アニメと記憶の考古学

 17年ぶりくらいに最終兵器彼女を読み返した。たぶん前に読んだのはエロゲーを始めたか始めないかの頃くらいで、キスやエッチの描写がまだ物珍しくてドキドキしたことを覚えているが、話はだいぶ忘れてしまっており、細かい部分などをあれこれ楽しみながら再読した。後書きを読むと作者は奥さんとの恋愛を自伝的な要素して取り入れたように見受けられ、それがちせとシュウジの繊細で瑞々しいやりとりの描写につながっているのかなと思った。後半の「星」がどうたらといって大きすぎる話になってしまうのはさすがに実感をもって読むことができないが、ちせがいうと星という言葉も可愛らしく響いてしまい、仕方ないかなと説得されてしまう。二人の逃避行は、イリヤの空で中学校2年生の浅羽とイリヤがやろうとしたことを高校3年生のシュウジとちせがもう少し先まで頑張ってみたものであり、海辺の町の漁港とラーメン屋で働くつかのまでぎりぎりの生活さえも懐かしくなってしまうくらいに、築こうとする日常はあっけなく崩れていく。僕が逃避行の物語を刷り込まれたのは、エヴァの大量のSSだったか、イリヤの空だったか、最終兵器彼女だったか、それ以外のの何かだったかは分からないが、とにかく2000年代のこの時期にはこういう話を続けざまに読む機会があって、僕は誰かと一緒にどこかへ逃避することを夢見ていたのかもしれない。あるいは、90年代末から続く時代の空気がこのような逃避行を帯電していたのかもしれない。ちせとシュウジについては、人がいなくなった地球を離れて何だかよく分からない生命体(?)になってようやく安らぎを得る、あるいはそのよう安らぎを夢見て終わるという結末は、物語冒頭の坂道を一緒に登校するシーンから始まって時おり得ることができたつかの間の二人の時間という「日常」の延長であり、人の死とかセカイの破滅とかよりもこの日常の大切さを最後まで描いた作品だったなあと思う。ちせたちの物語とは比較にならないけど、僕の嫁さんも体がボロボロで大量の薬を手放せず、何かと戦っているかのようにいつも余裕がなく、引け目を感じながら生き、日常の小さな喜びを探しているような人間なので、この作品は共鳴できるところが少なくない(でも彼女はオタクではないので本作を進めても断固拒否された。いつか読んでほしいものだが)。
 最終兵器彼女はマンガを読んだのが先だったかアニメを観たのが先だったが今となってははっきりしないが、アニメではちせの北海道弁の可愛さが印象的だった。ごく個人的な印象だが、このアニメの北海道弁が十分正確なものだとすると、北海道弁大阪弁、京都弁、広島弁などとは違って、ゴリゴリこない控えめな方言であり、大部分は標準語と変わらないけど(ちなみに、東京西部で育った僕も子供の頃は男の子は~だべというのが結構浸透していたので、ちせたちの~だべは懐かしさを感じる)、ときどき語尾などのイントネーションが恥ずかしそうに少し変わるのが慎ましい感じがする。昔北海道に出張に行ったときに、なまら、はんかくさい、わや、なげる(捨てる)といった方言をお客さんから教えてもらったことがある。本作に出てくるものでは、「したっけ」とかよい。マンガでは分かりにくいところもある方言を楽しめるのがアニメであり、ヤフオクで未視聴の外伝OVAも含めて買ってしまった。本編は2002年、外伝は2005年の作品だが、どうやら画質は少し暗くなるけどどうにか鑑賞に堪えられそうだ。
 最終兵器彼女に先立ち、イリヤの空、UFOの夏の波も来てしまっており、まだ6月24日にも8月31日にも遠いがMAD動画などをあれこれ漁っていた。濃いファンの人が今でも毎年6月24日にボイスロイドによる聖地巡礼などの動画をアップしているのをみて嬉しくなった。アニメ版は尺が足りていない不幸な作品であり、個人的に浅羽のキャラデザと声も好きになれないのだが(秋山先生も原作を書いているときにはあのような女顔の浅羽は想定していなかったとか)、夏の滲んだ空気とか、戦闘機の泣けてくるような動きや質感とか、イリヤの声とか、部分的にみるべきところがあって、やっぱりヤフオクで買ってしまった。ついでにドラマCDと駒都えーじ氏のイラスト集もヤフオクで買った。1年くらい前に化物語シリーズのアニメをヤフオクでそろえて以来、少し古い作品はレンタル落ちの中古DVDが格安で手に入ることに味をしめてときどき何か買っている。サブスクはせかされている気がして嫌なので、こういうシステムがあるのは大変ありがたい。ついでに前から少し気になっていた、涼宮ハルヒの消失(2010年)、夏色キセキ(2012年)、リズと青い鳥(2018年)なども買ってしまった(他にまだ入札中のものもある)。気が向けば感想を書くかもしれない。
 ハチナイでハルヒコラボが始まった。涼宮ハルヒの憂鬱は昔1巻だけ読んでつまらなくて追いかけなかったが(当時読んでいた秋山瑞人中村九郎滝本竜彦といった面々に比べると文章が凡庸でクリシェだらけに思えた)、2006年と2009年のテレビアニメは毎週何が起こるのだろうと楽しみにしながら観ていた。みくる以外はキャラデザも声も好みではなかったが、それでも作品としては楽しめたし、今回のコラボでED主題歌などが流れてきたら懐かしさを感じた。ハチナイでは今風にきれいにのっぺりしているが、それでもいまだにSOS団だのエンドレスエイトだのを元気にやっているのをみると感慨深いものがある。僕の魂のようなものは2000年代に置いてきたままなのだろうか。
 今回の2000年代アニメ熱に先立って、連休の初めに池袋の古代オリエント博物館に行くことになって軽い古代熱があり、FGOバビロニア編の動画を漁ったり(ギルガメシュのキャラクターや古代のロマン、英雄たちの散り際の様式美がよかった)、メソポタミア関連のウィキペディアをあれこれ読んだり、オデュッセイア・ロシア語訳を読んだして(カリプソの島から脱出するくだりとか、王女ナウシカと出会って助けられるくだりとか)、博物館ではヒエログリフ楔形文字のアルファベット表だけでなく関智一さん朗読の『ギルガメシュ叙事詩』のCDまで買ってしまった。連休が世間より1週間早いので4月26日に博物館に行ったが見事にガラガラで僕たちの他には全館で1人しか客がおらず、ぜいたくなひと時だった。
 仕事と生活のリズムがある程度定まった10年くらい前からアニメの新旧の認識があまりなくなっており、各シーズンと共に見終わった作品が後ろへと流れ去り、このブログに痕跡を残すこともなく僕の歴史から消えていく。例えば前シーズンはスローループ、CUE!、明日ちゃん、着せ替え人形、前々シーズンは途中で断念したものも含めるとセレプロ、やくも、見える子ちゃん、境界戦機、無職転生、世界最高の暗殺者、プラオレ、サクガン、大正オトメ御伽噺、先輩がうざい後輩、逆転世界ノ電池少女、ジーズフレーム、鬼滅の刃遊郭編をみていたが、明日ちゃん以外は特に感想は残さなかった(ついでに書いておくとセレプロは今でもED主題歌を聴きまくっていて、あとスローループの恋ちゃんは可愛かった)。こうして作品名を列挙すると古くないのでまだけっこうはっきり作品を思い出せて、気楽に楽しんだりそれほどでもなかったりした記憶と共に微かな懐かしさも感じられるが、特に大きな感慨がわくでもない。今シーズンは処刑少女、ラブライブ虹ヶ咲学園、ヒーラー・ガール、パリピ孔明、であいもん、ヒロインたるもの、本好きの下克上をみていきそうな流れだが、何も感想は書かないで終わるかもしれない。この中ではヒーラー・ガールがかなり大胆な作品で驚きが多いが、他のものもどれも気楽に楽しめる。感想を書かれなかった作品は、僕の記憶の中のどこかのアッシリアの砂の中に埋もれて消えるわけだが、書いたとしてもやっぱり埋もれてしまうので大した違いはないのかもしれない。イリヤの空最終兵器彼女のように、いつか砂の中から発掘されて記憶の博物館に収蔵されるかどうかは分からない。

