シン・エヴァンゲリオン感想補遺

 承前

 プリンターのインクが切れたので取り換えたり試し刷りしたりクリーニングしたりしているうちに、廃インク云々の表示が出て印刷できなくなってしまい、色々調べた末にアマゾンで1000円のリセットソフトを購入したら5分で直って安堵した。心配していた妻に何か印刷したいものがないか聞いたが何でもいいというので、シンエヴァの入場券と一緒にもらったアスカのリーフレットを印刷したら、黄色インクが足りないのかあずき色の髪になってしまったがきれいに出力でき、妻に見せたら安心していた。彼女が初めてエヴァ関連のものを見て機嫌を損ねなかったのはこのアスカだったので、記念に壁にでも貼っておくか…
 この一週間、時間のある時はエヴァの感想をネットで漁ってばかりで、時間のないときもテレワークで仕事中に漁ってしまったため、土曜日まで宿題を休日テレワークになってしまった。妻の機嫌も悪く、いつもより長時間の足裏マッサージサービスをしなければならなかった(先々週、久々に東方天空璋をやって以来右手の親指が痛くなり、マッサージにも支障をきたしていたが)。でもこんな体験はもうできないだろうから後悔はしていない。
 というわけで、一通り他の人たちの感想を読んだ後で改めて何か書いておきたい。というのも、特に呪詛のような批判的な長文を吐き出している人たちの感想が強烈で(例えば小鳥猊下さんとかグダさんとか、もう少し落ち着いたものではLWさんとか村上裕一さんとか)、僕の最初の印象が薄れてしまったほどだったからだ。やっぱりたとえ浅くても最初に自分の感想を書いておいてよかった。僕は特撮も他の参照された先行作品もほとんど知らないし、ストーリーの細部や制作の裏側についてはあまり理解していないし深く考え込みもしないし、上に挙げたような人たちに比べるとエヴァに対する思い入れも深いとは言えないライトなオーディエンスの一人だし、そもそも言語化能力も凡庸な人間だが、それでも大事にしなければいけない固有の体験は持っているからだ。
 ともあれ、批判的な意見に同意できる部分は多い。新劇場版ではTV版や旧劇版にあった鬼気迫る感じがなくなっただけでなく、全体的にセリフ回しのキレがなくなって用語のセンスもなくなってしまった。最後のシンエヴァくらいは全盛期の勢いを見せてくれるのではという淡い期待があったが、今のところ思い出せるものは何もない。再視聴すれば何かお気に入りのセリフも見つかるかもしれないけど、最後までセリフ回しの弱さを絵の丁寧さ(丁寧だけど新鮮さはあまり感じられない)で補うという、悪い意味で二次創作的だった印象だ。新劇版全体についても同じ。思えば、序の最後で綾波が「笑顔」を見せるシーン、レイのファンにとってはシリーズ全体で最も大事なシーンの一つのはずだが、この笑顔が丁寧に描かれているだけで、新しい何かを提示していたわけではなかった時点でエヴァの喪失は始まっていた。丁寧に描き込まれていたから不満を言うことはできないし、TV版はもとより、旧劇版と比べても悪くはなかった。でも旧劇版の笑顔の衝撃、何かとんでもなく大切な秘められたものをもらってしまったという驚きはなく、すうっと流れてしまった。たぶん僕の方が鈍くなったのだろうが、同じ構図や同じセリフで見せられても、古典作品の再演を楽しむような楽しみ方しかできないのは仕方ない。繰り返すが不満を抱くことはできないし、新劇の笑顔は新劇の笑顔で愛でることはできる。でもそれは文脈から切り離されたような楽しみ方になってしまう。僕がエヴァの後でエロゲーオタクになって磨き上げてしまったスキルの一つは、弱いものを愛することだった。作品のシナリオが拙劣でヒロインが残念であっても、こちらに向けられる笑顔や愛の言葉を拒絶する意味はない、幸せになって何が悪いのか。これはエロゲーという一人称の創作物が得意とするモードであって、このやさしさをアニメのような本来三人称の創作物にも持ち込めるようになってしまったのが新劇を拒絶できなかった理由の一つかもしれない。弱いもの、本物ではないものでも、触れているうちに愛着を持ってしまう。例えばFateシリーズ。出てくる英雄たちはみな二次創作で、ストーリーが面白ければ、それをきっかけにオリジナルの史実にも関心が向かうことがある。オタクは愛に溢れた存在なのでいろいろなものを愛することができる。でもその愛に重さはあるのだろうかと上述の厳しい人たちの文章を読むと感じる部分もある。いわゆるポカ波はそういう弱い存在であって、それはキャラクターとして二次創作的で凡庸であるというだけではなく、開き直ってそれをまがい物という設定にしていることや、そのまがい物が「本物」(まがい物っぽいけど)の心を手に入れていく段階を視聴者と共有させるという祭儀的な仕組みが視聴者の足場として用意されていることからも、拒絶しないで何となく受け入れてしまうことができるようになっている。
 庵野監督の個人的な人間関係には関心ないので、評価の軸には据えたくない。今回、シンジとアスカが「好きだった」と確認し合ったことが、そんなこと言う必要があったのかと物議を醸している。この言葉が二人の今現在ののっぴきならない状況で発せらたというよりは、未来の視点から、あの時にああいうふうに言っておけたから前に進めたという視点から発せられたと取るしかないところに、新劇版の変質があるのだろう。現在の中から叫んでいるというよりは、未来から振り返って置いていっている*1。そんな作品に旧劇版の「先」だか「上」だかを求めても何も与えられないのだった。理不尽もご都合主義もグロテスクも、結果的に前に歩き出せたのだから後付けで肯定されてしまう。古典主義的にはそんなものは芸術作品の良し悪しとは関係のない弛緩した態度だが、ロマン主義的には受け入れざるを得ない高度に現実的な作品ということになるのかもしれない。古典主義とロマン主義という用語があっているのかやや心もとないが、いずれにせよ僕は今、エヴァンゲリオンの2つの形を手にすることができたので(マンガ版も入れれば3つ)、必要に応じて使い分けていくしかないんじゃないかと思う。今のところは旧の方がよいとしか思えないけど、新の方がしっくりくるときもあるだろう。違いの少ない新劇・序であれば気楽な癒しを得られるし(破は翼をくださいとかのセンスどうにかならないものだろうか…)。
 本当はぼくのかんがえたさいきょうの綾波レイについて何か書きたかったのだが、グダグダしているうちに力尽きた(もともとそんな燃料も筆力もない)。またネットの感想でも漁ろう。なぜか目につく強烈な論者はアスカファンの人ばかりで(上記の他にはたまごまごさんとかシロクマさんとか)、レイのファンは今回は深い傷を負わなかったせいか大人しい。滝本センセももう満たされたのかな。
 最後に特に意味もないが、ポスター画像をそれが公開された時の軽い驚きを忘れないように貼っておこう。さらば、というわけではないです。

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【3月23日追記】

 「プロフェッショナル」の庵野監督密着取材を視聴。

 番組で見せた制作現場はほんの一部なのだろうけど、あの雰囲気では面白いものなんて作れないんじゃないかという気がした。スランプの時期、何をしたらいいのかわからず苛立っている、あるいは疲れて途方に暮れている監督やスタッフの人たち。まあ、創作している人なんてスランプでなくても傍から見ると特に何でもなさそうだったり苦しんでいたりするようにしか見えなくて、でも創作している人がどう見えるかなんてどうでもよくて、できた作品がどうであるかが全てだ。シンエヴァではそれまでの新劇3作と比べてもアングルの新しさ・意外さにこだわってすごくハードルを上げていたらしかったが、そんなに斬新だったっけ。僕の注意力や感性が足りないというだけの問題だとしたらDVDが出たら改めてゆっくり楽しませて頂けるのでいい。でも、TV版で連発したような神がかった絵面とかテンポはほとんどなかった気がするのだが気のせいだろうか。単に僕の好みの問題なのだろうか。庵野監督は、普通にコンテを描いてやっていたらTV版や旧劇版と同じものにしかならないから、それを超えるために新しいやり方を模索したとのことだが、その視覚的な新しさというのは恥ずかしながら僕には作品からはよくわからなかった。

