劇場アニメ雑感:『リズと青い鳥』のことなど

 『負荷領域のデジャヴ』、オカリンと牧瀬氏のラブストーリーだったなあ。90分という限られた時間できれいにまとまっていて、この二人がお似合いの二人だということを改めて認識した。オカリンは本編とゼロでさんざん苦しんだ姿を見せていたので、この作品でもまたそういうのばかり見せられ続けたらこちらが疲れてしまうところだったけど、そこは軽めにして牧瀬氏が中心の進行に移ったのがよかった。ヒロイン中心の方が当然目は喜ぶし、声優さんの熱演もよかった(凶真憑依のシーンも面白かった)。劇場用に作られていたからか、花とか街並みとかの背景カットの入れ方とか間の取り方とかが贅沢なシーンが多かったのも目に優しくてよかった(キャラクターの顔とかはテレビ版とそんなに変わらなくてもうひと頑張りほしかったが、画面構成がきれいなシーンが多かったのでこれでよかった気もする)。そのせいか画面が暗めの色調になっていることが多かったが、この二人にはたまにはそういう落ち着いた感じもいいと思う。2005年で一つだけ小さな改変をするというその仕掛けのささやかさも、ゼロの「相互再帰マザーグース」みたいな優しさを感じてよかった。総じて、シリーズで最後に観たし、これが正史でもいいよというくらいには心地よい作品だった。
 画面が暗いといえば、こちらは感想を書きにくいのだが、『涼宮ハルヒの消失』も暗かった。こちらも背景が素晴らしいアニメで、間の取り方とかアニメシリーズで京アニの演出を楽しんでいたあの頃をすぐに思い出せてよかった。正直なところ、こちらは話が今の自分が楽しむには陳腐化しすぎていると感じたが、絵については滋味が高いシーンが多かったと思う。京アニがすごいだけなのかもしれないが、最終兵器彼女イリヤの空のアニメを観ていると、背景については2000年代後半にそれ以前と断絶するほどの大きな進化があったように思う。
 と書いたが、『イリヤの空、UFOの夏OVAの3巻と4巻を観たら、凝った絵が多くて感心してしまった。解像度が低いのが残念だけど。正直なところ、そこまで期待していなかったけど、結構楽しんでしまっている。ちなみに、好きなシーンの一つは、OPの最後にイリヤの長い髪の先の房のあたりが空中で気持ちよさそうに滑らかにうねるところだ。概してOPは素晴らしいがこのシーンはいつも目が吸い寄せられる。イリヤがこんなふうに風を受けて自然体になれるような話は本編ではついぞなかったので、せめて髪の毛だけでも気持ちよさそうに泳いでいてくれ。
 『リズと青い鳥』も観た。のぞみを映す視線はみぞれの視線で、機嫌がよさそうなのぞみが次の瞬間に何をするのか、何を言い出すのか、息をひそめて見守っているような緊張感がある。緊張感がありすぎてホラー映画のようになっている。のぞみはただの気のいい女の子のはずなのだが。冒頭の二人が合流して部室まで歩いて行って朝練を始めるまでのシーンが、何気ない日常のはずなのに、それを「何気ない日常」の記号として描いていなくて、次の瞬間に崩壊するかもしれない繊細なバランスの上に成り立っている一瞬の連続として描かれていて緊張する。そういう緊張はその後もたびたび出てくる。二人はなかなか言葉を交わさない。意味のある言葉を交わさず、言葉は意味をかわすために発せられる。何か決定的な言葉が発せられてるのを待っているような、でもそんな言葉は発せられてほしくないような瞬間が続く。のぞみに比べるとみぞれを映す視線は安定しているかもしれないが、みぞれ自身は安定していないので美しいものを鑑賞させていただいているような気になる(うがった見方で振り返るならば、それがみぞれを見つめるのぞみの視線だということもできるかもしれないが。それともりりかの視線だろうか)。だけど、ここまで書いてみたことはことごとく間違っているかもしれない。極論めいたことをいうと安易な決めつけになってしまうけど、この作品では意味が定着していないしぐさやカット、記号的にパッケージ化されていないしぐさやカットがたくさんあって、「解釈(言語化)」しようとするとすぐに揺らいでしまうような繊細さと緊張感に満ちている。みぞれの気持ちを言語化してみても、「のぞみ……」とか「のぞみっ!」とかみたいな超意味言語にしかならないだろう。観る者は視覚情報を「解釈」しようとする欲望からは自由になれないけど、もう少し意識をあやふやなまま泳がせておいて、繊細な絵をひたすら眺めて解釈の揺らぎを楽しみ続けるということをしてもいいような気がしてくる。タルコフスキーソクーロフの画面をぼんやり眺めているときみたいに(この2人を安易に並べてしまうのは雑すぎるか)。この場合、ぼんやりと眺めるのはロシアの重くて暗い幻想ではなく、こちらが成仏してしまいそうなほどの美少女たちの楽園なのだが。さっきはホラーと書いたのに楽園になってしまった。最後にのぞみはみぞれに何を伝えたのだろうか(解釈したがることから逃れられない)。のぞみは後頭部しか描かれていないので、常識的に解釈すると、のぞみがどんな顔をしているか想像させるカット、あるいはのぞみの顔は重要ではなく、それを見て表情を明るくするみぞれの方に注目すべきカット、つまりのぞみ視点のカットということになる。みぞれはこれまでで一番明るく、嬉しそうな表情を見せているが、セリフは聞こえてこないので何があったのかわからない。これまでの流れでは言わなかったような、あるいは想像できなかったようなことをのぞみは言ったのかもしれない。僕たち視聴者は、みぞれが喜びそうな何通りもののぞみの言葉以前の言葉や表情以前の表情を想像して楽しむことができる。そういう詩のようなシーンがたくさんあった気がする。またいつか見返したい作品だ。