小鳥猊下『高天原勃津矢』

小説「高天原勃津矢(2006年)」|小鳥猊下|note

 この小説でぼろくそに批判されている「おたく」に少なからず当てはまるところがあると思っているところがある自分が何を感想として書いたらよいのか分からないし、批判されている当人が絶賛しても「お前本当にちゃんと理解してるのか」という突っ込みにちゃんと答えられそうにないし、この前に書いた『明日ちゃんのセーラー服』の感想を真っ向から否定してしまうかもしれなくて気が進まない部分があるのだが、それでもやはり面白かったので一言書いておこう。
 小鳥猊下氏のことをよく知らないので、何のために書かれた小説なのかはかりかねるところがある。元長作品や『動物化するポストモダン』を批判しているのだろうか(例えば、甲虫は動物を、エピローグの異様な母親は『猫撫ディストーション』を連想させた)。単なる消費者としてゆがんだ性的消費行動をするしかない僕たちを批判しているのだろうか。それとも、そういう批判の視点を僕たちに内面化させて成長を促すことで、実はエロゲー文化(あるいはエロゲー産業)にエールを送っているのだろうか。「何のために書かれた」という小賢しい身振りはぬきで、とにかくエロゲーをめぐる激情を叩きつけたものなのだろうか。そうはいっても、よく考え抜かれた思考が背後になければ無理な論理的な文章であり、雄弁で骨太な文体であり、最初から最後まで力に溢れた文章のリズムなので(この小説の最大の魅力はこの力強い文体でエロゲーやおたくを語っていることだ)、意図をはかりかねるというのは単に僕の理解力が乏しいだけなのだろう。
 2006年の小説。エロゲーとは、オタクとはいったテーマがこれほどの熱を込めて語られることは今ではもうないかもしれないし、あったとしてもそれはノスタルジーの混ざった去勢済みの語りになりがちだろう。そうはいってもエロゲーは永遠の現在を表現しているものだから、エロゲーを語ることも古くならないと言ったとしても、それは思考停止であり、本当に動物的反応を今でも繰り返しているだけの動物になってしまったと言われるかもしれない。世界には頑張って苦しみ抜かないとたどり着けない真実なんてなくて、世界のサイズはだいたいは分かってしまったので、それならもう安心しちゃって、なるべく痛みを感じないように生きていこう、そのためにはおたく的な楽園を見つけてそれを見つめながら生きていくのが一番現実的だという考え方。それを痛烈に批判している。なにか素晴らしいものがあったとして、それを見つけたら、手に入れたら、その後はエピローグではいけないのか。回想シーンでそれを振り返る余生ではいけないのか。さらに素晴らしいものを探し始めなければいけないのか。素晴らしいもののインフレに乗っていかなければならないのか。人生はどこまでも気を抜かずに積み上げていくしかないのか。クラナドにおける幸せは、自分一人では手に入れられなくて、自分の中で完結させることもできなくて、結局は親から子供へと引き継がれていくものとして描かれていた。もうある程度満足しちゃったから、あとは自分の子供たちにその先を進んでいってほしいという態度。我ながらつまらない大人(成熟した大人ではなく、単に老いて摩耗した子供だ)になってしまったが、いつのまにか、エロゲーにうつつを抜かしているうちにだろうか、自分の中のエネルギーがなくなってしまっていたのかもしれない。
 ともあれ、こういう視力を持った人がネットに健在というのはありがたいことで、この人の文章をもう少し読んでみた方がいいのかもしれない。エロゲー愛を語ったものはないかもしれないけど。

博『明日ちゃんのセーラー服』

 アニメが毎週素晴らしくて、最終回を前に原作マンガを9巻まで全部買って読んでしまった。そのせいか、アニメ最終回の後夜祭のエピソードはいまいち盛り上がらなかった印象だった。ほとんど明日ちゃんが踊っているだけのエピソードなので、アニメで盛り上げることはできるように思えるけど、前週の木崎さんの幻想の中の明日ちゃんの踊りのアニメーションには届かず、わりと写実的な描写にとどまったようだった。
 マンガは明日ちゃんが体を動かしているコマやふとした表情を切り取ったコマが多いが、「切り取った」というのがポイントだ。アニメだと連続性と動きがあるつくりにならざるを得ないけど(個々のコマは止まった絵なのだろうけど)、マンガは非連続のポーズとポーズ、表情と表情の間の飛躍があって、それが読者の頭の中で埋められて動きや緩急、さらには木崎さん的に明日ちゃんの匂いとか気配みたいなものまで感じられる。髪の毛は翻りすぎだし、スカートははためきすぎだけど、ここはそういう重力が働き、そういう風が吹く世界なのだ。ただし声がつくという意味ではアニメには大きなアドバンテージがあって、アニメを見てからマンガを読むとそれぞれの女の子たちの声が聞こえてくるようでよかった。
 マンガは今は球詠と乙嫁語くらいしか追いかけていないのだが、明日ちゃんは大きな収穫だった。最近はウクライナ戦争のせいで週末も仕事が忙しく、会社の経営は確実に悪くなりそうだし、そのせいでさらに無理して働かされそうだし、家計の状態も心もとなくなっていきそうだし(結局、トラブルもあったので出産関連で300万円くらいかかってしまい、もし2人目ということになれば今以上に相当な倹約生活を強いられる)、ロシアに対するもどかしさも感じる日々が続いているのだが、明日ちゃんのおかげで心が安らぐ。安らぐというか、明日ちゃんたちの表情や体の動きはあまりに心がむき出しになっていて、それを作者があまりに愛情を込めて描いているので、見ているこちらが恥ずかしくなって、あるいは嬉しくなって、読みながら何度も笑ったり奇声をあげたりしてしまう。昨日と今日はワクチンの3回目接種で副反応が出て寝込んでいて、熱や頭痛に苦しむ合間にずっと明日ちゃんを読んでいたのだが、再読してもやはり笑ってしまうのだった。仕事のストレスと明日ちゃんの楽園的世界の落差に見当識が失われてしまったようだった。
 既刊9巻のうち最初に読んだのは9巻だったのだが、そのはじめの蛍ちゃんのエピソードが素晴らしかった。エピソードといってもストーリーはほぼなく、あるのは明日ちゃんと蛍ちゃんの不思議な感情の流れだけだった。蛍ちゃんは髪の毛の量が多くて走り回るとバサバサと翻るのだが、そのせいで風を感じられるようで、とても爽やかな読後感である。この作品全体にもいえることだけど、思春期の女の子の不安定な心の動きを詩的に表現する技法は少女マンガ的で、大島弓子作品を思わせるところがあった。大島作品でも女の子たちが元気いっぱいに走り回ったり、唐突にパンクな衝動に駆られていたずらしたりすることがあったと思うが、明日ちゃんも何かあるとすぐに踊り出してしまうし、そうでなくても表情がころころと変わるので見ているだけで面白い。というかその可愛い様子を見せることに作者が全力を注いでいるので他にやることもないのだが。説明的なセリフでコマを使ってしまうのはもったいない、説明は省いて全てのコマを決め顔で埋め尽くすべきというような意気込みを感じる。絵柄はアニメの方では雫や痕を思わせるような溶けた垂れ目が多かったり、手塚治虫作品の女性キャラや女性動物のような鼻が突き出た横顔(鹿とかのイメージは明日ちゃんにぴったりなのでおかしくはないのだが)がちょっとやりすぎに思えた場面もあったが、マンガの方は肖像画かというような気合の入った絵が多くて見ていて飽きず(特にカラーページは素晴らしい。光沢紙ではない艶消しの紙なので、インクの乗り具合とか質感を感じられる)、もう少し大きな判型で印刷した方がよかったと思う。9巻では鷲尾さんと苗代さんという大人びた二人の問題を抱えて悩む明日ちゃんがなぜか激しく筋トレをし始めるシーンがあって、その様子が何ページも力強く描かれていて圧倒的なのだが(あと鷲尾さんの筋肉がすごい。確かに僕も中学では1年から身長が173cmくらいあるムキムキの男の子がいて驚いたのを思い出した。けっこう気さくなやつで、不良グループにも僕みたいな臆病者にも分け隔てなかった)、肥満気味中年男性の僕も明日ちゃんになった気で筋トレをしたいと思ったものである。しかし苗代さんの悲恋はどうなってしまうのだろうか。ジョギングで鷲尾さんについて行こうと一生懸命走るシーンは、切なくて美しいものを見せられているように感じる。
 そのあと1~8巻も読んだが、やはり面白かったのはアニメ化されていないエピソードだった。アニメ化されたものはアニメで堪能してしまったので、驚きは少ない。基本的に突飛なストーリー展開などで見せるマンガではなく、女子中学生たちの美しい姿を絵画のように鑑賞するマンガなので、全く楽しめないことはないのだけど、マンガかアニメのどちらか先に触れた方が主になってしまい、同時に最大限に楽しむことができないというのはもったいない気もする。先にマンガを読んでいた人よりはアニメを楽しめたとは思うが。というわけで、特によかったのは明日ちゃんの東京旅行のエピソードだった。兎原さんの話(と絵)がかなりよく、彼女が木崎さんを押しのけるほどヒロインになるのもいいなと思えた。この先もそのおでこを曇らせることなく楽しく中学校生活を送ってほしいものだ。兎原さんの実家の描写は、浮世離れした学校生活とは違って庶民的でほっとさせるものがあったが、その対象となる木崎さんの家のエピソードも面白かった。木崎さんは髪を結んで変な触角を2本作っていてあまり似合っていないのだが、彼女の中の子供らしい部分が現れているようで微笑ましい。実際にこのエピソードで描かれたのはささやかなことなのだろうけど、彼女たちの表情と感情の動きを追いかけているととても濃密に思える。僕の子供の頃は、美少女を入念に描いた作品と言えばせいぜい電影少女とかだったけど、マンガにおける美少女の表現や作劇はここまで進化し、純化されていたのかと感心する。
 夏休みの家族旅行のエピソードは、あまりにも美しく描かれすぎていてシュールな感じがして面白い。明日ちゃんのお父さんがイケメン過ぎて面白いし、お父さんの着替えシーンも明日ちゃんの踊りのシーンのように入念に描かれていて笑ってしまう。このような神話的存在としての完璧な父親を演じるのは僕には無理だと複雑な思いも抱く。お母さんもなぜか水着への着替えシーンが入念に描かれていて、その後のスキューバダイビングでもヒロインみたいな扱いになっていて、別に求めていないのになんなんだこれはと困惑する。明日ちゃんから見たらお父さんとお母さんはこういう風に見えているということだろうか。
 『明日ちゃんのセーラー服』はただのマンガだし、田舎の高偏差値女子中学校なんてほぼ空想上の存在のようなものだが、残念なことにこれより軽やかで美しいものはこの世にはあまりなさそうである。明日ちゃんは別に世の中や世界のいろんなことを知っているわけではないのだが、それでも一番美しいものは知っているという生き方をしているし、そういう日々を過ごしている。これは高校生や大人になると失われてしまうものなのだろうか。こんなマンガに負けないように僕も人生をがんばっていかなければならないのだが、それはそれとしてこの先もこの祈りのような作品を読んでいきたい。