 ともあれ、庵野監督やスタッフの人たちが僕たちに最高のものを届けようと必死になって作ったことは伝わってくる番組だったので、観てよかったと思う。これでは作品を批判できなくなってしまう気がしないでもないが、僕にできるのは作品を観てよかったことやその他のことを語り、作品を受け止めることだけなのだから、それをきちんとやるしかない。

 

【3月27日追記】
 大井昌和・さやわか・東浩紀「全世界最速シン・エヴァ・レビュー」(3月8日、有料)視聴。シンエヴァ絶賛派の人たちのハイテンションなオタクトーク6時間。
 僕は不完全燃焼感について書いているが肯定はいくらでもできそうな作品でもあり、後はどんなふうに肯定する、あるいは受け入れるのかという問題になったとき、酒を飲みながら感情的にひたすら肯定するというのもありだ。ブログの書き言葉ではなく、オタクトークの声で伝えられるものもある。
 ただし、やったかやってないのかこれからやるのかという下品な話が多かったのが残念なところで、アスカ派だった東さん(他の二人はよくわからない)はシンジとアスカの関係に注目するからそういう語り口になってしまい、確かに性的モチーフやメタファーに溢れた作品なので仕方ないのだが、無言で綾波レイに萌えている(古語)ようなむっつり系オタクにとってはそういうガチャガチャした語りや笑いは厳しいところが多かった。「旧劇は性的メタファーによる描写でしか視聴者を驚かせなくなくて方法論的に未熟だった」というのは雑だと思うし、シンエヴァに切れ味がないと思ったのは性的なものが少なかったからだけではないと思う。性的なものが少なかったとはいえ、シンエヴァは男が男性性にきちんと向き合っている(父殺しの欠如、ユイの類型的描写などの弱点があるが)ので「男でもやればできるとわかる」、その意味で現代では稀有な作品、という評価は何となく同意できるし、ウマ娘的な若さばかりを愛でる世界は中年男性オタクにはつらいというのも分からないことはない。
 「旧劇の方がいいという人は35歳以下」論については、1回視聴しただけでは消化できなかった部分も多いだろうから、DVDが出たら見直す必要があると改めて思った。でも繰り返しになるが、「無限大」、「ネオンジェネシス」、槍で順番に刺す、「さようなら、全ての」とベタに言ってしまう、やたら説明する、といった「ばかげているけど必要であり、25年間エヴァを見続けてきてよかったという気持ちになれる手続き」を僕も実感するようになるかどうかはまだ分からないな。
 綾波が永遠に成熟せず、むしろ作を重ねるごとに幼くなっていき、今回は(田植えしてから収穫までの約4ヶ月をゆっくり描きつつ)感情や言葉を獲得する幼児というところまで下がってから消滅し、そのことでシンジに示唆を与え、後にボサボサ波が出てきて破で救えなかった綾波を含めてすべてを救ったという納得感だという。90年代のアダルトチルドレン(心を閉ざした女の子)を本人の心の問題ではなく、環境による虐待の被害者として現代的に読み替え、綾波のイメージを根本的に更新したという。確かにそういう見方なら第三村パートを肯定することもできるだろう。とはいえ、そうなるとやはりTV版・旧劇版の綾波が萌え(古語)という感情の面からはよかったということになるし、東さんらが母親的なものに接近しすぎて気持ち悪かったというマンガ版の綾波も最高ということになる。「ユイを中心に据えるという過ちを最初に犯したからレイが導入され、レイを捕まえられないからアスカが導入され、アスカを捕まえられないからマリが導入されて終劇になった」という構造は確かにすっきりした解釈であり、ユイが全くといっていいほど描かれなかったから、レイが根源に位置する(ただし後に幼児化する)という見立ても綾波ファンにとっては悪い話ではないのかもしれない。ちなみに、シンエヴァでは式波がクローンであることが分かり綾波との違いがなくなり独自性が失われたとの指摘があったが、アスカ派には総じてあまり関心を持たれていないおとなしめの式波も陰があってむしろいいなと思った。好みの問題なのかもしれない。
 ネット上に感想はまだたくさんあるので、もう少し読み漁ってみたい。東さんたちの下ネタトークで僕のエヴァが終わるというのはあんまりなので!

 つづく

*1:完全な印象論だが、エヴァ新劇版で失われてしまったものとして、夏の空気感がある。一応夏のようなのだが、じっとりと滲んだ感じはない。秋のように透き通った空気だ。人も少なくて涼しげ。技術的な進歩で美術が高精度になったせいなのか(マンガ版も同じ進化を遂げた)、「夏以外の季節が失われた世界」という設定に対する詩的な動機づけを新劇版でやめることにしたのが理由なのかはわからないが、「熱」が失われた世界の寂しさがあるのが新劇版だ。序のBeautiful Worldのピアノの響きは、失われていく熱を逃がしたくないという切実さがあってよかったが、やはりエヴァは夏だよなあ(イリヤのと混ざっているかも)。

エヴァは終わってない(シン・エヴァンゲリオン感想)

