちの剣や拳や薙刀や投石杖や魔法もそれぞれ質感があって見ていて飽きない。まだクリアしていない自由戦闘のステージもたくさんあるけど、それでも単なるコンプリート欲だけで続けるのは難しそうだ。パラメータはプレイ後に残る残骸であって、大切なのは以外にも爽やかなものばかりだった物語の読後感の方なのだから。だらだらと感傷を引き延ばそうとしないのはいい作風だと思った。

初音ミクさんのフィギュア

 思い立って久々に秋葉原に行ったら、歩行者天国が復活してて賑やかだった。
 先日、マルセルさんにPCの相談をしていた中で話題になった「ランスⅨヘルマン帝国」を買った。近年は中古エロゲーショップがどんどんなくなり、ネット通販を使わないなら、わざわざ秋葉原までいかないと見つからないものが多くなった。ロシアが元ネタにあり、音声付きで、恋愛要素もあり、攻略もそれほど面倒ではないということらしいので、そのうち手をつけてみたい。ランスシリーズはシステムも嗜好も自分には合わないことが分かっていたので手を出してなかったが(あるいはママトトのように挫折した)、この作品だけならひょっとしたら楽しめるかもしれないと期待している。
 あと、『ボクは再生数、ボクは死』を読んだせいか、久々にフィギュアを買いたい気分になってしまい、ある程度目星をつけてみてきて、初音ミクさんのを2つ買ってしまった。一つはなぜか最近石川センセが何度もリツイートするので刷り込まれて気になっていた中国風ミクさん。買った後に調べたら、デザイナーがメロリリのイラストの人だったからリツイートされていたのだった。確かに楽しげな色合いとフォルムにメロリリ絵的な可愛さを感じられる。ヌードルストッパーだそうだが、僕は最近はカップ麺を全く食べなったので普通に飾ることにする。写真はベールイの『受洗した中国人』を背景に適当に撮ったけど、残念な出来になっている。

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 2つ目はこれからの季節にいいかなと思った冬服のミクさんだ。色合いやポーズや表情が気に入ったので買ってみた。リニューアル版という色違いがもう少し安く売っていたけど、こっちの方が色は好き。ベールイの『吹雪の盃(第四交響楽)』を背景に写真を撮ってみたけど、やはり残念な出来だ。

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 昔少しフィギュアを集めていた時は綾波レイのものが多くて、これは彼女の存在形式にも合致しているので納得して買うことができたが、会心の出来のものはなく、もともとプラグスーツのデザインがあまり好きではないのでいつしか飽きてしまった(それでもプラグスーツ綾波が僕の本棚のあちこちに腰かけているのは落ち着く風景だ)。あとは最近は眺めるのを忘れていたが、パチュリークドリャフカ月宮あゆは出来が良かったので思わず買ってしまったものがあるが、これもけっこう思い出深い子たちなのですんなり楽しめる。
 初音ミクはそういう物語的な設定がなくて(二次創作にも興味はなくて)、そういう愛着を抱けないフラットなキャラクターなので、フィギュアを買ってみても造形的な可愛さ美しさを愛でるしかないので、自分には縁がないと思っていた。ところがいざ何かフィギュアを買いたいなと考えると、自分が何らかの思い入れを持ってお迎えできるようなフィギュアはもはやほぼ存在していないことに気づいた。自分が興味を抱けなかった、あるいはほどほどにしか楽しめなかったアニメやマンガのキャラクターはフィギュアとしてはほどほどというよりはマイナスなので買わない方がよく、それならば物語性から解放されているミクさんの方がマイナスではなくゼロなのでましだし、『ボクは再生数、ボクは死』のように結局造形や表層を通してしか愛せないということを受け入れてしまうのも楽だなという気にもなる。初音ミクのようにシンボルとして拡散しすぎると、消費する側の欲望が窮屈に方向づけられず、旬を過ぎたころに一人でひっそりと愛でることができる気がしてありがたい。やはりフィギュアは一人で楽しむものであり、無言で見つめたり見惚れたりするための何かであり、フィギュアの方も何らかのポーズや感情を表したまま無言でそこに存在し、ただ見られるだけの何かだ。人は「純粋に見る」なんていうカントやギリシャ哲学じみたことはできないから、見ているときには何らかの雑念がいつも生じているが、その雑念は自由であればあるほどよく、頭をほぐしてくれる。初音ミクという余白の多い存在は優しい。
 家人がフィギュアやオタク文化に理解を示してくれないので、自分を鼓舞するために屁理屈をこねてみた。あと、安かったのもいい。こんなに可愛いフィギュア(未開封品)が2つで2200円だった。15年前から何の成長も(衰退も?)ない気がするが、わざわざ秋葉原に行った甲斐があった。