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瞬旭のティルヒア (55)

 dawnをロシア語にするとザリャーで、夜明けの意味の他に黄昏の意味もあって、金色に輝く空では終わりの予感と始まりの予感は混ざり合っている。スチパンシリーズの黄昏を感じると同時に、幕末の時代の夜明けの雰囲気も感じた作品だった。

 黄雷のガクトゥーンはなんか暗さがなさそうなので見送り、それ以来、スチームパンクシリーズから遠ざかっていた。大機関ボックスを買ってサントラは繰り返し聞いたけど、フルボイスになったゲームたちの方はまだやり直さないまま現在に至っている。そうこうするうちにシリーズもいろんな事情で止まってしまったようだった。ティルヒアについては、同人誌第1話だけコミケで買って読んで、ヒロインのキャラデザがいいなと思ったけど、断片なので評価もできないまま忘れてしまっていた。そうしたらいつの間にか続きも出て、ゲーム化されていたのを見つけて、先日、気まぐれに買ってみたのだった。久々に聴いたかわしまりのさんの声がじんわりと体に沁みわたった。
 インガノックからソナーニルに至る2007~10年のスチームパンクシリーズは何だったのだろうか。特にシャルノスとヴァルーシアの雰囲気は最高で、エロゲーでかような世紀末文学の香りに満ちた作品に出会えた奇跡に驚くことしきりだった。シリーズとして維持できなかったとしても、そのことには今でも感謝するしかない。
 本作『瞬旭のティルヒア』の出来が悪いのは別の話。シナリオなどはある程度以前のスタッフが関わっているらしいけど、それだけじゃだめなんだろうな。エロゲーでやってもさっぱり見栄えのしない話になっていて、設定こそはシリーズのものを使っているけど、何もかもが行き届いていなかった。テンプレ的なキャラクターのテンプレ的なやり取りを延々と見せられても。チャンバラアクションをやって読めるのはFateの人くらいだと改めて思った。絵とテキストと音声の美的な組み合わせが絶望的にかみ合っていなかったので、なんか頑張っているらしいシーンも安っぽく見えてしまった(フルスクリーンにすると縦横比が崩れるのでウインドウモードでやらざるを得なかったことも影響した)。不満はいくらでもあるが、今更そんなこと書いても仕方ないので、少しはいいところも書いておこう。
 個人的な印象だが、幕末明治の頃のロマンというのは若さにある。人が若いし国も若い。人が少なくて空気が爽やかできれいで涼しい。もちろん、当時の日本は長い歴史を持つそれなりに古い国であり、今の日本より古さが感じられるといってもいいくらいなのだろうけど、『吾輩は猫である』とか読んでも(ゴールデンカムイでもいいが)、どうしようもない涼しさを感じてしまうのだ。ヒロインの名前はりんだが、そこにも涼しさと凛とした美しさがある。いろいろと不満は書いたが、この時代のひんやりした感じは時おり感じることができた。りんがこの時代のきれいな光や空気(基本的に煤で汚れているらしいが)を楽しんでいる場面の絵に、この作品のいいところが結晶化されている。これとかこれとか、特に時代の何かが描かれているわけではなくても空気が伝わるのは、りんと一緒に描かれており、りんの目を通してみているように思えるからだろう。八郎も彼女によく似合っている。あと、全ての悪夢(まさしく悪夢)が終わった後、二人が大げさな演出もなく(何かの不具合でOPムービーとEDムービーは流れないので演出があったかどうかも分からないが)、ひっそりと慎ましく北海道だかサハリンだかで暮らしているという静かな終わり方も好ましかった。りんのおっぱいは大きくなったのだろうか。二人はいつかほとぼりが冷めたら東京に戻り、その喧騒の中で元気に生きていくのかもしれないけど、しばらくは北国で静かな生活を楽しんでほしいなと思う。

Quartett! (70)