 最後に剣崎梨々香についても。彼女にとって魂の一日だったプールの日が一瞬で終わってしまったのは笑えたが、先輩後輩関係について思い出させてくれるキャラクターだった。ここで唐突に自分語り。たまたまなのか分からないけど、僕の場合も先輩たちに対する畏怖や憧れのような感情を抱く体験をしたのは高校の部活だった。1学年上の部長は華奢な美少年タイプの人で、副部長も背はそれほど高くないけどもう少しがっちりした体格で、進学校にしては珍しく、こちらは力を持て余したヤンキーみたいなところがあった(失礼な言い方になるが顔も関西のコメディアンぽかった)。部長のポジションは左サイドバックで、これは基本的に子供の頃はうまくない子にあてがわれるあまりのポジションのイメージがあり、僕の学年でも地味な子たちがやっていた。相手チームの花形である右フォワードなどに振り回されるやられ役のポジションだ。しかし、部長が目の覚めるような鮮やかなプレイを連発し、バックなのに相手のフォワードを翻弄するのを見てイメージが変わった。南米的なリズムや欧州的な体力でサッカーをするというよりは、一瞬で決着がつく真剣の立会いをみているようなところがあり、バックがやるには危なっかしい気もするのだが、勝つのはいつも部長だった。一つ一つのタッチがサッカー選手らしくない無防備さであり、でも実はそれは罠なので突っ込んでいくとかわされる。取れそうで取れない不思議な間のプレイスタイルだ(右利きなのに左サイドバックだったことも関係している)。やられ役のはずが気づくと一番美しいプレイをしていた。当時の僕の印象が強烈だっただけかもしれないが、後年、テレビなどでプロのプレイを観てもあの時の部長のプレイの美しさを上回る選手をみたことがない。一つだけ近い印象を受けたものを挙げるとすれば、今となっては記憶が曖昧だが、井上靖の『夏草冬濤』か『北の海』に出てくる先輩だった(この話は前にも書いたかも)。澄ました優等生のようでいながら結構すさんだところもあるような人だった。副部長のポジションはセンターバック。センターなのでサイドバックほどあまった人用というイメージはないが、こちらも相手チームの花形であるセンターフォワードを抑えなければならず、しかもサイドバックとは異なり基本的にオーバーラップして攻撃に参加することはほぼ許されず、ひたすら守りに徹する苦労人のポジションだ。それをいささかヤンキーじみた攻撃的な人がやっていて、ときどき手を抜いているようにみえながらも危なくなると爆発的な瞬発力をみせるのは頼もしかった。プレイスタイルはしなやかな豹をイメージさせるもので、部長と違って不思議な間を使うことはなかったけど、やはり僕とは違う次元にいることが感じられた。そして梨々香こと僕(唐突な女体化ごめんなさい)。サッカー部は公立の進学校ながら3学年合わせて50人以上いるような大所帯で、結局最後までレギュラーになれなかった僕は、左足をうまく使うようなこともできず2軍のサイドバックとかボランチを中途半端にやっていて終わった3年間だった。そんなわけだから部長たちとの接点などないはずなのだけど、僕がぼっちぎみの優等生キャラだったからか、ポジションが近かったからか、数人のグループでパス回しをする練習の時などに部長と副部長がよく僕に声をかけて混ぜてくれた。僕もなんとなく先輩たちの近くにいて、声をかけてもらうのを図々しく中途半端に待っていた。今考えるとなんで声をかけてくれていたのか謎だが、当時は僕も10回に1回くらいは美しいプレイを決めることができ、他のうまい人たちとは違うリズムを持っていたからだとうぬぼれていて、その自信は確かに僕の実力の向上に役立っていた。りりかと違って一緒に練習する以上のことがあったわけではなく(そういえば体育祭の準備チームでも部長と一緒で、一緒に授業をさぼって大工仕事をしたりした思い出とかもあるけど長くなるので割愛)、僕がこっそり憧れていただけで終わった高校時代だったけど、りりかの気持ちはわかる気がする。2つ上の学年にもすごい人たちがいたけど、体格とかが違いすぎたし半年足らずで引退してしまったので、どちらかというと神話的な霊獣のような存在だった。1つ上の部長たちは身近だった。りりかたちの吹奏楽部も大所帯で、パート練習とかあるのをみると、同じグループの先輩に憧れられるような人がいるのは幸せなことだと思う。りりかはインディアンの酋長のような奇妙な髪型と着崩しをしているのだが、そういうまだ何者にも定まっていなくて浮ついた自分が、無駄なく研ぎ澄まされた先輩たちに惹かれていく。先輩に近づくのは緊張するし怖い気もするけど、その光というかエネルギーを少し浴びてみたくて吸い寄せられる。そんなインディアンもいつかは先輩にならなくてはならない。先輩に憧れる後輩でいられる幸せな時間は一瞬だけであり、そんな一瞬の理不尽な美しさを描いている作品だった。

 たまたま劇場用アニメ(一部はOVA)を連続して観たことになったけど、どれも間の取り方とか背景美術とか視覚的な処理とかが新鮮に見えたシーンがたくさんあって、自分がいつのまにか(ニコニコとかで観る)テレビシリーズ用アニメを観すぎてそのフォーマットに毒されていることを気づかされた日々だった。いやあ、映画って本当にいいものですね…

夏色キセキ

 監督が「王道」的な物語にすると言っていて、確かに王道という言葉でイメージできるようなバランスの取れたいい話になっているのだけど、もちろんそれだけではなくて、なんというか仲良し4人組の女の子たちが共有する濃密な空気みたいなものが満ちていて、そこがこの作品が愛されている理由なんだろうなと思う。技術的なことはよく分からないので単なる印象だけど、切れのある演出とか絵面とかがなくても、これだけお互いのことを考えたり見たりしている4人組の夏を12話かけてじっくり描くというのは贅沢なアニメなのかもしれない。女の子の数がもっと多かったり、もっと引き延ばされた終わりのない日常を描いている作品は他にもたくさんありそうだけど、1人が最後に別れることを前提にした4人だけの夏は、わりと淡白な絵柄だけどとても濃い。実際はそうでもないかもしれないが、あまりサブキャラがなくて、ずっと4人の声ばかり聴いているような没入感がある。声だけのせいではなくて、アニメ的なガジェットとか、派手なアクションとか変身シーンとか魔法シーンとかなくて、視覚的なファンタジー要素は地味な石が光るだけのシーンしかないので、視聴者としては4人の女の子との顔の表情とか手足の動きとかを見るしかなくて(例えば、夏海と紗季、優香と凛子がくっついてしまうエピソードでは、地味な追いかけっこが長々と丁寧に描かれていて4人の身体の動きが記憶に残る)、そうしたストイックな女の子鑑賞作品であることが没入感を高めている。そして4人の女の子の絵がやはり地味に可愛くて、少し力を抜いてずっと見ていられる心地よさがある。例えば分かりやすいところでいえば、OPにおける紗季のこの表情が印象に残る。紗季は髪の毛のボリュームがあって少し重たい印象がある女の子なのだが、それが風で持ち上がりかけていることや、大人になりかかって生き方を考えるようになる中でふとぼんやりどこかを眺めているような一瞬の表情に目を奪われる。EDでは終盤に一瞬挿入される凛子のこの表情がよい。単に不思議系の女の子の真顔というわけではなく、この年齢の等身大の女の子が今現在も何かを見ているという強さというか余裕のなさというか、むき出しな一瞬を感じる(むき出しといえば、この凛子の姿勢とか顔の丸さも印象的だ。うまく言葉にできず自分でも何を言っているのかよく分からないが)。どれも一瞬のカットであり、抜き出した絵単体というよりは、前後との文脈の中での差異としても印象に残る。例えば、上の凛子のアップの顔はなんかゴロっと生で置かれるような挿入のされ方をしていて、むき出し感が高まっている。ちなみに、EDは改めてみると4人の部屋の順番に移していくカットとか、アスファルトに映る走る4人の影が変わっていく様子とか、4人を間接的に描く細かい演出がエモーショナルで面白い。もちろん本編にも改めてみればそういう一瞬がたくさん見つかると思う。一つ一つ挙げていく気力はないが、不思議なストーリーが、終わりに向かっていく焦燥感を微かに感じさせながらも、概ね毎回優しく終わるのもよかった。例えば、お化け屋敷を探検するエピソードは、シュタインズ・ゲートというよりは(最終話はさすがにシュタゲ風味を感じたが)、温かいオカルト話「きよみちゃん」を思い出した。
 個人的にはやはり紗季の表情と声が一番印象に残る。大人になったらきつめの美人になりそうな女の子で、既に落ち着いた表情とか物憂げな表情とかお母さんじみた物言いとかもするけど、まだ中学生なので丸さや幼さも残っていて不安定で絶妙なバランスになっている。第1話でかなり尖ったところを見せていたので、その後の友情にも常に陰影がついていたようでよかった。あと、八丈島に行くエピソードで透明になって全裸でうろついていたのも素晴らしかったし、小学生の自分にヌンチャクで殴打されて痛がっているのも可愛かった。4人のリーダー的ポジションにいない子が一番複雑に描かれていて、彼女がきっかけのエピソードが多かった。そのせいか不思議なバランスのとれた4人組になっていて、この感じこそがキセキだった。「終わらないものは思い出になってくれない」と言ってループする夏を終わらせようとする紗季は、個人的には作品のかなめになっていると思う。たぶん、他の女の子たちについても同様の感情移入で見ることはできるけど(例えば、凛子が手作りのコンサートチケットを見せたところで泣きそうになってしまったし、失恋や失敗を味わった優香を通して夏休みをみるのもいい)、僕の場合はたまたまこうなってしまったということだと思う。
 この作品が下田の町おこし的な意味を持っていたり、スフィアという声優ユニットに合わせて作られていたりすることは、個人的にわりとどうでもよいのだが(もともとアニメによる町おこしにも、物語やキャラクターから離れた声優という存在にも特に関心を持っていないし、キャラ声ではない声優ソングもあまり好きではない)、せっかくDVDなので特典のメイキング映像も並行して観た。メイキング映像はあまり集中してみると、声優やスタッフの顔とか言葉が作品を鑑賞する際のノイズになってしまうので軽めのながら見をするのが望ましく、とはいえどうしたって記憶に残ってしまうので本当に視聴してよかったのか分からないが、とりあえず関係者たちの顔と善意が見えたのはよかった。ついでに、いつか下田に行ってみる機会があるかは分からないが、行ったら面白いだろうなとお手軽な脳内聖地巡礼を想像する際の手助けにもなる。
 僕がこの作品の感想を書くとどうしてもおじさんが眩しい少女たちをじっくりと鑑賞する構図になってしまうのだが、作品自体はそんなおじさんとは関係なく美しく存在していて素晴らしい。