石川博品『ボクは再生数、ボクは死』

ボクは再生数、ボクは死

ボクは再生数、ボクは死

 FPSもオンラインゲームもVチューバ―も経験ないのでぼんやりとした印象になってしまうのがもったいないけど楽しかった。僕の知っているものでたとえるなら、『アバタールチューナー』の小説版とか『順列都市』のような仮想世界にどっぷり浸る感覚の小説だ。主人公が忍だから『最果てのイマ』も思い出される。今はアニメやラノベでこういう設定のものが溢れかえっているけど石川センセが描いてくれると自分も安心して楽しめるみたいで、何度も笑いながら一日で読んでしまった。その後で満月の光を浴びつつ久々にジョギングしながら、何か感想で書けるようなことがあるかなと思い返す時間も楽しくて、気づいたらジョギングも終わっていたけど、特に何かすごい感想を思いついたわけでもなかったのだった。

 この作品の舞台である2033年頃にはたぶんこんなvipper語やニコ動語のような言葉は廃れているだろうし(すでに今もニッチなような気もする)、ITも電子機器も今からは想像できないような方向に少し進化しているだろうから、この作品で描かれているような2033年は滑稽などこかの的外れな未来、ありえない並行世界でしかないのだろうし、この作品を読んだ僕自身が2033年にはもう中年というよりは初老に近くてVRセックスにもVR空間にもまったく関心を持てない枯れたおっさんになっている可能性があるのだけど(というかすでに枯れかけている)、それだからこそこの作品の言葉を残しておきたい:

「この景色をきれいだと思う気持ちは何なんだろう。この気持ちはどこへ行くんだろう」
「ただ消えるんだよ。消えて、けっして戻ることはない。どれほど待ってもね」
 それをことばで表したところで、きらめきを留めておくことはできない。ボクとツユソラの間で交わされたことばも、僕の目や耳や窓やコメント欄を通り過ぎていったことばたちも、刹那、波が砂に跡を残すように、ある心の動きを象って、また解けていく。長く残ることなどない。それがいまのボクには救いだった。いつかこの世界のdpi(解像度)もFPS(フレームレート)も回線速度もあがっていくだろう。だがいまはいまがベストだ。海も空も風もとなりにいるツユソラも、いまがいちばんうつくしい。この先に残された時間など、いくら永かろうと意味がない。