 ドイツだかオーストリアだかの音楽院を舞台に、水彩のラフ画風のやわらかい絵とクラシックなBGM、マンガ風のコマ割りや吹き出しによる画面構成で、エロゲーとしてはとても珍しい作品だ。いまさらながら大槍葦人作品は初プレイで、もちろん以前から絵を目にしたことは何度もあったけど、何しろエロさを感じないのでスルーしていた。ジブリ世界名作劇場あだち充…的外れかもしれないが、僕の中ではそういう連想の画風で、耽美的な方向に素晴らしく進化していることは分かるのだが、どうしてもエロさと結びつかない。
 女の子たちが妖精のようで、外人の少女のようで、ガリガリなのもダメだった(エロさの点では)。本作のメインヒロインのシャルなんて、ふわふわの金髪碧眼、身長136cm、体重30kg、胸囲60cmだからなあ。この子とエロいことをしたいというよりは、この子が可愛い服を着て笑ったり可愛いポーズをとったりしているのを見ていたいという方向になってしまう。
 この作品のFFDというマンガ風インターフェイスのシステムは、実際にそういう風に女の子を眺めるには便利なのかもしれない。通常のエロゲーのようにプレイヤーはヒロインの立ち絵を変質的な視線で舐めまわし、細部を味わい、ヒロインと視線を合わせて恍惚とするのではなく、自分から能動的に絵を見るというよりは、FFDの視線誘導システムにコントロールされ、次々とリズミカルに現れるコマや吹き出しに目を滑らせていくことを余儀なくされる。女の子の表情やフェティッシュな細部をゆっくりと視姦できず、戸惑う変質者。ラフスケッチ風の絵も、マンガ風のコマも、その中のヒロインたちのポーズや表情も、そこに動きがあること、線的に流れていく一瞬を拾ったものであることを示している。動いている、つまり主体的なものであり、プレイヤーが物語や女の子に好き勝手に介入しにくい感じがある。エロゲーは介入しやすいからこそ没入感が高まる気がするし(絵は止まっているが、同時にプレイヤーを見つめている)、本作のように吹き出しでストーリーが進行してしまう、つまり主人公のモノローグがエッチシーンくらいしかないようだと、それも没入を浅くさせるような気がする。そのエッチシーンもズームされた断片のコマが絶えず上下左右に流れ続けるので、雰囲気は非常に心地よいけれど、実用のために「集中」することができない。
 いわゆるエロゲーのクリックの快楽のついても、マンガ1ページ分のコマと吹き出しは毎回演出上の決められた速度で自動表示されてしまうので、クリックする機会が少なく、プレイヤーはゲーム側から制御されていると感じてしまう。しかしそのテンポは心地よく、時間芸術としての音楽を鑑賞しているのに近い。気がつくと、脂ぎり血走った目の変態ではなく、パリッとしたスーツを着て鼻眼鏡に白手袋の変態紳士として鑑賞している。
 しかし、音楽を演奏している人を鑑賞するという行為に以前から疑問がある。声優の顔を見るべきかどうか問題にも通じるところがあるが、音楽の主役は音であって、音を出している人の視覚情報は原則的にはノイズであるはずだ。演奏者のファッションはもちろん、目を閉じて恍惚としたり苦悶したりしている表情も、それを僕たちが真面目に鑑賞させられるのは矛盾があるような気がして居心地が悪い。本作では音楽の制作にはかなり力を入れたそうなので少なくとも素人の僕には十分楽しめるものになっているが、ビジュアルノベル的な作品である以上、美男美女たちが気持ちよさそうに演奏している絵を延々と見せられる、ミュージシャンビジュアルフェチの光景にはやはりどこか居心地の悪さがある。演奏者自身は目を閉じ、悪い言い方をすると自己満足に浸っており、僕はそれを押しつけられているように感じる危険があり、本作が持つ本質的なリスクであるように思える。プレイヤーとキャラクターの距離の問題だ。例えば、キラ☆キラやMusicusでは、主人公が非常に冷めており、音については熱かったので、この問題についてはバランスがとれていたと思う。とはいえ、こんなことを言っているようではまだ鼻眼鏡の変態紳士にはなれないな。
 全体として話は短いのにCG数は180枚であり、しかも動的な表示方法で出てくるので、絵のボリュームが多く感じる。まだ感想を書いていないのだが(書く気になるのかもわからない)、最近では「マルコと銀河竜」が似たようなハイペースで絵を表示させるつくりになっていた。でも「マルコと銀河竜」は一般的なエロゲーの画風なので、どちらかというと無駄に強い色で塗った絵を使い捨てていっている印象があったが、本作は色調も線も優しくて統一感があり、完成度がはるかに高い。
 美麗な絵は特典の画集でゆっくり鑑賞することができるのだが、絵の横に小さな文字で意味ありげな英語やドイツ語の言葉が何やら書かれている。中国人ヒロイン・スーファのページには美しい漢詩が掲載されていて、作中に登場する老醜をさらす老人の心境を推察させるものになっているのだが、これが中年になった僕にもけっこう響くので前半を引用しておこう。恥ずかしながら本作で知った詩で、7世紀の詩人の作だそうだ。

 

代悲白頭翁      白頭を悲しむ翁に代って

洛陽城東桃李花    洛陽城東 桃李の花、     
飛來飛去落誰家 飛び来たり飛び去って誰が家にか落つ。     
洛陽女兒惜顏色    洛陽の女児 顔色を惜しみ、     
行逢落花長歎息 行々落花に逢うて長歎息す。     
今年花落顏色改    今年 花落ちて顔色改まり、     
明年花開復誰在 明年 花開いて復(ま)た誰か在る。     
已見松柏摧爲薪    已(すで)に見る 松柏の摧(くだ)かれて薪と為るを、     
更聞桑田變成海    更に聞く 桑田の変じて海と成るを。     
古人無復洛城東 古人 洛城の東に復(かえ)る無く、     
今人還對落花風    今人 還(ま)た落花の風に対す。     
年年歳歳花相似 年年歳歳 花相似たり、     
歳歳年年人不同 歳歳年年 人同じからず。     
寄言全盛紅顏子    言を寄す 全盛の紅顔の子(こ)、     
應憐半死白頭翁 応(まさ)に憐れむべし 半死の白頭翁。
此翁白頭眞可憐    此の翁 白頭 真に憐れむ可し、
伊昔紅顏美少年 伊(こ)れ昔は紅顔の美少年。
公子王孫芳樹下 公子王孫 芳樹の下、
清歌妙舞落花前    清歌妙舞す 落花の前。

(口語訳)
洛陽の城東に咲き乱れる桃や李(すもも)の花は、風の吹くままに飛び散って、どこの家に落ちてゆくのか。
洛陽の乙女たちは、わが容色のうつろいやすさを思い、みちみち落花を眺めて深いため息をつく。
今年、花が散って春が逝くとともに、人の容色もしだいに衰える。来年花開く頃には誰がなお生きていることか。
常緑を謳われる松や柏も切り倒されて薪となるのを現に見たし、青々とした桑畑もいつしか海に変わってしまうことも話に聞いている。
昔、この洛陽の東で花の散るのを嘆じた人ももう二度と帰っては来ないし、今の人もまた花を吹き散らす風に向かって嘆いているのだ。
年ごとに咲く花は変わらぬが、年ごとに花見る人は変わってゆく。
今を盛りの紅顔の若者たちよ、どうかこの半ば死にかけた白髪の老人を憐れと思っておくれ。
なるほどこの老いぼれの白髪頭はまことに憐れむべきものだが、これでも昔は紅顔の美少年だったのだ。
貴公子たちとともに花かおる樹のもとにうちつどい、散る花の前で清やかに歌い、品よく舞って遊んだものだ。

 

 年年歳歳、花相似たり。歳歳年年、人同じからず。
 関係ないが、20代の頃、血色がよかったためか会社の上司に「紅顔の美少年」といわれて困惑したことがあったが、この詩からの引用だったのかな。本作のマンガのようなイケメン主人公のフィル君には遠く及ばないが。いずれにせよ、僕はスーツに鼻眼鏡の変態紳士というよりは、「応(まさ)に憐れむべし 半死の白頭翁」の方が似つかわしいような気がしてきたのだった。
 ストーリーについては細かく語る力もないが、3つのルート共に終わり方がよかったことは書いておこう。特にシャルルートの明るくて少し切ない感じがよかった。最後のフィナーレでフィルはこの音楽院での生活を感傷的に振り返る。作中の3ヶ月のあとに4人がどのような時間を過ごしたのかはわからない。演奏者たちが離散すれば、その音楽は記憶の中にしか残らない。でもまだこのフィナーレの時点のフィルたちは25歳にもなっていないくらいだし、結局もう一回集まって弾いてみるといういいシーンで終わった。白頭翁の心境になるのは20年以上先だろうから、どちらかというと製作者やプレイヤーの視点だろう。
 大槍画の少女たちはただでさえ妖精のように軽やかで儚げなのに、それが音楽を奏でていて、しかも弦楽器だ。昔、モスクワの音楽院で日本人のピアニストやバイオリニストの卵たちの授業を通訳するバイトを少しだけしたことがあるが、音楽院の生活に関するイメージはそれくらいだ。あとはどこで見聞きしたか覚えていないが、音楽教育は何かと神経を使う重苦しいものだというイメージがある。この作品のやわらかくて温かい空気で、少なくとも弦楽器については少しイメージが明るくなった。やはり音楽の一番いい部分には、この作品ののように明るく、軽やかであってほしい。

Steins;Gate Zero (75)