夏色キセキ

アニメと記憶の考古学

 17年ぶりくらいに最終兵器彼女を読み返した。たぶん前に読んだのはエロゲーを始めたか始めないかの頃くらいで、キスやエッチの描写がまだ物珍しくてドキドキしたことを覚えているが、話はだいぶ忘れてしまっており、細かい部分などをあれこれ楽しみながら再読した。後書きを読むと作者は奥さんとの恋愛を自伝的な要素して取り入れたように見受けられ、それがちせとシュウジの繊細で瑞々しいやりとりの描写につながっているのかなと思った。後半の「星」がどうたらといって大きすぎる話になってしまうのはさすがに実感をもって読むことができないが、ちせがいうと星という言葉も可愛らしく響いてしまい、仕方ないかなと説得されてしまう。二人の逃避行は、イリヤの空で中学校2年生の浅羽とイリヤがやろうとしたことを高校3年生のシュウジとちせがもう少し先まで頑張ってみたものであり、海辺の町の漁港とラーメン屋で働くつかのまでぎりぎりの生活さえも懐かしくなってしまうくらいに、築こうとする日常はあっけなく崩れていく。僕が逃避行の物語を刷り込まれたのは、エヴァの大量のSSだったか、イリヤの空だったか、最終兵器彼女だったか、それ以外のの何かだったかは分からないが、とにかく2000年代のこの時期にはこういう話を続けざまに読む機会があって、僕は誰かと一緒にどこかへ逃避することを夢見ていたのかもしれない。あるいは、90年代末から続く時代の空気がこのような逃避行を帯電していたのかもしれない。ちせとシュウジについては、人がいなくなった地球を離れて何だかよく分からない生命体(?)になってようやく安らぎを得る、あるいはそのよう安らぎを夢見て終わるという結末は、物語冒頭の坂道を一緒に登校するシーンから始まって時おり得ることができたつかの間の二人の時間という「日常」の延長であり、人の死とかセカイの破滅とかよりもこの日常の大切さを最後まで描いた作品だったなあと思う。ちせたちの物語とは比較にならないけど、僕の嫁さんも体がボロボロで大量の薬を手放せず、何かと戦っているかのようにいつも余裕がなく、引け目を感じながら生き、日常の小さな喜びを探しているような人間なので、この作品は共鳴できるところが少なくない(でも彼女はオタクではないので本作を進めても断固拒否された。いつか読んでほしいものだが)。
 最終兵器彼女はマンガを読んだのが先だったかアニメを観たのが先だったが今となってははっきりしないが、アニメではちせの北海道弁の可愛さが印象的だった。ごく個人的な印象だが、このアニメの北海道弁が十分正確なものだとすると、北海道弁大阪弁、京都弁、広島弁などとは違って、ゴリゴリこない控えめな方言であり、大部分は標準語と変わらないけど(ちなみに、東京西部で育った僕も子供の頃は男の子は~だべというのが結構浸透していたので、ちせたちの~だべは懐かしさを感じる)、ときどき語尾などのイントネーションが恥ずかしそうに少し変わるのが慎ましい感じがする。昔北海道に出張に行ったときに、なまら、はんかくさい、わや、なげる(捨てる)といった方言をお客さんから教えてもらったことがある。本作に出てくるものでは、「したっけ」とかよい。マンガでは分かりにくいところもある方言を楽しめるのがアニメであり、ヤフオクで未視聴の外伝OVAも含めて買ってしまった。本編は2002年、外伝は2005年の作品だが、どうやら画質は少し暗くなるけどどうにか鑑賞に堪えられそうだ。
 最終兵器彼女に先立ち、イリヤの空、UFOの夏の波も来てしまっており、まだ6月24日にも8月31日にも遠いがMAD動画などをあれこれ漁っていた。濃いファンの人が今でも毎年6月24日にボイスロイドによる聖地巡礼などの動画をアップしているのをみて嬉しくなった。アニメ版は尺が足りていない不幸な作品であり、個人的に浅羽のキャラデザと声も好きになれないのだが(秋山先生も原作を書いているときにはあのような女顔の浅羽は想定していなかったとか)、夏の滲んだ空気とか、戦闘機の泣けてくるような動きや質感とか、イリヤの声とか、部分的にみるべきところがあって、やっぱりヤフオクで買ってしまった。ついでにドラマCDと駒都えーじ氏のイラスト集もヤフオクで買った。1年くらい前に化物語シリーズのアニメをヤフオクでそろえて以来、少し古い作品はレンタル落ちの中古DVDが格安で手に入ることに味をしめてときどき何か買っている。サブスクはせかされている気がして嫌なので、こういうシステムがあるのは大変ありがたい。ついでに前から少し気になっていた、涼宮ハルヒの消失(2010年)、夏色キセキ(2012年)、リズと青い鳥(2018年)なども買ってしまった(他にまだ入札中のものもある)。気が向けば感想を書くかもしれない。
 ハチナイでハルヒコラボが始まった。涼宮ハルヒの憂鬱は昔1巻だけ読んでつまらなくて追いかけなかったが(当時読んでいた秋山瑞人中村九郎滝本竜彦といった面々に比べると文章が凡庸でクリシェだらけに思えた)、2006年と2009年のテレビアニメは毎週何が起こるのだろうと楽しみにしながら観ていた。みくる以外はキャラデザも声も好みではなかったが、それでも作品としては楽しめたし、今回のコラボでED主題歌などが流れてきたら懐かしさを感じた。ハチナイでは今風にきれいにのっぺりしているが、それでもいまだにSOS団だのエンドレスエイトだのを元気にやっているのをみると感慨深いものがある。僕の魂のようなものは2000年代に置いてきたままなのだろうか。
 今回の2000年代アニメ熱に先立って、連休の初めに池袋の古代オリエント博物館に行くことになって軽い古代熱があり、FGOバビロニア編の動画を漁ったり(ギルガメシュのキャラクターや古代のロマン、英雄たちの散り際の様式美がよかった)、メソポタミア関連のウィキペディアをあれこれ読んだり、オデュッセイア・ロシア語訳を読んだして(カリプソの島から脱出するくだりとか、王女ナウシカと出会って助けられるくだりとか)、博物館ではヒエログリフ楔形文字のアルファベット表だけでなく関智一さん朗読の『ギルガメシュ叙事詩』のCDまで買ってしまった。連休が世間より1週間早いので4月26日に博物館に行ったが見事にガラガラで僕たちの他には全館で1人しか客がおらず、ぜいたくなひと時だった。
 仕事と生活のリズムがある程度定まった10年くらい前からアニメの新旧の認識があまりなくなっており、各シーズンと共に見終わった作品が後ろへと流れ去り、このブログに痕跡を残すこともなく僕の歴史から消えていく。例えば前シーズンはスローループ、CUE!、明日ちゃん、着せ替え人形、前々シーズンは途中で断念したものも含めるとセレプロ、やくも、見える子ちゃん、境界戦機、無職転生、世界最高の暗殺者、プラオレ、サクガン、大正オトメ御伽噺、先輩がうざい後輩、逆転世界ノ電池少女、ジーズフレーム、鬼滅の刃遊郭編をみていたが、明日ちゃん以外は特に感想は残さなかった(ついでに書いておくとセレプロは今でもED主題歌を聴きまくっていて、あとスローループの恋ちゃんは可愛かった)。こうして作品名を列挙すると古くないのでまだけっこうはっきり作品を思い出せて、気楽に楽しんだりそれほどでもなかったりした記憶と共に微かな懐かしさも感じられるが、特に大きな感慨がわくでもない。今シーズンは処刑少女、ラブライブ虹ヶ咲学園、ヒーラー・ガール、パリピ孔明、であいもん、ヒロインたるもの、本好きの下克上をみていきそうな流れだが、何も感想は書かないで終わるかもしれない。この中ではヒーラー・ガールがかなり大胆な作品で驚きが多いが、他のものもどれも気楽に楽しめる。感想を書かれなかった作品は、僕の記憶の中のどこかのアッシリアの砂の中に埋もれて消えるわけだが、書いたとしてもやっぱり埋もれてしまうので大した違いはないのかもしれない。イリヤの空最終兵器彼女のように、いつか砂の中から発掘されて記憶の博物館に収蔵されるかどうかは分からない。