 エヴァが終わった。終わったといってもいろいろニュアンスはあるだろうが、もう物語が完結して続きがなくなったという意味では終わった。今日ははじめから終わりを見届けるために映画館に足を運んだわけで、自分の中では終わらせたくなかったし、今でも終わらせたくない気持ちは残っているので、観劇するにあたって特に高揚感はなく、むしろ避けられない終わりを前に少し気持ちが沈んでいたと思う。エヴァを喪失するためにエヴァを観るというのはおかしな話だ。
 エヴァを初めて知ったのは、大学1年か2年の頃、家庭教師のアルバイト先の中学生の男の子の部屋でマンガ版の1巻から3巻くらいまでを読んだ時だったと思う(男の子の姉が集めていたそうだ)。絵が繊細でなんだか難しそうな話だったので覚えていた。やがて家庭教師の期間が終わり、エヴァのことは忘れた。当時はまだ僕は自覚的なオタクでもなかった。次にエヴァに出会ったのは、テレビ東京で深夜に一挙放送をやっていた時だったと思う。一話から全部観たかは覚えていない。ひょっとしたら東浩紀がどこかで論じていたのを読んだ方が先だったかもしれないが(それが一挙放送を観るきっかけになったのかも)、記憶が不確かだ。ともあれ、一挙放送は強く印象に残り、ここから僕の自覚的なオタク人生が始まった。
 そこから約20年。20年前の僕は新劇場版なんてものが制作されるなんて想像できなかったし、20年後にその新劇場版の完結編を映画館で見る日にブックオフで『男の子の名前事典』を買うことになるなんて思わなかったし、ゲンドウの「男の子ならシンジ、女の子ならレイだ」というセリフに神妙な顔になることも想像できなかった。観終わってから床屋に行き、今の僕の顔は少しシンジに似ているかもしれないと思って鏡を見たが、映っていたのは運動不足ですっかり顎に肉がついてしまった中年のおっさんで、こんなおっさんが「綾波…」とか言いながらレイに近づいて行ったらホラーである。そういえば僕の顔がシンジに似ていたことなんて一度もなかったのだった。
 映画館ではD列(前から4番目)の真ん中で、やや前過ぎたが、観劇に大きな問題はなかった。ありがたいことに皆さんマナーがよく、観終わって客席が明るくなるまでほとんど誰も物音すら立てなかった。終わったらイヤホンで耳をふさいで立ち上がり、帰りに物販コーナーを少し除いたがめぼしいものは何もなく(そのうちいくらでも出てくるだろう)、そうしてエヴァは静かに終わった。
 考察めいたものは後でネットで漁るとして、今は最初の感想を書いておこう。先週末に久しぶりにマンガ版エヴァの最後の2巻だけでも読み返しておいたのは良かった。このマンガが書かれていた2012~14年頃に今回の結末がどこまでイメージされていたかは分からないが、意外にもけっこう似た結末だったと思う。エヴァがいなくなった世界をやり直すという結末。TV版では幻想として拒否したはずのものを、今度は受け入れるようになっていたシンジ。そういえば、エヴァ名物ともいえるシンジの絶叫が今回はほぼなく、立ち上がることを決めた後のシンジはどちらかというとゲンドウをはじめとする周りの人たちの話の聞き役に回っていた。シンジの心のドラマはこの完結編ではほぼなかったので、そこが不完全燃焼感につながっているのかもしれない。でもシンジについて語ることは他に何があるだろう。不完全燃焼どころか、Qまでの間にシンジはもうほぼ燃焼しきって燃えカスになっていたというのに。そういえばマンガ版でも終盤はみんなぽつぽつ呟くようセリフばかりで、顔の表情(マンガ版は登場人物の身体の輪郭線と顔の表情を見る作品だと思っている)も悟ったような真顔ばかりで、それがスケール感のある背景と交互にずっと続いていくのが独特のリズムを作っていたが(マンガ版ナウシカの後半もそんな感じだった)、今回の映画のシンジにもそういう気分が感じられた。
 レイも何だか冒頭のぽかぽかしたのんきなレイでそのままいってしまったような印象だった。あとはグロテスクな巨大な顔ばかり。この完結編ではゲンドウがほぼレイに気を遣うそぶりを見せずにユイの方しか見ていなかったので、レイはゲンドウがいなければこういう(ややテンプレ感があるが)素朴な愛すべき女の子だったのだろう。それが初期型とされているということは、今まで僕や一部のオタクたちを散々惑わしてきたレイとはいったい何だったのだろうか。この新劇場版のレイは、それまでのレイより「普通」であり、病的なまでに僕を惹きつけたりはしない。僕自身が変わってしまったというのが一番大きいのだろうけど、あの神秘的な綾波レイがいつのまにかいなくなっていたと認めざるを得ないことが惜しい。あのレイはもうkame氏とかの20年前の二次創作の中にしかいないのかもしれない(TV版と旧劇版は繰り返し観すぎた)。旧劇版でもマンガ版でもレイは最後にはいなくなる。そして今回の新劇完結編では、終盤はほぼ出番がなかった。本作の最大の欠点は個人的にはここだ。綾波をもっと出せ。シューティングゲームウルトラマンじみたアクションシーンは少しでいいから、あの髪の毛ボサボサ波とのエピソードに1時間くらいまわしてほしかった。僕のように感じているオタクはきっとたくさんいるだろうけど、今の時代にまた大量の二次創作が生まれるかはわからないし、僕もそれを読む気になるかどうかわからない。とりあえずボサボサ波のフィギュアくらいは出るだろうから、それでも買うしかないのかな。
 Qの時点でも強く感じられたので当時の感想にも書いたけど、廃墟と化した世界、怪物じみた大量の屍、暗くて荒涼とした人の少ない舞台は、旧劇版以降に膨れ上がってグロテスク化したオタク文化や僕たちの心の部屋の一端を象徴するものだと思える。今回の完結編もそんなグロテスクな映像のオンパレードで、庵野監督の趣味であろうウルトラマン宇宙戦艦ヤマトをオマージュしたかのようなカットもそういう気持ち悪さがあり、そこに悪乗りしたゲンドウとシンジのエヴァ初号機がマンションの室内や教室で取っ組み合いを行うのはようやるわと感心した。アウトサイダーアートに近いような病的なセンスが垣間見え、こんなプライベートな感覚を公衆にさらすのはさすがだと思ったが、それくらいはすでに旧劇で軽く踏み越えていたので余裕だったかもしれない。同じグロテスクでもツバメと書かれたぼろきれを抱きかかえたボサボサ波はまだ愛嬌があったのは、オタクに妄想のネタを残してくれた気遣いなのかもしれない。
 レイの代わりにシンジの前に現れたのはマリという意外過ぎる結末。実は先週に読み返すまで、マリがマンガ版の最後の番外編エピソードに登場していたことをすっかり忘れていた。7年前にマンガ版が完結した時、なぜ最後に謎の新キャラが登場したのか気になったはずだが、どうやらすぐに完結の感慨に押し流されて忘れてしまったらしい。新劇の序・破・Qではかすかに匂わせただけだったゲンドウやユイと同世代という設定もはっきりと描かれていて、エヴァの雰囲気から浮きまくった役回りもシンジとの埋まらない距離感も、今更ながらようやく背景がわかった。なぜ冬月にイスカリオテのマリアと呼ばれたのかわからないが、誰を裏切り、救世主となる誰を産んだか産むことにしたのだろう(あるいは裏切ることで産まなかったのだろう)。ミサトが槍を持ってネルフに突っ込むとき、「主は来ませり」と歌うもろびとこぞりてが流れた。それを支えたのがマリだったので、人類補完計画を裏切ってヴィレについたからイスカリオテと呼ばれたのだろうか。それだと単純すぎるか。ともあれ、マリとシンジがカップルになるとは到底考えられず(マリアということならシンジの母親のポジションなのかもしれない)、僕もマリにはあまり興味はない。
 今回マンガ版を読み返して改めて気づいたのは、ゲンドウは最後にユイと出会うが、LCLに還元されずに、ユイに看取られシンジの未来を考えながら、(リツコに撃たれた傷で)普通に安らかにこと切れるということだった。他はほぼ全員がLCLになってしまっていた中で、あれだけ人類補完計画にこだわったゲンドウがこのような最期を迎えたところにこのマンガ版の救いがあるように思えた。今回の新劇完結編では、ゲンドウが自分の生い立ちからユイとの出会いまでをシンジに語るところが一つの山場になっていた(下絵風のグラフィック演出も優れていた)。妄執に囚われた歪んだ中年男なのだが、考えてみればまだ旧劇版や破の時点で40歳くらい、今回の完結編では50代前半くらいだろうか(→コメントいただいた通り、TV版時点で48歳、Qとシンでは60代前半とのことでした)。新しい槍が来るとわかってあっさり人類補完計画を諦め、その瞬間にシンジと共にいたユイに気づいて、納得して電車を降りてしまったように見えたけどどうなんだろう。本人も散々苦しんだからもうお疲れさまということだろうか。LCLにはならなかったのか。ユイに会えれば補完しようがしまいがどうでもいいということか。これはマンガ版と近い終わり方なのだろうか。