 攻略順があまりよくなかったようで(最後の「交差座標のスターダスト」の前がかがりエンドと真帆エンドになってしまった)、しりすぼみ感のある終わり方になってしまったのだが気を取り直していこう。
 アニメ版を見てたのでだいたいの流れや雰囲気は覚えていたけど、やはり重たい雰囲気の話だった。前作が夏の話だったのに対して今回は冬からルートによっては夏にかけてだったけど、この重たい雰囲気のせいか、クリスマスや初詣のイベントがあったせいか、ヒロインたちの立ち絵の服装のせいか、冬の印象が強い。みんなたくさん服を着ていて、服の中に隠れていたりスーツのような服がパリッとした身体の線を作っていたりして、みんなが少しすましたような、遠くにいるような感じがして寂しさがある(特にまゆり)。前作で印象的だったテクスチャーの使い方や立ち絵の不思議な感じがマイルドになっていて少し残念だが、でも萌郁とか由季さんとかカエデさんとかあか抜けた美人の立ち絵は嬉しかった。
 秋葉原も今回は少しよそよそしい感じがしたが、そもそも岡部にとってつらい場所ばかりになっていたのでしかたない。くよくよしすぎだとみえないこともないけど、精神的な疾患で気分が不安定になっている人間の危うさをよく表していたと思う(PTSDの人を近くで見たことがあるわけではないけど、あれが疾患だというのは他の病気の人を見た経験から感じられる)。ひょっとしたら2036年のさらに暗い世界や秘密組織の殺伐とした争いが出てくるから、その影がなんとなくこの作品全体にかかってしまっているように感じられるのかもしれない(いきなり「ウラジーミル・プーシン大統領」が出てきたのには笑ったが)。紅莉栖のオタバレとかなごめるシーンが少ないのも寂しい。今回の作品のビジュアル的な薄暗さは記憶を振り返る時のどこか温かい薄暗さなのか、ほこりっぽい廃墟のような薄暗さなのか、混ざり合って判然としないようなところがある。
 前作の感想でも書いた通り、物語がテンポよく広がっていくのに引き込まれていく楽しさがあったのは、タイムマシンの開発をめぐる前半部分であり、確立したその技術を使って物語をたたんでいく後半は重苦しい過程だった。今回の続編でははじめから技術的な部分は確立していたので、それを使って陰鬱なスパイアクションめいた話を進めていくというやはり重苦しい話になってしまった。
 だからかがりルート(相互再帰マザーグース)は印象的だった。箸休めのような短めの寄り道ルートだけど、優しい空気と、過不足なく温かく閉じていく物語がとても心地よい。最後の絵もちょっと表情が硬くて怖く見えなくもないけど、時間の中にずっと浸っているような表情でもあり、前作の画風にも近くてよい。かがりとまゆりの温かい絆が物語の核にある。二人の声と歌声に温かさを乗せて語らせている。エロゲーらしくない真面目なよさがある。かがりの立ち絵は、少しバランスが悪くて硬直した感じがあるのだが、彼女の子供らしい無防備さ、ナイーブさを表しているようにも思える。
 真帆のルートはちょっと期待していた恋愛展開にはならなかったのが残念といえば残念だったけど、納得のいく終わり方ではあった。でも、どのルートの終わり方にもいえることだけど、これから始まるということろで終わってしまう。エロゲーなら恋愛が成就したりすればきれいに終われるのだけど、この作品は最後まで描くと前作の最後と似たような感じになってしまうから途中で終わらせたのだろうか。「世界線」という言葉はシュタゲで知ったのだが、線であること、つまり始まりから終わりに向かって一直線に進んでいってそのまま終わってしまうということは、必ずしもプレイヤーが望んでいることではない。終わらない線、ループとかあるいはもっと複雑な終わらない構造体を幸せなものとして作り上げるのが快楽装置としての物語の最終目標なのかもしれないが、前作の鈴羽ルートで袋小路としてネガティブに描かれてしまっていた。あるいは、必ずしもネガティブとはいえない宙づりの形で示しているのがギャングスタ・リパブリカとかかもしれないが、あれが無条件に幸せで楽しいかというと保留がつく。結局、僕たちは短くて有限な線を何度も何度も、狂ったように何度も終わらせては新たに始めて、いくつもつなげていって、いつか一つの線として振り返って認識するしかないのか。そう考えた時の疲労感のようなものを、これから頑張って人生を生きていかなければならない真帆の最後のシーンに重ねてみてしまう。そんなに背負ってばかりいたら、いつまでも背が伸びないよ。そしてそういう重みを引き受ける元気を与えてくれるのが、紅莉栖という存在なのだろう。でもこの寂しい終わりの先は想像するべきではないのだっけ。最終ルートの展開では、アマデウスは消去されていなかったような気がするし、そもそも紅莉栖も助かる世界線にたどりついて、真帆は彼女と一緒に幸せにアマデウスの研究していることになっているのか。
 しかし、世界線を移動すると、元の世界線は「なかったことになる」というのは改めていうまでもないけど暴力的だな。その分通ってきた道を背負わなければならないという倫理の問題が出てきて、物語としては重くなっていく(マルチエンドのエロゲーはその点は無責任で慎ましいのかもしれない)。この作品では、誰かが、あるいは何かが欠けているエンディングしか描かれていない。作品自体にもハッピーエンドが欠けており、あるいはまだ描かれていない。みんな、まだどこかに向かって線の上を歩いている途中だ。そして僕の思考もその欠けている何かに方向づけられてしまい、余韻を持続させたくなる。物語を終わらせたくなければこの欠損の感覚を意識し続けるのがいいのだろうけど、どうだろう。とりあえずサントラでも聴くか。あと、とりあえずスクショした画像でも置いておこう:

P.S. サントラはリミックス曲集だったのでいまいちだった(リミックスが気に入ったことはこれまでにない)。テクノっぽい音にアマデウスのSF感をなんとなく想像できないこともないが。

P.P.S 最後に今回シュタインズ・ゲート2作を手に取ったそもそものきっかけも書き残しておこう。くだらなすぎてどうしようもないが、急にレスキネン教授の「リンターロ!」を聞いておきたくなってしまったことだった。2022年のリンターロ!世界線はまだ無限に広がっている!

Steins;Gate(75)