小鳥猊下『高天原勃津矢』

小説「高天原勃津矢(2006年)」|小鳥猊下|note

 この小説でぼろくそに批判されている「おたく」に少なからず当てはまるところがあると思っているところがある自分が何を感想として書いたらよいのか分からないし、批判されている当人が絶賛しても「お前本当にちゃんと理解してるのか」という突っ込みにちゃんと答えられそうにないし、この前に書いた『明日ちゃんのセーラー服』の感想を真っ向から否定してしまうかもしれなくて気が進まない部分があるのだが、それでもやはり面白かったので一言書いておこう。
 小鳥猊下氏のことをよく知らないので、何のために書かれた小説なのかはかりかねるところがある。元長作品や『動物化するポストモダン』を批判しているのだろうか(例えば、甲虫は動物を、エピローグの異様な母親は『猫撫ディストーション』を連想させた)。単なる消費者としてゆがんだ性的消費行動をするしかない僕たちを批判しているのだろうか。それとも、そういう批判の視点を僕たちに内面化させて成長を促すことで、実はエロゲー文化(あるいはエロゲー産業)にエールを送っているのだろうか。「何のために書かれた」という小賢しい身振りはぬきで、とにかくエロゲーをめぐる激情を叩きつけたものなのだろうか。そうはいっても、よく考え抜かれた思考が背後になければ無理な論理的な文章であり、雄弁で骨太な文体であり、最初から最後まで力に溢れた文章のリズムなので(この小説の最大の魅力はこの力強い文体でエロゲーやおたくを語っていることだ)、意図をはかりかねるというのは単に僕の理解力が乏しいだけなのだろう。
 2006年の小説。エロゲーとは、オタクとはいったテーマがこれほどの熱を込めて語られることは今ではもうないかもしれないし、あったとしてもそれはノスタルジーの混ざった去勢済みの語りになりがちだろう。そうはいってもエロゲーは永遠の現在を表現しているものだから、エロゲーを語ることも古くならないと言ったとしても、それは思考停止であり、本当に動物的反応を今でも繰り返しているだけの動物になってしまったと言われるかもしれない。世界には頑張って苦しみ抜かないとたどり着けない真実なんてなくて、世界のサイズはだいたいは分かってしまったので、それならもう安心しちゃって、なるべく痛みを感じないように生きていこう、そのためにはおたく的な楽園を見つけてそれを見つめながら生きていくのが一番現実的だという考え方。それを痛烈に批判している。なにか素晴らしいものがあったとして、それを見つけたら、手に入れたら、その後はエピローグではいけないのか。回想シーンでそれを振り返る余生ではいけないのか。さらに素晴らしいものを探し始めなければいけないのか。素晴らしいもののインフレに乗っていかなければならないのか。人生はどこまでも気を抜かずに積み上げていくしかないのか。クラナドにおける幸せは、自分一人では手に入れられなくて、自分の中で完結させることもできなくて、結局は親から子供へと引き継がれていくものとして描かれていた。もうある程度満足しちゃったから、あとは自分の子供たちにその先を進んでいってほしいという態度。我ながらつまらない大人(成熟した大人ではなく、単に老いて摩耗した子供だ)になってしまったが、いつのまにか、エロゲーにうつつを抜かしているうちにだろうか、自分の中のエネルギーがなくなってしまっていたのかもしれない。
 ともあれ、こういう視力を持った人がネットに健在というのはありがたいことで、この人の文章をもう少し読んでみた方がいいのかもしれない。エロゲー愛を語ったものはないかもしれないけど。