 あとこの作品のネットスラングやユーモアにこれだけ笑えた自分がいたことも覚えておきたい。

 自分のオタク活動のルーツの一つに、昔vipスレで深夜にアニソンやエロゲーソングをネットラジオで延々と流し続けて、スレで歌詞を実況したりリクエストしたりする人たちがいて、僕もwinampか何かでその歌を聴きながらラジオを録音してCDに焼いたりしていた体験というのがある。2004年くらいだったかな。これと泣けるエロゲースレとエヴァ板とはてダコミュニティが僕のオタク学校だった。特に優れた学校でもなく、自分では書き込むことも少なかったから、ひっそりとした教育だったし、美しい思い出でも何でもない。でもそうやって手探りで何かを求めていた時期があるからこそ、この作品がみせる儚い夢に共鳴できるのであり、その後のエロゲーマー活動も含めて現在に繋がっているのだから、何かの意味はあったのだといえる。シノはいつしか忍にとってもVR世界の他の住人たちにとってもそれほど美しい無二の存在ではなくなっていくのだろうし、ツユソラがbotになってそこらに溢れかえってしまうという結末は残酷だ。最近はpcのスペック不足らしくてハチナイにログインできなくなってしまい、息抜きはゼリンスキーのギリシャ神話物語を読んでいることが多いのだが、2500年経っても人の心を動かす物語と、数年どころか数か月で風化してしまいそうな美しさがあって、その間で立ちすくむ。
 エンディングでオフ会が描かれるが、オフ会って本当に必要なのだろうか。認識に不可逆な変化が生まれてしまうのだから、現在が大事なのならオフ会は開かない方がいいような気もするけど、そうやって人と会ってみて何かを得て何かを失いたくなってしまう。オフ会のことに限らず、誰もが今いるその場で永遠にとどまっていたいのに、可能性や選択肢を潰しながら進んでいくしかないと考えるのか、それとも可能性や選択肢を広げるために進んでいくと考えるのか、いまだに戸惑うことが多い。そういう戸惑いを突き放さず、寄り添うどころか美しいものに昇華してくれる作品だと思う。

アイドルの時間

 10月に始まったアニメ「ラブライブ」は絵の水準の高くてそれだけで素晴らしいのだが、いい加減にこれだけ女の子たちが歌を歌うアニメを次々と見ると、アイドル物は苦手といってもさすがに楽しみ方がわかってきてしまう。
 そこで何となく読み返してみた『メロリリ』に初読の時とは違ったよさを見つけたというか、初読の時にはぼんやりとしかわかっていなかったことが割とクリアに見えてきたように思える(文章のキレの良さは再読時にも十分に堪能できたが今回はわざわざ書かない)。ミュージシャンというのは生き方であって、歌っていないときもミュージシャンだという見方があるけど、やはりミュージシャンは歌っていないときはただの人であって、舞台の上で歌うことで変われるからその魅力に憑りつかれてしまう。そういうミュージシャンのなかでもとりわけ魔法のような存在がアイドルなのだというがこの小説だ。何しろアイドルは別に音楽の技術を極めたプロフェッショナルなのではなく、技術的には中途半端なミュージシャンであり、その持たざる者としての強さや美しさを愛でることになっている。その意味でアイドルはロックやパンクと相性が良くて、この物語でも例えば歌を歌わずにひたすら観客を殴っているアイドルがいるのもうなづける。
 魔法は舞台という装置がないと発動しない。だからどの魔法も一期一会のものだ。石川博品作品では、抒情的逸脱の箇所では「過ぎ去っていく何気ないこの一瞬」を静かに惜しむ描写がとても多い。大切なもの、美しいものはいつも僕たちの元から消えて行こうとしており、惜しむことはおしとどめるための呪術的な仕草でもあるが、本当はむしろそのような感傷が出てくる前の普通の描写こそが惜しまれないからこそ一番美しい時間であるという仕掛けになっている(その仕掛けはラブライブにもたくさんあるのだろう)。
 それはモラトリアムの時間であって、今の僕はモラトリアムなんていう言葉について何か言うのは犯罪とされるような年齢になってしまったと思っていたが、人生における転機なんていうのは若いときだけなのではない、惜しむことができるのは若さだけではないということに気づいて、おっさんになっても(主観的には)甘い時間をけっこう楽しめてしまえている。
 それは例えば、子供ができるかもしれないということだ。夫婦二人だけの静かで気ままな生活がもうすぐ終わるかもしれない。何十年後かにそんな時間がまた戻ってきたとしても、それは今のこの時間とはたぶん違うものだろう。家族が増えるかもしれないという未来を夢みる楽しさとは別に、この今の生活を惜しむ気持ちがあって、僕とはだいぶ違っているだろうけど妻も彼女なりに惜しんで泣いているのが嬉しい。彼女は精神的に弱い人間なので、これから負わなければならない責任を想像して早くも打ちのめされているということもあるが(最近さらに僕への依存が強まっている)、そのことを互いに知っているということも含めての甘い時間だ。そしてこういう感傷は授かるかもしれない子供には直接的には何の関係もないことであって、本人も僕たちの感傷を押しつけられても迷惑するだけだ。
 変わることができるというのは幸せなことなのだと思う。こじつけ気味だが、アイドルはその幸せのメタファーなのだ。