 自分が秋葉原によく通っていたのは2004~08年くらいで、その後もたまに顔を出したりしているが、2010年以降は会社の近くのソフマップエロゲーを買うようになり、頻度は減った。その会社の近くのソフマップやその他のエロゲーショップも2010年代後半には規模が小さくなっていき、あるいは消え、今はひっそりと退場していきそうな雰囲気を漂わせている。秋葉原エロゲーショップも既にコロナ禍の前から失速していた感があり(単に僕の熱が冷めてきていたせいなのかもしれないが)、2017年に紙風船が閉店とのニュースを見ても時代の流れなのだろうなと思うだけだった。ちなみに、紙風船ではいろいろ買ったはずだが、価格や棚のどの辺に並んでいたかまで含めてぱっと思い出せるのは、らくえん(980円)、君が望む永遠(2980円)、在りし日の歌(280円)、腐り姫(4980円)、SNOW(1980円)、Clannad(3480円)とかかな。自分がエロゲーを始めて最初の数年間によく通っていた、あの薄暗いむき出しの店内が懐かしい。あとはもちろん、ソフマップやトレーダーなどにも通っていた。一度秋葉原に行くと、こういう店を巡回してくたくたになり、さらにとらのあなK-Booksで何かないかとうろついたり、フィギュアのショーケースや店をのぞいたりしてからようやく帰る。食事はしない。メイド喫茶にも(怖いので)入らない。禁欲的に二次元的な性欲だけを追求するのだ。たまに中古のPCや周辺機器を買うこともあったが、それも基本的には快適なエロゲー環境のためだ。コミケにも一人で行ってあるていど歩き回ったら満足して帰る。森川嘉一郎趣都の誕生:萌える都市アキハバラ』(2003年)や東浩紀動物化するポストモダン』(2001年)を読んだりして、こうして秋葉原に足を運んで自分の欲望を見つめるのは意味のあることだと思っていたし、幸せだった。
 今となってはこれは既に思い出の中の秋葉原だ。といっても僕は単に一人でショッピングをしていただけだ。リアルで会うようなオタ友はいないので、本当に一人で歩き回っていたというささやかな思い出しかない。だから当時は秋葉原を舞台にしたエロゲーにも特に関心はなかったし、2010年にシュタインズ・ゲートが発売されて話題になっても、まあいつかやってみようかなという程度しか思わなかったし、2011年にアニメが放送されたときには、どうせ原作は全年齢版だし、ニコニコ動画でアニメをやってるからそっちで見ておくかという程度だった。アニメは確かに面白く、キャラクターはみな記憶に残る個性的なものだったし、2018年に続編のシュタインズ・ゲート・ゼロのアニメが放送されたときにも逃さず見たくらいには楽しませてもらった。
 僕のシュタインズ・ゲートはそれで終わったはずだったけど、なぜか今更原作をプレイしてみたくなっていた。たぶん、生活の変化などで自分にとって秋葉原が本当に遠くなってしまったからだと思う。11月くらいにプレイを始めて、家人が実家に帰省した年末に一気に読んだ。大みそかの前後は30時間くらいぶっ通しでプレイして目が痛くなった。読んでいた止められなかったからだ。それから寝て、起きて、また20時間くらいぶっ通しで読んだ(正確には、ルート分岐がわからずさまよっていた時間も長かった)。そういうプレイの仕方も含めて懐かしの2000年代だった。テレビを見てストーリーは知っていたけど、それでも手が止まらなかった。キャラクターの造形やキャラクター関係のバランス、ストーリー展開やオタクネタなど、いろいろなことが自分にとって高度に居心地よく調和していた。自分には秋葉原で会う友達はいないし、2000年代にはエロゲー板の様々なスレだけでなく、VIPスレやまとめサイトを熱心にみてはいたけれど書き込むことはほぼなかったけれど、代わりにこの作品のキャラクターたちが元気いっぱいに2010年の秋葉原を生きていた。それを2021年と2022年の現在から見ると、なんだか温かいものを感じる。2010年からは2022年なんて見えていなかっただろう。鈴羽はまだ5歳くらい。β世界線のオカリンが殺されるまで3年しかなく、もうレジスタンスでのタイムマシン研究は形になり始めている頃だろう。2036年まではあと14年。昨年くらいから世界的な脱炭素化の動きが報じられるようになったが、2036年にはエネルギー問題や食糧問題のせいでタイムマシンに投じられる金などなくなっているかもしれないし、2010年と比べても世界は対して進歩していないかもしれない。まだ毎年のようにコロナみたいな疫病が流行っているかもしれないし、世界は脱炭素化を諦めて石炭を燃やしたり原発を動かしたりして、僕も古くなったガソリンエンジンの軽自動車に乗っているかもしれない。14年後に自分が何歳になっているか想像すると悲しいが、まだウィンドウズで動けば、シュタインズ・ゲートを起動してみたい。
 少しは作品の内容にも触れておくか。といっても語りたいことはもう細かいことくらいしかないかもしれない。一番笑ったのは、たぶん、アニメ版ではあまりフォーカスされなかった(と記憶している)、フェイリスルートの10円禿げ、4℃だった。いちいちセリフが長くて、几帳面で、日常生活を送るのに苦労してそうな「伊達ワル」だ(だから禿げたのか?)。鳳凰院凶真とずっとかけあいやっていてくれてもよかった。あらためて指摘するようなことでもないが、フェイリス役を桃井はるこさんが演じているのも素晴らしい。桃井さんの人柄などはまったくしらないが、2000年代の秋葉原の象徴のような人だと思うし、彼女の歌は今聴いても素晴らしいものが多いと思う(個人的には「かがやきサイリューム」とか「泳・げ・な・い」とかが好き。桃井はるこも2000年代のVIPのアニソン実況スレで知った)。トゥルーエンド以外はSERNがディストピアを作ってしまう可能性がある結末のような気がするけど、フェイリスと進む未来ならいいのではと思えた。すくなくともタイムマシンが発明される2034年までの24年間は幸せに暮らせる可能性があるのだ。
 あと、紅莉栖の隠れオタっぷりもアニメでは(僕の記憶では)あまり目立っていなくて、オタセリフが次から次へと口を突いて出てしまうのもよかったが、それに限らず口調が2ちゃんスレの男言葉そのままなのが楽しかった。その意味でどうみても助手だった。まゆりのメールで「w」が使わていてもちょっと可愛らしいなですむのに、紅莉栖のメールで使われていると隠しきれないオタク臭が漂っていて笑ってしまう。というか彼女は途中から安心してオカリンにそんなゆるいメールを送るようになったのが可愛かった。基本的にねらー文体を使っていない(あるいは使いこなせていない)僕としては、紅莉栖は感情移入できるし、彼女が半ば無自覚にさらけだしたり恥ずかしがったりしているやりとりをみていて幸せになる。
 他の人たちも指摘している通り、作品前半はわりと息つく暇もなく引き込まれる展開が続くが、Dメールを削除して物語をたたんでいく後半はテンポが悪くなっていく。まるでブラックホールの中心に近づいて、事象の地平線を超えると外からは動きが止まって見えるかのように、重たい展開になっていく。苦悩する主人公のセリフが増えるからであり、そもそも主人公に音声がついているからなのだが、声優さんの腕の見せ所でもある。この辺はアニメ版を見たときにも重苦しい印象があったと記憶していて、けっして楽しめたわけではないが、もうここまでくるとプレイヤーとしては見届けることしかできない(それまでも基本的には見届けただけだが)。プレイしたのが時間のある休暇中でよかった。そうしてフェイリスやルカ子、まゆしぃ、紅莉栖たちの幸せそうな姿を見られればそれで僕も嬉しいし、スクショをとってみたりするだけである。
 そういえば、この作品の美術面にも触れておきたい。アニメだけでなく原作もプレイしておきたいと思ったのは、この絵をきちんと見てみたいと思ったからだった。全体的にくすんだテクスチャーで塗りつぶされ、一般的なエロゲーやアニメとは異なるデフォルメのキャラクターデザインは、10年前の僕にはこれではヒロインとの恋愛とかいう感じじゃないから後回しでいいやと思わせた。二次元なのにフラットではないというか、くすんだ陰影があるのはデジタルからアナログな絵本的な美術へと後退しているように見えたのかもしれない。でも2022年の現在から振り返ると、これは僕の記憶の中の秋葉原の陰影にもつながっている、というと安易すぎるかもしれないが、2011~14年に改修されたラジオ会館やだだっ広くなった駅前の広場に限らず、2000年代のオーラを失ってのっぺりした現在の秋葉原をみているからこそ、この作品には既に初めから失われてしまっている(くすんでいる)おかげでこれ以上は失われることのない秋葉原が息づいているように思われて、作中で秋葉原を背景にしたヒロインたちのスクショを撮るという意味ない行為を何度も繰り返してしまった。あと、単純に見惚れてしまうほどに絵がきれいだったということもある。ルカ子の上気した顔とか嫁すぎる。せっかくだから気軽に見れるようにいくつか置いておこう:
 本作を買ってからまもなく、年末の秋葉原で続編のゼロも買ってきた。ネットでも買えるけど秋葉原で買ってよかったと思う。だが残念なことに、不具合があってタイトル画面が真っ黒になってしまってゲームをスタートできない。修正パッチも出ていないのでニトロプラスにメールしてみたが、ひょっとしたらこのままプレイできないかもしれない(別のPCにインストールしたとしてもプレイするたびに周辺機器の配線を変える必要があり面倒)。比屋定真帆はアニメ版で好きなヒロインなので残念だが、こちらの本編がきれいに終わったのでいいかな。
 というわけで2022年は2010年から始まったが、今年も旧作をたくさん楽しんでいきたい。時間は放っておくと勝手に流れていってしまう。現在なんていうのは幻想のようなものなのだから、仕事じゃないんだから無理してしがみつかずとも、過去に好きなだけさかのぼってからまた現在に帰ってくればいい。