 今回は誰が新しい世界で生き残り、誰がLCLになって消え、誰が普通に死んでしまったのかよくわからない。何度か観返せばわかるかもしれないが、それが必要なのは二次創作や妄想の設定のためくらいなのかもしれない。みんなそれなりに納得していたようだった。演出的には、あの赤い砂浜でシンジに見送られたアスカは生き残って、ケンスケに助けられて生きて行けそうに見える。長ければ14年間も一緒に暮らしてきたというケンスケとくっつくかはわからないし(もしくっつかなったら人形の被り物をしたケンスケは少し気の毒だが)、シンジを今はもう好きではないかもと言っていたのが本当かどうかもわからないが(村でも陰からこっそりシンジを見守っていたしなあ)、最後のシーンでシンジのそばにアスカがいなかったというのは、二人はもうそれぞれの人生を自由に歩んでいるということなのかもしれない。それともシンジがマリと二人で駆けだしたのは、アスカや他の誰かに会うためだったのだろうか。マンガ版では受験のために冬の東京にやってきたシンジが駅の雑踏で見知らぬアスカと出会う。アスカファンの人にとっては、アスカとは永遠に届きそうで届かないところに見え隠れするヒロインなのかもしれない。あの何度か寝がえりをうって太ももを見せつけるアスカ。シンジに素っ裸をさらす不機嫌なアスカ。旧劇のシンジならすかさず発電していたのかもしれない。これは素直に喜べないサービスショットであり制作者の意地の悪さが見えないこともないが、アスカが背負わされているものを感じさせるようで悲しさもある。アスカは着ぐるみのケンスケの横でたぶん気持ちのいい涙を流すわけだが、彼女にとって喜びであり安らぎであったシーンは描かれただろうか(ちなみに、マンガ版ではエピローグでの登場をカウントしなければ、加持が出てきてLCLになってしまうという微妙な終わり方だった)。あまり覚えていないが、赤い砂浜でシンジと別れたシーンか。それともシンジにひょっとしたら好きだったかもしれないとようやく告げることができて、その後で歩き去っていくシーンだろうか。どこかで画面には顔を向けずに喜びや幸せをかみしめることができたのかもしれない。
 演出的には、ミサトはどうやら戦死ということになる。正直なところ、それよりも本作では声優さんの声に力強さが戻っていたのが嬉しかった。新劇のこれまでの作品や関係ないCMのナレーションとかで三石さんの声を聞くとどうも衰えを隠せない感じがして残念だったけど、今回は決めるところはきちんと決めてくれていてよかった。とはいえ不憫といわざるを得ない生き様だったと思う。マンガ版でも早々に退場してしまった。きっと一番幸せだったのは加持と一緒だった学生時代で、後は苦しみに耐えながらがむしゃらに生きてきたのだろう(そしてそんな彼女を、自分勝手でシンジにも有害だった非難する声もよく聞く)。加持との子供を産むことができたのは嬉しかっただろうな。
 はっきり覚えていないのだが、レイは最後にアスカと同じようにシンジに挨拶して立ち去ったようだったので、新しい世界で生きていると期待してもいいんじゃなかろうか。そしてやはり最後のシーンでシンジの前に姿を現さなかったのは、これから現れるということでいいのだろうか。そんなことを考えるからいつまでもオタクなのだ。
 最後がドローンによる街の風景の実写で終わったことは、賛否の両方が可能だ。映画の手法としては古典的で、今では珍しくないのかもしれないがタルコフスキーのロングショットのようでもある。あるいはもっと卑近な例ではNHKのドキュメンタリー番組に近いのかもしれない。アニメではないことに、塗りこめられたアニメ絵の閉塞感に対する限界の意識を感じてしまう部分もある。でも、リアルな風景に疲れた目を休めるためにアニメで美しいものをみたい人にとっては必ずしも正解ではない。エヴァのアニメ絵が現実につながっている悪例として、エヴァストアみたいな商業イラストや広告ののっぺりしたキャラたちを見せられてきた経緯があるので、アレルギーができてしまっているのかもしれない。本作の終わり方は優れた映像処理方法だと思うけど、他の様々な可能性についても想像したくなる。
 エヴァは失われたけど、僕は手放したくない。「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」というキャッチコピーは、これまでのエヴァビジネスの前科からして、これから全力でエヴァとさようならしないために各種グッズやコンテンツを売りまくってやるぞという前振りにしか見えなくなっているが、とりあえず僕は映画館を出た足で向かった本屋でマンガの愛蔵版1~3巻を買った(あと乙嫁語りの最新刊も買った)。通常版のマンガの13巻と14巻にはいろいろおまけがついていて(貞本氏のおすすめ音楽CDという今となっては奇妙すぎるおまけも)、13巻についていたレイとアスカのホログラムカードが何気にきれいで先週も思わず魅入ってしまっていたので、愛蔵版のおまけもきっと思い出しては引っ張り出して見ると嬉しいものになるかもしれない。貞本先生がエヴァの呪いから解放されず、この先もずっとレイ(時々アスカも)のイラストを描き続けてくれますように呪っておきたい(あと、愛蔵版のサイン色紙のイラストは素晴らしかったけど、先生のサインには興味ないので次はサインをもっと小さく書いてください)。エヴァの物語は終わってしまったので、僕にはもうこういうものを集めるくらいしかやることが残っていない。とりあえずDVDが出たら買うけど、物語が完結してしまった今、そう何度も観返すだろうか。この完結編は、序盤は破みたいなのんきなノリで不安になったが(素朴なレイにも委員長ママにも素直に喜べなかった)、やがてQにあった暗さとグロテスクさを取り戻していったのが評価できる点で、その意味では観返す気にもなりそうだ。それでも終わりは一つしかないことがわかっている。
 ネットでレビューを漁っていたらそういえばと思い出したが、そういえば最後の駅のシーンで、向かいのホームにカヲルとレイがいたっけ。アスカもいたらしい。でもそれはまったく別の物語の予感がする。向かいのホームは三途の川の向こうほどにも遠く感じるけど、実際にはマリと階段を駆け上がってすぐにたどり着けるのかもしれない。他方でこれはシンジが見た幻だったという解釈もあるらしい。TV版1話冒頭のレイの幻と対になるものだそうだ。
 今回の作品を観終わったら、エヴァに対する僕の思い入れの残滓はLCLになって溶けて消えるような気がしていた。もちろんきちんと風呂敷をたたんだいい作品としての視聴体験は残るのだろうけど、もやもやしたものは消えてしまう。それはこんなふうに感想を言葉にすることも同じで、終わりを形や言葉にすることがはらむ不可避の作用だ。多幸感に包まれて何かに感謝している他の人たちの優しい言葉が躍るネットを見ながら、ああみんなLCLに還っていくなあなんて思ってしまうが、言うまでもなくそんな的外れの滑稽な感慨を抱くのは、僕がまだエヴァが終わったことをうまく受け入れていないからなのだろう。形や言葉はどうしたって取りこぼしてしまうものが出てくるのだから、それを自分の中で確かめればいいわけで、何も不安や不満を抱く必要はないのだけど。僕はエヴァに大きすぎるものを求めているのだろうか。たかだか2時間半、TV版からすべてを入れたって20時間くらいの映像娯楽作品に何を求めるのか。人類補完計画の物語なんていうものを本当に完全にやろうとしたらこんな時間や登場人物数では到底足りず*1、どこかでダイジェストじみてきたり、人間がモブキャラになってしまう。そもそも人間という限りある存在が描けるようなものでもなく、だからとことん狭い人間関係の描写にこだわったわけで、そんなふうに想像力を働かせないと世界を認識できないのは面倒くさい。
 とりあえず「僕はまだ綾波レイを忘れない」という呪いのような言葉を残して終わっておこう。僕にはがんばってもとりあえず7000字くらいしか書けなかった。気持ちとしてはその10倍くらいは書いてみたいのだが、どうにもならない。久々に2ちゃんのエヴァ板でものぞいてみようかな。(→やっぱりLRSスレは居心地が良かった。。僕は破のレイにも少し違和感を覚えているので、必ずしもスレの流れに同意するわけではないけど、何とか納得できる解釈を見つけようという人が集まっているのはよい)