博『明日ちゃんのセーラー服』

 アニメが毎週素晴らしくて、最終回を前に原作マンガを9巻まで全部買って読んでしまった。そのせいか、アニメ最終回の後夜祭のエピソードはいまいち盛り上がらなかった印象だった。ほとんど明日ちゃんが踊っているだけのエピソードなので、アニメで盛り上げることはできるように思えるけど、前週の木崎さんの幻想の中の明日ちゃんの踊りのアニメーションには届かず、わりと写実的な描写にとどまったようだった。
 マンガは明日ちゃんが体を動かしているコマやふとした表情を切り取ったコマが多いが、「切り取った」というのがポイントだ。アニメだと連続性と動きがあるつくりにならざるを得ないけど(個々のコマは止まった絵なのだろうけど)、マンガは非連続のポーズとポーズ、表情と表情の間の飛躍があって、それが読者の頭の中で埋められて動きや緩急、さらには木崎さん的に明日ちゃんの匂いとか気配みたいなものまで感じられる。髪の毛は翻りすぎだし、スカートははためきすぎだけど、ここはそういう重力が働き、そういう風が吹く世界なのだ。ただし声がつくという意味ではアニメには大きなアドバンテージがあって、アニメを見てからマンガを読むとそれぞれの女の子たちの声が聞こえてくるようでよかった。
 マンガは今は球詠と乙嫁語くらいしか追いかけていないのだが、明日ちゃんは大きな収穫だった。最近はウクライナ戦争のせいで週末も仕事が忙しく、会社の経営は確実に悪くなりそうだし、そのせいでさらに無理して働かされそうだし、家計の状態も心もとなくなっていきそうだし(結局、トラブルもあったので出産関連で300万円くらいかかってしまい、もし2人目ということになれば今以上に相当な倹約生活を強いられる)、ロシアに対するもどかしさも感じる日々が続いているのだが、明日ちゃんのおかげで心が安らぐ。安らぐというか、明日ちゃんたちの表情や体の動きはあまりに心がむき出しになっていて、それを作者があまりに愛情を込めて描いているので、見ているこちらが恥ずかしくなって、あるいは嬉しくなって、読みながら何度も笑ったり奇声をあげたりしてしまう。昨日と今日はワクチンの3回目接種で副反応が出て寝込んでいて、熱や頭痛に苦しむ合間にずっと明日ちゃんを読んでいたのだが、再読してもやはり笑ってしまうのだった。仕事のストレスと明日ちゃんの楽園的世界の落差に見当識が失われてしまったようだった。
 既刊9巻のうち最初に読んだのは9巻だったのだが、そのはじめの蛍ちゃんのエピソードが素晴らしかった。エピソードといってもストーリーはほぼなく、あるのは明日ちゃんと蛍ちゃんの不思議な感情の流れだけだった。蛍ちゃんは髪の毛の量が多くて走り回るとバサバサと翻るのだが、そのせいで風を感じられるようで、とても爽やかな読後感である。この作品全体にもいえることだけど、思春期の女の子の不安定な心の動きを詩的に表現する技法は少女マンガ的で、大島弓子作品を思わせるところがあった。大島作品でも女の子たちが元気いっぱいに走り回ったり、唐突にパンクな衝動に駆られていたずらしたりすることがあったと思うが、明日ちゃんも何かあるとすぐに踊り出してしまうし、そうでなくても表情がころころと変わるので見ているだけで面白い。というかその可愛い様子を見せることに作者が全力を注いでいるので他にやることもないのだが。説明的なセリフでコマを使ってしまうのはもったいない、説明は省いて全てのコマを決め顔で埋め尽くすべきというような意気込みを感じる。絵柄はアニメの方では雫や痕を思わせるような溶けた垂れ目が多かったり、手塚治虫作品の女性キャラや女性動物のような鼻が突き出た横顔(鹿とかのイメージは明日ちゃんにぴったりなのでおかしくはないのだが)がちょっとやりすぎに思えた場面もあったが、マンガの方は肖像画かというような気合の入った絵が多くて見ていて飽きず(特にカラーページは素晴らしい。光沢紙ではない艶消しの紙なので、インクの乗り具合とか質感を感じられる)、もう少し大きな判型で印刷した方がよかったと思う。9巻では鷲尾さんと苗代さんという大人びた二人の問題を抱えて悩む明日ちゃんがなぜか激しく筋トレをし始めるシーンがあって、その様子が何ページも力強く描かれていて圧倒的なのだが(あと鷲尾さんの筋肉がすごい。確かに僕も中学では1年から身長が173cmくらいあるムキムキの男の子がいて驚いたのを思い出した。けっこう気さくなやつで、不良グループにも僕みたいな臆病者にも分け隔てなかった)、肥満気味中年男性の僕も明日ちゃんになった気で筋トレをしたいと思ったものである。しかし苗代さんの悲恋はどうなってしまうのだろうか。ジョギングで鷲尾さんについて行こうと一生懸命走るシーンは、切なくて美しいものを見せられているように感じる。
 そのあと1~8巻も読んだが、やはり面白かったのはアニメ化されていないエピソードだった。アニメ化されたものはアニメで堪能してしまったので、驚きは少ない。基本的に突飛なストーリー展開などで見せるマンガではなく、女子中学生たちの美しい姿を絵画のように鑑賞するマンガなので、全く楽しめないことはないのだけど、マンガかアニメのどちらか先に触れた方が主になってしまい、同時に最大限に楽しむことができないというのはもったいない気もする。先にマンガを読んでいた人よりはアニメを楽しめたとは思うが。というわけで、特によかったのは明日ちゃんの東京旅行のエピソードだった。兎原さんの話(と絵)がかなりよく、彼女が木崎さんを押しのけるほどヒロインになるのもいいなと思えた。この先もそのおでこを曇らせることなく楽しく中学校生活を送ってほしいものだ。兎原さんの実家の描写は、浮世離れした学校生活とは違って庶民的でほっとさせるものがあったが、その対象となる木崎さんの家のエピソードも面白かった。木崎さんは髪を結んで変な触角を2本作っていてあまり似合っていないのだが、彼女の中の子供らしい部分が現れているようで微笑ましい。実際にこのエピソードで描かれたのはささやかなことなのだろうけど、彼女たちの表情と感情の動きを追いかけているととても濃密に思える。僕の子供の頃は、美少女を入念に描いた作品と言えばせいぜい電影少女とかだったけど、マンガにおける美少女の表現や作劇はここまで進化し、純化されていたのかと感心する。
 夏休みの家族旅行のエピソードは、あまりにも美しく描かれすぎていてシュールな感じがして面白い。明日ちゃんのお父さんがイケメン過ぎて面白いし、お父さんの着替えシーンも明日ちゃんの踊りのシーンのように入念に描かれていて笑ってしまう。このような神話的存在としての完璧な父親を演じるのは僕には無理だと複雑な思いも抱く。お母さんもなぜか水着への着替えシーンが入念に描かれていて、その後のスキューバダイビングでもヒロインみたいな扱いになっていて、別に求めていないのになんなんだこれはと困惑する。明日ちゃんから見たらお父さんとお母さんはこういう風に見えているということだろうか。
 『明日ちゃんのセーラー服』はただのマンガだし、田舎の高偏差値女子中学校なんてほぼ空想上の存在のようなものだが、残念なことにこれより軽やかで美しいものはこの世にはあまりなさそうである。明日ちゃんは別に世の中や世界のいろんなことを知っているわけではないのだが、それでも一番美しいものは知っているという生き方をしているし、そういう日々を過ごしている。これは高校生や大人になると失われてしまうものなのだろうか。こんなマンガに負けないように僕も人生をがんばっていかなければならないのだが、それはそれとしてこの先もこの祈りのような作品を読んでいきたい。