歴史の息遣い

青木健『ペルシア帝国』

ペルシア帝国 (講談社現代新書)

ペルシア帝国 (講談社現代新書)


 ペルシャについてきちんとした本を読んだことがなかったので勉強になった。とはいえ、これほどのページを費やした割には有意な情報はあまり多くなかった気がする。ほとんどが支配者の系譜の記述で、社会・経済・文化に関する記述は少ない。また、その支配者たちの名前自身がペルシャ語からの音写で、長いし長音記号が多いし耳慣れないので頭に入らない。時々入る筆者のぼやきやつっこみもあまり面白くない。歴史書においては語りが重要だが、筆者も白状しているように、本書は元もメモ書き的な記述をベースにしたものらしいので、語りとしての面白さや快適さはいまいちだ。
 僕が知りたかったのはどちらかというと存在していないペルシャ、幻想としてのペルシャの方なのだが、現実の方のペルシャを知っておいた方が安心して幻想を楽しめるのかもしれない。というのも、いずれにしても現実のペルシャもよくわからないものらしいからだ。信頼できる記録があまり残っていない時代が多く、例えばアケメネス朝とササン朝の間の500年くらい(ヘレニズム時代)はペルシャ帝国が地方豪族レベルに縮小した空白の時代とされており、幻想の余地はいくらでもある。貨幣の分布や碑文でどうにか帝国の輪郭を予想できるレベルの解像度なので、やはり文学の力を借りなければどうにもならない。ペルシャ旅行をするまでイスラム期とそれ以前の区別もろくについていなかったくらいなので、まだまだ先は長いけれど。

 

ブリューソフ『勝利の祭壇』
 なんだか古代のエキゾチズムを味わいたくて本棚から引っ張り出してきたブリューソフ全集の中にあった、4世紀のローマの話。キリスト教とローマの土着宗教が拮抗していた時代のビルドゥングスロマン。主人公はガリアからローマに勉強に出てきた青年で、都会生活や勉学を楽しみつつも、皇帝暗殺によるキリスト教の根絶をもくろむローマ随一の美女、下宿先の元老院議員のませた幼い娘、玉の輿を夢見る売春婦、過激なキリスト教徒の娘などに翻弄されるエロゲー的な展開で楽しめる。時間があれば翻訳してイラストをつけて同人誌とかにできれば楽しいだろうな。
 まだ4分の1くらいしか読んでいないのでどうなるかわからないが、特に最後の真面目なキリスト教の娘レアは素晴らしい。自分が正しいと思い込んでいるからいつも主人公にはしゃべらせず、命令して従わせようとする。道中で出会った主人公を一方的に運命の人だと決めつけてストーキングし、アンチキリストを到来させるためにセクトの集会で性的な婚礼を行い、その後もローマからミラノまでストーキングし、主人公が活動への協力を断るとショックで気絶し、泣き出し、そのままことに及んでしまう。現実でこういう人に振り回されると、彼女を信じたい気持ちとあまりの断絶に醒めていく気持ちが入り乱れて大変だが、こうして小説で楽しんでいると懐かしさも感じる。レアにはハッピーエンドがなさそうなのは残念だが仕方ない。
 ロシア象徴主義のパイオニアであるブリューソフ自身は退廃的な詩を書いていたが冷静な理論家で、ファンの女性との関係がもつれて殺されそうになっただか女性が自殺しただかがあったはずだ。ベールイは幻想と現実の乖離に苦しんで病み、謎めいたグロテスクな小説や詩を書く方に行ってしまったが、冷静なブリューソフはまっとうな歴史娯楽小説にまとめてしまうのかもしれない(古代ローマに事物や文学に関する作者の注釈も充実している)。詩人としてのブリューソフは言葉の響きが硬くてあまり好きではないが、小説家としては割と疲れず楽しく読めるかも。