 つづき

燦々SUN『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』


 いわゆるなろう作家によるなろう小説的な作品ということで、文章の質は低いしロシアネタもところどころ違和感があるけど、女の子をかわいく描こうとしているしイラストがきれいなので読み進め、読んでいるうちに最後の方はべたなラブコメ展開ながら結構楽しめた。特に最後のイラストを使ったシーンの見せ方は個人的に禁じ手を食らったようなもので、ここまでやっていいのかとちょっと驚いた。このシーンだけはオンリーワンの作品といえる。
 銀髪ロシア娘というのはたぶんファンタジーにおけるエルフのような非実在青少年だろうと思う。エリツィンとかソビャーニンみたいな銀髪っぽいロシア人も若い頃は髪の色が暗かったので、白髪の一種だ。歴史上では確かマリー・アントワネットとかの時代の貴族が銀髪のかつらを好んでいたはずで、知性と高貴さみたいなものの証だったのだろうか。したがって本来は西欧の宮廷貴族をイメージさせる髪のはずだが、なぜかロシア娘ということになっている。他方でブロンドは、若い娘の場合は現代の性差別の文脈では正反対(知性の欠如や尻軽)を象徴する髪色とされている。銀髪がロシア娘の髪色になることが多くなってしまったのは、オタクの象徴体系におけるロシアの占める位置に由来しているはずなので現実のロシアとはあまり関係がない(たぶん多くの日本人にとっては現実のロシアというもの自体が現実感の乏しい記号のようなものなのだろうが)。同様にロシア娘(例えばクドリャフカとか)が孤独だったり真面目だったりするのも現実のロシア娘とはあまり関係がなく、そのせいであまりセンターヒロインにはならないのだが、それなりにおいしいポジションだとみることもできる。ちなみに、ロシア人が作ったヒロインが全員ロシア人のエロゲーには銀髪の娘はおらず、ロシア要素を強調されたセンターヒロインであるスラーヴャという女の子は健康的に日焼けしたおさげのブロンド娘だった。
 もちろん、現実のロシア娘よりも非実在ロシア娘の方が可愛いし(比較するのが間違っているが)、この作品のアーリャも可愛い。銀髪ロシア娘の銀色の髪は現実には存在しない髪であり(染めれば出せる色だが)、その髪を愛でる描写を読むときに僕たちは幻想上の髪を愛でていることになる。中世の聖像画家が聖母マリアの髪を自らの幻想を込めて描いたように。滋養が乏しい文章なので続刊が出たとしてももうあまり得るものはなさそうだが、どこかで見たことがあるような話を聖者伝を読むように読んで楽しむことはできるのかもしれない。あと、何気にウラジオ出身というちょっと現実感を出せる設定があるので、機会があればうまく活かしてほしいが、あの町を幻想的な美しさにつなげるのはけっこう難しいような気がする。

上坂すみれさんの声と杏子御津さんの声

 初めてエロゲーを買ってしまった時、初めてアトリエかぐやのゲームを買ってしまった時、初めてフィギュアを買ってしまった時、初めて抱き枕カバーを買ってしまった時……。順番に並べるとだんだん下降しているような、あるいは上昇しているような感じがするが、そうした初めてのものたちの中に連なってしまうようなおののきがあった上坂すみれさんの音声作品杏子御津さんの音声作品
 素直に射精ですという言葉があるが、上坂ボイスで肩叩きされている音声で素直に射精してしまえるとはなあ。普通にマッサージしたり肩叩きしたりするときにあんな声でないと思うのだが、そこが暗黙の了解があって、あくまで健気な猫の女の子の話であって、最後にはちょっといい話風の設定も明かされる。でもあんな声なんだよなあ。どうしてもキモくなってしまうのであまり書かない方がよいのだが、上坂さんが知性派声優としてのキャラクターをうまくつくっているので(ラジオとか聞かないので僕が抱いている勝手なイメージだが)、演技における余剰部分としての吐息とかが予想外に色っぽかったときのよさがある(いわかける最終回の吐息にも聞き惚れた)。そのバランスが素晴らしい。大切なものを安易に言葉で包んでしまわずに、むき出しのまま聞き手にゆだねて差し出しているというか。むき出しといってもそれは技術であり技である。吐息はたぶん台本にも大まかな指示しか書けないだろうから、声優さんの本領が最も発揮される部分の一つかもしれない。アニメのキャラクターがいまいちだったり、セリフがいまいちだった時には脚本やビジュアルが悪いといえるが、音声作品の吐息が悪かったらそれは声優さんの演技が悪いということになる。とはいえ、そんなおまけの余剰部分でしか声優単独では評価されえないのだとしたら、声優というのはとても慎ましい職能であって、アイドルのように扱われているのは異常だと改めて思う。そういう声優というありかたの難しさも引き受けたうえでの全力の演技と、その結果としての作品におののくのは自然なことだ。
 杏子御津さんの18禁作品の方はさらに過激で、ほとんどエッチをしているときの喘ぎ声しかない作品で、しかも喘ぎ声は声優さん本人のアドリブだという。声優さんにこんな負担を強いていいものだろうか。買って聴いている僕もだが、制作した人もひどくないか。そういうぎりぎりを攻めるのが芸術なのだろうし、杏子さん(という区切りでいいのだろうか)もそこに芸術家としてのやりがいを見出したのだとしたら、僕はその挑戦を賛美してしっかり自慰するしかない。自慰するしかないというのがあまりにも情けないから、せめてこんな文章を賢者モードの今書いている。といってもこの作品、名称からして「【超感度】りえのNTRおま〇こに妊娠するまで連続種付け♪」という弁解の余地のないものなんだよな。これを僕は賛美している……。ほとんどが喘ぎ声なのだが少しはセリフもあって、そこから見えてくる「りえ」のキャラクターは特に魅力的でも好感を抱かせるものでもなく、ただの軽薄な欲望に流される女の子だ(でも情が移ってしまう)。ダメな設定部分と、ハードコアな喘ぎ声の部分の2極しかなくて地獄である(BGMもない。SEはもう少し控えめでもよかった)。単に杏子さんのほわほわした声を聴いてほわほわしたいなどという甘い考えは許されない。エロゲーの無駄な日常シーンは無駄ではないことが実感される。そもそも、僕の中で杏子さんの声のキャラクターイメージは「はつゆきさくら」の東雲希だ。他にもものべの(プレイ中)の夏葉とか運命君の梨鈴みたいな素晴らしいヒロインがいるしアニメでも多少なじみがあるけど、はじめに聞いた希ののんきでちょっと間の抜けたキャラクターのイメージをかぶっている。ところがこの音声作品はそんなのどかなイメージはなくて、でも声は杏子さんで、ハードコアなのだ。ハードコアといっても獣のように大声で喘ぐのではなく、だいたい押し殺した声なのが素晴らしい。セリフもだいたいは救いようのない下品な抜きゲー仕様なのだが、男性器を執拗に「ちんちん」と呼び続けるのは若干間の抜けた感じがして救いだ。エロゲーの喘ぎ声はシナリオが出しゃばらない純粋な欲望に近い気がして好きなのだが、みなさん声が元気すぎると感じるときもあるので、杏子さんが選んだ表現に正解を感じられたことが嬉しい。エロゲー的な喘ぎ声から離れたらAV、あるいは普通のセックスに近くなったとはいうまい。声で勝負する声優さんの技術の結晶である。文字にならない喘ぎ声の変化の中にストーリーの断片を感じる。エロゲー的な絶頂の絶叫は控えめなので、どこで絶頂するのか少し注意して聞いておかないと分からない。絶頂後は比較的さっさとシーンが終わってしまう。そういう緊張感も含めて、熱気と密度を感じさせる作品だ。
 ジャンルの進化というのはいつしか断片化して先鋭化して隘路にはまり込んでしまうことが多く、語りかけや吐息や喘ぎ声に特化したかのような音声作品にもその気配はある。でも個々の作品にとってはジャンルの運命などどうでもよく、その場限りの声優さんの最高の演技があるだけだ。十年先、二十年作にこうした作品はどうなっているだろうか。機材関係の技術はさらに発達して、いまの僕には想像もできないような体験が可能になっているかもしれない。でもこの上坂さんの声や杏子さんの声が消えることはないと思いたい。声は埋もれず、かき消されてしまう。吐息や喘ぎ声ならなおさらだ。そんなふうに形のないものだからこそ、いつかどこかで発せられた言葉にならない言葉として、形ではないものとして耳に刻まれる。