水族館と幻視

 また『白い砂のアクアトープ』をみて、昨日は久しぶりに江の島までドライブして水族館に行ってきた。八景島の水族館でコラボイベントをやっていたらしいのだけど(ついでに今日みた『先輩がうざい後輩の話』でも八景島水族館らしい場所でデートするエピソードがあった。これも仕事に関する複雑な感情を思い出させるアニメで、こちらは男キャラがでてきて恋愛要素があるのでさらに居心地が悪い)、江ノ島水族館の方は5回目くらいでなじみがあるので気楽に行ける。
 何度も同じ水族館に行っても、基本的な展示もイルカショーの内容も変わらなくて、正直なところ1回行けばだいたいわかってしまうので新鮮な驚きはなくなる。その割には入場料が結構高く、今回は2500円だったのでまた値上がりしたのかもしれない。年間パスポートが5000円なので、また作ってしまい、最低3回は来なきゃという気にさせられるのだが、展示自体はあんまり楽しくないのになぜ何度も来るのかという気もする。それは妻と初めてデートらしいことをしたのがこの水族館だったからであり、水族館の内容自体よりも、この水族館に2人で足を運ぶことを重ねる行為自体が目的になってきている。もともと出不精なので他に遊びに出かけるようなところもほぼなく、今は妻が体調を崩して弱っているので、何か元気だった時のことを思い出せるような、なじみだけど特別な場所が必要なのだ。
 今回は土曜日の午後遅めの時間についた。道路が混んでいたが、その分車の中でアニソンとかを聴かせて引かせたり楽しませたりできた。2時間弱で閉館時間になったが、満員のイルカショーを見たり(はじめは分かれて座ったけど、親切な人が詰めてスペースを開けてくれた)、大水槽の前の床に胡坐をかいて水中ショーやら泳いでいる魚たちをぼんやりと眺めたり、何かに使うわけでもないお土産のガチャやガラス細工やお菓子を買ったりして、機嫌のよい妻に付き合う。外出を嫌がる彼女だが、先週末に突発的に海ほたるに連れていったら思いのほか楽しかったらしく、今週末も病院から抜け出してドライブするのを楽しみにしていた。帰りは久々に近所の回転ずしでしこたま詰め込んだ。妻の入院でがんがん貯金が減ってしまい、彼女も体調や罪悪感で泣いてばかりいるので、僕もたまには普段の節約を忘れて非日常的なことに気持ち良くお金を使いたかったというか、お金を使って喜ばれてよかったかもしれない。
 江ノ島水族館は景気がよさそうにみえるけど、水族館で働く人たちの苦労や葛藤をイメージさせてくれる『白い砂のアクアトープ』のおかげで少しは親しみが持てるようになった。スタッフさんや観客の人たちだけでなく、大水槽もイルカショーもペンギンコーナーも今回は少し違った印象だった。オタクなのでアニメとかエロゲーを通さないとこういう理不尽なものに親しむことはできない。くくるは少しでも魚を好きになってくれる人が増えてほしいと願っており、自分も海の生き物が大好きという気持ちを核にして働いているけど、実際にやっているのは自分を人として周りに人やお客さんに好きになってもらうことを通して魚に関心を持ってもらうということであり、逆説的な感じもするし、営業の仕事の業の深さを感じる。別に魚たちは人間に好かれようと思って泳いでいるわけではなく(イルカは知らないが)、クラゲなんてただ水の流れに揺れながらプランクトンを食べているだけで、観客である人間を知覚する器官すらないだろう。くくるはお客さんにクラゲをみると癒されるんですねーなんて営業トークするけど、クラゲと人間が何か意思疎通しているわけではなく、人間は勝手に誤解して癒されている。くくるもそのことはわかっているのだろうけど、なんかうまくいっているのだからいいのかもしれない。第1期で出てきた水族館の幻視体験の伏線は終盤でどのように回収されるだろうか。人と人、人と魚は意思疎通できているように思えるときもあれば、思えないときもある。みんな本来はばらばらな方向を向いていて、ときおり幻視体験のようなことが起きる。それが水族館という空間なのかもしれない。

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水族館のお土産。あと青がきれいなピュフチッツァ女子修道院(聖なる泉と聖母の幻に関する伝説があるエストニア修道院)の手のひらサイズのイコン。

奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』


 ロシア文学研究者の青春の書だ。かなりあけすけな本であり、あけすけに書いてもきれいにまとまるのは著者の人柄なのだろう。僕が昔夢見ていたような生き方――ロシアの大学で数年間文学研究にどっぷり浸り、得がたい友人や先生に出会ってかけがえのない宝物を手に入れて、研究者としても成功する――をリアルにやり遂げた同年代の人の記録をみるのはまぶしいような体験であり、同時にそういう夢から離れ、文学研究に対して勝手に抱いていた幻想からも解放され、今の人生を生きている自分は少し冷めた見方しかできないのだが、この本がいったい誰に向けて書かれているのかよくわからないように、僕もいったいどのような僕に向けて書くべきなのかよくわからないまま感想を書いておこう。
 奈倉さんとは以前に何かの機会でご一緒したことがあるが、特に話もしなかったのでどのような人か知らないままだったが、その後、なんだかすごく砕けた言葉でうまく翻訳できる人だという評判を聞いて、でも翻訳した本が関心のない作家だったのでスルーしていた。今回の本は内容からして上に書いた複雑な感情を味わうことになるかもなという予感を持って手に取ったのだが、何よりロシアで5年制の文学大学を(4年で)初めて卒業した日本人という肩書と、博士論文のテーマがブロークだったというのを知ってスルーできないなと思ったのだった。
 実際、関心の対象は僕とけっこう近かった。ガスパーロフの本に感銘を受けるのはまだしも、ゴルシコフなんていう文体論研究者が現役の先生として登場するところまでは想像していなかった(昔ゴルシコフの本にもけっこう付箋を貼ったりしたが、教科書的な内容で自分の研究テーマに使える感じではなかったので今は内容も覚えていない)。ちなみに、僕もガスパーロフの本に感銘を受けて一生懸命韻律や意味論的オーラ(懐かしい用語だ)の論文を読んだけど、詩のリズムを「体感」するのは難しくて、詩の意味やニュアンスもネイティブのように即時に「体感」できるわけでない。どうしたって「勉強」になってしまう。外国人の限界だろうなと絶望した。奈倉さんはモスクワで数年間にわたりロシア人たちと一緒にたくさん読んだのだから「体感」できているのだろう。うらやましい限りだ。でも、それは僕以上に何度も絶望を味わった先に得たものなのだろう。
 『耳狩りネルリ』はラノベとして青春を描いたとすれば、こちらはもっと研究者寄りだ。とはいえ外国人学生としての生活の描写もいろいろとフックがあり、ロシア人学生たちと親しく交流し、寮の中で苦楽を共にし、モスクワをあちこち歩きまわり、夏休みには他の町に行ったりし、質素で単調な食事をとりながら本を読んで幸せな知的興奮を味わったりといった楽しかった時間を僕もあれこれ思い出した。もちろん奈倉さんは本物なのでロシア語力もずっと高いだろうし(本書ではロシア語で苦労したという記述は一切なかったどころか文学大学でフランス語まで習得したとことなので、語学センスがよい人なのだろう)、毎回速記で講義を記録して後で清書するなんてことは僕にはできないし、たぶん学生の頃でもそこまでの根気はなかっただろう。奈倉さんのアントーノフ先生の講義に関する幸せな思い出はまさしく一生の宝なのだろうし、そういう宝をロシアの教授たち(ベールイが特別な意味を込めて呼んだロシアの教授たちだ)からもらったことを日本人が日本語で本にしておくことは重要だと思う。速書きだったのか、もっと言葉のリズムや速度や手触りを吟味できそうな箇所も多いが(すごく偉そうな指摘になってしまって滑稽だが、それだけ大切な内容のはずだし、例えばガスパーロフやリジヤ・ギンズブルグやトゥイニャーノフのようなソ連仕込みの研究者兼エッセイストなら、一語一語まで神経がいきわたった文章を書く)、とにかくなんだかよくわからない塊を一度言葉にして吐き出しておきたかったということだろうか。引用されている詩の翻訳も明らかに生煮えで、あまり詩になっているとはいえない代物だが、原文の音楽性を伝えるようなまともな詩にしようとしたら、たぶんいつまでも本が完成しないので妥協したのだろう。
 といっても、著者は僕とは別人なので本当のところはよくわからない。ウクライナ問題などをはじめとするロシア政治・社会の暗部に対する義憤もあまり理解できない。意地の悪い言い方をすると、もし著者のモスクワ在学時の友人にウクライナベラルーシの出身者がおらず個人的な縁がなかったら、もしこれらの国の作家の作品を翻訳していなかったら、こんな義憤を抱いていただろうか。この世界には不正やゆがみなんていくらでもあって、人は自分に縁のある不正やゆがみに反応するだけでキャパシティが満杯になるのだから、縁のないどこかの国の不幸に強く同情できないからといって後ろめたさを感じる必要はないだろう。他にもっと守りたいものがあるならば。電波を受信してしまう人は除くとして。といっても、著者はまさしく個人的なことを書いていて、その延長線上としての義憤なのだから何も間違ってはいないわけだが。そしてそういう風通しのよさも僕がロシアに求めなければいけないものの一つなのだが。
 青春というのは人と出会わないとありえないし、自分はどんなに人を避ける本の虫だと思っていても人とめぐり合わせてしまうのが青春の魔法である。それにつけてもだ。僕は最近10年ほどは人付き合いを最小限にして、人ではなく文字情報や映像情報と過ごす時間を最大限にする生活を送っており、これは何にも残んねえなとまた少しへこむのだった。エロゲーは独自の体験深度を持ちうる存在だけど、これは個人の内側に反響させておくべき存在であり(感想を書いて他の人と楽しく交流しても、最終的には自分の内面に立ち返る)、文学研究のように人と積み重ね、分かち合っていくような文化は少なくとも現在のところはあまりうまく作らてはいない。
 奈倉さんが素直にうらやましいが、僕には無理な生き方であることもよくわかっている。僕は結局、知らないことがたくさんあるのに時間は有限であるのが怖くなってしまい、早く知った気になろうとして作品よりもその文学的な評価を先に読むような人間に過ぎなかったし、無駄に思える地道な作業をできずに夢想するだけで終わってしまった。好きな本、楽しい本しか読みたくないし、面倒な論文なんて書きたくないと思ってしまった(その結果、今はロシア文学とは関係のない面倒な仕事に日々追われているのだが)。文学研究の外側にも文学研究を超えるほどのわくわくするような素晴らしいものがあると思ってしまった。そして、せっかく買い集めた数千冊のロシア語の文学作品や研究書も、研究者の責任感から解放されたら趣味人として楽しく読めるぜと思っていたのに、今ではごくたまに紐解くだけだ。奈倉さんが軽々と引用するブリューソフやホダセーヴィチやエセーニンの名前を見て、あ、やべ、読まなきゃと思ってそれでおしまいになってしまう。僕は15年ほど、エロゲーを通して自分を見つめながら真・善・美(?)を追い求めることに気を取られ、かつて願ったロシア文学趣味人としての生き方を忘れてしまった。願ったというよりは、当時は解放されたいという気持ちしかなかったのかもしれないが。いつのまにか、ロシア文学を腰を据えて読んだり翻訳したりするのは定年後かなあと、遠い未来に追いやってしまった。これからは子育てでさらに追いやる口実が増える。これについては魔法の解決策はないので、死ぬまでにあと何年あるのか知らないけど、趣味なんだから楽しんで読んでいけばいいなと毎度のように思い直す。文学に関しては、プロと趣味の境界線は現代ではあってないようなものだ。いつでも気持ちを新たにしてやり直せばいいんだ。