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水族館と幻視

 また『白い砂のアクアトープ』をみて、昨日は久しぶりに江の島までドライブして水族館に行ってきた。八景島の水族館でコラボイベントをやっていたらしいのだけど(ついでに今日みた『先輩がうざい後輩の話』でも八景島水族館らしい場所でデートするエピソードがあった。これも仕事に関する複雑な感情を思い出させるアニメで、こちらは男キャラがでてきて恋愛要素があるのでさらに居心地が悪い)、江ノ島水族館の方は5回目くらいでなじみがあるので気楽に行ける。
 何度も同じ水族館に行っても、基本的な展示もイルカショーの内容も変わらなくて、正直なところ1回行けばだいたいわかってしまうので新鮮な驚きはなくなる。その割には入場料が結構高く、今回は2500円だったのでまた値上がりしたのかもしれない。年間パスポートが5000円なので、また作ってしまい、最低3回は来なきゃという気にさせられるのだが、展示自体はあんまり楽しくないのになぜ何度も来るのかという気もする。それは妻と初めてデートらしいことをしたのがこの水族館だったからであり、水族館の内容自体よりも、この水族館に2人で足を運ぶことを重ねる行為自体が目的になってきている。もともと出不精なので他に遊びに出かけるようなところもほぼなく、今は妻が体調を崩して弱っているので、何か元気だった時のことを思い出せるような、なじみだけど特別な場所が必要なのだ。
 今回は土曜日の午後遅めの時間についた。道路が混んでいたが、その分車の中でアニソンとかを聴かせて引かせたり楽しませたりできた。2時間弱で閉館時間になったが、満員のイルカショーを見たり(はじめは分かれて座ったけど、親切な人が詰めてスペースを開けてくれた)、大水槽の前の床に胡坐をかいて水中ショーやら泳いでいる魚たちをぼんやりと眺めたり、何かに使うわけでもないお土産のガチャやガラス細工やお菓子を買ったりして、機嫌のよい妻に付き合う。外出を嫌がる彼女だが、先週末に突発的に海ほたるに連れていったら思いのほか楽しかったらしく、今週末も病院から抜け出してドライブするのを楽しみにしていた。帰りは久々に近所の回転ずしでしこたま詰め込んだ。妻の入院でがんがん貯金が減ってしまい、彼女も体調や罪悪感で泣いてばかりいるので、僕もたまには普段の節約を忘れて非日常的なことに気持ち良くお金を使いたかったというか、お金を使って喜ばれてよかったかもしれない。
 江ノ島水族館は景気がよさそうにみえるけど、水族館で働く人たちの苦労や葛藤をイメージさせてくれる『白い砂のアクアトープ』のおかげで少しは親しみが持てるようになった。スタッフさんや観客の人たちだけでなく、大水槽もイルカショーもペンギンコーナーも今回は少し違った印象だった。オタクなのでアニメとかエロゲーを通さないとこういう理不尽なものに親しむことはできない。くくるは少しでも魚を好きになってくれる人が増えてほしいと願っており、自分も海の生き物が大好きという気持ちを核にして働いているけど、実際にやっているのは自分を人として周りに人やお客さんに好きになってもらうことを通して魚に関心を持ってもらうということであり、逆説的な感じもするし、営業の仕事の業の深さを感じる。別に魚たちは人間に好かれようと思って泳いでいるわけではなく(イルカは知らないが)、クラゲなんてただ水の流れに揺れながらプランクトンを食べているだけで、観客である人間を知覚する器官すらないだろう。くくるはお客さんにクラゲをみると癒されるんですねーなんて営業トークするけど、クラゲと人間が何か意思疎通しているわけではなく、人間は勝手に誤解して癒されている。くくるもそのことはわかっているのだろうけど、なんかうまくいっているのだからいいのかもしれない。第1期で出てきた水族館の幻視体験の伏線は終盤でどのように回収されるだろうか。人と人、人と魚は意思疎通できているように思えるときもあれば、思えないときもある。みんな本来はばらばらな方向を向いていて、ときおり幻視体験のようなことが起きる。それが水族館という空間なのかもしれない。

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水族館のお土産。あと青がきれいなピュフチッツァ女子修道院(聖なる泉と聖母の幻に関する伝説があるエストニア修道院)の手のひらサイズのイコン。

奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』


 ロシア文学研究者の青春の書だ。かなりあけすけな本であり、あけすけに書いてもきれいにまとまるのは著者の人柄なのだろう。僕が昔夢見ていたような生き方――ロシアの大学で数年間文学研究にどっぷり浸り、得がたい友人や先生に出会ってかけがえのない宝物を手に入れて、研究者としても成功する――をリアルにやり遂げた同年代の人の記録をみるのはまぶしいような体験であり、同時にそういう夢から離れ、文学研究に対して勝手に抱いていた幻想からも解放され、今の人生を生きている自分は少し冷めた見方しかできないのだが、この本がいったい誰に向けて書かれているのかよくわからないように、僕もいったいどのような僕に向けて書くべきなのかよくわからないまま感想を書いておこう。
 奈倉さんとは以前に何かの機会でご一緒したことがあるが、特に話もしなかったのでどのような人か知らないままだったが、その後、なんだかすごく砕けた言葉でうまく翻訳できる人だという評判を聞いて、でも翻訳した本が関心のない作家だったのでスルーしていた。今回の本は内容からして上に書いた複雑な感情を味わうことになるかもなという予感を持って手に取ったのだが、何よりロシアで5年制の文学大学を(4年で)初めて卒業した日本人という肩書と、博士論文のテーマがブロークだったというのを知ってスルーできないなと思ったのだった。
 実際、関心の対象は僕とけっこう近かった。ガスパーロフの本に感銘を受けるのはまだしも、ゴルシコフなんていう文体論研究者が現役の先生として登場するところまでは想像していなかった(昔ゴルシコフの本にもけっこう付箋を貼ったりしたが、教科書的な内容で自分の研究テーマに使える感じではなかったので今は内容も覚えていない)。ちなみに、僕もガスパーロフの本に感銘を受けて一生懸命韻律や意味論的オーラ(懐かしい用語だ)の論文を読んだけど、詩のリズムを「体感」するのは難しくて、詩の意味やニュアンスもネイティブのように即時に「体感」できるわけでない。どうしたって「勉強」になってしまう。外国人の限界だろうなと絶望した。奈倉さんはモスクワで数年間にわたりロシア人たちと一緒にたくさん読んだのだから「体感」できているのだろう。うらやましい限りだ。でも、それは僕以上に何度も絶望を味わった先に得たものなのだろう。
 『耳狩りネルリ』はラノベとして青春を描いたとすれば、こちらはもっと研究者寄りだ。とはいえ外国人学生としての生活の描写もいろいろとフックがあり、ロシア人学生たちと親しく交流し、寮の中で苦楽を共にし、モスクワをあちこち歩きまわり、夏休みには他の町に行ったりし、質素で単調な食事をとりながら本を読んで幸せな知的興奮を味わったりといった楽しかった時間を僕もあれこれ思い出した。もちろん奈倉さんは本物なのでロシア語力もずっと高いだろうし(本書ではロシア語で苦労したという記述は一切なかったどころか文学大学でフランス語まで習得したとことなので、語学センスがよい人なのだろう)、毎回速記で講義を記録して後で清書するなんてことは僕にはできないし、たぶん学生の頃でもそこまでの根気はなかっただろう。奈倉さんのアントーノフ先生の講義に関する幸せな思い出はまさしく一生の宝なのだろうし、そういう宝をロシアの教授たち(ベールイが特別な意味を込めて呼んだロシアの教授たちだ)からもらったことを日本人が日本語で本にしておくことは重要だと思う。速書きだったのか、もっと言葉のリズムや速度や手触りを吟味できそうな箇所も多いが(すごく偉そうな指摘になってしまって滑稽だが、それだけ大切な内容のはずだし、例えばガスパーロフやリジヤ・ギンズブルグやトゥイニャーノフのようなソ連仕込みの研究者兼エッセイストなら、一語一語まで神経がいきわたった文章を書く)、とにかくなんだかよくわからない塊を一度言葉にして吐き出しておきたかったということだろうか。引用されている詩の翻訳も明らかに生煮えで、あまり詩になっているとはいえない代物だが、原文の音楽性を伝えるようなまともな詩にしようとしたら、たぶんいつまでも本が完成しないので妥協したのだろう。
 といっても、著者は僕とは別人なので本当のところはよくわからない。ウクライナ問題などをはじめとするロシア政治・社会の暗部に対する義憤もあまり理解できない。意地の悪い言い方をすると、もし著者のモスクワ在学時の友人にウクライナベラルーシの出身者がおらず個人的な縁がなかったら、もしこれらの国の作家の作品を翻訳していなかったら、こんな義憤を抱いていただろうか。この世界には不正やゆがみなんていくらでもあって、人は自分に縁のある不正やゆがみに反応するだけでキャパシティが満杯になるのだから、縁のないどこかの国の不幸に強く同情できないからといって後ろめたさを感じる必要はないだろう。他にもっと守りたいものがあるならば。電波を受信してしまう人は除くとして。といっても、著者はまさしく個人的なことを書いていて、その延長線上としての義憤なのだから何も間違ってはいないわけだが。そしてそういう風通しのよさも僕がロシアに求めなければいけないものの一つなのだが。
 青春というのは人と出会わないとありえないし、自分はどんなに人を避ける本の虫だと思っていても人とめぐり合わせてしまうのが青春の魔法である。それにつけてもだ。僕は最近10年ほどは人付き合いを最小限にして、人ではなく文字情報や映像情報と過ごす時間を最大限にする生活を送っており、これは何にも残んねえなとまた少しへこむのだった。エロゲーは独自の体験深度を持ちうる存在だけど、これは個人の内側に反響させておくべき存在であり(感想を書いて他の人と楽しく交流しても、最終的には自分の内面に立ち返る)、文学研究のように人と積み重ね、分かち合っていくような文化は少なくとも現在のところはあまりうまく作らてはいない。
 奈倉さんが素直にうらやましいが、僕には無理な生き方であることもよくわかっている。僕は結局、知らないことがたくさんあるのに時間は有限であるのが怖くなってしまい、早く知った気になろうとして作品よりもその文学的な評価を先に読むような人間に過ぎなかったし、無駄に思える地道な作業をできずに夢想するだけで終わってしまった。好きな本、楽しい本しか読みたくないし、面倒な論文なんて書きたくないと思ってしまった(その結果、今はロシア文学とは関係のない面倒な仕事に日々追われているのだが)。文学研究の外側にも文学研究を超えるほどのわくわくするような素晴らしいものがあると思ってしまった。そして、せっかく買い集めた数千冊のロシア語の文学作品や研究書も、研究者の責任感から解放されたら趣味人として楽しく読めるぜと思っていたのに、今ではごくたまに紐解くだけだ。奈倉さんが軽々と引用するブリューソフやホダセーヴィチやエセーニンの名前を見て、あ、やべ、読まなきゃと思ってそれでおしまいになってしまう。僕は15年ほど、エロゲーを通して自分を見つめながら真・善・美(?)を追い求めることに気を取られ、かつて願ったロシア文学趣味人としての生き方を忘れてしまった。願ったというよりは、当時は解放されたいという気持ちしかなかったのかもしれないが。いつのまにか、ロシア文学を腰を据えて読んだり翻訳したりするのは定年後かなあと、遠い未来に追いやってしまった。これからは子育てでさらに追いやる口実が増える。これについては魔法の解決策はないので、死ぬまでにあと何年あるのか知らないけど、趣味なんだから楽しんで読んでいけばいいなと毎度のように思い直す。文学に関しては、プロと趣味の境界線は現代ではあってないようなものだ。いつでも気持ちを新たにしてやり直せばいいんだ。