『天気の子』

 テレビ放映の録画を見た。せっかくなので何か感想を書いておきたいのだけど難しい。一番難しいのは、ストーリーやキャラクターの好悪というよりは、美術面のディレクションというか詩学のようなものだと思う。新宿を中心とする東京の風景があまりに写実的過ぎて居心地が悪い。特に作中に夥しく氾濫している様々な店やブランドの広告やロゴだ。僕たちの目は日頃から広告という視覚的暴力にさらされて傷ついていると思っている人間にとっては、アニメという物語作品に事あるごとに仕掛けられている広告は目の凌辱のようなものなのだが、それは新宿と舞台とする物語なら同時に自然な風景なので受け入れるしかなくて、非常に居心地が悪い。純粋な商業広告だけではなく、例えばJRの身近な駅の看板のロゴは通勤を思い出させてそれだけで疲労を与える。僕は通勤に新宿駅を使っているので反射的にそうなるだけで、地方の人とかならこの作品を見て東京の生活に憧れたりするのだろうか(それはさすがに地方の人に失礼な話だ)。ロゴや広告というのは原理的に目を引き付けるようにできていて、しかも個々のロゴや広告同士には何のつながりもなくバラバラなので暴力的だ。それはCMやテレビ番組と同様で、見られるために視覚的に配慮された情報であり、そのこぎれいな視覚的要素が他の「本質的」な要素に優先されていることが僕を苛立たせる(今回のテレビ放映ではCMも作品と連続したアニメ仕様になっていて地獄だった。なるべくスキップしたが)。普通のアニメとかでは実在の特定ブランドが分からないように処理されていたり、パロディになっていたりするのは、考えてみれば視聴者の目に対する優しい配慮だったということになってしまう。新海作品はなぜかその都市の風景の暴力性をむき出しにしてしまうのだが、スポンサーとかそういう商業的動機はそれほど重要でないレベルの成功を収めたクリエイターの作品なのだから、何かしら意味のあることなのだろう。それは新海作品の美術の無駄な(あるいは過剰な)こぎれいさにも通じているような気がする。刻々と色や形を変える空は確かに美しい。でも僕は古い人間だからか、100年以上前の詩で描かれたような空は美しいと感じても、新海作品の全く意味ない空の美しさは受容が難しい。まあ、こういう嫌味は今まで何度も指摘されてきたことなのだろうけど。話が逸れたが、新海氏には僕には見えていないものが見えていて、僕はそれを共有することができないのだろう。一番ありそうなのは、僕にとってこの風景の時代は同時代すぎて、しかもその同時代のうちでも僕にとってあまり居心地のよくない部分が切り出されているので不快感を覚えずにはいられないが、新海氏はこの風景に別のものを見ているということなのだろう。東京の風景は変わる。今の気分からは想像することが難しいが、20年後にはこの作品の新宿を見て懐かしくて泣きそうになるかもしれない。新海氏はそういう視点から、失われる予定の風景に何らかの思いを乗せて描いているのかもしれない。視聴後すぐの直接的な感想だからどうしてもこんな調子になってしまうが、時間を空けて僕の中で処理された後であれば別の言葉が出てくるのかもしれない。ついでに言っておくと、クライマックスでなんかおしゃれな感じの男性ボーカルの歌が流れ始めるというこのパターンも、トレンディドラマ(なんて言葉がまだあるのか知らないが、要はオタク的感性を逆撫でするものといいたい)みたいで好きになれない。

 以上の重大なノイズのせいでこの作品の魅力に気づくのはけっこう難しくなってしまっているのだが、終盤で不快な東京の風景が消え、水没した空想上の東京に切り替わると、少し居心地は良くなった。おとぎ話から日常に帰るのではなく、日常がおとぎ話に変容するという転倒した構成は気が利いていた。本当はあの後の物語こそが見たいものであるはずだが、作中で実際に見せられたものの大半は極めて散文的でストレスフルな東京の生活と、どこかで見たようなキャラクターやストーリー展開(小粒化した秋山瑞人作品風)だ。考えてみれば、僕は時代の内側の人間であり、主人公の少年に同化しすぎてしまっているのかもしれない。作中で描かれた常に雨が降る東京の風景は、僕の精神状態を誇張してデフォルメしたものなのかもしれない(そもそも創作物における雨は定番の内省用装置だが)。晴れは垣間見ることしかできない。晴れ渡った天上の草原には、夢の中でしかたどり着けない。美術がこぎれいだからこそ、「本当」はもっと無条件に美しい世界がどこかにあると夢想してしまう。それはそれで悪いことではないけど、目の前にはこの不愉快でこぎれいな現実しかなく、それは基本的にはどこかで見たような物語で乗り切るしかないのだろうか。

 かつてAirKanonを通過して夏や冬の空気や景色に新しい情感を見出せるようになったように、この作品を見たおかげで東京の風景を少し受け入れらるようになるだろうか。よくわからないけど、少なくとも今の時点では、いわゆる聖地巡礼はありえない。あったとしても若干ひねくれたものになる(これが40過ぎのおっさんが書くことか、と我ながら戦慄…)。でも、こんな形で反省させられたのは、この作品が東京とその空と住民というある程度大きな塊をおかしな切り口で描いた物語だったからだと思う。空虚であることである種の存在感を獲得するのが新海作品、という評価が適切かどうかは僕にはまだよくわからないが。

 我ながら芸がないが、最後に声の話をしておこう。ヒロインの陽菜の声がぼんやりした感じなのはよかった。くぐもった彼女の声はこの雨の世界にふさわしい。僕らの耳を優しく閉ざしてくれる。そして、いつか突然やってくるつかの間の晴れを夢見させてくれる。

『神様になった日』

 作品としての品質の問題はいろいろあるが置いておいて(ひなとの日々はそんなに楽しくなかったように思われるし、「ひと夏の思い出」って他の言い方ないのかよと思うし、Airの後継だとか鬱ゲーやバッドエンドの美学だとかいろいろ言えるのかもしれないが)、作品外の文脈に大きく依存する作品だと思う。
 僕以外には全く必要のない情報で恐縮だが、結婚してよかったなと思うのは、例えば、休日とかにお互いに別の部屋にいて静かに過ごしていて、時折手を打ち鳴らして相手がいるか確認すると相手も手を打ち鳴らして応答するというようなとき、あるいは用はないけど単に顔を見に行って、5秒くらい一緒にいてまた戻るような、まったく意味ないやりとりがうまくいったときだったりする。恋愛とか大げさなものではなく、単に知っている他人の存在のぬくもりを確認するだけのような瞬間だ。あるいは、運動不足を解消するために腕立て伏せをやろうと思い立ち、妻に下に寝転がってもらって伏せるたびにキスするようなシステムはどうかと提案して無理やりやろうとしてお互いにドン引きして大笑いするような、何もないところから笑いを作り出せた瞬間だ。他人との生活はストレスフルだけど、そういう瞬間もある。最近では妻は僕が手で足裏マッサージをしないと安眠できないので、かなり面倒くさいがマッサージがそういう瞬間の契機になっている。
 そんな小さくて静かな幸せはいつ失われてしまってもおかしくなくて、その不安を抱えながら生きていても奪われる時には決定的に奪われ、奇跡は起きない。それは震災のような災害かもしれないし、大切な家族を襲う死や、生まれてくる子供の知的障害のようなものかもしれない。我が家はお互いに危なっかしい人間なのでそのような喪失の影が空気に漂っている気がする。喪失の痛みを描く物語は多いけど、それを奇跡やハッピーエンドでうやむやにせず、痛みのまま残すことで視聴者に与えられる傷もある。そうして受け取った傷の理不尽さは、その作品内で埋め合わせすることはできなくて、視聴者が自分の生活のどこかで埋め合わせるしかない。こんな話は求めていなかったのかもしれないけど、ひなを介護しながら車椅子を押す日々の厚みに思いをはせてみることは、この結末でなければ難しい。これを覆すような後日談や続編は必要ないように思う。この物語を見続けることは苦痛になりそうだけど、心のどこかにしまっておくことはできる。