 ……あらためて読み返すと、あからさまにコンプレックスを吐き出した文章に恥ずかしさを覚えないでもない。でもこういう素晴らしい生き方にコンプレックスを抱けるのは悪いことではないと思う。よい本だった。

アイドルと視線(アニメ雑感)

 最近は家族が家にいないこともあって、アニメ視聴のペースが維持されている。それにしてもアイドルものが増えたと思う。僕が主に観ているプラットフォーム(ニコニコ動画の無料配信)で増えたというだけなのかもしれないが、アイドルものの面白い作品が増えたように思う。女の子が歌を歌ったり踊ったりというのはけいおんとかハルヒとかから増えるようになったのだろうけど、最近は演奏シーンに力の入ったものが多いように思う。
 というわけで、「ラブライブ・スーパースター」の話をすると、記憶に残るのはあのあざとくてちょっとおかしな振付の数々だろう。ショービジネスというよりは学芸会の出し物に近いような気もして恥ずかしいのだが、それを信じ切った幸せそうな笑顔で女の子たちがやってのけるので視聴する側は共犯者にならざるを得ない。ラブライブの空間はとても壊れやすいものだと感じさせるところが、熱狂的なファンが多い理由なのだろう。もちろん、単に女の子たちが可愛いから見ていて幸せということもあるだろうし(メインヒロインのかのんの歌声はよいし、まるい子の主張の強いまなざしも印象的だし、可可という中国人ヒロインは中国人に見せても恥ずかしくない可愛さだし、へあんなさんは主人公回でライブも含めて素晴らしかったし、会長はまあ会長だし)、似たような質感のキャラデザだけどそれぞれの個性がうまく差異化されているのでかけあいを見ていて幸せということもあるだろうけど、単に可愛い女の子たちの日常を見せるというのではなく、ライブ、つまり儚い生ものを作り上げている秘儀の空間を共有させてもらえるということがある。
 それにしても、アイドルものは見られること、視線にさらされること、視聴者からは見ることや視線で覆いつくすことを欲望としてつきつめたジャンルであって、だから昨今CGでも可愛さをある程度維持できるまでに技術が発達したおかげで今の隆盛があるのだろうけど、今放送されている「セレクション・プロジェクト」のように視線と存在理由を直結させてむき出しにしてしまうと(生活の全てを匿名の不特定多数にさらけ出して採点してもらうアイドルということらしい)、不条理で不気味になってくる。それでもメインヒロインの女の子のキャラデザがオーラのある可愛さなので見てしまう。
 こういう過激な視線物の作品をみてしまうと、なろう系のファンタジーとかサクガンやルパンのような絵や設定に独特のセンスを感じる作品もどこか牧歌的に思えてくる。
 といっても、今一番楽しんでいるのはたぶん「白い砂のアクアトープ」だろうな。これはニコニコの遅い配信では待てず、先日はテレビでも見てしまった。夜中に部屋を暗くしてテレビをみて余韻まで含めて楽しんだのは久しぶりだ。一番印象的だったのは第11話、くくるが打ちのめされて水族館の閉鎖を受け入れる話で、思わずツイッターでも感想を漏らしてしまった*1。これ以上の盛り上がりはもうないだろうなと思いつつ2期も見始めたが、意地の悪い先輩のはえばるちゆさん(南風原知夢と書くらしい)が痛みを抱えたシングルマザーだとわかる第16話のこの絵でやられてしまった。

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この作品もメインヒロインの一人が元アイドルだったり、水族館というもの自体が視線によって成り立つ空間であったりするわけで(飼育員は視線を投げると同時に視線にさらされる一種のアイドルである)、視線物のアニメということもできるのだが、くくるはいつでもこの星空に見守られているということが控えめながらうるさいくらい鮮やかに示されていて、いい絵だなと思った。このアニメのファンクラブに入りかけた。この作品の水族館や沖縄の星空は、作品世界の中にしか存在しないのだ。そういえば、くくる役の伊藤未来さんという声優さんの声には「安達としまむら」の時から惹かれていたのだった。低めの裏声みたいな声というのだろうか、しまむらのようなマイペースな感じがよかったので果たしてくくるみたいな元気な女の子でよさを活かせるのかと思ったけど、笑っているような泣いているような複雑で無防備な声が素晴らしい。くくるはまわりがあまり見えていない、視線に鈍感な女の子で、思うようにいかない人生をがんばって切り開いていっている。その必死さがそのまま表れた声だ。アニメを見てばかりであまり外に出ない生活をしていると、世界はこんなに善意で満ちているのに、人は何でこんなに思い通りにいかなくて苦労しなくちゃいけないのかなと思ってしまう。優しくいられるときはなるべく優しくいないとなあ。

*1:白い砂のアクアトープ11話。傷つけられて優しくならざるを得ないくくると、水族館とか台風とか朝の海とかのいろんな水の青いイメージに囲まれている感じが、凪のあすからをつくった会社の作品だなあと実感させる。大人になりきらないくくるが去勢されてしまう悲しさは同じ水の青さの中に溶けていく。<9月22日、昔の凪あすからの感想はこれこれ。>