 ……あらためて読み返すと、あからさまにコンプレックスを吐き出した文章に恥ずかしさを覚えないでもない。でもこういう素晴らしい生き方にコンプレックスを抱けるのは悪いことではないと思う。よい本だった。

アイドルと視線(アニメ雑感)

 最近は家族が家にいないこともあって、アニメ視聴のペースが維持されている。それにしてもアイドルものが増えたと思う。僕が主に観ているプラットフォーム(ニコニコ動画の無料配信)で増えたというだけなのかもしれないが、アイドルものの面白い作品が増えたように思う。女の子が歌を歌ったり踊ったりというのはけいおんとかハルヒとかから増えるようになったのだろうけど、最近は演奏シーンに力の入ったものが多いように思う。
 というわけで、「ラブライブ・スーパースター」の話をすると、記憶に残るのはあのあざとくてちょっとおかしな振付の数々だろう。ショービジネスというよりは学芸会の出し物に近いような気もして恥ずかしいのだが、それを信じ切った幸せそうな笑顔で女の子たちがやってのけるので視聴する側は共犯者にならざるを得ない。ラブライブの空間はとても壊れやすいものだと感じさせるところが、熱狂的なファンが多い理由なのだろう。もちろん、単に女の子たちが可愛いから見ていて幸せということもあるだろうし(メインヒロインのかのんの歌声はよいし、まるい子の主張の強いまなざしも印象的だし、可可という中国人ヒロインは中国人に見せても恥ずかしくない可愛さだし、へあんなさんは主人公回でライブも含めて素晴らしかったし、会長はまあ会長だし)、似たような質感のキャラデザだけどそれぞれの個性がうまく差異化されているのでかけあいを見ていて幸せということもあるだろうけど、単に可愛い女の子たちの日常を見せるというのではなく、ライブ、つまり儚い生ものを作り上げている秘儀の空間を共有させてもらえるということがある。
 それにしても、アイドルものは見られること、視線にさらされること、視聴者からは見ることや視線で覆いつくすことを欲望としてつきつめたジャンルであって、だから昨今CGでも可愛さをある程度維持できるまでに技術が発達したおかげで今の隆盛があるのだろうけど、今放送されている「セレクション・プロジェクト」のように視線と存在理由を直結させてむき出しにしてしまうと(生活の全てを匿名の不特定多数にさらけ出して採点してもらうアイドルということらしい)、不条理で不気味になってくる。それでもメインヒロインの女の子のキャラデザがオーラのある可愛さなので見てしまう。
 こういう過激な視線物の作品をみてしまうと、なろう系のファンタジーとかサクガンやルパンのような絵や設定に独特のセンスを感じる作品もどこか牧歌的に思えてくる。
 といっても、今一番楽しんでいるのはたぶん「白い砂のアクアトープ」だろうな。これはニコニコの遅い配信では待てず、先日はテレビでも見てしまった。夜中に部屋を暗くしてテレビをみて余韻まで含めて楽しんだのは久しぶりだ。一番印象的だったのは第11話、くくるが打ちのめされて水族館の閉鎖を受け入れる話で、思わずツイッターでも感想を漏らしてしまった*1。これ以上の盛り上がりはもうないだろうなと思いつつ2期も見始めたが、意地の悪い先輩のはえばるちゆさん(南風原知夢と書くらしい)が痛みを抱えたシングルマザーだとわかる第16話のこの絵でやられてしまった。

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この作品もメインヒロインの一人が元アイドルだったり、水族館というもの自体が視線によって成り立つ空間であったりするわけで(飼育員は視線を投げると同時に視線にさらされる一種のアイドルである)、視線物のアニメということもできるのだが、くくるはいつでもこの星空に見守られているということが控えめながらうるさいくらい鮮やかに示されていて、いい絵だなと思った。このアニメのファンクラブに入りかけた。この作品の水族館や沖縄の星空は、作品世界の中にしか存在しないのだ。そういえば、くくる役の伊藤未来さんという声優さんの声には「安達としまむら」の時から惹かれていたのだった。低めの裏声みたいな声というのだろうか、しまむらのようなマイペースな感じがよかったので果たしてくくるみたいな元気な女の子でよさを活かせるのかと思ったけど、笑っているような泣いているような複雑で無防備な声が素晴らしい。くくるはまわりがあまり見えていない、視線に鈍感な女の子で、思うようにいかない人生をがんばって切り開いていっている。その必死さがそのまま表れた声だ。アニメを見てばかりであまり外に出ない生活をしていると、世界はこんなに善意で満ちているのに、人は何でこんなに思い通りにいかなくて苦労しなくちゃいけないのかなと思ってしまう。優しくいられるときはなるべく優しくいないとなあ。

*1:白い砂のアクアトープ11話。傷つけられて優しくならざるを得ないくくると、水族館とか台風とか朝の海とかのいろんな水の青いイメージに囲まれている感じが、凪のあすからをつくった会社の作品だなあと実感させる。大人になりきらないくくるが去勢されてしまう悲しさは同じ水の青さの中に溶けていく。<9月22日、昔の凪あすからの感想はこれこれ。>