滝本竜彦『異世界ナンパ』

異世界ナンパ 〜無職ひきこもりのオレがスキルを駆使して猫人間や深宇宙ドラゴンに声をかけてみました〜(滝本竜彦) - カクヨム

 165話の発表から1ヶ月以上経っているが、ライブとかあるので一休み中ということらしい。この直近のオークや闇の女神が出てくる話のあたりから、いわゆる燃え展開のようなインフレ異能バトル物になってしまって、小説としての面白さは薄れた。それまで偶発的に発動してしまったり後発的に獲得してしまったりしていた「スキル」を意図的に使いこなせるようになった結果、普通のなろう小説っぽくなってしまったというのがあるし、女体化した主人公が……という展開に引いたというのもある。来年1月に第三部「現世編」連載開始ということらしく、果たしてまた面白くなるのかは分からないけど、少なくとも途中までは滝本氏らしい丁寧や自己認識描写や文学功利主義やユーモアが楽しい小説だった。それにしてもこの投げやりな作品名よ……。まあ、18世紀以前のヨーロッパ文学はこういうのばっかりだったから(19世紀以降はどちらかというとパロディネタになった)、日本の大衆文学が文学的伝統に回帰したみたいで面白いけど……。
 以前の『ライト・ノベル』の感想では、「これが究極の答えであり、滝本氏がもう何も書かないというのなら、この作品を何度も読み返して何かを掘り当ててみたい気もするが、もっと「よい」次の作品を書くというのなら、そっちのほうが楽しみになってしまうのかもしれない」と書いたが、そうして発表されたのが今回の作品だと考えるなら、今回はもう少し読み物としての面白さ、読書体験の面白さに立ち返りながら、セラピーとしての小説に挑戦したということなのかもしれない。分かりやすい読み物になっている分、『ライト・ノベル』より間延びした感じがする。最後のオークや闇の女神のあたりの展開はその方向性からは逸脱したように見えるが、これも今後の展開やまとめ方次第なのだろうか。もし、このまま更新がなく中断されたままだったとしても、それはそれで面白い気もする。主人公はインフレの果てに設定を抱えすぎてパンクして死んでしまい、結局、ナンパで物語を回す必要はあったのだろうかというメタ的にも虚無なエンドだ。そもそも、ナンパの修業を終えて無事に強くなった主人公を見て、それでハッピーエンドで面白いだろうか。そんないにしえの宮台先生的な強迫観念から逃走するのが滝本氏のスタート地点なのではないのか。その先に向かうのがセラピー文学だけというのが滝本氏の答えなら、そうですかと納得するしかないし、それだけではないと期待させてくれるならありがたい。そんな貧しい読み方になってしまうのは半分は読者のせいなのだろうけど、今回はお気楽な読み物風の作品だから短絡化もされやすい。エンディングが悩ましいのは滝本作品の宿命なのだろうか。

初音ミクさんのフィギュア

 思い立って久々に秋葉原に行ったら、歩行者天国が復活してて賑やかだった。
 先日、マルセルさんにPCの相談をしていた中で話題になった「ランスⅨヘルマン帝国」を買った。近年は中古エロゲーショップがどんどんなくなり、ネット通販を使わないなら、わざわざ秋葉原までいかないと見つからないものが多くなった。ロシアが元ネタにあり、音声付きで、恋愛要素もあり、攻略もそれほど面倒ではないということらしいので、そのうち手をつけてみたい。ランスシリーズはシステムも嗜好も自分には合わないことが分かっていたので手を出してなかったが(あるいはママトトのように挫折した)、この作品だけならひょっとしたら楽しめるかもしれないと期待している。
 あと、『ボクは再生数、ボクは死』を読んだせいか、久々にフィギュアを買いたい気分になってしまい、ある程度目星をつけてみてきて、初音ミクさんのを2つ買ってしまった。一つはなぜか最近石川センセが何度もリツイートするので刷り込まれて気になっていた中国風ミクさん。買った後に調べたら、デザイナーがメロリリのイラストの人だったからリツイートされていたのだった。確かに楽しげな色合いとフォルムにメロリリ絵的な可愛さを感じられる。ヌードルストッパーだそうだが、僕は最近はカップ麺を全く食べなったので普通に飾ることにする。写真はベールイの『受洗した中国人』を背景に適当に撮ったけど、残念な出来になっている。

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 2つ目はこれからの季節にいいかなと思った冬服のミクさんだ。色合いやポーズや表情が気に入ったので買ってみた。リニューアル版という色違いがもう少し安く売っていたけど、こっちの方が色は好き。ベールイの『吹雪の盃(第四交響楽)』を背景に写真を撮ってみたけど、やはり残念な出来だ。

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 昔少しフィギュアを集めていた時は綾波レイのものが多くて、これは彼女の存在形式にも合致しているので納得して買うことができたが、会心の出来のものはなく、もともとプラグスーツのデザインがあまり好きではないのでいつしか飽きてしまった(それでもプラグスーツ綾波が僕の本棚のあちこちに腰かけているのは落ち着く風景だ)。あとは最近は眺めるのを忘れていたが、パチュリークドリャフカ月宮あゆは出来が良かったので思わず買ってしまったものがあるが、これもけっこう思い出深い子たちなのですんなり楽しめる。
 初音ミクはそういう物語的な設定がなくて(二次創作にも興味はなくて)、そういう愛着を抱けないフラットなキャラクターなので、フィギュアを買ってみても造形的な可愛さ美しさを愛でるしかないので、自分には縁がないと思っていた。ところがいざ何かフィギュアを買いたいなと考えると、自分が何らかの思い入れを持ってお迎えできるようなフィギュアはもはやほぼ存在していないことに気づいた。自分が興味を抱けなかった、あるいはほどほどにしか楽しめなかったアニメやマンガのキャラクターはフィギュアとしてはほどほどというよりはマイナスなので買わない方がよく、それならば物語性から解放されているミクさんの方がマイナスではなくゼロなのでましだし、『ボクは再生数、ボクは死』のように結局造形や表層を通してしか愛せないということを受け入れてしまうのも楽だなという気にもなる。初音ミクのようにシンボルとして拡散しすぎると、消費する側の欲望が窮屈に方向づけられず、旬を過ぎたころに一人でひっそりと愛でることができる気がしてありがたい。やはりフィギュアは一人で楽しむものであり、無言で見つめたり見惚れたりするための何かであり、フィギュアの方も何らかのポーズや感情を表したまま無言でそこに存在し、ただ見られるだけの何かだ。人は「純粋に見る」なんていうカントやギリシャ哲学じみたことはできないから、見ているときには何らかの雑念がいつも生じているが、その雑念は自由であればあるほどよく、頭をほぐしてくれる。初音ミクという余白の多い存在は優しい。
 家人がフィギュアやオタク文化に理解を示してくれないので、自分を鼓舞するために屁理屈をこねてみた。あと、安かったのもいい。こんなに可愛いフィギュア(未開封品)が2つで2200円だった。15年前から何の成長も(衰退も?)ない気がするが、わざわざ秋葉原に行った甲斐があった。

石川博品『ボクは再生数、ボクは死』

ボクは再生数、ボクは死

ボクは再生数、ボクは死

 FPSもオンラインゲームもVチューバ―も経験ないのでぼんやりとした印象になってしまうのがもったいないけど楽しかった。僕の知っているものでたとえるなら、『アバタールチューナー』の小説版とか『順列都市』のような仮想世界にどっぷり浸る感覚の小説だ。主人公が忍だから『最果てのイマ』も思い出される。今はアニメやラノベでこういう設定のものが溢れかえっているけど石川センセが描いてくれると自分も安心して楽しめるみたいで、何度も笑いながら一日で読んでしまった。その後で満月の光を浴びつつ久々にジョギングしながら、何か感想で書けるようなことがあるかなと思い返す時間も楽しくて、気づいたらジョギングも終わっていたけど、特に何かすごい感想を思いついたわけでもなかったのだった。

 この作品の舞台である2033年頃にはたぶんこんなvipper語やニコ動語のような言葉は廃れているだろうし(すでに今もニッチなような気もする)、ITも電子機器も今からは想像できないような方向に少し進化しているだろうから、この作品で描かれているような2033年は滑稽などこかの的外れな未来、ありえない並行世界でしかないのだろうし、この作品を読んだ僕自身が2033年にはもう中年というよりは初老に近くてVRセックスにもVR空間にもまったく関心を持てない枯れたおっさんになっている可能性があるのだけど(というかすでに枯れかけている)、それだからこそこの作品の言葉を残しておきたい:

「この景色をきれいだと思う気持ちは何なんだろう。この気持ちはどこへ行くんだろう」
「ただ消えるんだよ。消えて、けっして戻ることはない。どれほど待ってもね」
 それをことばで表したところで、きらめきを留めておくことはできない。ボクとツユソラの間で交わされたことばも、僕の目や耳や窓やコメント欄を通り過ぎていったことばたちも、刹那、波が砂に跡を残すように、ある心の動きを象って、また解けていく。長く残ることなどない。それがいまのボクには救いだった。いつかこの世界のdpi(解像度)もFPS(フレームレート)も回線速度もあがっていくだろう。だがいまはいまがベストだ。海も空も風もとなりにいるツユソラも、いまがいちばんうつくしい。この先に残された時間など、いくら永かろうと意味がない。

 あとこの作品のネットスラングやユーモアにこれだけ笑えた自分がいたことも覚えておきたい。

 自分のオタク活動のルーツの一つに、昔vipスレで深夜にアニソンやエロゲーソングをネットラジオで延々と流し続けて、スレで歌詞を実況したりリクエストしたりする人たちがいて、僕もwinampか何かでその歌を聴きながらラジオを録音してCDに焼いたりしていた体験というのがある。2004年くらいだったかな。これと泣けるエロゲースレとエヴァ板とはてダコミュニティが僕のオタク学校だった。特に優れた学校でもなく、自分では書き込むことも少なかったから、ひっそりとした教育だったし、美しい思い出でも何でもない。でもそうやって手探りで何かを求めていた時期があるからこそ、この作品がみせる儚い夢に共鳴できるのであり、その後のエロゲーマー活動も含めて現在に繋がっているのだから、何かの意味はあったのだといえる。シノはいつしか忍にとってもVR世界の他の住人たちにとってもそれほど美しい無二の存在ではなくなっていくのだろうし、ツユソラがbotになってそこらに溢れかえってしまうという結末は残酷だ。最近はpcのスペック不足らしくてハチナイにログインできなくなってしまい、息抜きはゼリンスキーのギリシャ神話物語を読んでいることが多いのだが、2500年経っても人の心を動かす物語と、数年どころか数か月で風化してしまいそうな美しさがあって、その間で立ちすくむ。
 エンディングでオフ会が描かれるが、オフ会って本当に必要なのだろうか。認識に不可逆な変化が生まれてしまうのだから、現在が大事なのならオフ会は開かない方がいいような気もするけど、そうやって人と会ってみて何かを得て何かを失いたくなってしまう。オフ会のことに限らず、誰もが今いるその場で永遠にとどまっていたいのに、可能性や選択肢を潰しながら進んでいくしかないと考えるのか、それとも可能性や選択肢を広げるために進んでいくと考えるのか、いまだに戸惑うことが多い。そういう戸惑いを突き放さず、寄り添うどころか美しいものに昇華してくれる作品だと思う。

アイドルの時間

 10月に始まったアニメ「ラブライブ」は絵の水準の高くてそれだけで素晴らしいのだが、いい加減にこれだけ女の子たちが歌を歌うアニメを次々と見ると、アイドル物は苦手といってもさすがに楽しみ方がわかってきてしまう。
 そこで何となく読み返してみた『メロリリ』に初読の時とは違ったよさを見つけたというか、初読の時にはぼんやりとしかわかっていなかったことが割とクリアに見えてきたように思える(文章のキレの良さは再読時にも十分に堪能できたが今回はわざわざ書かない)。ミュージシャンというのは生き方であって、歌っていないときもミュージシャンだという見方があるけど、やはりミュージシャンは歌っていないときはただの人であって、舞台の上で歌うことで変われるからその魅力に憑りつかれてしまう。そういうミュージシャンのなかでもとりわけ魔法のような存在がアイドルなのだというがこの小説だ。何しろアイドルは別に音楽の技術を極めたプロフェッショナルなのではなく、技術的には中途半端なミュージシャンであり、その持たざる者としての強さや美しさを愛でることになっている。その意味でアイドルはロックやパンクと相性が良くて、この物語でも例えば歌を歌わずにひたすら観客を殴っているアイドルがいるのもうなづける。
 魔法は舞台という装置がないと発動しない。だからどの魔法も一期一会のものだ。石川博品作品では、抒情的逸脱の箇所では「過ぎ去っていく何気ないこの一瞬」を静かに惜しむ描写がとても多い。大切なもの、美しいものはいつも僕たちの元から消えて行こうとしており、惜しむことはおしとどめるための呪術的な仕草でもあるが、本当はむしろそのような感傷が出てくる前の普通の描写こそが惜しまれないからこそ一番美しい時間であるという仕掛けになっている(その仕掛けはラブライブにもたくさんあるのだろう)。
 それはモラトリアムの時間であって、今の僕はモラトリアムなんていう言葉について何か言うのは犯罪とされるような年齢になってしまったと思っていたが、人生における転機なんていうのは若いときだけなのではない、惜しむことができるのは若さだけではないということに気づいて、おっさんになっても(主観的には)甘い時間をけっこう楽しめてしまえている。
 それは例えば、子供ができるかもしれないということだ。夫婦二人だけの静かで気ままな生活がもうすぐ終わるかもしれない。何十年後かにそんな時間がまた戻ってきたとしても、それは今のこの時間とはたぶん違うものだろう。家族が増えるかもしれないという未来を夢みる楽しさとは別に、この今の生活を惜しむ気持ちがあって、僕とはだいぶ違っているだろうけど妻も彼女なりに惜しんで泣いているのが嬉しい。彼女は精神的に弱い人間なので、これから負わなければならない責任を想像して早くも打ちのめされているということもあるが(最近さらに僕への依存が強まっている)、そのことを互いに知っているということも含めての甘い時間だ。そしてこういう感傷は授かるかもしれない子供には直接的には何の関係もないことであって、本人も僕たちの感傷を押しつけられても迷惑するだけだ。
 変わることができるというのは幸せなことなのだと思う。こじつけ気味だが、アイドルはその幸せのメタファーなのだ。