麻枝准『猫狩り族の長』


 作者が本書刊行記念の寄稿で自ら語ったところによれば、今回は小説の書き方みたいなハウツー本を読んで編集者にもガンガン赤を入れてもらっていいものができた、しかも今まで書かなかったことをいろいろとさらけ出したらしいので期待していたのだけど、やっぱりこうか…という作品だった。音楽と絵と声がない分だけ、文章のだめな部分がよりはっきりと出てしまった。キャリアも実績もある人にダメ出しできるほど自分の感覚に自信があるわけではないが、やっぱり麻枝准はよい文章を書くことに関心がないようにみえるし、古典的な文学作品の日本語の美しさに惹き込まれたことがないか、少なくとも僕とはだいぶ違うところに文学の良さを見出す人なのだろうなと思う。ハウツー本を読んで小説を書いて質が上がったと思えるところからして感覚がずれている。僕は小説を書いたことがないので偉そうなことを言える読者ではないのだが、そんなハウツー本で上がる程度の質なんてよい文学作品をつくるためのスタート地点のはるか下なんじゃなかろうか。編集者はたくさん赤を入れたそうだが、まだまだ足りないと思える箇所が多い。やるならもっと徹底的にやってほしかった。なんでこんなに言葉の選択が雑なのか。作中で言及されているように、ジャズのような即興性、なんとかメタルのような勢いと衝動を重視したからなのだろうか。音楽に関係する描写はさすがに専門性があって説得力があるようにみえたけど、それ以外は不可解だったり恥ずかしくなるようなものが多かった。例えば、十郎丸の言葉がソクラテスに始まる哲学者を知らずになぞらえたものだったとわかるかけ合いは、十郎丸が実は古今東西の哲学者に匹敵するようなすごい人間だといいたいのか、十郎丸は実は使い古された他人の名言を借りてペラペラな人生観を語っていたといいたいのか、哲学ってこういうものだね、人生を考えるのに役立つねといいたいのかよくわからない。ソクラテスで始まってニーチェで終わっている薄っぺらいラインナップと薄っぺらいかけ合いの文体のおかげで、この部分は必要なかったんじゃないかと思えてしまう。こういう感覚はAngel beatsあたりからよく抱くようになった。麻枝准という人は生き方に悩みすぎていて、文学など読んでいる余裕がなかったから、テレビとかネットとかハウツー本みたいなものから吸収した日本語で小説を書いているようにみえる。鬱病の人は小説とか映画とかシリアスな創作物を摂取する集中力は保てないけど、テレビをBGM的に垂れ流しておくのは気が紛れてよいというが、そういう人が創作したものは生ものであり、言葉と知性の工芸品としての文学作品からははみ出してしまう(『神様になった日』の感想でも同じようなことを書いてた)。滝本竜彦氏にもその傾向はあるけど、テーマに対するアプローチがユニークで工芸品に近づけようとする努力もみられる滝本作品とは異なり、麻枝作品はなんとかメタルであることをよりどころにしているようなので、よりいびつで稚拙にみえてしまう。私小説的だからといって日本語をないがしろにしていいのか。ないがしろにしないと表現できないことに僕はどれほどの価値をおくのか。
 ただ駄作、あるいは未熟な作品の一言ですませてもいいけど、それでもくどくどと書いてしまうのは、僕がこれまでにkeyや麻枝准の作品(智代アフターまで。クドわふたーは別枠)から大きなものをもらってきたからだ。それがエロゲーというシステムの中だったから成功していたのか、アニメ以降は実際に質が落ちたのか、僕の方が変わってしまったからなのかはわからず、今回の小説でも僕が望むような回答(よい作品)は出なかった。麻枝氏も何かの問いに答えるために創作を続けているのだろうが、この先どうするのだろうか。こういう中途半端で未熟な作品を生み出し続けるのだろうか。僕はそれをジャズだメタルだといって受け入れ続けるのだろうか。誰も得しない偉そうな日記を書いてしまった。さすがに麻枝さんがこのエントリを読むことはないと思うが、大変傷つきやすい人のようなのでなんだか悪いことをした気になるし、麻枝作品のファンにとっても嬉しくもないエントリだろうけど、とりあえず言葉を残しておきたかったのでこのまま置いておこう。考えはいつか変わるかもしれないし。

 最近はなかなか落ち着いて創作物を楽しめる状態にならず、家族に使う時間が増えたこととか、庭に木(柿と梅と柘榴)を植えたこととか、そろそろ車を買うか本格的に検討し始めたこととか、ブログには書きにくいことばかりで、オタク活動は手軽に楽しめるアニメとかハチナイくらいしかできていない。最近読んだ『金魚王国の崩壊』は素晴らしかった。本当はこういう作品について書くべきブログなのだが…。

流れ

 今日は週一の買い出しにいったら業務スーパーで「にんじゃりばんばん」が流れていて、久々に化物語のMADを思い出して懐かしくなった。調べてみたら化物語シリーズはまだ続いていた。僕は続・終物語で脱落していたが(あと撫物語は読んでいた)、これは2014年刊行だった。つまり独身時代の最後の頃だ。このシリーズにはポップなところがあるので(見事なまでに作者が前に出てこない)のめりこむようなはまり方はしなかったけど、にぎやかながら孤独を抱えた雰囲気が心地よくて、アニメの出来もよいのでけっこう長いつきあいになったが、そのうち似たタイトルばかりで読んだかどうかよくわからなくなって同じ本を買ってしまったりして、続・終物語で一区切りになったので追いかけるのをやめたのだった。でもやはりあの暗いけど明るい雰囲気は懐かしくて、いろいろ動画を漁った挙句、未読の続編を5冊くらい読んでみることにしてぽちった。
 そのついでにニコニコ動画で「思い出は億千万」に行きついてまた懐かしくなった。アニメ版も悪くないが、個人的にはオリジナルのプレイ動画が(2007年の日記にも書いたがロックマン2はファミコンで遊んでいた子供の頃の記憶を呼び起こしてくれる。別に大した感動があるゲームでもないけど、この動画に映っている全てのディティールが懐かしい。2007年の日記を書いた後、僕は転職し、Aはさらにドロップアウトしてまともな対話もできなくなった。Mはもうこの世にいない。3人でロックマンの映るテレビを見ていたあの頃は何だったのか、意味は曖昧なまま、記憶だけ残り、時間が流れていく。

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 子供の頃を思い出したのは、もうすぐ自分にも子供が誕生するからかもしれない(思い出に浸っている場合ではない)。最近は毎日のように不安で泣いている嫁は、入院中に寂しくないようにと、病院に持っていくために独身時代からのいろんな写真を集めている(あとお菓子を大量に買っている)。僕と出会う前のけっこうすらっとしていて美人だった時代の写真もあって、僕は何を羨んだらいいのかもよくわからず、この歳になると誰でも大切なものの少なくとも一部は過去にあり(あるいは過去とつながっていて)、それは必ずしも誰かと共有できるわけじゃないんだなと少し寂しくなる。誰もがそうならば、そのことを共有できているわけだから寂しくはないのかもしれないけど。同時に、子供という未来のかたまりのような存在を迎えて、また人生を続けていけるのかなと若返れるような幻想も抱く。これからは週末に暇だな、何しようかな、なんて思える日は20年くらいなくなっちゃうかもねと言い合いながら。
 時の流れのままに放映されるアニメを見たり買ったゲームや小説を読んだりしてその都度楽しんで、楽しみが終わって、また新しい楽しみを見つけてという体験が移ろっていく。ロックマン2は時間に関する何の自覚もなかった子供時代を、化物語は孤独を楽しみ(いつか孤独が贅沢になるなんて思っていなかった)、自分なりに素晴らしいもの・美しいものを探していた独身時代を思い出させてくれる。物語シリーズは時間の進行が遅くて、さらに一人称小説なので、いつでもあの頃に戻らせてくれるのもよい。最近数年に触れてきた作品たちは、子供が生まれる前の数年の感覚をその空気感と共に思い出させてくれることになるのだろうか。